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7月, 2013の投稿を表示しています

950(1537)_==天文6年==(最新版)

>_<あくまでも司空が各種資料に基づき独自に調査した結果ですので、誤りがあっても司空は一切の責任はとりません。>_< >_<ご利用に際しては、解説・注意をご確認の上、各人で十分に史実をご確認ください>_<  天文6年(1537)、尼子経久、81歳を迎え、嫡孫詮久(24歳)に尼子氏当主を譲り、形式上隠居。  天文6年、清水宗治、備中で生まれる(幼名才太郎)。  天文6年春、毛利勢が安芸高田郡生田城を落とす。  天文6年(1537)1月14日、本願寺証如(22歳)が、大僧都に昇進。//朝廷や、仲介役の青蓮院に金品を贈る。  天文6年2月2日、本願寺が実如の13回忌を実施。  天文6年2月6日、豊臣秀吉が、尾張中村の百姓父弥右衛門と母仲の間に生まれる?  天文6年2月、甲斐の武田信虎が、駿河守護を相続した今川義元に、長女を嫁がせる。  天文6年2月24日、石山本願寺において、金剛氏正らが勧進能を奉納し、証如らが見物。  天文6年3月初旬、北条氏綱が、武田氏と今川氏との和睦に激怒し、大軍を率いて箱根を越えて、駿河に侵攻する。//武田信虎は援軍を駿河に送り、義元を助ける。  天文6年4月25日、石山本願寺が、紀伊の雑賀など一向門徒に300人の上坂を命じる。  天文6年5月9日、本願寺証如が、下間頼秀・頼盛兄弟を見つけたら生害させるよう、加賀四郡に書状を発信。//細川晴元とに紛争を全て二人の責任にするため。  天文6年6月6日、六角定頼が、平井加賀守を使者に立て、石山本願寺に派遣。6月7日、加賀守は本願寺証如に謁見し、定頼からの進物を贈る。  天文6年7月1日、妙宗院(浄土真宗:蓮如の第9子、四女)が能登府中で逝去。享年79歳。//将軍足利義政の側室であったこともある。享禄の乱で加賀を追われていた。  天文6年7月下旬、加賀三カ寺派(浄土真宗)の浪人衆が、加賀本覚寺を襲撃。//本覚寺方に追い払われる。  天文6年8月、本願寺証如のもとに、加賀三カ寺派の浪人による加賀本覚寺の襲撃の背後に蓮悟がいる旨の知らせが入る。  天文6年8月、六角定頼が、正式に近江国守護となる。  天文6年8月16日、尼子勢、石見大森銀山を奪取。//天文2年に大内氏に奪還されていた。  天文6年9月13日、堺の納屋衆千与

950(1536)_==天文5年==(最新版)

>_<あくまでも司空流の「こうかも」年表ですので、誤りがあっても司空は一切の責任はとりません。>_< >_<ご利用に際しては、解説・注意をご確認の上、各人で十分に史実をご確認ください>_<  天文5年(1536)、長尾虎千代(のちの上杉謙信)が、越後春日山城下の林泉寺に入り、天室光育禅師の教えを受け始める。//林泉寺は虎千代の祖父能景が明応6年(1497)に建立した長尾家の菩提寺。  天文5年(1536)春、尼子経久が備後に兵を進め、甲山城を落とし、山内直通を隠居させ、直通の婿多賀山道広の嫡男婿法師(のち隆通)を直通の子豊通の娘と結婚させて家督を継がせる。  天文5年(1536)1月1日、本願寺証如が日記を付け始める。//証如21歳。  天文5年1月4日、返還された山科御坊に新たな道場を作るために立柱が催される。  天文5年1月7日、尾張清洲城の織田大和守が、本願寺証如宛に、4百文を添えて織田家臣が一向宗徒に迷惑をかけた旨の書状を発信。//大和守は織田信秀の主筋に当たる。  天文5年1月15日、石山御堂(?)前で能が興行される。//熊野、西行桜、舟弁慶、羽衣、道成寺など12番を興行。  天文5年2月10日、越後守護代長尾為景が、後奈良天皇から内乱鎮定の綸旨を賜る。  天文5年2月13日、石山本願寺が、美濃と尾張の門徒衆に上坂して、石山本願寺の警護に就くよう求める。  天文5年2月26日、後奈良天皇が、即位式を挙げる//費用がなく、10年間延期していた//本願寺も費用の一部を負担//この頃、本願寺は公家にしきりに金品を送り、それらの結果、勅願寺となる。また、本願寺証如は権中納言庭田重親の娘(蓮如の十女祐心と庭田宣親の子供)を妻に迎える。  天文5年3月、甲斐武田信虎の嫡男太郎が元服。将軍足利義晴の一字をもらい晴信(後の武田信玄)と名乗る。合わせて、駿河の今川氏親の仲人で左大臣三条公頼の娘を娶る。//武田晴信の妻の姉は細川晴元の妻。  天文5年3月1日、のちの室町13代将軍・足利義輝が、室町第12代将軍・足利義晴の嫡男として東山南禅寺で生まれる。  天文5年3月26日、一向宗徒が、摂津中島で蜂起し、三好伊賀守を攻める。//三好伊賀守が、一向宗徒側から細川晴元方に寝返っ

