高知県檮原町散策②

旧掛橋和泉宅。
掛橋和泉は梼原町の神職だったそうで、同志とともに土佐藩を脱藩すべく資金などの用意をしている途中で義母に問い詰められて、嘘を突き通せず、最後は先祖の墓地に赴いて自害した方だそうです。


司馬先生の街道をゆくには、梼原が伊予國との国境にあって、いくつかの関所があったが、関所番のほとんどが梼原の郷士で、吉村虎太郎などの志士と気脈を通じており、脱藩者を見ても、見ぬふりをしたとあります。
土佐國幡多郡にあって、夏の湿度の高い曇天や冬の凍えるような寒天を見上げながら、心を透明にして、脱藩の道を行く志士の無事を祈りながら見送っていたのでしょう。


案内板で紹介されているのは、家主だった掛橋和泉殿と吉村虎太郎殿でございます。
吉村虎太郎は天誅組を組織して、大和國を制圧しましたが、幕府軍に包囲されて、吉野の鷲家(ワシカ)口で戦死します。


じっくりと掛橋和泉亭を拝見します。




 那須俊平・信吾父子です。信吾は養子です。
 信吾は土佐藩参政の吉田東洋を暗殺して、脱藩ですね。東洋暗殺を指示したのは、土佐勤王党の盟主武市半平太と言われていますが、おそらく事実なのでしょう。
 父俊平は梼原の槍術家で、五十歳を過ぎて、脱藩し、長州に身を寄せて、最後は蛤御門の変で討死しました。槍術の腕は相当だったといわれていますが、蛤御門の変は近代兵器が導入されつつある中で、槍一本の働きでは軍功を立てることはなかなか難しかったと想像します。
 話題を戻して、養子信吾は身の丈六尺に近く、健脚ぶりは馬以上で、梼原から高知城下までの約40キロの山道を、普通1泊して2日かけて行くところを、1日で往来していたということです。
 信吾は、虎太郎とともに鷲家口で討死しました。



 掛橋家の囲炉裏の再現です。
 確かに何か密談の雰囲気を感じさせます。


わら馬と言うそうです。お盆に茄子やきゅうりで作る人形と同じような気持ちがこもっているのでしょうか。


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