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峡の劔:第八章 暗夜行(3)

 二人は部屋の障子を軽打する音で覚醒する。  障子が開き、重治が入室する。 「遠路、貴重な報せを届けてくれた。慌ただしいことだが、次は播磨に下って貰いたい。」  重治は結論を先に述べて、背景の解説を始めた。  信長は、まず久秀の翻意を慫慂する。しかし、久秀がそれを受け入れるとは考えがたい。そうなれば、必定、信長は短期に事態の収束を図るため、信貴山城討伐の大軍を催す。  秀吉は柴田勝家の援軍として北陸に出陣しているが、秀吉と重治は、 ―甕割り柴田は籠城など守勢の場面で大いに力量を発揮するが、野戦はお世辞にも巧者とは言えぬ。 と評し、その野戦の相手が軍神上杉謙信となれば、敗北は必至と値踏みする。  中国地方に視線を移すと、毛利氏が久秀の謀叛を契機にして織田勢力との境界付近に位置する播磨や伯耆などの国人衆に硬軟織り混ぜた激しい揺さぶりを掛けるはずであり、織田家中で山陽道の申し次を自認する秀吉が北陸で拱手していては織田氏に靡然する国人衆に大きな不安が広がりかねない。さらに、織田勢が北陸で兵力を大きく毀損すれば、中国地方における織田氏の信用は下落し、秀吉の求心力も低下する。  重治は播磨一帯の動揺が増幅しないよう、秀吉本人あるいは羽柴家の然るべき立場の者が播磨に下向する必要を説いた上で、織田氏と毛利氏を天秤に掛ける播磨国人衆について事前の情勢探索を清太に指示し、特に黒田官兵衛孝高の名前を挙げ、彼の観測と展望を入念に確認するよう付け加える。  黒田孝高は播磨の一勢力に過ぎない小寺氏の家老でありながら、播磨の最大勢力である別所氏をはじめ複数の播磨国人衆を説いて織田方に引き入れた智謀の人である。一方で、 「織田家中には孝高を口舌の徒、縦横家の類いなどと陰口し、信を置けぬと酷評する者達も少なくない。」 と重治は語った。  清太と伝輔は重治と別れて、再び騎上の人となり、夕刻、長浜に到着して、伝輔の案内で主人不在の竹中屋敷に宿をとる。翌朝、二人は湖上を帆走して坂本で下船し、さらに騎走して大原に戻る。 「お疲れ様でございます。仕度が出来次第、夕餉にいたしますので、それまで暫くお休みください。よしのさんももうすぐ戻って参ります。」  出迎えた於彩の言葉の末尾に、清太は鼓動の早まりを感じつつ、離れ屋に入って、伝輔とともに畳の上に寝転がり、疲労の蓄積した身体を休め

2019年1月12日の京都伏見周辺散策ラン

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先日、京都伏見に宿泊した時に、伏見から東福寺、六波羅、さらに、建仁寺周辺を走りました。東福寺以外はおそらく初見でした。 伏見稲荷の正面大鳥居です。 堂々としていて風格を感じます。 同じく大鳥居です。たくさんの参詣者で賑わっています。 正月三箇日は想像を絶する混雑なのでしょう。 千本鳥居です。松の内なので参詣者が多数! 上ってみたかったのですが、時間が…。 東福寺。奈良の東大寺と興福寺の隆盛を引き継ぐ意味で東、福、寺? 六波羅蜜寺の由緒です。 六波羅蜜寺、想像していたよりもコンパクト。 建仁寺の楼門です。 龍谷大学です。

峡の劔:第八章 暗夜行(2)

