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3月, 2012の投稿を表示しています

朝ラン再開

朝、明るくなるのが、早くなって参りました。 今朝、周囲が明るいのと、色々と悩みがあったのとが相まって、朝早く起床してしまい、その後眠れなくなってしまいました。 空も相当明るくなってきたので、 ーこうなれば、出るか! と、ランスタイルに着替えて、家を出発し、軽く30分ほどランしました。 まだ少し肌寒いですね。 明朝は寒が戻り、かなり冷え込むようですので、おそらく出走回避だと思います。 しかし、そろそろ冬眠から目覚めたいと思います。

シンプルな筍の煮物

【今回のレベル(司空の独断)】 ・準備:★★☆☆☆(灰汁抜きが終わっていたら準備はほとんどありません。でも、採ってきたままの状態の筍だと準備は大変です(--;)) ・時間:★★☆☆☆ ・技術:★★★☆☆ 実家から茹でたての筍を貰いました。合わせて、長崎から取り寄せたというトビウオの出汁のもとを譲り受けたので、シンプルに筍の煮物(若竹煮と言うんでしたっけ)を調理してみました。 ちなみに、筍の煮物は、後で天ぷらにしたり、筍ご飯にしたりと、結構、応用が効きますよ。 【準備するもの(中くらい筍×2本分)】 ・中くらいの筍…2本 ・出汁用の素材…拙者司空は普通なら鰹出汁ですが、今回はトビウオの乾物を粉末にした出汁を利用 【作り方】 ・小さめの鍋に輪切りにした筍が完全に浸かる程度に水を入れて、鰹節(今回はトビウオの乾物の粉末を小さな袋に入れたもの)を投入し、弱火にかけます。鍋は小さめの物で十分だと思います。 ・出汁を採っている間に、茹でた筍を厚さ1cm弱くらいの輪切りにしておきます。 ・出汁が沸騰する手前で鰹節(今回はトビウオ)を取り除き、醤油を少々(本当は入れなくてもいいくらい)入れたあと、筍を入れて15分くらい弱火で味を染み込ませます。 これで出来上がり♪ 春を告げる一品です。 機会があれば、ご賞味くださいね(^^)/

豚細切れのしょうが焼き

【今回のレベル(司空の独断)】 ・準備:★★★★☆ ・時間:★★★☆☆ ・技術:★★★☆☆ 凄く手軽で、味わい深い感じの料理です。貧乏性の拙者司空にとっては、負け惜しみかもしれませんが、厚い豚肉で作るよりも、生姜醤油の味が全体にまんべんなく絡まって、かなりいけます。 味が基本的に濃い目なので、拙者司空的には、いい感じの男メシだと思います。 実は前に書いたかなぁと勘違いし、ブログを確認してみると、記録がないことに気付き、本日アップした次第(-_-;) 弁当にもいけますので、是非どうぞ! 【準備するもの(5人分くらい)】 ・豚肉細切れ…500g ・醤油…大さじ2-4杯 ・玉ねぎ…1ヶ ・みりん…大さじ2-4杯 ・日本酒…大さじ2-4杯 ・生姜…1-2欠片 ・片栗粉…少々 【作り方】 ・まず、下拵えとして、深めのボールに醤油、みりん、日本酒、すりおろした生姜、豚の細切れを入れて、混ぜ合わせたあと、冷蔵庫で味を染み込ませます。まあ、1時間も置いておけばよいでしょう。 ・フライパンにサラダ油を引いて、少し弱めの中火で、先程の豚肉を炒めていきます。お肉の量が結構あるので、なかなか火が通りませんから、蓋をして蒸し焼きにすると手間が省けます。 ・お肉に火が通ったら、玉ねぎを入れてさらに炒めます。お野菜をたくさん採りたい方はキャベツやピーマンを一緒に炒めても美味しいですよ。 ・最後に味見をして足りない調味料を加えてください。また、お好みで水とき片栗粉を加えてとろみを出してもグッドです(^^)d ・お弁当のおかずにも使えて、なかなか重宝な一品ですよ♪

950(1583)_==天正11年==

>_<あくまでも司空流の「こうかも」年表ですので、誤りがあっても司空は一切の責任はとりません。>_< >_<ご利用に際しては、解説・注意をご確認の上、各人で十分に史実をご確認ください>_<  天正11年(1583)、賤ヶ岳合戦。//前野長康ら、柴田勝家軍の先鋒佐久間盛政の軍勢を破る⇒この武功により前野長康は播磨三木城主となる。  天正11年4月23日、羽柴秀吉が柴田勝家の本拠越前北ノ庄城に攻め落とし、柴田勝家が自害する。  天正11年5月、羽柴秀吉が築上中の大坂城に入城。

