台風の影響が予想されたため、この週末は単身赴任先の高知市内に待機することに。
そこで、早朝10㌔走ったあと、まだ台風が遠方にある午前中に高知市の浦戸湾を望む坂本龍馬記念館を目指して、高知市内を出発。
高知競馬場・ヨネッツ(ゴミ焼却場で発生する熱を利用したスポーツ施設)を通過すると、ナビ画面に「若宮八幡宮」と表示されたので、立ち寄ることに。
「若宮八幡宮」は長宗我部元親が数え23歳で初陣をした長浜合戦で有名です。
元親は背が高く、色白で柔和で、器量骨柄は申し分ありませんでしたが、物静かで、人に対面しても会釈もせず、微笑を返すだけで、日夜深窓にのみ居たため、「姫若子」と呼ばれていたそうです。
家臣達の中には「この人を主君と仰ぎ奉らんは、木仏を立てて後世を頼むに同じ」とまで囁き合う者もいたとか、いないとか。
父国親も深く歎き、合戦に伴うことを躊躇していましたが、さすがに数え23歳にもなり、長浜合戦に伴ったそうです。
長浜合戦は、長宗我部氏と本山氏の覇権争いです。
この合戦で、二十騎ほどの兵とともに味方から離れた元親達は、敵兵五十騎ほどに討ち掛かられましたが、元親は迷うことなく槍を取って敵に当たり、立て続けに三騎を突き伏せ、大音声で「名こそ惜しけれ、一足も引くべからず」と、駆け出しながら下知して、討ち合い、敵方の武将吉良式部少輔が元親を押し込めて討ち取ろうとしたところに、国親(当時、出家して覚世と称する)が割って入り、乱戦の上、長宗我部氏が勝利を得ました。
敗れた本山方の兵は浦戸城に退却したため、国親は下知して、「若宮の前、南北海際まで柵を結び、海には番船を浮かべて四方の通路を留めければ、城中には籠鳥の雲を恋ひ、涸魚の水を求むるが如くなれば、いつまでの命をこの世に残すならん」となったそうです。
ここに出てくる「若宮」が若宮八幡宮となります。
参道の脇に馬上に甲冑姿で槍を手にした元親の像があり、それに隣接して、木柵など少しだけですが往時を偲ぶ仕掛けがありました。
若宮八幡宮の参道はかなり長く(推定500㍍以上)、参道の両側に膝丈ほどの夏草が植生していて、元親の初陣の時の様子を想像させてくれます。
若宮八幡宮の周辺は凹凸に乏しい平坦地であり、陣形や囮、罠などの策を労することが難しく、敵味方数千の兵が集まれば、力と力の全面衝突になるように思われます。
逆に、退却することが容易であるため、一端崩れると一気に崩壊していく可能性がある戦場だとかんじました。
若宮八幡宮の御由緒は社殿の横にある説明によると以下のとおりです。
○参道から鳥居を望む
○鳥居側から参道を望む
○参道から社殿を望む
○参道と境内の境にある鳥居に関するいわれ
○若宮八幡宮の紹介
○社殿
○社殿
○若宮八幡宮の御由緒
○社殿
○社殿
御祭神
誉田別命(応神天皇)、息長帯比売命(神功皇后)、市杵島姫命、湍津姫命、田心姫命、相殿に高?神
御創建
文治元年(平安末期、1185)12月30日
御由緒
鎌倉幕府開府の基礎を固めた源頼朝公は、祖父為義公の慰霊と源氏の長久を祈り、京都六条に左女牛若宮を創建し、土佐国吾川郡一円を同社の神領地として寄進した。その神領鎮護の神として、石清水八幡宮の御分霊を御勧請したのが当社である。(以上、吾妻鏡より)
鎌倉、室町の時代を通じ、得に武家尊崇の神社として栄、ことに戦国時代の永禄3年(1560)5月、長宗我部元親公は初陣に望み、当社の馬場先の松原(現.鎮守の森公園)に陣を張、一夜戦勝を祈願し、長浜城を攻め落とす。以来、当社を戦勝祈願の第一社と定め、社殿を出蜻蛉式建築と改める。これに対し、一宮の土佐神社を凱旋報賽社とし、入蜻蛉式に改めたことから、両社は対をなす土佐独特の神社建物となっている。
慶長5年(1600)、山内一豊公が新しく土佐の国守に封ぜられ、当初、浦戸城に、その後、大高坂城に移住されてからも崇敬の念篤く、祈願八社の中の一社として、年々の祭典を厳修され幕末を迎えた。
維新後、明治6年(1873)には郷社、昭和5年には県社に列せられる。戦後は宗教法人として長浜、御畳瀬、浦戸、瀬戸、横浜、横浜新町の総鎮守として、さらに厄除開運の神、安産の神、海上安全の神、戦勝祈願の神、雨の神として広い信仰を集め、今日に至っている。
なお、昭和60年(1985)11月には御鎮座八百年祭が盛大に斎行され、記念事業として社務所の改築や境内の整備が行われた。