950(1921)_==大永6年==(最新版)

>_<あくまでも司空流の「こうかも」年表ですので、誤りがあってもご容赦ください>_< >_<ご利用に際しては、解説・注意をご確認の上、各人で十分に史実をご確認ください>_<  大永6年(1526)以前、尼子経久が伊予守に任じられる。  大永6年(1526)3月、石見大森銀山の地下銀採掘が博多豪商神谷寿禎により始められる//この頃は大内義興の所領で、銀山北西の山吹城(銀山城)で大森銀山を守備していた。  大永6年5月18日、後柏原天皇が崩御し、本願寺が「三部経」と香典千疋を献上。  大永6年7月13日、細川高国が丹波の香西元盛を殺害。//香西元盛は細川尹賢の下で摂津中島の堀城を修築に加わっていたが、尹賢と元盛の人夫の喧嘩から両者の間がこじれたため、尹賢が細川高国に対して元盛を中傷したことがきっかけ。  大永6年(1526)9月6日、出雲雲樹寺に八俵半を寄進し、政久の菩提を弔う。  大永6年10月、波多野稙通と柳本賢治(カタハル)が、丹波八上などにおいて細川高国に反旗を翻す。//稙通と賢治は7月13日に細川高国に殺害された香西元盛の兄弟。//これを機に摂津や阿波でも反細川高国派が蜂起し、争乱となる。  大永6年、細川尹賢が、細川高国に反旗を翻した丹波勢討伐に向かったが、敗れて京へ引き上げる。//この間に反細川高国派が摂津をほぼ占領。  大永6年12月2日、山城で土一揆が起こり、幕府は徳政令を出してこれをなだめる。  大永6年12月15日、阿波で挙兵した細川晴元の先鋒細川政賢が三好勝長・三好政長らを率いて、堺へ上陸。//摂津の衆は続々とこれに合流。丹波の柳本賢治は、京を伺う。

950(1535)_==天文4年==(最新版)

>_<あくまでも司空流の「こうかも」年表ですので、誤りがあっても司空は一切の責任はとりません。>_< >_<ご利用に際しては、解説・注意をご確認の上、各人で十分に史実をご確認ください>_<  天文4年(1535)1月、安芸加茂郡で尼子方の平賀興貞が大内方で安芸白山城主の父弘保と弟貞景らの攻撃を受けるが、2月に和睦。  天文4年3月、毛利勢が備後三次の三吉氏属城三吉城を落とす。  天文4年3月、毛利勢が備後比婆郡上高野山の尼子方の多賀山通続を攻撃。多賀山通続は水の手を断たれ開城。//多賀山通続は反復常なかったが、一応尼子方の一大勢力だった。  天文4年(1535)3月20日、石山本願寺のそばの生玉社のある信貴(シギ)の森において、勧進能が催される。//金春系の宮王太夫が演じる。  天文4年3月25日、本願寺の主戦派下間頼盛が、本願寺証如に暇を申し出る。//頼盛とその父頼玄に関する噂が流れたため。//頼盛は5月の細川晴元勢との合戦に出陣しているので、結局、慰留されたか?   天文4年、毛利元就、調略により備後比婆郡甲山城主山内直通を味方とする。//山内直通は尼子経久に背いた経久三男塩冶興久を匿い、最終的に経久の命で塩冶興久を自害に追い込んだことから、尼子氏としっくり行かなくなっていた。  天文4年4月7日、蓮淳(浄土真宗、蓮如の子息で先代の法主実如の兄弟)が伊勢長島から石山本願寺に移る。  天文4年4月11日、前年1月の火災で西宮社から消失した宝剣と宝珠が、一向宗徒のもとにあることがわかり、証如はこれを西宮社に返却。  天文4年4月15日、摂津四天王寺において土塔会(ドトウエ)の祭礼が催される。//実従(浄土真宗)が見学に行った。  天文4年4月27日、実従(浄土真宗)が、下間頼玄に代わって、御影堂カギ取役に任じられる。※カギは金偏に益。  天文4年5月30日、細川晴元方が八箇所(大東市近辺)に侵入したため、下間頼盛が町衆を率いてこれを防ぐ。  天文4年6月10日、細川晴元方と一向宗徒が杜河内で合戦し、一向宗徒が崩れて、細川晴元方が石山本願寺の足元の中道(大阪市東成区中道)まで迫る。  天文4年6月11日、細川晴元方が石山本願寺の足元にある天王寺へ回り、高津や渡辺

