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磁場の井戸:第六章 磁力(二)/長編歴史小説

 天正十年六月五日、高松城から煌びやかに飾られた一艘の小船が湖面へと漕ぎ出そうとしていた。 宗治を含む船上の人々は、既に、昨晩、秀吉から送られた酒肴で宴を開き、城内の人々との訣別を終えていた。この城の副将であり、宗治の股肱の臣とも言える中島大炊助を始め、数多の者が宗治の死の供を望んだが、宗治はそれらの全てを拒んだ。皆に、毛利家のため、そして、隆景のために生き続けるよう懇願し、大部分の者は宗治の心の隠った説諭に改めて生き抜くことを誓った。ただ、一人だけ、難波伝兵衛という男だけは、宗治の言葉に頑として首を縦に振ろうとしなかった。彼は、宗治の目の前で太刀を抜き、腹に突き立てようとまでした。その伝兵衛の姿は、宗治をして、月清の言葉を連想させた。それと同時に、宗治は伝兵衛の手から太刀をもぎ取り、諭した。 「それほどの想いならば、共に賑やかに死のうではないか。」 宗治は伝兵衛の供を許した。伝兵衛は破顔した。その瞳から喜びの涙が止めどなく溢れ、彼の頬を濡らし続けた。 小舟には、宗治を始め、死の供を許された、月清、末近信賀、難波伝兵衛、そして、船頭役として高市允が乗り込んでいた。高市允は袴の袖に襷を掛け、棹を握り、宗治の船出の言葉を待っていた。 「殿、お待ち下され。」 胸から絞り出すような叫びが、宗治を見送ろうとする城兵の群の中から聞こえた。宗治が聞き覚えた七郎次郎の声だった。 「殿、我々もお供させて下され。」 七郎次郎は、背後に控える月清の馬の口取り与十郎とともに、舷側に土下座した。  しかし、宗治はこれ以上の殉死者を喜ばなかった。 「お主らの志、有り難い。しかし、お主らは今後も毛利家のために働いてもらわねばならぬ。これも儂への忠義と思い、生き延びてもらえぬか。」 宗治はちらりと与十郎に目線を移した後、すぐに七郎次郎の目を見据えた。 (お前なら分かってくれるだろう。) 宗治はそういう思いの全てを目で訴えた。 「儂は殿に拾ってもらって以来、殿のために生き、殿のために死ぬことを心に誓っております。殿無きこの世に儂の生き甲斐はございませぬ。ぜひともお供を。」 七郎次郎は目を赤く腫らしながら、顔だけを上げて宗治に訴えた。 「七郎次郎、儂のために生き抜いてくれ。」 慈愛に満ちた表情で宗治はそれだけを言い残すと、高市允に船出を命じた。七郎次郎と与十郎は土下

磁場の井戸:第六章 磁力(一)/長編歴史小説

第六章 磁力  宗治は城兵達に戦が終わった事を触れるよう高市允に命じ、自らも開城と現世との離別のための準備を始めた。そんな宗治のもとに、末近信賀が床板を蹴りつけるような激しい足取りで訪れた。 「儂も宗治殿に御供いたします。」 陽に焼けた赤銅色の顔をさらに血潮で赤らめ、懇願するような面差しで信賀が言った。 「信賀殿、有り難く思うが、お気持ちだけで十分でござる。儂は皆の命を助けるために自害するのでござる。信賀殿が自害すれば、儂の志が無になりましょう。」 宗治は自分の死の意味が薄れることを恐れた。そして、自分以外の人間が不必要に流血することを嫌った。 「いや、儂はこの高松城に入った時に、命を捨てる覚悟でござった。もし、高松城が落城し、城兵一同討死するときは、供に屍となり、もし宗治殿が織田方に寝返ろうとしたならば、貴殿と刺し違えるつもりであった。今、和睦が成ったからと言って、一度捨てた命、今更、未練はござらん。それに、宗治殿だけを死なせて、軍監として赴いた儂だけがおめおめと生きて戻れはいたしません。」 信賀の言葉が終わったまさにそのとき、和睦と城主宗治の切腹を聞いた月清が、宗治の姿を求めて、部屋に入ってきた。興奮して声を荒げた信賀の言葉は部屋の外にも十分聞こえていた。 「宗治殿、拙僧も供に行かしていただきますぞ。」 月清は、激しく詰め寄る信賀とは全く対照的に静かに言った。その口振りは、宗治とともに死ぬ事が当然であるという信念に満ちていた。 「月清殿まで何を、地獄に行くのは儂一人で十分でござる。御両所ともわたしの分を生き、毛利家をお守り下さい。」 「いや、わたしは清水家の嫡男として生まれながら、生来軟弱で戦を嫌い、好んで僧籍へ身を投じた。それができたのも幼少より雄有り、武を好んだお前がいたからだ。本来であれば、わたしが清水家を継ぎ、そして、ここで命を絶つべき立場にあったはず。その事までも、宗治殿に身代わりになってもらっては罰が当たろう。ここまで奔放に生きることを許してくれたそなたへのせめてもの償いに、わたしも供に死なせていただきたい。宗治殿、もしお前がこの願いを拒んだとしても、わたしはお前を追って死ぬつもりだ。どちらにしても死ぬのであれば、供に賑やかに死ぬほうが面白いではないか。」 月清はこれまで自分の身代わりとなって現世の苦悩を一身に受けてきた