そこで、早朝10㌔走ったあと、まだ台風が遠方にある午前中に高知市の浦戸湾を望む坂本龍馬記念館を目指して、高知市内を出発。
高知競馬場・ヨネッツ(ゴミ焼却場で発生する熱を利用したスポーツ施設)を通過すると、ナビ画面に「若宮八幡宮」と表示されたので、立ち寄ることに。
「若宮八幡宮」は長宗我部元親が数え23歳で初陣をした長浜合戦で有名です。
元親は背が高く、色白で柔和で、器量骨柄は申し分ありませんでしたが、物静かで、人に対面しても会釈もせず、微笑を返すだけで、日夜深窓にのみ居たため、「姫若子」と呼ばれていたそうです。
家臣達の中には「この人を主君と仰ぎ奉らんは、木仏を立てて後世を頼むに同じ」とまで囁き合う者もいたとか、いないとか。
父国親も深く歎き、合戦に伴うことを躊躇していましたが、さすがに数え23歳にもなり、長浜合戦に伴ったそうです。
長浜合戦は、長宗我部氏と本山氏の覇権争いです。
この合戦で、二十騎ほどの兵とともに味方から離れた元親達は、敵兵五十騎ほどに討ち掛かられましたが、元親は迷うことなく槍を取って敵に当たり、立て続けに三騎を突き伏せ、大音声で「名こそ惜しけれ、一足も引くべからず」と、駆け出しながら下知して、討ち合い、敵方の武将吉良式部少輔が元親を押し込めて討ち取ろうとしたところに、国親(当時、出家して覚世と称する)が割って入り、乱戦の上、長宗我部氏が勝利を得ました。
敗れた本山方の兵は浦戸城に退却したため、国親は下知して、「若宮の前、南北海際まで柵を結び、海には番船を浮かべて四方の通路を留めければ、城中には籠鳥の雲を恋ひ、涸魚の水を求むるが如くなれば、いつまでの命をこの世に残すならん」となったそうです。
ここに出てくる「若宮」が若宮八幡宮となります。
参道の脇に馬上に甲冑姿で槍を手にした元親の像があり、それに隣接して、木柵など少しだけですが往時を偲ぶ仕掛けがありました。
若宮八幡宮の参道はかなり長く(推定500㍍以上)、参道の両側に膝丈ほどの夏草が植生していて、元親の初陣の時の様子を想像させてくれます。
若宮八幡宮の周辺は凹凸に乏しい平坦地であり、陣形や囮、罠などの策を労することが難しく、敵味方数千の兵が集まれば、力と力の全面衝突になるように思われます。
逆に、退却することが容易であるため、一端崩れると一気に崩壊していく可能性がある戦場だとかんじました。
若宮八幡宮の御由緒は社殿の横にある説明によると以下のとおりです。
○鳥居側から参道を望む
○参道から社殿を望む
○参道と境内の境にある鳥居に関するいわれ
○若宮八幡宮の紹介
○社殿
○社殿
○若宮八幡宮の御由緒
○社殿
○社殿
御祭神
誉田別命(応神天皇)、息長帯比売命(神功皇后)、市杵島姫命、湍津姫命、田心姫命、相殿に高?神
御創建
文治元年(平安末期、1185)12月30日
御由緒
鎌倉幕府開府の基礎を固めた源頼朝公は、祖父為義公の慰霊と源氏の長久を祈り、京都六条に左女牛若宮を創建し、土佐国吾川郡一円を同社の神領地として寄進した。その神領鎮護の神として、石清水八幡宮の御分霊を御勧請したのが当社である。(以上、吾妻鏡より)
鎌倉、室町の時代を通じ、得に武家尊崇の神社として栄、ことに戦国時代の永禄3年(1560)5月、長宗我部元親公は初陣に望み、当社の馬場先の松原(現.鎮守の森公園)に陣を張、一夜戦勝を祈願し、長浜城を攻め落とす。以来、当社を戦勝祈願の第一社と定め、社殿を出蜻蛉式建築と改める。これに対し、一宮の土佐神社を凱旋報賽社とし、入蜻蛉式に改めたことから、両社は対をなす土佐独特の神社建物となっている。
慶長5年(1600)、山内一豊公が新しく土佐の国守に封ぜられ、当初、浦戸城に、その後、大高坂城に移住されてからも崇敬の念篤く、祈願八社の中の一社として、年々の祭典を厳修され幕末を迎えた。
維新後、明治6年(1873)には郷社、昭和5年には県社に列せられる。戦後は宗教法人として長浜、御畳瀬、浦戸、瀬戸、横浜、横浜新町の総鎮守として、さらに厄除開運の神、安産の神、海上安全の神、戦勝祈願の神、雨の神として広い信仰を集め、今日に至っている。
なお、昭和60年(1985)11月には御鎮座八百年祭が盛大に斎行され、記念事業として社務所の改築や境内の整備が行われた。
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