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アプローチ

またグリーン回りからの簡単なアプローチでダブり、ザックリが頻発。 GDOさんのレッスンから次回ラウンドで以下を試してみることに。 ○クラブの入射角をレベルに近づける。 ○インサイド-アウトで払うように打つ。 ○ボールの左半球を見る。 ○左足に7割程度体重をかけ、体重移動はしない。

赤穂シティマラソン!

赤穂シティマラソン、終わりました。前半の山登り以外はフラットで、主に海岸沿いを通り、美しい瀬戸内海の景色を見ながら走れるので爽快です。赤穂浪士に扮した方々や地元の吹奏楽部の皆様の応援などとても盛り上がっていました。応援の皆様、ボランティアの皆様に大感謝です。 コンパクトにコースを作っているため、折り返しが多かったです。最後の折り返しは精神的にきつかったなぁ。 完走記念のタオルはとても素敵なので、是非、使わせていただこうと思います。完走した人はみんな肩に掛けて、使っていました。この完走賞はラッキー。これにブラス記念Tシャツもあり、お土産的には充実です。 レース後の食事のために、たくさんの屋台が並んでおり、こちらもグッド。松坂ホルモン焼そばと京都伏見の担々麺を食べました。最後に、赤穂名物くいどうらくの屋台らしきものが見えるので、牡蠣を食べて帰ろうと思います。 気になる点を上げると、河川敷の駐車場の入口が渋滞していたので、もう少し上手く交通整理した方がよいと思います。海浜公園の駐車場は有料なので、河川敷の方が混むのかなぁ?わたしは、結局、河川敷の駐車場の入口の手前でUターンして海浜公園の駐車場に行きました。 あと、これはどの大会でも同じですが、スタート直後は混みますねぇー。グラウンドを出た直後の道の幅を考えると、定員3000人というのが、ちょーどよいと思います。 適度な規模のシティマラソンで、個人的には大好きです。機会があれば、また、出場したいですね。

ゴルフ備忘~自分なりのスイングのチェック点~

本日、小雨の中、ラウンド。 雨の日はどうしてもスイングが早くなりがちで、ちょこちょことミスショットが発生。 スイングが早すぎて、軽いシャンクが3打ほど発生したのが反省点。 これらの理由で、前回ラウンドから+8スコアが悪化。 やはり、どこかのblog(このblogではありません)に書いていたとおり、以下がポイントのように感じる。 ○アドレスを決める。(アドレス時の自分のポイントは背筋を伸ばすことを心がけながら、眼鏡のレンズの一番した辺りでボールを見る。) ○両手を緩める。(できれば、肩から先の力を抜く。絶対に身体のどこにも力をいれない) ○ゆっくりと大きく、テイクバック→トップ、そして、自然にダウンスイング→フォロースルー。(ゆっくりと大きくを意識することで、左肘が曲がらない。アドレスからトップまで力が抜けているので、軸もぶれない) ショットの調子が悪くなった時は、これを参照! 司空

磁場の井戸:第四章 対岸(九)/長編歴史小説

 陽が中天を越えた頃、岩崎山に陣を布いていた山陰衆が陣貝の勇ましい音と共に、南東の方向に向かって続々と移動を始めた。これを見た日差山の元春、隆景も兜の尾を締め、秀吉が本隊を繰り出した際の備えとして、日差山の山陽勢に体勢を整えるよう命じた。 (もし、秀吉が本隊を動かせば、日差山から一撃を。) 秀吉の本陣が動き、拮抗したこの状態が崩れたときこそ、高松城の水牢の鍵をこじあける唯一の好機であり、それ以外に高松城を水牢の中から救い出す手だてはなかった。  吉川元長、経言兄弟は一万の軍勢を率いて、加茂の手前七、八町のところで、進軍を止め、陣を整えた。 「すわ、後詰か。」 加茂城の麓に滞陣する織田勢の間に緊張が走り、最後の城攻めに向けて、加茂城に備えていた陣形が柔軟な動きでその形を変えた。  そのとき、既に、秀吉の命を受けた二騎の伝令が加茂に向けて、疾走していた。  日差山の頂上付近で、元春と隆景は、蛙ヶ鼻の秀吉の陣から二騎の伝令が加茂城の方角へ向けて一目散に駆けていくのを見つめていた。両人とも、この使者がこの戦の展開を握って疾駆していることを直感し、その行方を凝視した。  伝令は太い筆で一筋ひいたようにも見える白みを帯びた褐色の道を、砂埃を巻き上げながら、加茂城の麓で居座る織田勢の群兵の中に吸い込まれていった。それから時を経ず、無数の織田勢の旗が粛々と移動を始めた。 元春と隆景は霞んだようにぼんやりと見える兵馬の移動を遠望しながら、それが退却を意味している事を悟った。 「またもや、秀吉は正面からの戦を避けましたな。」 隆景は諦めたような口調で、傍らに立っている元春に言った。元春は拳を握り締め、口惜しそうな表情で、粛々と陣を払う織田勢を睨みつけていた。 「真っ向勝負なら、勝機はあったやも知れぬが、秀吉めが退却するのでは、手の出しようが無い。あの様子では、殿軍の手配りも万全じゃ。我が方が討って出れば、手痛い反撃を喰らう事になろう。」 元春は苦薬を飲み下したような渋い表情で呟いた。一度でも、織田勢と弓矢を交え、これまでの戦で思い知らす事ができなかった山陰兵の、そして、毛利兵の頸悍を、羽柴秀吉とそれに率いられた織田勢の心に刻みつけなければ、元春としては遙々備中まで出てきた意味がなかった。そして、元春は、高松城と義人として愛すべき宗治という男をこの水の牢獄から助