厚揚げ豆腐のカリカリ焼き

【今回のレベル(司空の独断)】 ・準備:★☆☆☆☆ ・時間:★★★☆☆(厚揚げ豆腐を焼く時間だけです) ・技術:★☆☆☆☆ 冷蔵庫に、揚げだし豆腐用に厚揚げ豆腐が置いてありました。 賞味期限が近付いていたのですが、揚げだし豆腐ほど手間をかける気力もなかったので、単純に焼いてたべることにしました。 手間がほとんどかからないにも関わらず、なかなか美味な酒の肴になりました。  【準備するもの(3人分くらい)】 ・厚揚げ豆腐・・・2丁 ・しょうが・・・少々 【作り方】 ・厚揚げ豆腐を四分の一にして、グリルで30分くらい焼きます。 ・表面がカリカリになったらできあがり! ・あとは、しょうが醤油でお召し上がりください。 ちょう簡単(^^)/

iTunesとXPERIAとmediaGo(未解決)

iTunesによるiTunesStoreへの接続を復旧し、ようやくiPadで購入・ダウンロードしたミュージックをパソコンにも取り込めるようになりました。さらに、ずーと更新できていなかったiPodも最新の情報を反映することができました。 そうなると次はXPERIAにiTunesのミュージックをダウンロードです。 そこでソニーが提供しているミュージックなどの整理ソフトウェアMediaGoを利用してiTunesの内容をXPERIAに移植できないかネットなどを探索してみました。  ネット上では、皆さん何の苦もなく、iTunesからXPERIAにミュージックを移せているようなのですが、拙者司空のパソコンでは上手く行きません。 もともとiTunesに入っていた著作権なしの楽曲類は問題なくMediaGoにエントリーできるのですが、自分達が購入した楽曲の大部分はMediaGoにエントリーされません。購入した楽曲の中でエントリーできたのは、サラ・ブライトマンのアベ・マリアのみ。AKB48やB'zなど国内のアーティストの楽曲はMediaGoでは全く表示されません。 MediaGoで参照しているライブラリーにはきちんとiTunesのミュージックの保存先が指定されているので、設定的には問題はないはずです。 著作権付の拡張子「.m4d」のファイルは直接MediaGoで読み込むことができないのでしょうか? そうなると、一度、iTunesからCD-ROMに焼いて、そのCD-ROMからXPERIAに移すという作業が必要なのでしょうか?

讃岐高松法然寺の五重塔

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讃岐高松の旧市街南方に仏生山という町があり、そこに法然寺という浄土宗の名刹があります。 正式名は仏生山来迎院法然寺といい、その由来は、建永2年(1207)に、浄土宗の開祖法然上人が75歳で四国 に流された時の住居である小松庄生福寺の遺跡であると言われています。 ここを讃岐高松藩祖で、徳川家康の孫であり、御三家の一つ水戸家の当主光圀の実兄である松平頼重が復興して代々の菩提寺としたものです。 法然寺本堂には、法然上人自作といわれる阿弥陀仏および上人の真影が安置されています。また、上人墓と松平家の墓所を山頂に築いて「般若台」と名づけています。 その法然寺の五重塔が昨年1月に再建されています。 古色を帯びた五重塔というのはよく見かけますが、竣工早々の物を見る機会はなかなかないと思います。五重塔自体の拝観は無料ですので、近郊の方は是非見に行かれては如何でしょうか。 あと法然寺には涅槃像というお釈迦様が横になっている仏像があります。東南アジアの仏教寺院では時々見かけますが、日本では少ないのではないでしょうか。 珍しい涅槃像も必見と言いたいところですが、こちらは拝観料が必要ですのであしからず。 ここ仏生山一帯では、藩主松平公の墓参時の大名行列を模して、大名行列のお祭りが毎年盛大に行われています。 仏生山周辺は藩侯菩提寺法然寺の門前町として栄え、今でも街並みにその名残がいくばくか残っているように感じます。

