950(1573)_==天正1年==(最新版)

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>_<ご利用に際しては、各人で十分に史実をご確認ください>_<


 元亀4年、この年7月28日、元亀から天正に改元。
 元亀4年(1573) ?月、吉川元長が、旧名の元資から元長に名乗りを改める。
 元亀4年(1573) ?月、この頃の伯耆の有力者は南条氏。南条氏は佐々木源氏の庶流で、14世紀頃に南条氏の祖伯耆守貞宗が伯耆河村郡羽衣石に羽衣石城を築城したことに始まる。南北朝/室町期には東伯耆にまで勢力を伸長。羽衣石城から数㌔離れた長和田に城下町を形成。
 元亀4年(1573) ?月、織田信長が羽柴秀吉/武井某に命じ、小早川隆景宛に書状。小早川隆景から因幡/但馬の情勢について報告を受け、近日中に京都に入り、但馬出兵の日限を毛利方に連絡するという内容。⇒この時期、織田信長は伊勢一向一揆の鎮定に当たっていたため実質上但馬出兵は無理だった。
 元亀4年(1573) ?月、山中鹿之助、立原久綱ら、織田信長に接見。>はじめ柴田勝家を通じて織田信長に援助を願った(同年12月12日付け安国寺恵瓊の書状より)とも、明智光秀を頼ったとも>最終的には、明智光秀を頼ることになり、明智光秀の先陣を命じられた>織田信長は尼子氏への援助を約しながら、毛利氏にはこれを断ったと回答。
 元亀4年(1573)?月、宇喜多直家、沼城から石山城に移る。//この頃の直家は天神山城浦上宗景の重臣。亀山城を弟春家に守らせる。
 元亀4年?月、宇喜多、毛利が同盟。
 元亀4年1月、織田信長が、織田掃部を刑部に滞陣中の武田信玄のもとに遣わし、腰を低くしてこれまでの経緯の弁明を行ったが、信玄意に介さず。
 元亀4年1月7日、武田信玄が、織田信長との和睦を仲介した将軍足利義昭に対して、信長との講話を謝絶する旨を回答する。
 元亀4年1月10日、本願寺顕如が、刑部に滞陣する武田信玄宛に、「遠州表に於て徳川敗北の様体、頻りに聞こえ候、珍重之に過ぐ可あらず候」など徳川家康に大勝したことを祝う書状を送る。
 元亀4年1月17日、本願寺顕如が、刑部に滞陣する武田信玄宛に、「大慶此事に候」という書状を送るとともに、遠江・三河・尾張・美濃の四国の門徒も武田勢に加勢して働くだろうと申し伝える。//石山本願寺から先の四カ国に武田勢に味方するよう下知していた。
 元亀4年1月27日、本願寺顕如が、朝倉義景宛に武田信玄勝利や長島門徒らの決起を知らせ、火急の出馬を促す。
 元亀4年1月、上杉謙信が、越中国椎名康胤や一向一揆を討伐するため、越中に入る。//その後、椎名康胤らが降伏し、上杉謙信は富山城に守兵を置いて、越後に帰国するも、3月5日に椎名康胤は再び上杉謙信に背く。
 元亀4年2月、足利義昭、織田信長に反旗を翻す。
 元亀4年2月6日、本願寺顕如が、1月27日に引き続き、朝倉義景宛に、火急の出馬を促す書状を出す。//義景は重い腰を上げ、近江に出陣し小谷城の連峰大嶽に布陣。
 元亀4年2月6日、山城国岩倉の山本・渡辺・磯谷ら、織田信長に背く。
 元亀4年2月10日、三河に進入した武田信玄が、徳川家康方の菅沼定盈が守る野田城(愛知県新城市豊島)を攻略。
 元亀4年2月10日、山城国岩倉の山本・渡辺・磯谷ら、織田信長と戦うため、近郷に在陣。
 元亀4年2月11日、吉田兼見、明智光秀に使者をやり、陣中を見舞う。
 元亀4年、足利義昭,松永久秀・三好義継と和睦。
 元亀4年、織田信長,朝山日乗・島田秀満・村井貞勝の三人を足利義昭の所にやり,人質と誓紙を差し出させて和睦を図ろうとするも,足利義昭がこれを断る。