吉野川ラフティング!

吉野川でラフティングに挑戦! 場所は幾つかありますが、今回は、小歩危下り半日コースに参加しました。 料金は二人で12,000円強です。 集合場所から出発地点まではバス。 出発地点はたぶんラピス大歩危という施設から少し上流だと記憶しています。 国道32号線から徒歩で吉野川に下ります。下りた場所は川幅が広く、流れが緩くなっており、週末はそこがラフティングボートで埋め尽くされるようです。今回は平日だったので、そこで待機していたボートは10隻程度でした。 気温は自動車の温度計で34度。 ウェットスーツが暑いので、まずは身体を冷やすのと、水温を確認するという意味で川に入ります。驚いたのは水の冷たさ!温いという感覚は全く無く、身体が引き締まるような冷たさです。徐々に身体を慣らして、ボートに乗る前に肩まで浸かりました。 ボートに乗り込み、前こぎ、後ろこぎ、急流時の姿勢などを教えて貰いながら、いざ、出発。 今回のコースには急流が4つ(いや、5つだったか?)があり、その間の流れの緩やかな場所でボートから飛び込んだり、泳いだり、また、高い岩場から飛び込んだりします。 急流は迫力満点で、かなり面白い!特に、流れに落差がある場所はボートが上下に激しく揺れ、ボートが上から下へ揺れるときに激しく水を被るのですごく気持ちいい。(油断してると水を飲んだりしますが…。) ウェットスーツを着ているので、少し暑いですが、泳げば全身完全冷却!最後の方は身体が冷えて泳ぐのを遠慮してしまうくらいです。 高い岩場からの飛び込みも気持ちいい! 午前中半日コースだったので、たぶん吉野川と支流の白川が合流する場所でしゅーりょう! 午後のコースはここから下流で、落差が一番大きい急流がある模様。 吉野川は国内でも有数の急流で、他のラフティングサイトと比較しても一級品だそーです。 生まれて始めてのラフティング! 天ラフティング日和で最高の経験でした。 追伸 集合場所をナビに入れると、どーしても、高知道の新宮ICでおりて、国道315(?)号線を走るコースを選ぶのですが、結果的に道が狭くいので、次に行くならば、国道32号線か、池田ICで下りるかなぁ…。

かき氷「あんどりゅ」

三井アウトレットパーク倉敷にて、「あんどりゅ」さんのてらみすかき氷。いま流行りのフワッとした雪みたいなかき氷。優しい冷たさにティラミステーストがさいこーに合います。並ばず、すぐに食べられました(^^)/

アプローチ備忘録

GDOさまのHPに自分にぴったりあったアプローチのアドバイスが掲載されていたので、ラウンド時の備忘として残しておく。 以下、HP抜粋。 ================ アプローチを打つときのポイントは、ボールの左半球を見る意識です。構えたときから打つ瞬間まで、ボールの左半球を見ているようにしましょう。そうすることで、ヘッドアップや左肩が上がってしまうミスが防げ、打ち終わった後は、左足に重心が乗っている状態になります================ URL: http://style.golfdigest.co.jp/woman/play-lesson/article/49345/3

