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京都 岩倉 実相院⑥

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実相院シリーズの最後です。 庭園を見渡す縁側のそばに形の佳い方形のつくばいがあり、水面にあまつぶの波紋が浮かんでいます。 そのつくばいの斜め下に表面が程よく風化した井頭ほどの大きさの石が二つ転がっています。 よく見てみると、小さな兎の石像でした。 よほど古いものなのか、一見では兎と思えないほど、石の肌にざらつきがあります。この庭園の歴史の変遷を知っている小さな住人として苔の中に埋もれながら、今も庭園の一点をみつめています。 最後に、実相院には江戸時代初期の御陽成天皇の「忍」の御宸筆が残っています。江戸初期、徳川幕府から様々な圧力をうけながら、激動の時代を駆け抜けた御陽成天皇らしい一字だと思います。 隆慶一郎先生の「花と火の帝」を思い出します。

京都 岩倉 実相院⑤

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日本庭園の続きです。 寺院の南に設けられた日本庭園はそれほど広いものではなく、逆に言えば、由緒ある門跡寺院のお庭としては小規模に思われます。 その程良い広さの中に、前述した通り小さな池を中心に、紅葉、そして、種々の樹木が比較的密集して植え込まれ、その地面を蘚苔類が被覆しています。 紅葉が中心に据えられていますが、常緑樹も多く、師走の小雨の中に映える濃緑が印象的でした。そして、やはりなんといっても紅葉です。実相院のパンフレットに秋の紅葉を移した佳景が用いられていますので、寺院そのものが紅葉をPRしているものと思います。しかしながら、厳冬の小雨に濡れる冬枯れの紅葉も次の春を待ってじっと力を蓄えている様子が、別趣を感じさせます。 さらに、庭園の背後にある小丘の斜面に自生する樹林を借景にして、庭園全体に奥行きを与えています。 やはり、長い時間を掛けて、たくさんの人々が心を込めて手入れしてきた汗と努力によって、隅々まで行き届いたこの庭園の今この瞬間があるのでしょう。

京都 岩倉 実相院④

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南側の枯山水に対して、北側は紅葉を主題にして様々な灌木、高木を巧みに組み合わせた純和風の日本庭園です。 庭園の中心に池が配置され、池の周囲にビロード絨毯のようにびっしりと密集して厚みをもって広がっている蘚苔類がこの庭園が経験してきた星霜の重みを感じさせます。しかも、この日は師走特有の鈍色をした曇り空から降る冷たい小雨が蘚苔類の上で小さな水玉となって蘚苔類を彩っています。 初夏の萌えるような新緑の苔もいいですが、厳冬の冷たい空気に震えながら、静かに堪え忍ぶ僅かに色あせた苔も風情があります。

京都 岩倉 実相院③

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実相院の内部には狩野派による襖絵が多数残っています。 竹に虎の図、鶴など種々の襖絵がありますが、個人的には謁見の間に描かれている帝鑑図は一筆一筆に勢いがあり、中心には門跡としての重み、周辺に女院の典雅を感じさせます。 謁見側に正座して、上座にある門跡院主の姿を想像しながら、帝鑑図を眺めていると、何かしら往時を思い起こすことができます。 ちなみに、寺院建物の内部は撮影禁止となっています。 実相院は建物とその内部の襖絵など非常に価値が高いものとなっていますが、それにもまして、庭が有名だと思います。 実相院本殿を中心に、北側には紅葉を主体にした日本庭園、南側には近年再整備された枯れ山水があります。 枯れ山水は地域住民の方々の様々な好意により改修された旨が枯れ山水を見渡す縁側への入口あたりに小さく記載されています。 庭はこの国を抽象的に表現しているとのこと。 所々に存在する砂利の盛り上がりは波を現しており、枯れ山水に強いインパクトを与えて、この国を囲む大海を想像させてくれます。 その砂利を留めている木の板がほどよい諷韻を放って、枯れ山水を引き締めています。 次は、日本庭園です。

