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瀬戸内国際芸術祭 in男木島(2):写真でーす

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瀬戸内国際芸術祭 in 男木島

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本日は男木島へ。 瀬戸内国際芸術祭を鑑賞しました。 まずは、フェリーで高松港を出港。 高松港から男木島港までは途中女木島港を経由して40分、大人往復1000円。 本日は土曜日ということもあり、フェリーは満席でした。 男木島港では白い化粧屋根のインフォメーションセンターがお出迎え。 男木島の港に降り立つと、早速、インフォメーションセンターでパスポートを購入。 年間を通して使える年間パスポート(5000円)と春用のパスポート(4500円)がありますが、夏も秋もおそらく鑑賞するだろうということで、年間パスポートを購入。 ちなみに、中学生以下は子供パスポートということで無料です。 パスポートはスタンプラリー形式になっていて、作品を見るごとにその作品番号のスタンプを押していきます。 ただ、男木島の作品のスタンプは全部○に男だったので、無人の場所で全部スタンプを押してしまうことも可能です。 しかし、そんなことをしても仕方がないので、とりあえず本日は真面目に全て作品を回りました。 とても素晴らしい作品ばかりで、なかなか面白かったです。 前回よりも作品の完成度や洗練度、作者の情熱が上がっていると感じました。 作品はほとんど男木島港から男木島漁港の周辺に集まっています。作品数は16ヶ。 屋外にあったり、古民家の中にあったりと、展示の方法は様々です。 一通り作品を回ったあとは、男木島灯台まで足を運びます。 男木島港から灯台までは徒歩で約20分。 男木島灯台といえば、映画「喜びも悲しみも幾年月」の舞台として有名です。 男木島灯台は今も現役で活躍中。 灯台の隣は資料館やキャンプ場になっています。 そこから、山道に入り、タンク岩、水仙の群生地、ジイの穴という洞窟を巡り、山道を降りて終了。 男木島港に戻ったのが16:00頃。 遅い昼食を食べる場所を探すも、16:00の段階では食堂、カフェとも閉店していました。 17:00発の最終フェリーで高松への帰路につきました。 帰りのフェリーも満席です。

950(1535)_==天文4年==(旧版)

>_<あくまでも司空流の「こうかも」年表ですので、誤りがあっても司空は一切の責任はとりません。>_< >_<ご利用に際しては、解説・注意をご確認の上、各人で十分に史実をご確認ください>_<  天文4年(1535)1月、安芸加茂郡で尼子方の平賀興貞が大内方で安芸白山城主の父弘保と弟貞景らの攻撃を受けるが、2月に和睦。  天文4年3月、毛利勢が備後三次の三吉氏属城三吉城を落とす。  天文4年3月、毛利勢が備後比婆郡上高野山の尼子方の多賀山通続を攻撃。多賀山通続は水の手を断たれ開城。//多賀山通続は反復常なかったが、一応尼子方の一大勢力だった。  天文4年、毛利元就、調略により備後比婆郡甲山城主山内直通を味方とする。//山内直通は尼子経久に背いた経久三男塩冶興久を匿い、最終的に経久の命で塩冶興久を自害に追い込んだことから、尼子氏としっくり行かなくなっていた。