麦秋ラン

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そろそろ暑くなってきましたが、屋外ラン。仕事の都合で小豆島オリーブに出場できなかったこともあり、たまには、ゆっくりと長距離を走ってみました。 季節は麦秋。 気持ちよく20kmラン。時間は相当かかりました。 下の写真は春日川中流域をふと撮影。

松山城周回ラン

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所用にて松山に宿泊したので、松山城周辺をラン。 持田町辺りまで足を伸ばしたところ、松山気象台なる瀟洒な建物を発見(写真) 住宅街のど真ん中にこういう建物が残っているのは、文化の街松山という雰囲気を感じます。 その近くにある愛媛大学付属中学校の中にも緑白色のレトロな木造建築が一棟残されていました。(こちらは学校だったので、写真なし) いい佇まいです。

磁場の井戸:第四章 対岸(八)/長編歴史小説

 岩崎山から日差山へ向けて、一頭の栗毛の馬が疾駆していた。騎上の若武者は、目の前を横切る者を馬蹄に敷き潰すかのような勢いで、鞭を振るい続けている。  若武者は隆景のいる幔幕の側まで勢いを落す事なく駆け寄ると、ひらりと身を地に落とし、鎧が軽く擦れ合う音を響かせながら幔幕の中に入った。幔幕の中では、隆景と元春が向き合って、高松城周辺の絵図面に視線を落としていた。 「どうした、元長。」 元春は息を荒げながら、突然、幔幕の内に入ってきた息子に向かって言った。元長は二人が囲んでいる図面の朱書きに目を落した。今朝からの織田勢の動きが克明に描き出されたその絵図からは、多数の織田勢が加茂に向けて動いた事が見て取れた。元長は元春の質問に答えようともせず、馬を疾駆させてきた勢いを減衰させることなく、二人の側で空席になっている床几に腰を下ろした。 「好機でございます。織田勢は均衡を崩しました。この絵図の通り、崩れは歴然でございます。なぜ、出陣の触れを出されないのでございますか。元長、そのことをお尋ねいたしたく、ここまで参った次第。このまま、みすみす加茂を見捨てれば、毛利家の威信は地に落ちますぞ。」 元長は、父元春になら積極策に同意して貰えると無意識に思い、敢えて冷静な叔父隆景と目線を合わそうとせず、真っ直ぐに元春の方を見ながら言った。元春は絵図を睨んでいた目を息子の方に向けて、何か言おうとしたが、それを掣肘するように隆景が元長に力強く言った。 「元長殿、織田勢を崩せぬまでも、加茂城に篭もる広重らを助け出さねば、毛利家の信が疑われる事になろう。今すぐ、元長殿と経言殿が大将となり、山陰勢を従え、加茂へ出張っていただきたい。織田勢は一万を超えているかもしれんが、精強を持って聞こえる山陰勢をもってすれば、織田勢が二倍であろうとも蹴散らす事は易かろう。」 予期していなかった隆景の言葉に、元長は面を上気させながら答えた。 「この元長の一命に代えても、弟、経言とともに加茂の城兵達の命を必ずや救ってまいります。山陰衆の手並みのほど、とくとご覧下さい。」 元長は、備中表に到着して以来、初めての織田勢との正面切っての大戦に身体中が熱くなるのを感じながら、幔幕を辞し、馬上の人となって、日差山の急峻な山道を転がり落ちるように駆け下って行った。

982_浦上氏周辺年表(最新版:和暦年表未反映)