磁場の井戸:第五章 死神(五)/長編歴史小説

 恵瓊は蛙ヶ鼻の秀吉本陣に戻り、宗治が切腹を承諾した旨を知らせた。 「ありがたや。よう致してくれた。恵瓊殿、礼を申すぞ。」 秀吉は恵瓊の手を取らんばかりにして喜んだ。宗治が切腹を承諾したことによって、秀吉は勝利の証を手にした。「勝利」という大義名分を持って軍を帰すことができるのである。  恵瓊は秀吉にこのことを告げると、席を暖める暇もなく、日差山の隆景の許へと向かった。  隆景は日差山の本陣で、陣笠を心細げに掲げた小船が高松城の湖水を渡っていくのを黙って見送っていた。 (恵瓊が乗っている。) 隆景はすぐにこの船が進むことの意味を悟った。 (この船は毛利家にとっては安寧への舵取役となるかもしれぬが、…) 隆景はそのことと恵瓊という僧の辣腕を認めざるを得なかった。これ以外に、この戦の完結を宣言する方法は無いのかもしれない。ただ、一個の男として、宗治の命を絶つことは、身を切られるほどに辛かった。 (恵瓊はこれで毛利の信を失った。) 隆景は自分と兄元春が、今後、安国寺恵瓊と言う禅僧を信じていけなくなる事を確信した。恵瓊は独断で宗治の命をもらい受けに行った。その行為は、天下太平を願ったための情熱の噴出と見られなくも無い。ただ、恵瓊は毛利家をある意味裏切った事は確かである。  秀吉の陣を辞した後、急ぎ日差山の陣に戻った恵瓊は、時をおくことなく、少し俯き加減で隆景の前に現れた。 「隆景様、拙僧先刻、高松城へ出向き、城主清水宗治殿と直に談じてまいりました。」 隆景は鋭い目線を恵瓊に放った。普段は柔和な隆景の表情が、このときばかりは憤りの表情に満ちているように、恵瓊には感じられた。しかし、隆景は、口調に感情の棘を表さずに恵瓊に尋ねた。 「宗治は自害すると言ったか。」 問うというよりは自分の予感を確認するような口調だった。 「清水殿は城兵の為、毛利家の為、命を差し出す御覚悟でございました。」 「そうか。」 隆景は恵瓊に答えると、湖面に僅かばかり顔を出した高松城に視線を移した。隆景は暫くの間茫然と湖水に視線を泳がせていた。 「すでに決まった事だ、諦めるしかなかろう。」 恵瓊を責めるでも無く、呟いた。  恵瓊が退席した後、このことを兄元春に、書状をもって、知らせた。元春も、もはや決まった事にとやかくは申し立てなかった。黙って書状を差し出した傍らの