950(1534)_==天文3年==(最新版)

>_<あくまでも司空流の「こうかも」年表ですので、誤りがあっても司空は一切の責任はとりません。>_< >_<ご利用に際しては、解説・注意をご確認の上、各人で十分に史実をご確認ください>_<  天文3年(1534)1月、毛利元就と甲立五竜城主宍戸元源と和睦し、元源の孫隆家と元就の長女との婚約が決定。  天文3年(1534)1月28日、摂津の西宮社(西宮市社家町)が炎上し、宝殿の剣と珠が消失。  天文3年2月、三宅出羽守国村が浄土真宗に改信。//一向宗徒を味方につけるため?  天文3年2月3日、石山本願寺において、寺内町の清水町の堀を深くする工事が始まる。  天文3年3月10日、下間頼盛(浄土真宗)らが摂津や河内で遊撃を繰り返し、この日は御厨屋や杜河内を攻める。//石山本願寺の足元にある高津や渡辺も焼けた。  天文3年5月11日、尾張那古屋城主織田信秀に嫡男吉法師(後の信長)が誕生。  天文3年6月5日、三好利長が本願寺側に寝返る。//石山の西の野田(大阪市福島区野田)に陣取る。//利長は父元長が討死した原因が細川晴元にあることから、その敵方の細川高国についた。  天文3年7月、毛利元就、備後宮城主宮下野守直行の子元盛を下す。  天文3年、尼子経久は備後甲山城主山内直通を諭し、塩冶興久(尼子経久の三男で天文1年に経久に謀反し、直通の元に落ち延びていた)を自害させる。  天文3年7月25日、下間頼桂が、討死。  天文3年8月3日、木沢長政が、京近郊の西山の谷(西京区松尾谷松尾山町)に籠る一向宗徒を攻め落とす。//この際、西芳寺が炎上。//三好利長は椋橋城(豊中市庄内)に逃げる。//細川晴元は伊丹親興に討伐を命じるが、親興は敗れる。  天文3年9月3日、近江坂本にいた将軍足利義晴が入京。  天文3年9月17日、本願寺西隣にある法安寺の小屋が失火により焼ける。  天文3年9月、越前に逃れていた加賀三カ寺方の加賀国人衆が、牛の谷に陣取り、しきりと加賀を窺う//大将の黒瀬左近四郎が本山方に寝返ったため、加賀三カ寺方の諸将は四散。  天文3年10月20日、三好利長が、細川晴元方の伊丹氏・池田氏と潮江庄西田中(尼崎市潮江)で合戦。//一向宗徒が利長を助け、利長方が勝利。