 清太は伝輔を先導にして馬に乗り、越前北之庄へ向かう。 ―大原の嘉平屋敷に立ち寄って、最新の情勢を頭に入れておきたい。  そう考えた清太の脳裏に、一瞬、よしのの面影がよぎり、鼓動が微かに高鳴る。しかし、疾駆する馬の揺動がそれをすぐに掻き消す。  清太達は陽の高いうちに大原に着くと、於彩が入れた冷たい焙じ茶を旅装のまま一気に飲み干し、井戸水に浸した手拭いで顔と手足に付着した砂埃と汗を拭き取る。その間に、於彩が屋敷を出て、嘉平を畑から呼び戻す。  清太は離れ屋にある縁側に腰を下ろして、嘉平から直近の情勢を聞く。 「既に織田勢の先陣は越前北之庄を進発し、能登七尾城の救援に向かったと聞きます。織田勢と上杉勢の衝突は間近でしょう。」  嘉平から北陸方面を中心に情勢を一通り聴取した清太は、自身の認識と事実の間に大きな乖離がないことを確認した。逆に言えば、 ―北陸では久秀の決起を促すような材料は見当たらない。 ということになる。  清太は嘉平との面談を終えると、乗馬を嘉平に預け、旅装を解くことなく、伝輔とともに慌ただしく大原を出立する。 ―夜道は騎行よりも脚走がよい。  二人は人影の消えた洛北街道を自分の脚で駆ける。清太の前方にはまだ円形に近い十八夜月に照らされた伝輔の背中が白く浮かぶ。二人は近江大津を経て、琵琶湖東岸の北国街道を北上し、深更を過ぎて比叡の山並みに月が沈んだあとも、夜空に明滅する星々だけを頼りに、速力を落とさず、超人的な体力で漆黒の夜道を馳駆する。  未明、二人の前方、朝靄の向こう側に薄墨で刷いたように滲む北之庄城の輪郭とその周囲に揺らぎを含みつつ点在する篝火が浮かぶ。北陸への出陣を命じられ、北之庄城下に参集した織田軍の屯営である。屯営と言っても、敵兵と直接接していないため、遠目で見ても灯火の勢いに強い緊張は感じられない。 「今からでも侵入できぬことはないが…。」  清太は伝輔の意見を求める。 「不測の事態が起こらぬとは言えません。夜明けも近いので、ここで一旦休止して、明朝、改めて出立しては如何でしょうか。」  伝輔は冷静に自分達の疲労を計量して、方途を示す。日頃から重治の薫陶を受けている伝輔の判断には無理がない。甲丞を継承する立場にある清太にとって、伝輔の思考方法には見習うべき点が多い。  二人は郊外にある小さな廃寺の破れかけ

玉ねぎ、ニンニク、大根、スナップえんどう、ワケギ、水菜

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このところ厳しい寒さが続いています。 そんな中でも、わが家の家庭菜園では、玉ねぎ、ニンニク、大根、スナップえんどう、ワケギ、水菜が元気に育っています。大根の成長が遅いので、追い肥を実施、合わせて、ニンニクとワケギにも施肥しました。 そういえば、ワケギも細いままです。 ニンニクは順調だと思われます。 さらに、春に向けて部分的に土作り。落ち葉を堆肥化したものと、石灰をまき、管理機で耕耘しました。 先週は特に寒さが厳しく、畑一面に霜が降り、散水ホースが凍結していました。(最後の写真) 春に向けて土作り! 大根、玉ねぎ、スナップえんどう ニンニク、玉ねぎ、水菜 以下、一面霜が降りた畑の様子!