京都 岩倉 実相院②

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参詣者用の駐車場は比較的大きく確保されています。ここからは想像ですが、紅葉の時期はおそらく満車になるでしょうから、たとえばバスを利用するという選択肢もあるのではないかと思います。 ちなみに、岩倉具視公の旧宅を訪れる時には使用不可と掲示されていますので、ご注意下さい。 まず、心地よい大きさの四脚門を潜ります。大寺院の荘厳な山門ではなく、もと女院の住居から移設したと伝えられるように、優美な姿で一歩控えたような落ち着いた印象です。

京都 岩倉 実相院

最近、京都を訪れる機会に恵まれています。 新名神が開通して京都への道中が本当に便利になりました。阪神高速に比べて、道幅が広く、ゆったりとした気分で運転できます。名神高速の渋滞の名所「天王山トンネル」を上下線ともトンネルが2本の4車線化により通常の連休程度であれば、観光も含めた多量の交通量を円滑に捌くことができるようになっています。 さて、今回の京都行きは直前からあまり時間的、そして、精神的な余裕がなかったため、名所旧跡の訪問は困難と考えていたのですが、車中で仕事を進める中で数時間程度の空き時間を作ることができたので、岩倉で待機していたこともあり、岩倉周辺の古社古刹を探していたところ、「実相院」を発見しました。 以前から岩倉具視の寓居と合わせて、興味のある寺院でした。特に、紅葉で著名です。 実相院の由緒については、わたしの浅い知識では説明しきれないので、実相院で受けとったパンフレットの記載を参照します。  実相院はもと天台宗寺門派の門跡寺院である。  現在は単立寺院、不動明王を本尊とする。  寛喜元年(1229)、近衛基通の孫・静基(じょうき)権僧正を開基とし、紫野に創建された。一度、五条通小川(京都御所の北西)に移転したが、応仁の乱が激しくなると、当時管理していた岩倉に移った。その後、しばらく厳しい時代が続いたが、江戸時代初期に足利義昭の孫・義尊の時代、母(三位の局)が後陽成天皇に仕えて道晃法親王(聖護院門跡)をもうけたことから、天皇家とのゆかりが深まり、後水尾天皇や東福門院たちが岩倉にしばしば御幸に訪れるなど、華やかな時代を迎えた。  その後、皇孫の入室が続き、享保五年(1720)には東山天皇中宮・承秋門院の大宮御所の建物を賜った。  今日まで伝わる四脚門、車寄せ、客殿は、女院のお住まいとして王朝建築美のなかにも風格のある佇まいを見せる。上段の間など各室には江戸時代中期に活躍した狩野永敬をはじめ狩野派の襖絵がめぐらされ、現存する数少ない女院御所である。

峡の劔:第七章 黒衣の旅僧(2)

 黄褐色の微粉末を全身に浴びた弥蔵が崩れるように地面に蹲り、薄れていく意識の中で左腕に刺さった細い針を懸命に抜き取って、小さな傷口に何度も唇を押し当て、血を吸い出し、地面に吐き捨てる。弥蔵が咄嗟に受け止めた細針の不気味な蒼い光跡は毒の塗布を意味していた。清太は毒薬が全身に回らぬよう、自分の髪を止めている紐を外して弥蔵の左腕の付け根を緊縛する。次第に動作が鈍っていく弥蔵に代わり清太が傷口から毒を吸い出す。不純物のない弥蔵の鮮血を舌の上で確認した清太は毒薬と妖薬の双方で意識を喪失していく弥蔵を背負って、小屋へと戻る。 「弥蔵が手傷を負った。傷は浅いが、毒にやられている。」  清太が短く告げながら、苦しげに呼吸する弥蔵を床に横たえる。亥介と総馬が弥蔵を診る。弥蔵の左腕が鈍い土色に変色し、左手の指先が痙攣している。 「まずは解毒です。」  総馬が土間にある甕から水を汲み、左腕の傷口を何度も洗う。亥介が鎧櫃の中から薬籠を取り出し、真新しい木綿布に峡に伝わる解毒の膏薬をたっぷりと塗布して、弥蔵の傷口全体に当てる。さらに、亥介は白湯に溶かしたこちらも峡伝来の解毒剤を、ゆっくりと弥蔵の口に流し込む。  弥蔵は荒い呼吸を繰り返しながら、時折、苦しげな呻きを発する。 「毒に身体を、妖薬に精神を犯され、激しい苦痛と幻覚に襲われているのでしょう。しかし、若様の素早い処置のお陰で、毒は致命的には回っておらぬようです。それにしても、床下に潜む弥蔵殿を察知し、さらに、ここまで追い詰めるとは相当な手練ですな。」  清太は弥蔵が手傷を負った際の状況を語った。 「弥蔵は百足と呼ばれた旅僧の従者と干戈を交えながら、「兎吉」と小さく叫んでいた。相手からの応(いら)えはなかったが、夕闇とはいえ弥蔵が「兎吉」を見誤るとは考えられぬ。」 「峡を捨てた上に、得体の知れぬ妖僧の従者になるとは阿呆な奴じゃ。」  総馬は若いだけに感情を先行させて、自分と同じ丙部出身の兎吉を罵る。清太は、総馬の発言に直接触れずに、 「黒衣の旅僧の正体はわからぬが、凄腕であることは間違いない。兎吉一人であれば、捕えることは容易だが、旅僧の邪魔が入るようならば、事は簡単には運ばぬかもしれぬ。なぜ、旅僧が退いたのかは解せぬが、旅僧がその気になれば、わたしも無傷では済まなかったかも知れぬ。」 と、呟く。 「何れにしても