磁場の井戸:第五章 死神(四)/長編歴史小説

「隆景殿は、宗治殿の首だけは、弓矢の意地に賭けても、渡す事はできぬと仰せか。」 秀吉は恵瓊に念を押すように言った。 「如何にも、領地の割譲に関しては、異存はございませんが、殊、清水宗治の命に関しては、不承知でございます。」 恵瓊は毛利家の使僧の立場として、断固とした口調で言った。 「毛利家として譲り難い事は重々承知しておりますが、当方としても勝利の証をいただけねば、味方に対して陣を退く名目が立ちませぬ。宗治殿の首を両軍の士卒の目に入れ、双方勝敗を明らかにせねば、両軍の士卒が承服いたしかねましょう。それでは、主人信長の弔い合戦の前に我が軍が崩壊いたすは必定でござる。」 黒田孝高の語調は悲嘆に暮れているようにも聞こえた。一瞬の沈黙の後、絶妙とも言える間を置いて、秀吉が続けた。 「恵瓊殿、何か策はござらんか。」 秀吉と孝高には思うところがあったが、それをおくびにもださず、恵瓊に対して哀願するように言った。秀吉の口調の中には、 (この事が成れば、恵瓊殿には然るべき褒美を差し出そう。) という、現世利益的な脂ぎった感情も多分に含まれていた。 「無い事はござらぬが。」 恵瓊は自らの描いた策を、自慢げな表情ながらも、控えめな口調で疲労した。 (恵瓊自身が独断で高松城へ向かい、宗治に直談判し、自害を促す。) (毛利家のためである。) と説得する。宗治は、当代に稀な義人であるとの噂が高く、また、毛利家に大恩を感じているはずだった。「毛利家のため」という言葉は、宗治の心に鋭利な刃物をあてがうようなものである。必ずや宗治は命を差し出すであろうと、恵瓊は語った。  恵瓊の策は、秀吉、孝高の考えと割符を合わせるかの様に合致した。しかし、秀吉はいま閃いたかのように恵瓊の策に感動した。正確に言うと、感動した振りをした。孝高も恵瓊の策にさも感心したように、 「上策にございます。なれば、早速、高松城に出向いていただけませぬか。」 と、せきたてるように恵瓊の出座を促した。孝高は、ここで間をおいて、この策が毛利の両川に漏れることを恐れた。為に、恵瓊を少しでも速く高松城に出向かせるのが得策だと心得ていた。煽て上げられた恵瓊は、両人から認められたことを愚直なほどに喜び、 「支度さえ整えば、早速にも高松城に出張りましょう。」 と応じた。恵瓊は浮き立つ心を抑えながら腰を上

磁場の井戸:第五章 死神(三)/長編歴史小説

 天正十年六月四日黎明、一頭の駿馬が高松城を囲む堤の足下あたりを西に向かって疾駆していた。馬上の武士の背中に結びつけられた竿の先には軍使であることを意味する黒い陣笠が、朝日を浴び、馬が揺れるたびに黄色を帯びた光を端厳と跳ね返した。騎馬は蛙ヶ鼻の秀吉本陣を発ち、薄い陽光の膜を切り裂くように日差山の小早川本陣へと向かった。 「安国寺西堂殿、当方へ御足労願いたし。」 使者は隆景の面前で跪き、主人秀吉の言葉を伝えた。 (何事か。) 隆景は突然舞い込んできた軍使の意図を察しかねながらも、断る理由を探すこともできず、また、その用向きを尋ねることもできず、なんら手掛かりを掴まぬまま、恵瓊をして羽柴秀吉の本陣蛙ガ鼻に差し向けた。 恵瓊は隆景の命を受け、蛙ヶ鼻に向かったものの、隆景と同様、この突然の使者の意味を解しかね、籠の中でその意のある所を彼是と思案し続けた。  思案の熟さぬまま蛙ヶ鼻に到着した恵瓊は、黒田孝高、蜂須賀正勝の慇懃な挨拶を受けた後、早速秀吉の待つ幔幕の中に導かれた。床几に座している秀吉は、昨日までと異なり、初夏の早朝独特の冷涼な空気の中で、そこだけが大量の熱を宿しているような異様な覇気に包まれているように、恵瓊の瞳には映った。 「早速のお訪ね痛みいる。」 秀吉はそこで一端言葉を切って、二度ほど深い呼吸をした。そして、声を低め、自らの発する言葉の意味を噛み締めるようにしながら、冷静な口調で言った。 「一昨日、主人信長が逆心明智光秀により討ち取られ申した。」 恵瓊は一瞬にして顔面を紅潮させた。総身が絞られるかのように、体中の毛穴から汗が噴き出し、血液が逆流するような眩きを覚えた。 (天下が動く。この名を天下に轟かす日が来た。) 恵瓊は心の中で思い、跳び上がりたいような歓喜に膝の上で握りしめた拳を振るわせた。それでも、恵瓊は喜びの感情を表情に浮かべることはなかった。 (どのような事態に直面しても、傍目には冷静に見せる。) 安芸安国寺で禅の修行を初めて以来、現在まで、どんな局面においても心の平衡を失っていないように見せるという砥礪を続けてきた。ただ、あまりの事態の大きさに、恵瓊は言葉を発することを忘れていた。  沈黙する恵瓊を見かね、黒田孝高が声をかけた。 「恵瓊殿、さればでござる。我等一同、毛利家との和睦を急ぎ実現し、都へと駆け上り、なん