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ご飯のお供に、大根菜とひき肉の炒めもの

畑の大根を間引いたときに出た大根菜で、ご飯のお供を調理しました。お好みのピリ辛度にすれば、尚更、ご飯が進みます(^^)/ 【用意したもの】 (小さめのどんぶりい1杯分くらい) ・大根菜:小なら6-7束、大なら1束 ・ひき肉:200gくらい ・七味唐辛子:お好み量 【レベル】 ・準備:★★☆☆☆(大根菜をざく切りあるいはみじん切りにする時間(^^)/) ・時間:★★★★☆(水分を飛ばした方が美味しいので炒める時間が少し長めでーす(^^)/) ・技術:★★☆☆☆(切って、味を付けて、炒めるだけなので、特段の技術は不要でーす(^^)/) 【作り方】 ・大根菜は水で洗って土を落とします。 ・大根菜をざく切りからみじん切りくらいに切ります。 ・フライパンに油をしき、ひき肉を炒めます。 ・ひき肉に火が通ったら、大根菜を投入し、塩コショウ適量、醤油・日本酒少々、七味唐辛子お好み量を入れて、味を整えます。 ・中火〜弱火で水分がなくなるまで炒めます。(水分を残してもよいですが、ご飯と一緒に食べるときに汁気が移るので、私は水分がなくなるまで炒める派です!) 写真を撮るのを忘れたー(>_<") 今度作った時に撮影しまーす!

富士山!

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昨日、東京出張のJALの機内から冬の富士山が見えました。 B737-800の翼の向こうに、雲海に浮かぶ富士山の姿が美しい。 完璧なショットではないですねぇ…。

950(1581)_==天正9年==(最新版)

>_<あくまでも司空流の年表ですので、誤りがある可能性がございます。>_< >_<ご利用に際しては、各人で十分に史実をご確認ください>_<  天正9年(1581)、毛利軍が備中児島に侵攻。蜂浜(玉野市八浜)合戦、宇喜多勢を破る  天正9年(1581)、宇喜多直家が岡山城内で逝去。享年53歳。死は一年間秘せられる。  天正9年(1581)1月10日朝、明智光秀、津田宗及・山上宗二と茶会。明智弥平次(秀満)の記載有り(宗及茶湯日記より)//場所は不明。  天正9年1月11日朝、明智光秀、津田宗及・山上宗二と茶会。(1/10にも同様な記載)  天正9年1月15日、播磨三木城主別所長治、羽柴秀吉に降伏を申し入れる。降伏の条件は城主長治と弟友之、叔父吉親の切腹とそれを引き換えにした城兵の助命。//播州三木城落城により周辺の魚住城、高砂城、御着城も前後して陥落。  天正9年1月20日、織田信長、2月の馬揃えのため上洛。宿所は本能寺。  天正9年2月、織田信長、京都で馬揃えを見物。  天正9年4月11日朝、明智光秀、細川忠興(長岡与一郎)の振る舞いにて、茶会。同席は、細川藤孝・里村紹巴・津田宗及・山上宗二・平野屋道是。  天正9年4月12日、細川忠興,明智光秀父子3人と茶会を開く。  天正9年4月15日、明智半左衛門、堅田にて津田宗及と茶会。  天正9年6月25日、秀吉、因州鳥取城攻めのため姫路城を出陣。  天正9年7月12日、秀吉、因州鳥取城(吉川経家)攻めを開始。  天正9年(1581)??月、吉川元長が、鳥取城救援に向かう。  天正9年(1581)??月、越後新発田城(新発田市大手町)城主新発田重家が御館の乱の恩賞に不満を持ち、織田信長に内通し、上杉景勝に背く。  天正9年10月6日、明智弥平次秀満,丹波天寧寺に書状を与える。  天正9年(1581)、羽柴秀吉、鳥取城攻略。吉川元長は後援に来ていたが、吉川元春の本軍の来援を待つ間に落城。城主吉川経家は自害。  天正9年10月25日、羽柴秀吉が鳥取城を落とす。鳥取城が落城。//秀吉は因州鳥取城を宮部継潤に守らせる。  天正9年11月8日、羽柴秀吉が鳥取城攻略を終え、姫路城に凱旋。⇒直後に織田信長は羽柴秀吉に四国と山陽道攻略を命じ、羽柴秀吉

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一昨日2/8、雪がかなり積もりました。 昨日の朝2/9もまだ雪が残っていました。 前日走れなかったこともあり、少し腰が痛かったのですが、無理をして10kmほどランしてみました。 それが、今朝になって本格的に腰痛が…。 やはり、無理をしてはいけないのですね。