>_<あくまでも司空流の年表ですので、誤りがある可能性がございます。>_< >_<ご利用に際しては、各人で十分に史実をご確認ください>_< 享禄4年(1531年)、浦上虎満丸(後の浦上政宗)が、父浦上村宗の摂津天王寺で戦死(大物崩れ)したため、浦上氏の家督を相続。-天文7年(1538年)頃まで幼少の虎満丸を一族の浦上国秀が後見していた。(Wiki) 天文1年(1532)、尼子氏が美作の浦上氏の勢力を排除して美作を制圧。(司空) 天文6年(1537年)、浦上虎満丸(後の政宗)が、尼子詮久(後の尼子晴久)の山陽道侵攻が始まったことを受け、父浦上村宗の仇とも言える赤松政祐(後の、晴政)と和睦する。しかし、尼子勢に敗れて備前から撤退。さらに、天文8年(1539年)末にはさらに東進してきた尼子勢に播磨からも追われ、赤松政祐を奉じて淡路を経由して和泉国の堺へと脱出する。(Wiki) 天文8年(1539年)末、赤松政祐と浦上虎満丸(後の政宗)が、東進してきた尼子勢に播磨からも追われ、浦上政宗は赤松政祐を奉じて淡路を経由して和泉国の堺へと脱出する。(Wiki) 天文9年(1540年)初め頃、赤松政祐が将軍足利義晴から偏諱を賜って赤松晴政に改名。 天文9年(1540年)初め頃、浦上虎満丸が、元服して赤松晴政から偏諱を賜り「与四郎政宗」を名乗る。(Wiki) 天文11年(1542年)、浦上政宗が、室町幕府の助力を得て、赤松晴政と共に播磨に復帰。天文9年に二人は尼子勢により播磨から追い出されていた。(Wiki)  天文13年10月、尼子国久率いる尼子勢が再び備後に進軍し、出雲陣の帰途討死した小早川正平の子又鶴丸(のちの繁平)の守る豊田郡沼田の高山城を攻撃⇒落城しなかったので、高野山・久代などの人質をとり、そのまま美作に進攻し、浦上宗景の勢力下の真庭郡高田、篠フキ、苫田郡医王山の3城を攻略し、さらに因幡進出を試みるが、真木弾正忠時の進言により出雲に帰陣。  天文13年12月8日、尼子晴久が田口志右衛門に同年1月頃尼子国久が攻略した美作のうち北高田庄を宛行う。(司空) 天文13年(1544年)頃、この頃までに赤松晴政と浦上政宗が、播磨•備前の両国を回復する事に成功した。政宗は赤松家臣団を総括的に指揮する立

磁場の井戸:第四章 対岸(七)/長編歴史小説

桂広重に率いられた加茂城本丸の城兵達は、地面から湧き出すように夜明けより途切れることなく押し寄せてくる東の丸からの敵兵を、懸命に押し返した。 「ここが、こらえどきじゃ。十分引き付けてから、狙いを定めて討ち止めよ。」 本丸の城兵たちはありたっけの鉄砲、弓矢を寄せ手に見舞い、その度に寄せ手の先鋒は一斉に地に倒れた。それでも、その屍を乗り越えて、次の寄せ手が本丸の城門に肉迫した。城方は、それにも再び矢玉を浴びせ、再び死体の山を築かせた。  幾度も幾度もそれを繰り返した。広重は声を嗄らさんばかりに、叫び続けた。 「こらえよ、こらえよ。敵を城壁に近づけるな。」 叫びながら、広重は心中で神仏に祈り続けていた。 (矢玉が尽きるが先か、風向きが変わるが先か。南無八幡大菩薩、我に武運を授け給え。) 広重は火矢を用いた撹乱策を心中に描きながら、城を吹き抜ける風の向きが変わるのを待ち侘びていた。風向きは東から西へ、今、火矢を放てば、味方が煙に巻かれ、本丸が混乱に陥る。広重は時が移るのを忍従し続けた。 (わしは風神に好かれていようか。) ちらりとそんな事も思ったが、鉄砲の轟音が風を振るわせ、その振動が広重の心を応ずべき現実に引きずり戻した。寄せ手は犠牲を厭う事なく、地獄に続く一筋の道を城門に向かって戻ることができぬまま駆け上って来る。守り手の形相が修羅ならば、寄せ手は悪鬼と化し、無二無三に死に繋がる一本道を突き進み続けていた。 「奴等にありったけの矢玉を馳走してやれ。」 広重は再び叫んだ。その声とともに、地が割れるような轟音が辺りに響いた。 時とともに数で大きく優る織田勢に戦況が傾き始めていた。広重は最後まで諦めてはならぬと思いながらも、胸の片隅の、表情には現れぬ、奥の、またさらにその裏面の辺りで微かに呟いた。 (風神に嫌われたか。) その言葉とともに広重が覚悟を決めたとき、城壁に並べた旗がゆっくりと萎れ、さらに、先程とは逆の方向に、はためき始めた。 「してやったり。」 広重は狂喜した。同時に、用意していた火矢に火を点じるよう下知し、待機していた騎馬武者達に大手門に集まるよう命じた。広重自身も、太刀の目釘を改めながら曳かせてきた馬に跨り、大手門を目指す。大手門に到着した広重は、集まった五百騎の騎馬武者達に策を伝えるや、大音声で城壁に並ぶ射手たちに命じた。