網掛松かな

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土佐一宮神社まで10キロラン! 途中、…。 紀貫之に縁のある松があった場所だそうです。 さすがに紀貫之が見た松ではないようですが、土佐の歴史は深いです。 場所は土佐一宮神社の近くです。 看板によれば、当時はここまで海が入り込んでいたそーです。驚きです。現在の海岸線は相当南にあります。

真言宗総本山 教王護国寺 東寺の秋のライトアップ

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京都 東寺。 言わずと知れた、世界文化遺産。 真言宗総本山 教王護国寺、弘法大師(空海)の創建でございます。 午前中、京都南ICを下りて洛中に向かう途中に「ライトアップ」という看板を見つけ、帰路に拝観。色付きはじめた落葉樹の向こう側に浮かび上がる東寺の象徴五重塔は幻想的で、木材が黄金色の光彩を放っているようにも見えます。(この記事をアップすることには、紅葉も最盛期かもしれません) 金堂も講堂も公開されていました。 金堂には、薄明かりの中で夜の闇に浮かぶ薬師三尊と薬師如来座像を力強く支える十二神将が鎮座しています。 講堂には、大日如来を中心にして、四隅には多聞天、持国天、増長天・広目天の四天王と、五体の金剛菩薩像、五体の明王像、さらに、梵天と帝釈天が、密教浄土を表現しています。 蝋燭の灯火なら、微風が光を揺らすことにより、仏像の金色に絶妙な動的陰影を与えるのだとおもいますが、明るすぎる夜に慣れてしまった私には光源が電気であっても往時を忍ぶことができているような錯覚を覚えます。(金堂、講堂内は撮影禁止でした。) 灯火の少ない境内を歩きながら、観智院や宝物館も参詣できるのかと思い、歩いてみましたが、さすがにそれらは閉館しておりました。 パンフレットに拠れば、ライトアップは12月上旬までです。何も考えず、準備もせずに、自家用車でアクセスしましたが、駐車場はありました(拝観料とは別料金が必要です)。 地方の自動車利用者には駐車料金と拝観料のダブルパンチですが、わたしは拝観する価値があると思います。

ため池周回ラン

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この二、三日、11月とは思えない陽気です。 久しぶりに自宅近くのため池を周回ラン! 美しい夕焼けでした。 スマホでは眉月を明瞭に撮影することは難しそうです。

峡の劔:第七章 黒衣の旅僧(1)