磁場の井戸:第二章 舞台(五)/長編歴史小説

 夕刻の訪れと共に、宇喜多勢は和井元へと退いた。この日も、先日と同様、鉄砲戦に終始した。視界を妨げる白煙と、鼻腔を刺激する硝煙の臭いが、高松城の周囲を弛むように流れていた。 宇喜多勢は、城に向かって楯を並べ、その影を利用して、城兵に応射した。寄せ手、守り手とも物陰に隠れて、敵の影を狙った。 「寄せ手の死者二〇余かと。」 人目に付きにくい高松城の北側の山稜の杣道を、敵兵の影を避けるようにして高松城内へと潜入し、宗治の前に現れた七郎次郎が、宗治に知らせた。 (その程度のものだろう。) 宗治は七郎次郎に頷き返しながら、自分のこの日の戦の結果に対する読みが概ね間違っていないことを確認した。  宗治は、射撃戦において断然有利であるはずの城方の損害の大きさに、敵の巨大さを知った。味方は強固な城壁を頼りにして防戦し、敵方は貧弱な一枚の楯だけを頼りに城方と向き合った。にもかかわらず、織田勢の優勢な火力に、城内では百名近くの城兵が命を失っていた。 (押しまくられた。) という気持ちだけが宗治の胸中に残った。鉄砲の数で与えられる攻撃力と城壁や楯板で与えられる守備力との単純な足し算が、この結果を生んだことは、自分の心の中においてでさえも否定しようがなかった。高松城は敵との相対比較において、決定的に攻撃力が不足していた。  無言のまま、考え続けている宗治に向かって、七郎次郎は思考をとぎれさせることを詫びるような小さな声で言った。 「本日、宮地山城が落城、城主乃美元信様は織田方に城を明け渡し、陣を払いました。」 宗治は、七郎次郎の言葉が耳に入らなかったように、表情を変えることなく、月光のない薄闇を見つめていた。  七郎次郎は言葉を止めた。乾いた闇の中で二人の間に静寂が流れた。七郎次郎は宗治の言葉を待ちながら、息を潜め、気配を絶った。刻の経過とともに、闇の帳が、宗治と七郎次郎とが作る狭い隙間に滑り込んだ。  宮地山は険しい山の頂に造作された要害で、周囲は峻険な断崖に囲まれ、敵兵の接近を激しく拒んでいた。秀吉は宇喜多勢をして、何度かこの要害に力攻めを試みたが、要害に加え、城兵は城主乃美元信のもと一丸となって防戦し、敵を城壁にさえも近づけない奮戦を演じた。  これには宇喜多勢も辟易とし、秀吉も力攻めの愚を悟り、宮地山に対しては持久策を採った。秀吉は宮地山が山城であるこ

950(1534)_==天文3年==(旧版)

>_<あくまでも司空流の「こうかも」年表ですので、誤りがあっても司空は一切の責任はとりません。>_< >_<ご利用に際しては、解説・注意をご確認の上、各人で十分に史実をご確認ください>_<  天文3年(1534)1月、毛利元就と甲立五竜城主宍戸元源と和睦し、元源の孫隆家と元就の長女との婚約が決定。  天文3年7月、毛利元就、備後宮城主宮下野守直行の子元盛を下す。  天文3年、尼子経久は備後甲山城主山内直通を諭し、塩冶興久(尼子経久の三男で天文1年に経久に謀反し、直通の元に落ち延びていた)を自害させる。

950(1533)_==天文2年==(最新版)

>_<あくまでも司空流の「こうかも」年表ですので、誤りがあっても司空は一切の責任はとりません。>_< >_<ご利用に際しては、解説・注意をご確認の上、各人で十分に史実をご確認ください>_<  天文2年(1533)、大内氏が石見大森銀山を尼子方から奪取し、吉田/飯田両氏を奉行として派遣//享禄4年に尼子勢に奪われていた。  天文2年(1533)、尼子氏が出雲日御碕神社に伯耆会見郡の山名氏旧領福田保/犬田村のうち51俵地利を寄進//尼子氏は社寺政策に相当の配慮を行っている。  天文2年(1533)、上条城(柏崎市黒滝)城主上条定憲方の長尾房長、中条藤資、新発田綱貞らが越後一の宮である居多神社(上越市)に乱入し、社殿などを焼く。  天文2年(1533)1月2日、一向宗徒が、細川晴元方の松井宗信が守る大物城を攻める。  天文2年1月23日、薬師寺国長と法華宗徒が、松井宗信の守る大物城救援のために京を出陣して、富田で一向宗徒と衝突し、敗退。  天文2年2月10日、一向宗徒が、石山本願寺を出陣し、堺を攻める。//細川晴元は小船で淡路洲本に逃げる。//本願寺証如が石山本願寺から堺の信証寺に移る。  天文2年、細川晴元が、将軍足利義晴から摂津平定の教書を請ける。//義晴は同時に摂津国人衆に細川晴元に協力するよう要請。//本願寺は幕府の逆徒となる。  天文2年2月14日、京の町衆が、浄土真宗の僧を間者として捕らえ、六条河原で斬首する。//京の町衆は大部分が法華宗。  天文2年3月5日、摂津の一向宗徒が、伊丹親興の守る伊丹城に攻め寄せる。  天文2年3月29日、木沢長政が、京の法華宗寺院から1万を動員し、摂津の伊丹城を救援し、一向宗徒を破る。//一向宗徒は5百人ほどが討死。//長政は敗走する一向宗徒を茨木辺りまで追撃し、さらに島下郡中を焼き払う。  天文2年、細川晴元が阿波衆6千を従えて、避難先の淡路洲本を発し、摂津池田城に入城。その後、芥川城に移り、畿内に号令して体勢挽回を図る。  天文2年4月26日、細川晴元方の4万の兵が、堺を占領する本願寺勢を攻める。//この陣中に11歳の三好千熊丸も出陣。//一向宗徒は敗走し、本願寺証如は大坂に逃れる。//信証寺は細川晴元勢により破却される。  天文2年5