 元亀4年2月、武田信玄が、病が進行したため、理由を伏せて、上洛の途次から甲府に向け退却。
 元亀4年2月13日、本願寺顕如が、近江堅田の慈敬寺に対して、浅井勢とともに合戦に出てそれらの武功比類ないと褒め、翌日、忠節の輩の名を示せと要求。
 元亀4年2月14日、織田軍が石山本願寺/今堅田城を攻撃。
 元亀4年2月22日、浅井長政,武田家家臣穴山信君(梅雪斎)に『信玄が尾張・美濃へ発行するよう頼む。義昭は兵を挙げた。義昭の信玄への内書を差し上げる。滋賀郡は此方の手に属した。義景も出馬を決定した。』旨の書状を送る。
 元亀4年2月22日、織田信長,足利義昭に十七ヶ条の意見書を送る。
 元亀4年2月24日、織田信長,柴田勝家・明智光秀・蜂屋頼孝・丹羽長秀の4人に命じて,近江石山を攻める。//近江石山は足利義昭が光浄院暹慶や磯貝(磯谷)新佐衛門に命じて,伊賀・甲賀のものにより作らせた砦。また,今堅田の砦にも人数を入れる。
 元亀4年2月26日、柴田勝家・明智光秀・蜂屋頼隆・丹羽長秀,近江石山の砦を落とす。
 元亀4年2月26日、将軍足利義昭が、武田勢が徳川勢に三方ヶ原で大勝したとの報を受け、武田信玄の発病を知らぬまま、三井寺の暹慶に挙兵させ、近江の門徒とともに石山(大津市石山寺町)や今堅田(大津市今堅田町)に割拠。
 元亀4年2月、織田信長が、将軍足利義昭に対して、人質を差し出す旨の誓書を出すので和睦を求めたが、足利義昭はこれを拒否。//その間に、柴田勝家や明智光秀が西近江を掃討。
 元亀4年2月26日、浅井長政,勝興寺に宛てて,『足利義昭が13日に朝倉義景,浅井長政に内書を与えたといい,甲州勢が東美濃に乱入し,義景も当表に進発を決定した。本願寺と謙信との間に和議が持ち上がっているというが,だまされるな。信玄と相談せよ』との書状を与える。
 元亀4年2月27日、三好三人衆と松永久秀勢が、兼ねてより攻撃していた摂津中島城を攻略。//城将細川昭元は堺に逃れる。
 元亀4年2月28日、織田信長,佐久間信盛・羽柴秀吉・明智光秀ら5千の兵を上京させて,義昭を取り巻く連中を成敗しようとする。(『尋憲記』による)
 元亀4年2月29日、明智光秀、近江今堅田を攻め、これを落とす。//このとき、千秋輝季が戦死。明智光秀は囲船をこしらえ,舟手の方を東から西に向かって攻め,丹羽長秀・蜂屋頼隆は辰巳(南東)の角から戌亥(北西)へ向かって攻める(同年4月にも同様な記録)
 元亀4年?月、柴田勝家・明智光秀・蜂屋頼隆・丹羽長秀,足利義昭の乱による近江の戦を平定。明智光秀は近江坂本に在城し,勝家・頼隆・長秀は帰陣。
 元亀4年3月5日、越中国椎名康胤が、再び上杉謙信に背く。
 元亀4年3月5日、上杉謙信が、越中国椎名康胤の再度の謀反を聞き、同日中に越中に入って富山城を攻める。
 元亀4年3月6日、将軍足利義昭が、兄義輝の仇である三好三人衆や松永久秀と同盟。
 元亀4年3月6日、足利義昭,松永久秀宛に『京都へ上ってくるそうだがめでたい。足利家のことについて奔走を頼む』旨の内書を送る。(『尋憲記』による)
 元亀4年3月6日、松永久秀,河内国津田城まで赴く。
 元亀4年3月7日、将軍足利義昭が、織田信長との手切れを表明し、朝倉、浅井、小早川隆景、備前の浦上宗景らに内書を発し参陣を要請。
 元亀4年3月8日、織田信長が足利義昭に調停の使者として送っていた島田秀満が京都を去る。//織田信長,足利義昭,和睦交渉決裂。
