950(1582)_==天正10年==(最新版)
>_<あくまでも司空流の年表ですので、誤りがある可能性がございます。>_< >_<ご利用に際しては、各人で十分に史実をご確認ください>_< 天正10年(1582)?月、法華寺の事件//明智光秀が信長の前で「われらも年ごろ骨折った甲斐があって、諏訪郡のうちはみな上様の兵だ」といったことを信長が怒り、詰問。(色々と疑わしい点あり) 天正10年(1582)1月1日、羽柴秀吉、播州勢を連れ安土に滞留。//信長に御祝言上のため。織田信長に豪勢な土産を準備。 天正10年(1582)1月4日、秀吉、播州勢を連れ、安土を発つ。//本拠姫路に戻るため。途中摂津吹田で茶人長谷川宗仁の接待を受け、船中で茶の湯を愉しむ。その日は尼崎で1泊。 天正10年1月(1582)5日、秀吉、姫路に到着。 天正10年1月7日朝、明智光秀、津田宗及・山上宗二と茶会を催す。 天正10年1月15日朝、明智光秀、博多宗室・津田宗及と茶会を催す。 天正10年1月18日朝、明智光秀、津田宗及・銭屋宗納・山上宗二と茶会を催す。 天正10年1月、宇喜多氏が宇喜多直家の喪を発表。 天正10年1月下旬、小早川隆景が備中国境七城の城主を三原城に招く。//織田氏と毛利氏の勢力の最前線。 天正10年1~2月頃、秀吉、堺の商人に中国地方の米の買い占めを命じる。 天正10年2月、明智光秀が武田勝頼に信長に謀反する旨の書状を送る。(甲陽軍鑑より。これは疑わしい。) 天正10年(1582)2月12日、織田信忠が武田勝頼討伐のため岐阜を出陣。 天正10年2月12日、蜂須賀正勝、黒田孝高、3千3百を率いて、備前宇喜多と打ち合わせ児島郡常山城(城主戸川平右衛門)を攻略し、備中の国境に布陣。 天正10年2月、織田信長、長宗我部元親に対して、土佐・阿波二国を安堵し、その他を信長が召し上げる旨を通知//長宗我部元親はこれに怒る。元親は独力により既に四国を大略制覇。 天正10年3月1日、清水宗治、嫡男源三郎に宛て手紙を送る。//同年4/2に秀吉の備中乱入があることを予測した文章がある。 天正10年3月2日、織田信忠率いる織田勢が遠江高遠城を落とす。 天正10年3月5日、織田信長が武田勝頼討伐のため安土を出陣。同年2月に信忠が先発。