B787 in Takamatsu Airport

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久しぶりの高松空港! 先般、コックピットから発煙して高松空港に緊急着陸したB787が駐機場の隅に止まっていました。 新聞等の報道ではバッテリーの不具合とのことですが、原因究明には至っていないとのこと。 米国ではバッテリーに対策を施した試験機のテスト飛行も始まる模様。 頑張れ、ドリームライナー! でも、最新鋭の技術を結集したといわれるB787でもこんな重大なトラブルが発生するんですねぇー。

近所の河津桜が綺麗に咲いています!

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三月に入って比較的暖かい日が続いています。汗ばむような陽気を感じる日もありました。 例年なら三月に入って一度や二度は寒が戻って来るものなのですが、今年は一度も寒気が戻ってきませんでした。 近所の河津桜が綺麗に咲いていました。 河津桜はオオシマザクラ系とカンピザクラ系が自然交配したものだと言われています。 ヤマザクラ系ほどではないですが、開花と同時に僅かに若葉が出るようです。 まだ、ソメイヨシノは開花さえもしておりませんので、一ヶ月ほど開花が早いのかも知れません。 ソメイヨシノよりも少し赤みが強く、新芽の薄い緑とのコントラストが綺麗です。

磁場の井戸:第二章 舞台(四)/長編歴史小説

 その夜、宗治は、今日一日の様子を知らせるために、宗治の寝室の前に現れた七郎次郎を呼び止めた。 「七郎、秀吉はどんな男であったか。」 宗治は微妙な言い回しで七郎次郎に問いかけた。 「しかとは見えませんでしたが、猿と言われるだけに痩せた小男でございました。」 七郎次郎は、足守川に向かって走る径畔の脇にある草叢の中に身を潜めながら見た秀吉の外見を素直に口にした。 「見た目は猿か。」 馬の背中に身を委ねる猿の姿を想像し、宗治は一瞬、微かな笑みを浮かべたが、すぐさま真顔に戻って、重ねて問いかけた。 「七郎、お主、秀吉に何を見た。」 七郎次郎は、宗治を見つめていた顔を俯き加減にして、息を五つするほどの間、宗治の問いの意味を咀嚼した。そして、草叢から忍び見た秀吉の姿に忘れられぬほどの強い印象を持って、七郎次郎の心の中に残った残像を思い返した。 「秀吉の周囲に七色の虹が見えたような気がいたします。」 七郎次郎は言った後で少し面映ゆそうにしながら、慈父を見つめる眼差しを宗治に返した。 「お主も見たか。儂には夕陽が秀吉の後光のように見えたぞ。目が潰れそうなほど眩しい光彩を放っておったわ。」 「殿も御覧になられましたか。」 二人は主従とはいえ、同じ目を持っていた。宗治が自分自身で磨き上げた心の鏡と、宗治が彫琢した七郎次郎の心の鏡は、秀吉の放つ神々しい光を鮮やかに映し出した。しかし、二人にはその光が何物かを解く術は無かった。それは、死を決意した者だけが目にすることのできる未来だったのかもしれない。  高松城の北、和井元と呼ばれる部落から城に向かって、騎馬の離合をも妨げるような狭隘さで、一本の道が焦茶色の深田を貫くように走っている。その道が高松城にぶつかり、広がる場所が、高松城の搦め手、和井元口である。  天正一〇年五月二日、その小径を宇喜多勢の人馬の群がゆっくりと進んでいた。人馬の最前列には厳重な楯が並び、兵達は炎を恐れる獣のように楯に身を隠しながら、前進を続けていた。これが、秀吉による二回目の高松城総攻めとなる。  先鋒は一度目の四月二七日の総攻めと同じく、宇喜多勢、攻め口も同じ和井元口である。初回の総攻めでは宇喜多勢は策を弄さず、力と数で高松城を落とそうと、和井元口に殺到した。その二日前の四月二五日、宇喜多勢が先鋒となって、高松城のすぐ北、八幡山を