 元亀4年3月10日、荒木村重が、高山友照・右近父子からの救援の要請を受け、高槻城の和田惟長(惟政の子)を追い、村重は茨木城へ、高山父子は高槻城へ入る。//高槻城の守将和田惟長が織田信長を裏切り、足利義昭に通じようとして高山父子の謀殺を図ったため、高山父子は敵だった荒木村重と通じて惟長を高槻城から追い出した。
 元亀4年3月29日、細川藤孝・荒木村重,織田信長の上洛を逢坂まで出迎える。この際,織田信長が村重に大郷の腰物,藤孝に名物の脇差(貞宗の脇差)を与える。
 元亀4年3月29日、織田信長、足利義昭の平定のため岐阜から上洛し、知恩院に宿泊。丹羽長秀は聖護院に、明智光秀は鴨付近に陣取り。
 元亀4年3月29日、織田信長が上京を焼き討ち。(4/4にも同様な記録)
 元亀4年3月29日、織田信長が上洛。//信長はこの時点までに武田信玄が病であるとの情報を入手していたものと推定。
 元亀4年3月30日、足利義昭が兵を出して,付近にある村井貞勝の屋敷を囲む。
 元亀4年3月30日、吉田兼見,明智光秀に趣向を贈り,陣中を見舞う。
 元亀4年(1573)4月、天正に改元。
 天正1年4月2日、織田信長,禁裏から女房奉書と金襴一巻とを下賜される。//万里小路惟房が使いとして吉田兼見のところを訪れ,兼見が信長本陣に至って,村井貞勝によって信長に披露された。
 天正1年4月、織田信長が琵琶湖畔の近江佐和山において大船を作ることを命じる。足利義昭が叛旗をひるがえした場合の備え。足利義昭の謀反を聞き、同年7月9日にこの大船を利用して上洛して迅速に対応(2/29にも同様な記録)
 天正1年4月4日、織田信長,等持院に陣して,足利義昭を二条城に囲む。
 天正1年4月4日、織田信長、京都市中を焼き討ち。(3/29にも同様な記録)
 天正1年4月4日、明智光秀・細川藤孝を大将として,下賀茂から洛中を焼き立てる。(『北野拾葉』より)
 天正1年4月4日、正親町天皇,関白二条晴良らを織田信長の所に送り,和睦を諭す。(『兼見卿記』より)
 天正1年4月4日、織田信長,勅使を受けて,織田信広・佐久間信盛・細川藤孝らを足利義昭のところに遣わす。(『兼見卿記』より)
 天正1年4月7日、正親町天皇,関白二条晴良らを足利義昭と織田信長の所に送り,和睦を諭す。(『御湯殿日記』より)
 天正1年4月8日、織田信長,京都を発して,岐阜に帰る。
 元亀4年4月11日、織田信長が、京から岐阜に到着。
 元亀4年4月12日、武田信玄が信濃駒場(長野県下伊那郡阿智村駒場)で逝去。享年53歳。//3年間喪を秘することを遺言。
 元亀4年4月12日、武田信玄、信濃駒場で逝去。
 元亀4年4月21日、上杉謙信が、越中国椎名康胤討伐を終え、春日山城に帰還。//椎名康胤の処分は不明。
 元亀4年4月26日、ルイスフロイス,京都から『総司令官柴田殿,坂本の守将明智,勝竜寺城の細川兵部大輔,茨木の守将荒木信濃などがところどころを焼いた』旨の書状を出す。(『日本耶蘇会年報』より)
 元亀4年5月14日、上杉謙信が、この頃椎名康胤の浪人が海岸を荒らし回っているのを知り、越中国守将河隅忠清、庄田隼人に越中との国境の海岸警備を厳重にするよう指示。また、堺・宮崎(富山県下新川郡朝日町宮崎)、市振(新潟県西頸城郡青海町)の地下人に槍・小旗を用意させ、敵船を見つけた場合には襲撃するよう命じる。//この際、上杉謙信は庄田隼人に鉄砲15挺を用意させる。
 元亀4年5月23日、本願寺顕如が、足利義昭側近の一色藤長に、「天下静謐之儀は御下知在る可く候哉、相応之儀は疎意有る可からず之通り披露有る可く候」との書状を送る。
 元亀4年5月24日、明智光秀で、西教寺に寄進状を提出。