岩清水八幡宮とその周辺②

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昔、ある小説(播磨灘物語?)で山崎の合戦のくだりを読みながら、「なぜ、山崎を迂回する選択肢がないのか」と悩んだことがあるが、喉元を過ぎて調べるのを失念していました。 山崎の地形をよく知っている人からすると、愚問中の愚問になるのかもしれませんが、わたしは現地に立ってみて、はじめて理解できました。 男山の南から西にかけては広々とした平野が広がっており、兵の移動に全く問題はありません。 ただ、今の山崎周辺の状況を見ると、そこかしこに橋梁が架かっています。名神高速、京滋バイパス、京阪電鉄などなど数は数えませんでしたが、橋梁の百貨店のような様相です。 橋梁のない昔のことを相続すれば、上洛の途上で山崎と男山を越えると、木津川、宇治川、桂川の三つの河川を渡河しなければならないということでしょうか。しかも、堤防がなかった時代は、山崎と男山に挟まれた三河川合流域は一面の沼沢だったと思われます。 このため、京都を出撃する側も、襲撃する側も、必然的に山崎の天王山の南麓あたりを通ることになるのでしょうか。 さて、男山を離れて、駐車場に戻る途中に、木津川と宇治川を隔てる背割り堤の付け根辺りに設けられた淀川三川合流域さくらであい館の展望台に立ち寄りました。 360度、周辺が一望できる展望台です。 背割り堤にはたくさんの桜が植えられており、春になれば美しいことでしょう。 桜はさておき、三川合流域という珍しい地形を眺望するという施設を作るという発想に大感謝です。 一枚目は展望台の遠景、以降は展望台からの360度の眺望です。

石清水八幡宮とその周辺①

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長らく参詣を果たせていなかった源氏の氏神八幡宮の代表格「石清水八幡宮」へ。 1月13日だったので、まだまだお年始詣でらしきお飾り、破魔矢を持つ人々で賑わっていました。 石清水八幡宮が鎮座する男山から木津川、宇治川、桂川の三川合流地点、さらに大山崎、そして、天王山を含む地点は西国から京都に入る表玄関であり、羽柴秀吉が中国大返しで明智光秀を撃破した山崎合戦をはじめ戦国時代から要衝でした。 この地域、学生時代から名神高速に乗って、よく間弱往来しており、当時の渋滞の名所「天王山トンネル」の表示看板を見るたびに、ここが山崎合戦で勝利を分けた天王山と思いを馳せながらハンドルを握っていました。しかし、直に地形を見る機会を得られぬまま月日を重ね、今日ついに直接対面することとなりました。 京都市内から真正面に天王山を含む山塊に向かって進み、徐々に進路を南に変えていくと、前方やや左手に見える小さな丘陵が男山です。 桂川、宇治川、木津川の順に渡河し、京阪電鉄の踏切を越えれば、大きな鳥居が視界に飛び込みます。 駐車場を探しましたが、年始詣での参拝客で溢れかえり、少し離れましたが、宇治川と木津川を隔てる背割り堤にある淀川三川合流域さくらであい館の西の河川敷無料駐車場に止めて、10分程歩きました。 さきの鳥居を潜り、境内の案内図を見ると、どうも山上の本殿には道が繋がっていないように見えたので、男山ケーブルカー(片道200円)に乗車しました。相当高低差があるのかと思っていましたが、ケーブルカーの乗車時間は数分でもなかった印象です。 そこから男山の樹林内の参道(コンクリートで舗装された立派な参道で軽自動車が走れるくらいの幅もあり)を10分程歩くと、本殿に到着。丹塗りが眩しい美麗な八幡造りの本殿です。 しかし、清和天皇をはじめとした歴代天皇と朝廷、さらに八幡太郎義家をはじめ源頼朝、足利尊氏など源氏から崇拝されてきた格式高い神社であり、官幣大社でもあったことなどからわたしが想像していた巨大な境内と神殿といったものではなく、少し控えめな印象を感じました。 男山から眺める京都盆地の景色は最高でした。