梅の花ー続報ー

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久しぶりに岩清尾八幡宮までラン。 寒気厳しい折に花を付けていた陽当たりの良い場所にある紅梅は既に概ね花を終えていました。その代わり、白梅が開花本番を迎えていました。 季節は移ろい行き、既に春本番の足音が近づいているのを感じます。 杉花粉に黄砂、さらにはPM2.5など色々と風に乗って西方からやってきているとの噂です。 ただ、着実に平成24年度の冬は終わりに近づき、平成25年度の春が始まりを告げようとしているのでしょうね。

スマホ着信音設定アプリ

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三月上旬にも関わらず、西日本は春真っ盛りで冷房が必要なくらいですね。 それに対して、北日本は本日も暴風雪とのニュースです。 日本列島は本当に南北に長いです。 さて、本題。 なぜ、スマホはデフォルト機能として着メロ設定ができないのでしょうか? あれだけのガラ携機能を作り出していながら、スマホに着メロを標準装備しなかったのは、何故なのでしょうか? アプリがあるからですかねぇ??? ということで、拙者はYAMAHAさんが作っている「着信音設定」というアプリを使っています。 AUの「着メロ取り放題」と連動していて、AU着メロ取り放題でダウンロードした着メロを着信音、Cメール、Eメール、Gメールの着信音にそれぞれ個別に設定できます。 着信音設定ソフトは色々ありますが、AU着メロ取り放題に蓄積されているクラシックや映画音楽が設定できるのが、YAMAHA着信音設定のメリットです。

高知龍馬マラソンー番外編ー

沿道で応援していただいた方、老若男女を問わず、ありがとうございました。 しかし、土佐のおんちゃんらーはようわかっちゅう。 38kmくらいのエイドステーションで、「高知じゃけ、酒はないがかぁー。」って、笑いながらゆうたら、横におったおんちゃん二人が、「そうじゃろー。この先、200mば行ったら、酒を売りゆうき、そこで買いやー!」だって。 やっぱり、高知のおんちゃんらは酒飲みの気持ちをようしっちゅう。 まっこと、ありがとう。

高知龍馬マラソンの記念品

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高知龍馬マラソン、拙者にとっては初のフルマラソン挑戦でしたが、なんとか完走することはできました。 5時間は切りたいなぁと思っていたのですが、結局、5時間を数分超過しました。 しかし、最後の5kmは死ぬかと思いました。 また、フルマラソンに挑戦するか?と聞かれれば、現時点でははっきりと「NO!」ですねぇー。 さて、高知龍馬マラソンの記念品は、大きめのタオルとアームウォーマ(というのでしょうか?)でした。 参加費8000円ですので、まあ、手頃な感じがします。 大切に使いますね。 給水所で準備してくれた皆さん、沿道で応援してくれた皆さん、つみれ団子の生姜汁を振る舞ってくれた高知南高の皆さん、その他関係者の皆さん、本当にありがとうございました!

高知龍馬マラソン完走(^^)/(その6:40kmからゴールまで)

40kmの折り返し地点を通過後、来た道を戻り春野陸上競技場を目指す北向きの道に戻ります。 そして、春野陸上競技場を眺めてみると、明らかに自分の走っている道路よりも高い位置にあることに気付きます。 高知龍馬マラソンは最後のゴールまでの1kmも結構な登り坂になっています。 40kmを走って乳酸が貯まりきった筋肉にこの坂道は辛い(>_<) 春野運動公園に入ってからも、陸上競技場の入口までもずーと登り坂になっています。陸上競技場のトラックでみんなが見ているなか歩いてしまうのは、恥ずかしいので、この登り坂は消耗を押さえるために、歩きました。 沿道ではたくさんの人達が応援してくれていましたが、この坂を走る体力が拙者には残っていませんでした(T_T) それでも、陸上競技場のトラックに入ると、フラットであることもあり、ゆっくりではありますが、なんとか格好だけでも走ることはできました。 それでも、トラック四分の三周するのさえ辛かったです。 途中までは回りを見たり、アナウンスを聞いたりする余裕があり、「ゴールした人のゼッケン番号を呼んでくれるんだー。」と思ったりしていたのですが、ゴールの手前では全く余裕がなくなり、自分の番号が呼ばれたのかどうかも、わかりませんでした。 去年の丸亀ハーフではゴール時には全然余裕があったのですが、今回は余裕なし(*_*) ゴールして淡々とランナーズチップを外し、記念品のタオルを貰い、記録証を受けとり、景品のスポーツドリンクをいただきました。 競技場の外に出ると、焼き鳥やフランクフルトの屋台が出ていました。 その中でも、高知南高校の高校生の皆様がボランティアでふるまっていた「高知産食材で作ったつみれ団子の生姜汁」が最高に美味でした。疲れた身体、さらに、徐々に冷え始めた身体に、生姜汁の暖かさが染み渡ります。最高のおもてなしでした。本当にありがとうございました。 つみれ生姜汁を間食した後、手荷物を受けとり、バッチリ防寒して、スタート地点に戻るシャトルバス乗り場に向かいます。しかし、これが遠いし、アップダウンもあって42.195kmを走り終わった後の衰弱したランナーには厳しかったですねぇー(´Д`) ゴールしてからシャトルバスに乗る間、写真を撮影する体力的、精神的余裕が全くありませんでした。