 元亀4年6月13日、足利義昭,毛利輝元の将吉川元春に書状を与えて,『信長と断交したから諸城の守備を厳重にするように申しつけた。兵糧を馳走してくれ』と申し入れる。
 元亀4年6月21日、尼子勝久/山中鹿之助ら因幡国に侵攻し、武田高信と戦う。以後、因幡国を転戦。
 元亀4年6月28日、明智光秀、坂本城にあって、吉田兼見・里村昌叱(しょうしつ)と連歌興行を催す。
 元亀4年7月、上杉謙信が、越中国の椎名康胤や神保長職を討伐して、越中国を平定する。
 元亀4年7月、上杉輝虎が、越中の椎名康胤らを帰服させ、門徒衆が抵抗する中、加賀へ向かう。
 元亀4年7月3日、足利義昭,三淵藤英に二条城を守らせ,槇島に移り,反信長の態度を明らかにする。//三淵藤英は三淵晴賢の嫡男で、細川藤孝の異母兄にあたる。
 元亀4年7月9日、織田信長、上洛。琵琶湖を大船利用。足利義昭の謀反を聞いて上洛。
 元亀4年7月18日、織田信長、足利義昭を槙島城に攻める。
 元亀4年7月、足利義昭、信長に子供を質として開城し、一旦枇杷荘に退き、ついで三好義継の河内若江城に入る。
 元亀4年7月、織田信長が足利義昭の籠もる山城槇島城を落とし、足利義昭を追放。その後足利義昭は流浪。
 元亀4年7月、室町幕府滅亡。
 元亀4年(1573)7月頃、吉川元春が但馬の山名祐豊/奈佐日本之助、因幡の山名豊国らを討伐するため富田城を進発し、八橋を経て因幡気高郡篠尾に着陣。>山名豊国らは吉川元春にくだり、吉川元春は富田城に帰還
 元亀4年(1573)7月頃、尼子勝久らが因幡鳥取城下に出陣。>この頃毛利方の吉川元春は但馬/因幡攻略を終え、富田城に帰還。
 元亀4年7月22日、織田信長,近江の木戸・田中両城を落とし,これを明智光秀に宛行う。
 元亀4年7月、織田信長、天正一年四月に足利義昭との戦いの際に京都市中を焼き払ったことを気の毒に思い、地子銭・諸役を免除した。//村井定勝発信書状。
 元亀4年7月22日、織田信長、足利義昭攻略を終え、一旦、京都を離れ、帰国。
 元亀4年7月28日、元亀から天正に改元。
 天正1年8月1日、足利義昭が、若江から吉川元春宛に、毛利勢の出陣を要請する書状を出す。
 天正1年8月1日、織田信長が、近江の浅井・朝倉勢を討伐するため、岐阜を出陣。//8月10日に近江に着陣?
 天正1年8月1日、因幡鳥取城主武田高信、山中鹿之助を甑山(コシキヤマ)城に攻めて敗北。甑山城は山頂を切り開き、塀櫓を構え、人数を籠め兵糧・弓鉄砲・玉薬等丈夫に用意していた模様。敗退した武田高信は鳥取城に籠城。「たのも崩れ」と呼ばれる。
 天正1年8月、尼子勝久/山中鹿之助ら、武田高信の籠もる鳥取城を攻撃。するが、容易には落ちず。
 天正1年8月10日、上杉謙信が、加賀・越中国境の朝日山城(別称:金沢城・一本木城、石川県金沢市加賀朝日町)を攻め立てる。//籠城した一向一揆は鉄砲などで激しく応戦し、上杉方に多数の死傷者が出た。//上杉方の柿崎源三は鉄砲で股を撃ち抜かれる。16歳の吉江与次(景泰)は謙信の制止を聞かず、弾丸の飛び交う中を夕刊に奮戦した。
 天正1年8月、北条氏政が、越中国出陣中の上杉謙信の隙を狙って、上野国に侵入。//関東諸将から、上杉謙信に多数の救援要請。
 天正1年8月10日、織田信長、浅井氏討伐のため、近江出陣。
 天正1年8月10日、上杉輝虎が、加賀朝日山(金沢市加賀朝日町)の門徒の砦を攻撃。
 天正1年8月12日、織田信長が、風雨に乗じて近江大嶽の朝倉勢を強襲する。//朝倉義景は潰走。その後、織田信長は朝倉勢を追撃し、敦賀から木ノ芽峠を越えて越前に乱入。//越前門徒衆が織田勢に抵抗したが、これを指揮した下間述頼が8月15日に討死。