大根菜の炒め物~ご飯のお供~

家庭菜園で大根を育てている方は、大根菜の使い道に悩む場面があるのではないでしょうか? わたしもその一人で、大根菜を家に持って帰ると迷惑がられることがしばしばあります。 そんなときは手間を掛けずに、簡単に炒め物にしてしまいましょう。 生だとすごく嵩があるように見えますが、美味しく炒めると、「これでは足りなーい」というくらい、量が減ってしまいます。 では、わたしの大根菜の炒め物を紹介します。 【レベル】 ・準備:★☆☆☆☆ ・時間:★★☆☆☆ ・技術:★☆☆☆☆ 【用意するもの】 ・サラダ油:大さじ1~2杯 ・ニンニク:1~2欠片 ・塩胡椒:適量 ・唐辛子:2個(ピリ辛が好きな人は3個) ・大根菜:大根2~3本分 ・乾燥ちりめん:40~50g 【作り方】 ・ニンニクをみじん切り、唐辛子を輪切りにしておきます。(唐辛子は輪切りというよりも輪切りにすれば、砕けるという感じです) ・大きめのフライパン(中華鍋みたいなタイプがさばきやすいかもしれません)にサラダ油をしき、ニンニクと唐辛子を投入して弱火に掛け、ニンニクの香りと唐辛子の辛味をじっくりと引き出します。 ・この間に、大根菜を平均1㌢程度で切っていきます。葉のところは、少し縦方向にも切り離しておくと食べやすいと思います。 ・ニンニクの色が変わって来たら、ちりめんを投入し、軽く炒めます。 ・ちりめんに透明感が出てきたら、フライパンに大根菜を投入し、適当に塩胡椒をして、炒めていきます。 ・大根菜の茎の部分に火が通って、柔らかくなったら完成です。(もしかすると、茎に歯ごたえがあるところくらいで火を止めても美味しいかもしれません) 晩御飯の前にこれを作ると、家族みんながつまみ食いを繰り返し、いただきます時点で半分くらいはなくなっています。個人的にはチョー美味いと思います。 大根を家庭菜園している方は、是非、お試しあれ!

峡の劔:第八章 暗夜行(1)

 八月十七日深更、冴えわたった月の下で響く孟秋の虫の音を乱さぬよう、久秀と近習達が枚(ばい)を含ませた馬に乗り、夜陰に紛れて密かに天王寺砦を出た。  百足という兎吉らしき影が再訪することを期待しながら、松永陣屋を監視していた亥介と総馬が息を潜めて久秀一行の静かな出立を見つめる。 「隠密には向かぬ月夜だが、夜討か…。」  総馬が呟く。 「夜討ちにしては兵が少ない。それに他の陣屋は寝静まったままで動く気配もない。後をつけてみるか。」  亥介が一行を見つめながら、総馬に答える。  二人は一行と十分な距離を取りつつ、追跡を開始する。  十七夜の月が西に傾き始めた夜半の摂津平野を、一行は何かを恐れるように無声無音のまま一列になって南行する。  早秋の深更に特有の冷気を帯びた夜露が夜空から降り注ぎ、一行の精神を湿らせ、人馬の足取りを重くする。殿軍に位置する武将が妄想に怯えるように幾度も背後を振り返り、追手の有無を確認する。一行は和泉に入ると、堺の町域を避けて郊外の田園地帯を進み、次第に進路を東に変える。一行の進む街道は生駒山脈に向けて上り勾配を加えながら、山々を被覆する濃い樹叢に至る。山中に入った一行に微かな安堵の色が流れ、緊張と背後への警戒を緩めて、馬の枚を外し、山径を松明で照らしながら騎行に速度を加える。徹夜の行軍で一行の疲労は限界に達しつつあったが、峠を越えて朝靄の煙る薄明の向こうにまほろばの大和盆地を望むと、一行は生気を取り戻して、久秀の居城信貴山城に辿り着く。  信貴山城は古刹朝護孫子寺の北方に高々と聳える信貴山の峻険な山頂に天守を構える防御に偏向した堅牢な山城である。  久秀の入城を見届けた総馬が、清太達に報せるべく、天王寺砦へ蜻蛉返りする。  亥介は信貴山城を引き続き監視するため、この場に留まる。  清太は日が高くなっても戻らない亥介と総馬を案じて小屋を出る。  昨日までに比べて砦内を多くの使者が忙しく往来するなど、天王寺砦全体の重心が上方に移動したような安定の低下が感じられる。それは松永陣屋に近付くにつれ、喧騒へと変質していく。  清太は馴染みになった門番に陣屋内の様子を尋ねる。 「今朝方、陣屋の主殿(あるじどの)が忽然と消えたらしい。」  回答の内容とは裏腹に、門番の口調は楽観的で、どこか他人事のようでもある。  清太は門