950(1569)_==永禄12年==(最新版)
^^あくまでも司空流の「こうかも」年表ですので、誤っている可能性があります。^^ ^^ご利用に際しては、解説・注意をご確認の上、各人で十分に史実をご確認ください^^ 永禄12年(1569)、尼子氏と但馬の山名氏が同盟を結ぶ。 永禄12年、浦上宗景が、旧播磨守護家の赤松義祐と赤松則房、播磨の有力国人・小寺政職らと結び、これの救援を名目に播磨における兄浦上政宗の遺領を吸収。(Wiki) 永禄12年、浦上宗景が、西播磨において侮り難い勢力となっていた赤松政秀を討つ為に、備作衆を率いて播磨国西部へ侵攻。-この頃、宗景は尼子氏再興を目指す尼子勝久などの反毛利の勢力を積極的に支援し、九州の大友宗麟とも同盟して毛利氏への対抗姿勢を露わにする。(Wiki) 永禄12年、赤松政秀が、浦上宗景の攻勢に対抗するため、将軍足利義昭と織田信長に救援を要請(Wiki) 永禄12年(1569)1月4日、三好三人衆並びに斎藤右兵衛太輔竜興、長井隼人ら、南方の諸浪人を催し、薬師寺九郎左衛門を先鋒として、将軍足利義昭の御座所六条に取り詰め、門前を焼き払い、寺中に乗り入れようとする。(三好三人衆とは三好長逸らで、堺の後援を受ける。このとき、六条に立て籠もる武将は、細川典厩・織田左近・野村越中・赤座七郎右衛門・赤座助六・津田左馬丞・渡辺勝左衛門・坂井与右衛門・明智一兵衛・森弥五八・内藤備中・山県源内・宇野弥七。斎藤竜興は後に越前に下って、朝倉義景を頼ったが刀根山の合戦で戦死。しかし、竜興の弟(斎藤新五郎≒織田信孝の家老斎藤玄蕃允利堯か?)は道三の孫であることから、信長はこれを助けて、斎藤家の跡を継がせるため、生活をできるだけの領地を与えた。) 永禄12年(1569)1月4日、薬師寺九郎左衛門(三好方)が山県源内、宇野弥七両人を討ち取る。 永禄12年(1569)1月5日、三好三人衆が京都に乱入し、足利義昭の住む六条本圀寺を襲う。(この際、細川典厩藤賢・津田左近・赤座七郎右衛門・赤座助六・津田左馬丞・渡辺勝左衛門・明智一兵衛・森弥五八・内藤備中守および若狭衆の山県源内・宇野孫七らが切ってで、後巻きとして伊丹・荒木・茨木・細川兵部大輔(藤孝)・三好左京大夫らがかけ向かい、桂川辺りで1戦に及んで大利を得た(原本信長記)(1月6日が正解?)。) 永禄12年1月、三好左京大夫、細川