 数日後の夕刻、松永陣屋の門前に墨染めの布で全身を覆った旅僧が現れる。  弥蔵が旅僧の唇の動きを読み取る。読唇術などの細かい芸当は経験豊富な弥蔵の十八番である。 ―弾正殿に数寄の僧が喫茶しに参ったと伝えよ。  弥蔵が清太の方を振り返って旅僧の言葉を伝える。  松永陣屋には、織田氏の伝令や使者は当然だが、戦陣であるにも係わらず茶の湯を嗜む商人や茶道具を納めに来た商家の手代など様々な人間が出入りする。  清太は「茶」に関して多少の知識はあったが、「茶」を名目に戦場の陣屋に得体の知れない者が多数出入りし、さらに、侘び寂びなどと言いながら、主客のみで小さな部屋に籠って余人を近付けず語り合うことについて、先日の藤佐の件もあり、相当な疑念を抱いている。 「妖怪の類いは夕刻に姿を現すものと相場が決まっています。少し様子を見て参ります。」  冗談交じりに言った弥蔵の影が、松永陣屋の砦柵の向こう側に吸い込まれる。  四半刻ほど経過する。  夕陽が山の端に懸かり、濃い暮色が周囲を支配する。  清太の瞳が、夕闇を突いて陣屋の砦柵を飛び越える弥蔵の影を、捕える。  直後、弥蔵を追跡する形で別の影が砦柵を跳び越える。 ―先刻の旅僧…。  清太は弥蔵の背後にある黒い影を識別する。  弥蔵の軌跡が、清太の潜む樹幹を避けるように右へと緩い円弧を描く。  旅僧が弥蔵を追跡しながら、短く口笛を吹鳴する。尖った高音に反応して、清太の左側、十間ほど離れた位置に、忽然と殺気が湧き上がる。清太は太い樹幹の背後に姿を隠し、杖を握る左手に力を込めながら、右手を懐に入れて小柄を握る。旅僧は一心不乱に疾走している弥蔵との距離を次第に縮める。  清太の左側に湧いた殺気が弥蔵の前方に回り込もうと移動する。弥蔵はその意図を避けるため、進路を左方へ曲げる。  結果的に弥蔵は清太の潜む樹幹の脇を駆け抜ける。  執拗に弥蔵に追い縋る旅僧がその樹幹を通過した刹那、清太が立て続けに二本の小柄を旅僧に投じる。  小柄は旅僧の影に吸い込まれる寸前に、黒衣に弾かれたように失速し、乾いた音を立てて地面に転がる。  清太は剣を抜き、旅僧に襲い掛かる。旅僧は大きく真横に跳び、清太が振り抜く瞬速の太刀筋を躱す。清太は大胆に跳躍して、渾身の斬撃を繰り出す。旅僧は全身を包む黒衣を大きく揺らしながら、後方に跳

峡の劔:第六章 四天王寺(2)

 ほどなく老僧が細長い形状の宝物を収めた綾織の袋を両手で奉戴しながら、金堂を退出する。 ―宝剣…。  亥介達は老僧の手元を凝視する。  その瞬間、老僧は金堂の入口を警護する四人の僧侶を手招き、突然、亥介達を指さす。老僧と亥介達の視線が絡まる。遠くにあるはずの老僧の瞳が二人の視界に大きく広がる。 ―魅入られる。  二人は視線を外して、老僧の瞳から逃れる。しかし、老僧が自分たちを指し示す指先が二人の瞳の中でゆっくりと回転しながら次々と分裂し、二人を妖異の世界へと引き摺り込む。二人の視界が無数の指先に支配される寸前、指は消滅し、微笑を浮かべた老僧の皺顔に変化する。その刹那、僧侶達が次々と半鐘、木鉦、指笛などを鳴らし、寺域全体に侵入者の存在を知らせる。 「嵌められた…。」  総馬が呟く。  老僧は何事もなかったように悠然と中門へ歩いていく。  伽藍内にいる僧兵、僧侶が亥介達の足下に集まり始める。伽藍内の騒擾は外部にも伝播するが、伽藍の外側にいる僧達は侵入者の位置を特定できないまま、いたずらに右往左往している。亥介は背後を振り返って総馬の袖を引き、 ―撤収じゃ。 と、目顔で告げて促す。回廊内の僧侶、僧兵達が篝火を集めて亥介達の姿を求めつつ、老僧が指し示した場所に出鱈目に矢を射込む。回廊外の護衛も回廊内に集まる篝火と矢唸りを頼りに亥介達の足元に集まる。 ―囲まれる。  亥介は回廊の外側に向けて高々と着衣を一枚だけ脱ぎ捨てる。空中に舞った亥介の着衣を賊と誤認した回廊外の護衛達が雄叫びを上げながら、その布切れに無数の矢玉を浴びせる。護衛達の意識を逸らしている間に、亥介と総馬は腹這いのまま素早く屋根の上を移動し、先刻の突風で篝火が消えたままの中門外側にある小さな植込みの闇溜まりに静かに着地し、寺域の騒擾を背中に感じながら、四天王寺をあとにする。  寺域の外に広がる漆黒の闇の向こうを、二人は目を凝らし、先刻の老僧の存在を探る。しかし、闇の向こうには静寂だけが広がっていた。  亥介達は小屋に戻り、清太と弥臓に老僧の妙技を始め四天王寺の中心伽藍で起こった出来事を詳細に報告した。 「伽藍全体に妖術をかけ、宝剣を盗み出し、最後には亥介と総馬の存在を僧兵達に告げて、自分の退去を容易にするとは、心憎いばかりの施術だ。」  亥介と総馬の表情は固い。 「老僧は自分の