庶民論

政治が相変わらす迷走していますね。特に消費税増税論は混迷の限りです。 混乱の根本的な原因は政治家の方々の感覚が庶民のそれからかけ離れているからではないかと、最近、特に感じます。 庶民とは誰か? この定義は人によって違います。 「庶民派」や「庶民的」などを看板にしている政治家の方々は、自分を庶民だと思っておられるのかもしれませんが、政治家の方々は世の中で「先生」と呼ばれる特別な存在ですので、「庶民」ではない方が多いのではないでしょうか? 経済力があるとか、超エリートとか、庶民からかけ離れた存在でないと、そもそも選挙に出馬することもできないでしょう。 さて、それでは庶民とは、、、 拙者司空の考える最近の日本の庶民とは、簡単に例えると、 ・価格が大幅に低下した大型液晶テレビを持っている。 ・自分または家族がスマートフォンを持っている、または、スマートフォンにしたいと考えている ・世帯収入はそこそこしかなく、教育費や食費が嵩んで家計を圧迫しているため、常々から節約を心掛けないと生活が成り立たない。 ・しかし、経済的に余裕ができれば、年に1回くらいは旅行や大きな買い物などの贅沢をしたいと思っている。 といった方々であると思います。 まあ、一般的な会社員というのが、こういう状況にあるのではないでしょうか。 自営業者の方々は、拙者司空にはよくわかりません。 会社員は自動車などを自分の税引き後の収入で購入しないといけませんが、自営業者の方は事業用ということにして会社の経費から落とせたり、日常のガソリン代や文具類なども経費にできます。 また、旅行の費用もこれまた福利厚生費ということで、会社の経費から落とすことができるのではないでしょうか。 だから、見かけ上の所得が会社員よりずっと低くても、実質の生活レベルは同じ所得の会社員に比べると、断然いいはずです。 さらに、住宅と会社が同じ場所にあれば、土地と建物も会社持ちにしてしまえば、ローンだって会社払いです。ただし、個人事業者さんは事業が順調にいっていれば、いいのですが、行き詰まってしまうと収入自体が不足するので、仕事に対するプレッシャーたるや、大変な部分はあると思います。 ともあれ、これら庶民のことを考えてくれる政党、政治家はできないのでしょうか? 庶民は現在の我が国の国家財政から考えれば、消費税増

950(1582)_==天正10年==(旧版)

>_<あくまでも司空流の「こうかも」年表ですので、誤りがあっても司空は一切の責任はとりません。>_< >_<ご利用に際しては、解説・注意をご確認の上、各人で十分に史実をご確認ください>_<  天正10年(1582)?月、法華寺の事件//明智光秀が信長の前で「われらも年ごろ骨折った甲斐があって、諏訪郡のうちはみな上様の兵だ」といったことを信長が怒り、詰問。(色々と疑わしい点あり)  天正10年(1582)1月1日、羽柴秀吉、播州勢を連れ安土に滞留。//信長に御祝言上のため。織田信長に豪勢な土産を準備。  天正10年(1582)1月4日、秀吉、播州勢を連れ、安土を発つ。//本拠姫路に戻るため。途中摂津吹田で茶人長谷川宗仁の接待を受け、船中で茶の湯を愉しむ。その日は尼崎で1泊。  天正10年1月(1582)5日、秀吉、姫路に到着。  天正10年1月7日朝、明智光秀、津田宗及・山上宗二と茶会を催す。  天正10年1月15日朝、明智光秀、博多宗室・津田宗及と茶会を催す。  天正10年1月18日朝、明智光秀、津田宗及・銭屋宗納・山上宗二と茶会を催す。  天正10年1月、宇喜多氏が宇喜多直家の喪を発表。  天正10年1月下旬、小早川隆景が備中国境七城の城主を三原城に招く。//織田氏と毛利氏の勢力の最前線。  天正10年1~2月頃、秀吉、堺の商人に中国地方の米の買い占めを命じる。  天正10年2月、明智光秀が武田勝頼に信長に謀反する旨の書状を送る。(甲陽軍鑑より。これは疑わしい。)  天正10年(1582)2月12日、織田信忠が武田勝頼討伐のため岐阜を出陣。  天正10年2月12日、蜂須賀正勝、黒田孝高、3千3百を率いて、備前宇喜多と打ち合わせ児島郡常山城(城主戸川平右衛門)を攻略し、備中の国境に布陣。  天正10年2月、織田信長、長宗我部元親に対して、土佐・阿波二国を安堵し、その他を信長が召し上げる旨を通知//長宗我部元親はこれに怒る。元親は独力により既に四国を大略制覇。  天正10年3月1日、清水宗治、嫡男源三郎に宛て手紙を送る。//同年4/2に秀吉の備中乱入があることを予測した文章がある。  天正10年3月2日、織田信忠率いる織田勢が遠江高遠城を落とす。  天正10年3月5日、織田信長

スイーツマラソンin神戸のスイーツメニュー

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あまり御菓子の名前に詳しくないので、きちんと説明できないですが、どんなお菓子があったか、写真を掲載します。 このお菓子を食べることができるのは、走っているランナーだけで、休憩中のランナーやギャラリーは食べることはできないようになっています。 だから、このエイドステーションがあるのは、周回コースの真ん中ほどで、たすきリレー地点から遠く離れていました。 また、お菓子を置いてある場所のほんのすこし向こう側に給水所があって、水を飲みながらお菓子を食べることができないようになっています。 これはなかなかの工夫で、お菓子を食べ過ぎることがないように、また、主催者側から言えば、お菓子が少なくて済むようにする工夫だと感じます。 総じて美味しかったですよ(^o^)