950(1921)_==大永7年==

>_<あくまでも司空流の「こうかも」年表ですので、誤りがあってもご容赦ください>_< >_<ご利用に際しては、解説・注意をご確認の上、各人で十分に史実をご確認ください>_<  大永7年(1527)2月、安芸武田氏の属城安芸郡新城/熊野城が相次いで大内勢により陥落。  大永7年(1527)2月5日、丹波の柳本賢治が山城に進出し、山崎(京都府乙訓郡大山崎町)を占領。  大永7年2月13日、細川晴元の軍勢と細川高国の軍勢が川勝寺付近の桂川で衝突し、晴元方が大勝する。//三好勝長らが晴元方として戦闘。  大永7年2月14日、細川高国が室町将軍足利義晴を奉じて近江坂本へ脱出。//これに伴い、柳本賢治の兵が入京。  大永7年(1527)3月、安芸武田氏の属城安芸郡瀬野鳥子城が大内勢により陥落。ついで、武田光和の安芸銀山城の攻略にかかる。  大永7年3月22日、細川晴元が堺に上る。14歳。//阿波の三好元長が細川晴元と足利義維(ヨシツナ)を擁立。//三好元長は細川高国に殺された三好之長の嫡孫にあたる。足利義維は足利義晴の弟にあたる。  大永7年4月2日、本願寺証如が、慣例に従い青蓮院において、得度。12歳。  大永7年(1527)5月、大内勢が安芸府中城を府中城を攻めたため、武田光和は単独救援に赴く。  大永7年7月、毛利勢と尼子勢が備後和智で合戦。  大永7年7月、尼子経久が備後に入る。  大永7年8月、尼子経久と大内氏重臣陶興房が備後江田で対陣。  大永7年8月9日、尼子経久と大内氏重臣陶大内氏が備後和智の細沢山で合戦。尼子勢は米原山城守、牛尾信濃守らを失い、和智豊広も大内氏に下る。  大永7年10月13日、足利義晴を擁した細川高国が、朝倉義景や六角定頼の兵とともに、近江から京に入り、東山若王子(京都市左京区若王子)に陣を張る。//この後、東寺に移る。//11月19日、主力の朝倉義景勢が西院(京都市右京区西院)において、三好元長勢と戦い、敗れる。  大永7年11月、尼子勢と大内勢が三次で合戦。  大永7年11月19日、足利義晴および細川高国方の朝倉義景が西院(京都市右京区西院)において、足利義維・細川晴元方の三好元長と争い、敗れる。  大永7年、近江堅田の本福寺(浄土真宗)の明宗のもとへ、蓮淳

950(1931)_==享禄4年==

>_<あくまでも司空流の「こうかも」年表ですので、誤りがあってもご容赦ください>_< >_<ご利用に際しては、解説・注意をご確認の上、各人で十分に史実をご確認ください>_<  享禄4年(1531)1月、越後衆が陣中の諸法度を定めて長尾為景に忠誠を誓う。//連判の武将は、山浦・桃井伊豆守義孝、中条越前守藤資、黒川四郎右兵衛尉清実、斎藤下野守定信、毛利松若丸、毛利安芸入道祖栄、加治安芸守春綱、竹俣筑後守昌綱、水原伊勢守政家、安田治部少輔長秀、五十公野弥三郎景家、新発田伯耆守綱貞、鮎川摂津守清長、色部遠江守憲長、本庄対馬守房長、山本寺又四郎定種、十郎。  享禄4年(1531)2月21日、細川晴元が、阿波の三好元長に助けを乞う//三好元長は要請を受けて堺に上陸。  享禄4年2月28日、細川高国と浦上村宗の軍勢が摂津伊丹城を落とす。  享禄4年2月30日、細川高国と浦上村宗の軍勢が摂津池田城を落とす。  享禄4年3月10日、細川高国・浦上村宗の軍勢と細川晴元・三好元長の軍勢が摂津勝間(大阪市西成区玉出本通り)で衝突し、高国方が敗北。  享禄4年3月25日、阿波細川家の細川持隆が援軍を率いて細川晴元・三好元長の軍勢に合流。  享禄4年3月、木沢長政が、主家の畠山義宣から離反し、細川晴元に通じる。  享禄4年3月、蓮淳(浄土真宗)と細川晴元が結ぶ。  享禄4年春、下間頼秀(浄土真宗)が、再度、加賀へ下向。//超勝寺実顕らの所業はますます激しくなり、蓮悟が本泉寺に実顕を呼び問いただしたが、実顕は本山の後ろ盾を受けているため譲らず、争論となる。  享禄4年5月9日、蓮悟は蓮慶や顕誓、実悟らにはかり、三カ寺として実顕を成敗することに決する。//本山と加賀三カ寺の代理戦争の様相であり、また、蓮淳と蓮悟の同母兄弟の争いとなる。  享禄4年6月4日、細川高国と細川晴元が天王寺(大阪市天王寺区四天王寺付近)が衝突。晴元方は三好元長や木沢長政が良く戦い、高国方の赤松政村の寝返りもあり、高国方が大敗。//浦上村宗は戦死、細川高国は尼崎に逃れ、紺屋の藍甕に潜んでいたところを見つかり、6月8日に自害させられる。//その後、畠山義宣が自分から独立して晴元方についた木沢長政を怒り、長政の競争相手である三