学び舎は…

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社会人になって20年も経過すると、卒業した学校が徐々に姿を変えていきます。 高校は自分が3年生の時に建て替え工事が終了し、自分の下の学年から新校舎に移動しました。工事の騒音と埃に悩まされた記憶はあまりありませんが、得をした世代ではないなぁと思います。 さて、久しぶりに母校(大学)に行く機会があったので、当時、自分の通った研究室があった建物に足を運んでみました。 当時は、土木工学科が入っていた建物なのですが、いまは工学部ごと郊外の新キャンパスに移ったため、人文系の研究施設が入っているようです。 耐震補強が行われていて、外観が多少マッシブになっていました。大人数授業用の階段教室には自動ドアがついているのか、少し入口の様子が変わっています。 この階段教室はいまでも土木工学科が使っていると聞いています。 この階段教室の下が実験室になっていたのですが、いまはどんなふうになっているのか。興味が湧きましたが、建物内に入ると怒られそうなので、残念ながらあきらめます。

掛川神社(高知市薊野)

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土佐神社(一宮神社)に向かう途次、道路脇に「掛川神社」という看板を見つけたので、帰路に立ち寄ってみました。 その名称から想像するに、土佐藩主山内家が土佐に入部する際に、以前の所領であり、関ヶ原合戦の戦功の契機となった遠江掛川から分祀したのではないかと思われます。 主要道路を曲がると自動車が通れる舗装された参道があり、前方には石段が見えます。 参道脇に駐車場スペースがありました。 鳥居を潜り、石段を上ると、中間地点付近に手水鉢と社務所らしき建物があり、さらに上ると本堂があります。 本堂は小さな独立丘陵の頂上を造成して平地にしていますが、本堂の大きさにしては比較的大規模に造成しており、本堂以外と管理所以外に大きな建物がないことと相まって、雑木林に囲まれた境内としての空間は広く感じられます。 同神社の由緒は、石段下にある看板に拠れば、以下のとおりです。 ========================= 江戸時代の寛永十八年(1641)、第二代土佐藩主山内忠義が、その産土神であった牛頭大王を遠州掛川から勧請して、高知城東北の鬼門守護神として建立したのがはじめてである。以来、代々藩主から特別の崇敬を受けていた。明治元年(1866)現社名に改称した。 合祭神社中、瀧宮神社、海津見神社は、現境内地付近に鎮祭の古社で、いずれも明治三二年(1899)合祭した。 東照神社は延宝八年(1680)四代藩主豊昌が徳川家康の位牌殿を設けたのが始まりで、文化十一年(1814)には、十二代藩主豊資が境内に社殿を築造し、東照大権現と称していたが、明治元年東照神社と改称、明治十三年(1880)に合祭した。祭神が徳川家康であることから、県下の神社では唯一、社殿の軒下や手水鉢に徳川家の家紋“三ツ葉葵“がつけられている。 社宝として、国の重要文化財に指定されている「糸巻太刀 銘国時」(山内忠義奉納)、「錦包太刀 銘康光」(山内豊策奉納)がある。いずれも現在東京国立博物館に寄託されている。 飛地境内として椿神社・秋葉神社がある。 ========================= わたしは、山内一豊が旧領掛川時代の家臣と、新規採用の家臣団を伴って、新領土佐に入部した際に、山内家の繁栄鎮護のために、この掛川神社を勧請したものと想像していましたが、少々違っていたようです