高知龍馬マラソン(その5:30km地点〜40km地点)

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30km地点を通過。 そういえば、これまで給水所の報告をしていなかったので、感想を述べます。 結論から言うと、拙者のようなEグループランナーには最高の給水所でした。 水とスポーツドリンクの両方を用意してくれており、ほぼ3km間隔で給水できる地点が設置されており、しかも、20km以降は水、スポーツドリンクに加え、バナナやオレンジ、あんパンなどの軽食も用意してくれていました。軽食は本当にエネルギーになりました。そして、給水所を運営・お手伝いしていただいていた方の優しいお言葉と手助けになにより大感謝でございます。 強いて言えば、トイレの台数が少し少なかったかなあという感想です。 さて、マラソン状況に戻ります。 30km地点を超え、一路仁淀川河口を目指します。比較的フラットですが、仁淀川河口に近づくと、上り気味になります。仁淀川河口に近づくと、護岸工事をしていて、左の大平洋は全く見えなくなりました。 だらだらと走り続けるしかありません。 仁淀川河口でおそらく32.5km、ここで折り返します。このあたりから走るのがとてもしんどくなってきました。それでも何とか我慢して、足を前へ前へと進めます。 35kmを通過し、しばらく行くと、ゴール地点春野陸上競技場方向に向かうため花街道を左に折れます。この左折地点で丁度ランナーを収容するためのバスとすれ違いました。 ここから春野陸上競技場に向かって北進します。 花街道を左折して暫くすると、最後の関門が現れます。この関門を通過すれば、あとは春野陸上競技場まで6時間以内にゴールすればフルマラソン完走です。 ここで少し気が緩み、足が前に進みにくくなり、時々歩いてしまうようになりました。 片側一車線の道路をゆっくりとしたペースで走ったり、歩いたりを繰り返します。 おそらく38km地点くらいから視界の中に春野陸上競技場が見えてきました。 「ゴールも近い。」 と思っていましたが、ガーン( ̄▽ ̄;) 40km地点の手前で道を左折し、春野陸上競技場に向かう道を外れ、1kmほど遠回りしました。 これが精神的に非常にキツかったです。 その遠回りの折り返し地点がちょうど40km地点になっていました。

高知龍馬マラソン(その四)

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中間点を通過すると、左前方に浦戸湾を跨ぐ浦戸大橋が見えてきました。 高知龍馬マラソンの最大の見せ場、絶景ポイントです。反面、最も高低差が大きいポイントでもあります。 種崎の松林の途中から登りが始まります。1km7分ペースのEグループにとっては、この坂道は非常に厳しかったです。かなり多くの人が歩いていました。 橋の最頂部は絶景です! 浦戸湾の河口から大平洋が大きく眼下に広がります。さらに、浦戸大橋を降りる際には、丁度よい太陽の位置だったためか、橋の向こうに見える大平洋のさざ波だった海面が細かくキラキラと乱反射してとても綺麗な景色でした。 スピードを押さえながら浦戸大橋を下ると、桂浜へのアクセス道路との分岐点で仮装した龍馬が「頑張れ!」と応援してくれました。 浦戸大橋を降りると「花街道」と呼ばれる海岸沿いの片側一車線道路を走ります。 左手に快晴の大平洋が広がります。前方は視界良好、ほぼ真っ直ぐな道路が続きます。そのまま、仁淀川の河口まで真っ直ぐ走り続けます。仁淀川の河口が1つの折り返し点になっており、30kmの手前からは折り返してきたランナー達とすれ違いながらのランになります。 次は、フルマラソン終盤です。