スイーツマラソンin神戸

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本日はスイーツマラソンin神戸です。 会場は神戸学院大学の六甲アイランドキャンパスです。 キャンパス内に設定された1週1.6kmのコースを周回します。 個人参加の5kmや10kmのコース、42.195kmのリレーマラソンコースなどが設定されています。 我々が参加するリレーマラソンは12時15分スタートでしたので、比較的ゆっくりと家を出て、11時頃に会場に到着しました。  遠来の我々にとっては駐車場が用意されていなかったのは少しショックでしたが、大学の目の前に有料の駐車場があったので、助かりました。ちなみに、駐車場は結構余裕がありました。大部分の方は公共交通機関で来ていたのかもしれません。 当日は、天気予報の通り、あいにくの雨でした。それでも参加者の皆さんはしっかりと集まってました。さらに、天気予報の通り、午後にかけて天候は下り坂!気温は下がるし、雨は降るしで、コンディションは最悪でした。 本部で受け付けを済ませると、記念品として各人にスイーツマラソンのシンボルマーク入りのタンブラーをいただきました。 さて、そこから準備です。 大学の広い講義室が男女別に確保されていて、そこで着替えが出来るようになっていました。さすが都会なので、大部分の方が公共交通機関で会場に来ており、多くの方が着替えをしている雰囲気でした。拙者司空一家は遠路自動車のため、家を出る時点から戦闘体制でした。 12時15分にスタートの号砲! リレーマラソンとシャッフルマラソンのスタートです。 制限時間は17時15分なので、リレーマラソンとしては、かなり緩めの設定でした。これなら、小さな子供達がいても問題なく完走できます。この制限時間の設定は最終的に本当に助かりました。 給水所であるエイドステーションにはスイーツが一杯です。しかも、エイドステーションで待機している女子がみんなランナーを応援してくれます。 みんな、ありがとうございました (^.^) しかも、走っているせいもあり、甘いものが本当に美味しい(^^)/ 子供達も喜んで走っていました。 最後のほうになると、お菓子がゼリービーンズやマーブルチョコなど乾きものばかりになったので、ちと残念です。でも、子供達は最後にたくさん御菓子を貰って、大喜びでした。 また、今回とは別でスイーツの状況写真をブログに掲載します。 ただ

950(1581)_==天正9年==(旧版)

>_<あくまでも司空流の「こうかも」年表ですので、誤りがあっても司空は一切の責任はとりません。>_< >_<ご利用に際しては、解説・注意をご確認の上、各人で十分に史実をご確認ください>_<  天正9年(1581)、毛利軍が備中児島に侵攻。蜂浜(玉野市八浜)合戦、宇喜多勢を破る  天正9年(1581)、宇喜多直家が逝去。  天正9年(1581)1月10日朝、明智光秀、津田宗及・山上宗二と茶会。明智弥平次(秀満)の記載有り(宗及茶湯日記より)//場所は不明。  天正9年1月11日朝、明智光秀、津田宗及・山上宗二と茶会。(1/10にも同様な記載)  天正9年1月15日、播磨三木城主別所長治、羽柴秀吉に降伏を申し入れる。降伏の条件は城主長治と弟友之、叔父吉親の切腹とそれを引き換えにした城兵の助命。//播州三木城落城により周辺の魚住城、高砂城、御着城も前後して陥落。  天正9年1月20日、織田信長、2月の馬揃えのため上洛。宿所は本能寺。  天正9年2月、織田信長、京都で馬揃えを見物。  天正9年4月11日朝、明智光秀、細川忠興(長岡与一郎)の振る舞いにて、茶会。同席は、細川藤孝・里村紹巴・津田宗及・山上宗二・平野屋道是。  天正9年4月12日、細川忠興,明智光秀父子3人と茶会を開く。  天正9年4月15日、明智半左衛門、堅田にて津田宗及と茶会。  天正9年6月25日、秀吉、因州鳥取城攻めのため姫路城を出陣。  天正9年7月12日、秀吉、因州鳥取城(吉川経家)攻めを開始。  天正9年(1581)、吉川元長が、鳥取城救援に向かう。  天正9年10月6日、明智弥平次秀満,丹波天寧寺に書状を与える。  天正9年(1581)、羽柴秀吉、鳥取城攻略。吉川元長は後援に来ていたが、吉川元春の本軍の来援を待つ間に落城。城主吉川経家は自害。  天正9年10月25日、羽柴秀吉が鳥取城を落とす。鳥取城が落城。//秀吉は因州鳥取城を宮部継潤に守らせる。  天正9年11月8日、羽柴秀吉が鳥取城攻略を終え、姫路城に凱旋。⇒直後に織田信長は羽柴秀吉に四国と山陽道攻略を命じ、羽柴秀吉はその後直ちに淡路島攻略に着手。  天正9年、羽柴秀吉、毛利水軍の前線基地である淡路国の由良城と岩屋