峡の劔:第六章 四天王寺(1)

 亥介と総馬は天王寺砦に入って以来、日々、四天王寺に赴き、日中は寺の周囲から境内の建物や庭の造作、樹木や置物の配置などを調べ、夜更けになると境内へ侵入する。  神社仏閣における宝剣盗難を伝聞している四天王寺では、陽が沈むと偸盗の侵入に備えて多数の篝火を焚き、僧侶、僧兵が境内を巡回して不審者を厳重に警戒する。逆に言えば、これらの行為は四天王寺に宝剣があることを示唆しており、亥介達が四天王寺に日参している理由もそこにあった。亥介達は警戒の間隙を縫って、毎夜、灌木や建物の影などに潜みながら、偸盗の出現を待つ。  この日も、薄雲に霞んだ眉月が瀬戸内の細波立つ海面に沈み、暗い夜空に無数の星々が明滅する。夜半を過ぎれば、肌に触れる涼感を帯びた微風が秋の到来を感じさせる時節だが、今夜の四天王寺は多量の湿分を含んだ不快な生暖かい空気に覆われている。 「今宵はことさらに蒸せる。」  総馬が額に滲む汗を拭いながら、小声で呟く。亥介と総馬は百を超すであろう僧兵達に厳重に警備されている四天王寺の中心伽藍を囲む回廊の瓦屋根の上に俯せて、伽藍内部の様子を窺っている。 ―昨夜までとは何かが違う…。  二人は怪異の予感に、 ―臨兵鬪者皆陣裂在前。 の九字を唱え、邪気を払う。  中心伽藍の僧侶、僧兵達は不自然に上昇する暑気に、ある者は全身から噴き出す汗を幾度も拭い、ある者は扇子をあおぐ。時間の経過とともに、僅かに涼を与えていた微風さえも停止する。中心伽藍内部の不快が極大に達し、下品(げぼん)な僧兵達は襟を寛げて素肌を露出し、一部の者は口渇に耐えられずに水を求めて持ち場を離れる。  突然、烈風が起こり、伽藍内に蓄積した湿分と暑気、さらには、伽藍内に残留していた僅かな警戒心を吹き払う。 ―何かが始まる。  亥介と総馬が中心伽藍を見つめる。  再び烈風が中心伽藍を吹き抜け、中心伽藍の正面入口に当たる中門で燃え盛っていた篝火を掻き消す。中門の足下にできた闇溜まりに、突如、湧出した老僧が中門を固めている屈強な僧兵に歩み寄る。声を掛けられた僧兵は老僧の出現に何の疑念も持たず、先導して中心伽藍の内部へと案内する。 ―面妖な…。  外部から見ている亥介と総馬にとっては明らかな異状である。  僧兵に先導された老僧は、耿々と周囲を照らす篝火の中、中心伽藍を警護する僧侶、僧兵達に慰労の言葉

峡の劔:第五章 悪党の頭領(1)