 天正1年8月13日、織田信長、朝倉軍を追撃。
 天正1年8月15日、朝倉義景が、近江から敗走し、越前一乗谷に戻る。//一乗谷では支えきれない為、従弟景鏡の勧めで大野に退く。
 天正1年8月17日、織田信長率いる織田軍が木ノ目峠を越えて越前に乱入。朝倉義景は本拠である越前一乗ヶ谷城から大野郡山田荘の賢松寺に逃れる。
 天正1年8月18日、織田信長が、越前府中の竜門寺(福井県武生市府中)に到着。//一乗谷に火を放つ// 抵抗する越前門徒衆を捕らえ、毎日100人以上の首をはねる。
 天正1年8月19日、尼子勝久/山中鹿之助ら、因幡国用ヶ瀬城を攻める。
 天正1年8月20日、朝倉義景が一族の朝倉景鏡により切腹させられる。
 天正1年8月20日、織田信長が、上杉輝虎宛に、加賀門徒と和睦した事を知らせる書状を発信。
 天正1年8月21日、上杉輝虎が、加賀門徒と和睦し、越後への帰国の途につく。//輝虎は、加賀朝日山の門徒の砦を攻めあぐねる中、関東で騒乱が起こっていたため帰国。
 天正1年8月21日、織田信長が朝倉氏討伐を完了。朝倉氏は滅亡。
 天正1年8月21日、越中国から帰国し、関東に出陣する準備を進める。
 天正1年8月26日、織田信長が越前から近江虎御前山へ引き上げる。//前波長俊を越前の守護代として,また,北ノ庄に津田元秀・木下祐久・明智光秀の三人を奉行として残しおく。
 天正1年8月26日、羽柴秀吉が近江小谷城の京極丸(?)を攻める。
 天正1年8月27日、織田信長が越前から近江に引き上げ,浅井長政を小谷城に攻める。
 天正1年8月27日、浅井久政が、織田信長・木下秀吉に攻められ、小谷城の出丸(京極丸?)で自害。
 天正1年8月28日、浅井長政が、小谷城落城を覚悟し、妻お市と三人の娘(茶々、初、江)を織田信長に送り届ける。
 天正1年8月、浅井長政が小谷城で討死。享年29歳。
 天正1年、木下秀吉が小谷城主となり、この頃から羽柴姓を名乗る。この時、37歳。
 天正1年8月29日、浅井長政,切腹。//その後,近江北部の浅井氏の旧領を羽柴秀吉に与え,秀吉は長浜に築城。(9/1との記述も)
 天正1年8月末頃、毛利輝元、羽柴秀吉に宛て、『足利義昭が京都に帰れるように、秀吉から信長に取りなして欲しい』との書状を送る。//9/7に返書あり。
 天正1年9月1日、織田信長が小谷城を落とす。浅井氏は滅亡。(8/29との記述も)
 天正1年、羽柴秀吉が織田信長から江北3郡(坂田郡、浅井郡、伊香郡)を宛行われる。
 天正1年9月5日、明智光秀・滝川一益と連署で,北ノ庄の軽物座の諸役以下免除の書状を発行。
 天正1年9月7日、羽柴秀吉、毛利輝元宛てに『信長が同心したから義昭の近臣上野秀政・真木島昭光に毛利氏の使者柳沢元政を添えて、上(の)ばすように、この方のことは自分が運動する。なお、朝山日乗から手紙を差し上げる』旨の書状を送る。//8月末頃の書状の返書。
 天正1年9月7日、前波長俊,明智光秀・丹羽長秀に宛てて,大野郡宝慶寺の寺領安堵の織田信長の朱印状が欲しいので取りはからって欲しい旨の書状を出す。
 天正1年9月8日、織田信長が、毛利輝元に対して、浅井氏を討伐したことを伝える。
 天正1年9月8日、羽柴秀吉や明智光秀の兵が、越前から逃げる門徒を追い、南加賀の江沼郡・能美郡に侵入。//門徒衆は上杉家中の河田長親に上杉輝虎直々の出陣を要請。
 天正1年9月、尼子勢、因幡鳥取城を攻略、落城。城主武田高信は城兵を落としたうえで、高島郡○尾城に移ったと伝えられる。>山名豊国を援助か?