高知龍馬マラソン完走!(その3)

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高知市と南国市を結ぶ幹線道路である国道32号線を南に走ること約10km弱くらいで、コースは32号線を右に曲がり、片側一車線の新しい道路に入り、少し走ると一車線の地元民の生活道路の様相に変化します。工事に伴う舗装の補修跡もあり、路面状態は良いとはいえません。この道路を2時間20分代のペースでトップ選手達が駆け抜けたかと思うと驚きです。コースは南西方向に向かっている雰囲気でした。 細い生活道は結構な距離で続き、10km地点を通過し、小さな川を越え、蛸の森トンネルというトンネルを通過します。川とトンネルの前後はアップダウンがあり、少し厳しかったです。この辺りでは、コースは南に向き、大平洋に近づいているのを感じます。15kmを越え、少し行くと、コースは右に曲がり、西に向きます。まだ、大平洋は見えていません。 この道路沿いに一軒だけ、コンビニがありました。幹線道路の国道32号線にはコンビニがありましたが、32号線を離れて以降、初めてのコンビニでした。実は、トイレに行きたかったのですが、どの簡易トイレも一杯人が並んでいたので、コンビニが無いものかと探していて、やっと見つけたコンビニです。 少し行くと、コースが少し南に向き、ついに大平洋が登場します。左手に高知新港を見ながら、20kmさらに中間地点を通過しました。 次は、激しいアップダウンの浦戸大橋が待ち構えています。

高知龍馬マラソン(その2)

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午前9時、号砲が高知の空に響きました。 我々Eグループはスタートの号砲から約2分後にスタートゲートを潜りました。 まずは、電車通りを東進し、南国市方面に向かいます。 沿道や歩道橋ではたくさんの方々が応援してくれていました。皆さんのお陰で楽しく走ることができました。 はりまや橋の交差点を越え、路面電車の線路沿いに走ります。 高知市のメインストリートを走らせていただき、本当にありがとうございました。たぶん市民の方にはご迷惑をおかけしたことでしょう。 国分川を越え、片側二車線の幹線道路を道なりに一路南国方面に向かいます。

高知龍馬マラソン、何とか完走!(その一)

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本日は高知龍馬マラソンです! 風邪気味で少し喉に痛みがあり、出場を悩んだのですが、折角、当選したこともあり、思い切って、出場しました。 早朝、自宅を出て、午前7時15分頃、高知城下着。 その後、高知名物日曜市用の駐車場に車を止め、当日受付場所である城西公園に歩いて向かいました。 駐車場の確保に相当な不安を抱えていたのですが、参加人数が4000人弱ということ、比較的早く会場付近に到着したことなどから、駐車場の確保には苦労はしませんでした。(駐車場を紹介してくれた地元の方、本当にありがとうございましたm(__)m) ただ、マラソン参加者のための駐車場を全く用意しないのであれば、公共の有料駐車場くらいはいつもより早い時間に開けておくという配慮は欲しかったです。 城西公園で最終受付、たくさんの窓口が設けられていたので、受付は非常にスムーズでした。(これは良かった!) ゼッケン、手荷物用ビニール袋、パンフレット等々を受け取った後、準備開始。 マラソン先輩のご助言を受け、両膝の保護のためにテーピングをセット。手慣れていないため、これに予想外に時間がかかりました。 次に、ベンチウォーマなどの手荷物を預けるために、手荷物預り所に向かいました。この時点で8時15分。総合案内で手荷物預り所の場所を聞くと、「手荷物の受付は8時15分までなので急いで!」と言われ、焦って手荷物預り所に向かいました。 ベンチウォーマやウィンドブレーカなどを脱ぎ、龍馬マラソン特製ビニールバックに収納して、ゼッケン番号下一桁ごとに整理されたトラックに渡します。しかし、かなり焦っていたので、用意していた飴ちゃんや手袋を手荷物から出すのを忘れてしまいました。 しかも、荷物を整理しているうちにランナー集合のアナウンスも始まり、バタバタでした。 ということで、ランナー集合場所となっている城西公園のグラウンドに集合しました。 集合はゼッケン番号の末尾についているアルファベットごとになっています。おそらく、申告タイムごとにA-Fに分類されているのだと思います。 アルファベットの分類ごとに並んだ後、少ししてからAの列から動き始めた気配がし、さらに順次、ランナーが動き始めました。 拙者はグループEでした。 城西公園から電車通りへ移動しました。電車通りに我々