 陽が夕凪ぎの瀬戸内海に傾斜し、情景が茜色を帯び始める。 ―日が沈んだ向こう側に西方浄土があるというならば、さぞ美しいことだろう。  清太は、瀬戸内の多島海に沈んでいく韓紅の夕陽を天王寺砦から眺望して、阿波剣山の山頂から眺望する、焼けるような紅い夕空とは全く別趣の、儚さを含蓄した佳景に心を奪われた。この日も精神を透明にして凝然と美しい夕陽を眺めていると、清太の視界の隅を見覚えのある旅装束の武士が横切った。 ―よしのを拐かそうとした悪党の頭領。  その頭領が松永陣屋の門前に立ったあと、門番の案内で陣屋に入っていく。  清太は門番に歩み寄り、掌に幾ばくかの銭を握らせて、武士の素性を尋ねる。門番は下卑た愛想笑いを浮かべ、銭を素早く懐に入れながら答える。 「わしも初めて会った武士じゃ。「久秀に兵法者の籐佐が茶を飲みに来たと伝えよ。」と言うておった。」  久秀は織田氏の武将であるとともに、著名な茶人、数寄者である。 ―怪しい。  清太は直感する。  幼少期から、時々刻々と転変する峡の厳しい自然の中で、清太は祖父や父から、 ―逡巡は命を危機に曝す。そうならぬため、自らの直感を磨き、そして、その直感を信じて行動せよ。 と、繰り返し教授されてきた。清太は修業を通じて自身の直感を研磨し、さらに、実践を積み重ねて、様々な事象に躊躇なく、直感に従って行動できる心胆を練り上げてきた。 「少し探ってくる。」  清太は隣にいる伝輔に言い残して駆け出し、夕闇に溶融し始めた松永陣屋の外側にある灌木の影に同化し、直後、軽々と砦(さい)柵(さく)を飛び越え、陣屋内に散在する小さな闇を素早く選び、残照を頼りに兵糧を使う雑兵を避けながら、陣屋の内部へと侵入し、一棟の建物の床下に滑り込む。床板の隙間から灯火の薄光だけが射し込む暗闇を、清太は気配を押し殺して匍匐で進む。耳を澄ませば廊下が軋む不規則な音に混じって、複数の会話が耳朶に流れ込む。清太はそれらの会話の断片から余人に気付かれることを恐れる密談を探り当て、慎重に接近する。  清太は峡における鳥獣との接触を通じて習得した動物的な感覚で、人間を含めた動物が他者との接触を警戒するために備えている無色透明な結界を触覚できる。  清太が幽かに漏れる会話との距離を計る。相手に自分の存在を気付かれないために確保すべき距離は、相手の他者

ふるさとチョイスで藁焼きたたき from 高知県中土佐町

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ふるさとチョイスで高知県中土佐町の藁焼き鰹のタタキをいただきました。 寄附金額は15,000円だったと思います。 冷蔵の宅急便で送られてきたので、おそらく焼きたてを真空パックしたものです。 量的にはパンフレットに載っている写真と同じです。 ちょっと少ないかな、こんなもんかなぁ…、と悩みましたが、最近、返礼品に対する規制が厳しくなっているので、適正量かな。 タタキの短冊を厚さ8㍉前後に切り、お皿に盛りつけます。 薬味にニンニク×3欠片と細ネギ(風味を壊さないために敢えて10㌢くらいに切られています)が付いています。 ニンニクはスライスし、細ネギは細かく刻んで鰹のタタキを盛りつけたお皿に散らします。 さらに同梱のタレをかけて、出来上がり。 秋の戻り鰹は脂が乗っていて、とても美味美味! 藁焼きたたきは口に入れたときに藁が焼けるときの香りがほんのりと鼻腔に広がります。 燻製のようなこの香りがわたしはたまらなく大好きです。 久礼 山本鮮魚店さま、とても美味しい藁焼きたたきをありがとうございました。