 天正1年9月中旬、羽柴秀吉、江北3郡(坂田郡、浅井郡、伊香郡)の検地を行う。//計12万2千3百石。検地奉行立木伝助通治、杉原七郎左衛門家次、一柳直次。
 天正1年9月20日、明智光秀・滝川一益,連署で三ヵ村の軽物商人中に宛てて,軽物座長を信長から橘屋三郎右衛門尉に命じたことを通達。
 天正1年9月21日、徳川家康が、三河長篠城(愛知県南設楽郡鳳来町長篠)を攻略。//武田方から徳川方に寝返った奥平信昌を城主とする。
 天正1年9月25日、織田信長が、長島一向一揆討伐のため、出陣。
 天正1年9月26日、羽柴秀吉、伊勢国西別所の一揆を攻める。
 天正1年9月27日、織田信長が、西別所(三重県桑名市西別所)を攻略し、長島に迫る。//北伊勢の国侍が次々と織田方に投降//織田信長は、矢田(桑名市矢田)に砦を築き、滝川一益を入れる。
 天正1年9月、明智光秀・滝川一益,連署で越前の地侍や社寺に所領安堵状を発行。
 天正1年10月、毛利勢吉川元春、元資/元長以下の山陰主力軍を率い、伯耆八橋(東伯町八橋)に出陣し、ついで因幡篠尾に進み、山名豊国/山名佑豊/奈佐日本助らが降伏し、因幡/但馬の尼子勢力は消滅。
 天正1年10月、吉川元春/元長父子、7千余の兵で伯耆国から因幡国に進攻。因幡鳥取城主山名豊国は戦わず降伏。隣国但馬国の山名祐豊をはじめ但馬衆の多数も毛利家に降伏。
 天正1年10月12日、羽柴秀吉、小早川隆景に浅井、朝倉家が滅亡したことを報告。
 天正1年11月22日、明智光秀、実相院に宛てて、寺領安堵の書状を発行。
 天正1年10月25日、伊勢長島周辺の門徒衆が、暴風雨に乗じて養老山中の多芸山(タキサン)で織田勢を待ち伏せし、散々に打ち破る。//織田信長は26日に岐阜に逃げ帰る。
 天正1年10月、織田信長が、浄土真宗の高田専修寺派の僧侶に制札を与えて保護を約束する。//高田専修寺派は、石山本願寺と張り合っていた。
 天正1年10月28日、織田信長が、千利休を茶頭に任ずる。
 天正1年11月9日、前将軍足利義昭が、身を寄せていた河内若江城の三好義継のもとを去って、堺へ移る。//義昭は、毛利輝元を頼ることを望んだが、輝元は安国寺恵瓊をし遣わし、義昭を慰留した。//逆に、織田信長は、羽柴秀吉と朝山日乗を義昭のもとに遣わし、京へ戻ることを進めた?
 天正1年11月、織田信長と石山本願寺が一時的に和睦し、石山本願寺が織田信長に名物「白天目」の茶碗を贈る。
 天正1年11月18日、織田信長が、石山本願寺宛に「度々の御懇信、快然之至りに候。随いて条目の通り、聊かも疎意無く候」との和睦の礼状を送る。
 天正1年11月23日、織田信長が、京二条の妙覚寺で茶会を開き、石山本願寺から送られた「白天目」の茶碗を披露する。//津田宗久が茶を点てる。//天正1年11月参照。
 天正1年11月26日、三好義継が、河内若江城で佐久間信盛らに織田勢に攻められ、自害。享年25歳。//柴田勝家が、長曽根(堺市長曽根町)の善竜寺や大ケ塚の善念寺に制札を立てる。

 天正1年12月、足利義昭が、堺から紀伊由良の興国寺(和歌山県日高郡由良町門前)に移る。
 天正1年12月12日、安国寺恵瓊、宇喜多直家と面談、来春の備前広瀬への侵攻を相談。
 天正1年12月12日、安国寺恵瓊、国許の毛利家家臣井上春忠らに、秀吉と信長の将来を予言する書状を送る。//この際、羽柴秀吉が来年2月に但馬に入るとの情報も流す。
 天正1年12月16日、明智光秀、村井貞勝と連署で、入明僧策彦周良に宛てて、妙智院の寺領安堵の書状を発行。
 天正1年12月26日、松永久秀が多聞山城を開城し、織田信長に降伏・帰参。//元亀3年~天正1年にかけて松永久秀・三好義継は織田信長に対して反乱。
 天正1年冬頃、山中鹿之助ら、織田信長の援助を受け、因幡国進出を狙う。
 天正1年12月、尼子勝久、山中鹿之助/立原久綱/神西三郎左衛門/森脇久ヨリ/横道兄弟/牛尾大炊助/亀井茲矩らを率い、京都を発って、但馬に向かう。
 天正1年12月11日、毛利勢、因幡気多郡鹿野城の在番を野村士悦に命じる。鹿野城は因幡/伯耆の国境に存在する重要拠点。
 天正1年12月、吉川元春ら毛利勢、因幡平定を完了し、出雲富田城へ帰還のため因幡を出発。
 天正1年12月、足利義昭、朝山日乗、秀吉、安国寺恵瓊の四人が堺の松井友閑の屋敷で足利義昭の信長に対する謀反調停のため会談。

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