950(1562)_==永禄5年==(旧版)

>_<あくまでも司空流の「こうかも」年表ですので、誤りがあっても司空は一切の責任はとりません。>_<
>_<ご利用に際しては、解説・注意をご確認の上、各人で十分に史実をご確認ください>_<


 永禄5年(1562)、小早川隆景と毛利隆元率いる毛利勢の北九州方面軍が撤兵し、石見の毛利元就本隊と合流。
 永禄5年2月5日、毛利勢が尼子方の刺賀岩山城(城主多胡辰敬)を落とす。多胡辰敬は城を枕に討死。
 永禄5年2月、毛利勢(この時には北九州方面軍と合流済み)が石見川上松山城を落とし、福屋隆兼の次男隆任を斬る。>これを見た福屋隆兼は乙明城を放棄し、尼子義久を頼るも毛利氏との和睦を望む尼子義久には受け入れられず、大和信貴山城の松永久秀のもとに走る。
 永禄5年6月、尼子方の有力武将本城常光が毛利方に寝返り⇒これを受けて鰐走の牛尾氏、温泉津の湯氏が敗走し、石見が毛利方のものとなる。また、本城常光の寝返りにより、大森銀山が毛利方の手に落ちる。
 永禄5年(1562)、毛利勢、石見を平定し、大挙して出雲に進出。
 永禄5年6月、出雲西端に勢力のあった尼子方の赤穴久清が毛利方に寝返る。これと前後して、仁多の玉峰城主三沢為清、飯石の三刀屋城主三刀屋久扶、松江の満願寺山城主湯原春綱、●川の高瀬山城主米原綱寛らの出雲国人衆が相次いで毛利方に寝返り。また、伯耆の南条宗勝が東伯の羽衣石に、行松入道が尾高泉山に入城して尼子に敵対する。
 永禄5年7月3日、毛利元就が出雲攻略のため1万5千を率いて安芸吉田郡山城を出陣。⇒石見路を阿須那、都賀を経て出雲入城して入国。
 永禄5年7月21日、毛利元就、石見都賀に着陣。出雲赤穴城に向かう。
 永禄5年7月28日、毛利元就、出雲赤穴城に着陣。その後、赤穴城の北東頓原にしばらく滞在し、同年12月1日進発。
 永禄5年11月5日、毛利元就が本城常光とその1党を暗殺し、大森銀山を手中に収める。⇒これを見た旧尼子系列の諸将が自らの立場を危ぶみ、尼子方に再び寝返る。毛利方に留まったのは三沢為清、三刀屋久扶、米原綱寛、赤穴久清ら。⇒毛利元就はこの情勢を見て赤穴まで退陣。
 永禄5年12月1日、毛利元就が再び赤穴を進発。⇒天倫寺山の洗合に本陣を移す。⇒長期戦を見越して、宍道湖と中海を結ぶ水道を扼す洗合山に半永久的な城を築く。洗合山は富田城から25㌔ほど離れた場所。⇒その後、宍道湖と中海の中間にある和久羅山を攻略し、支城を築く⇒さらに安芸水軍の児玉就方が中海に浮かぶ大根島を占拠し、海上権を掌握。>これにより毛利元就は富田城と出雲白鹿城および島根半島との連絡を断つ。
 永禄5年12月、尼子方は毛利勢の補給線を断つため、出雲三刀屋付近に進撃するが、毛利方の三刀屋久扶の働きにより失敗。⇒毛利元就が三刀屋久扶宛に12月27日付で感状を送る。>毛利方の補給線は出雲三刀屋に宍戸、山内両将をおき、掛合に嫡男毛利隆元を配する。

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