坂本龍馬記念館

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 9月29日、台風24号が接近する中、土佐國若宮八幡宮を訪れたあと、浦戸にある坂本龍馬記念館を訪問。  以前、20年ほど前に訪れた記憶はありますが、その後、新館ができるなど、設備が拡充されております。  坂本龍馬記念館は長宗我部元親が築城した浦戸城城跡にあります。  壮大な太平洋の絶景を見下ろす、展望という観点では最高のロケーションです。  ただし、土佐國一国を支配する拠点としては南に偏り過ぎているように思われます。  山内一豊が土佐に入府して間もなく今の高知城に移ったのはその辺の理由もあるものと思います。  新館はシンプルな建物です。  本館は斬新・革新的なスタイルで、太平洋の方向に向かって色鮮やかな鯨が頭を突き出したような形状をしており、その頭の部分は硝子ばりの展望台になっています。  新館側から入館し、一階受付で入館料を支払います。企画展示が開催されていなかったため、入館料は490円でした。そのあと、二階に上がると、音声ガイドの受付があったので、保証金1,000円を支払って、レンタルしました。 音声ガイドは、展示の説明書きを棒読みしているだけだったので、あまり魅力を感じませんでした。ただ、補償金はあとで帰ってくる無料タイプなので内容が薄いのは仕方がないのかもしれません。 この日は、常設の展示(常設展示室とジョン万次郎展示室)のみでした。 しかし、常設展示室だけでも興味深い書簡(複製)が多数展示されており、知的好奇心という意味で眼福になりました。 「龍馬が行く」をはじめ司馬先生作品に出てくる龍馬関係の書簡を複製ではありますが、肌で感じることができます。 姉乙女への手紙であったり、薩長同盟直後に桂小五郎が龍馬に同盟の内容を確認するために発信した書状とその裏書き、土佐藩が藩を上げて薩長に協力することになったときに龍馬が発信した書状などなど、じっくりと読んでいけば、とても一日では回りきれない充実した展示です。 特に薩長同盟の内容に関する桂小五郎の書状はこれまで原文で読んだことがなく、当時の緊迫した時勢を感じられるものでした。 わたしは古文書を読めませんが、ここの記念館はほぼ全てに読み下しをつけてくれているので、非常に助かりました。 あと、こちらも複製ではありますが、坂本龍馬の写真がありました。演台のようなものに右肘をつき、羽織

土佐国 若宮八幡宮

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台風の影響が予想されたため、この週末は単身赴任先の高知市内に待機することに。 そこで、早朝10㌔走ったあと、まだ台風が遠方にある午前中に高知市の浦戸湾を望む坂本龍馬記念館を目指して、高知市内を出発。 高知競馬場・ヨネッツ(ゴミ焼却場で発生する熱を利用したスポーツ施設)を通過すると、ナビ画面に「若宮八幡宮」と表示されたので、立ち寄ることに。 「若宮八幡宮」は長宗我部元親が数え23歳で初陣をした長浜合戦で有名です。 元親は背が高く、色白で柔和で、器量骨柄は申し分ありませんでしたが、物静かで、人に対面しても会釈もせず、微笑を返すだけで、日夜深窓にのみ居たため、「姫若子」と呼ばれていたそうです。 家臣達の中には「この人を主君と仰ぎ奉らんは、木仏を立てて後世を頼むに同じ」とまで囁き合う者もいたとか、いないとか。 父国親も深く歎き、合戦に伴うことを躊躇していましたが、さすがに数え23歳にもなり、長浜合戦に伴ったそうです。 長浜合戦は、長宗我部氏と本山氏の覇権争いです。 この合戦で、二十騎ほどの兵とともに味方から離れた元親達は、敵兵五十騎ほどに討ち掛かられましたが、元親は迷うことなく槍を取って敵に当たり、立て続けに三騎を突き伏せ、大音声で「名こそ惜しけれ、一足も引くべからず」と、駆け出しながら下知して、討ち合い、敵方の武将吉良式部少輔が元親を押し込めて討ち取ろうとしたところに、国親(当時、出家して覚世と称する)が割って入り、乱戦の上、長宗我部氏が勝利を得ました。 敗れた本山方の兵は浦戸城に退却したため、国親は下知して、「若宮の前、南北海際まで柵を結び、海には番船を浮かべて四方の通路を留めければ、城中には籠鳥の雲を恋ひ、涸魚の水を求むるが如くなれば、いつまでの命をこの世に残すならん」となったそうです。 ここに出てくる「若宮」が若宮八幡宮となります。 参道の脇に馬上に甲冑姿で槍を手にした元親の像があり、それに隣接して、木柵など少しだけですが往時を偲ぶ仕掛けがありました。 若宮八幡宮の参道はかなり長く(推定500㍍以上)、参道の両側に膝丈ほどの夏草が植生していて、元親の初陣の時の様子を想像させてくれます。 若宮八幡宮の周辺は凹凸に乏しい平坦地であり、陣形や囮、罠などの策を労することが難しく、敵味方数千の兵が集まれば、力と力の全面衝突になるよ