>_<あくまでも司空流の「こうかも」年表ですので、誤りがあっても司空は一切の責任はとりません。>_<
>_<ご利用に際しては、解説・注意をご確認の上、各人で十分に史実をご確認ください>_<
天文2年(1533)、大内氏が石見大森銀山を尼子方から奪取し、吉田/飯田両氏を奉行として派遣//享禄4年に尼子勢に奪われていた。
天文2年(1533)、尼子氏が出雲日御碕神社に伯耆会見郡の山名氏旧領福田保/犬田村のうち51俵地利を寄進//尼子氏は社寺政策に相当の配慮を行っている。
天文2年(1533)、上条城(柏崎市黒滝)城主上条定憲方の長尾房長、中条藤資、新発田綱貞らが越後一の宮である居多神社(上越市)に乱入し、社殿などを焼く。
天文2年(1533)1月2日、一向宗徒が、細川晴元方の松井宗信が守る大物城を攻める。
天文2年1月23日、薬師寺国長と法華宗徒が、松井宗信の守る大物城救援のために京を出陣して、富田で一向宗徒と衝突し、敗退。
天文2年2月10日、一向宗徒が、石山本願寺を出陣し、堺を攻める。//細川晴元は小船で淡路洲本に逃げる。//本願寺証如が石山本願寺から堺の信証寺に移る。
天文2年、細川晴元が、将軍足利義晴から摂津平定の教書を請ける。//義晴は同時に摂津国人衆に細川晴元に協力するよう要請。//本願寺は幕府の逆徒となる。
天文2年2月14日、京の町衆が、浄土真宗の僧を間者として捕らえ、六条河原で斬首する。//京の町衆は大部分が法華宗。
天文2年3月5日、摂津の一向宗徒が、伊丹親興の守る伊丹城に攻め寄せる。
天文2年3月29日、木沢長政が、京の法華宗寺院から1万を動員し、摂津の伊丹城を救援し、一向宗徒を破る。//一向宗徒は5百人ほどが討死。//長政は敗走する一向宗徒を茨木辺りまで追撃し、さらに島下郡中を焼き払う。
天文2年、細川晴元が阿波衆6千を従えて、避難先の淡路洲本を発し、摂津池田城に入城。その後、芥川城に移り、畿内に号令して体勢挽回を図る。
天文2年4月26日、細川晴元方の4万の兵が、堺を占領する本願寺勢を攻める。//この陣中に11歳の三好千熊丸も出陣。//一向宗徒は敗走し、本願寺証如は大坂に逃れる。//信証寺は細川晴元勢により破却される。
天文2年5月2日、細川晴元勢と法華宗徒勢が、石山本願寺を攻めるため、天王寺に着陣。//9日には堀を越えて土居に辿り着き、19日には法安寺前の堀を破壊。//寄せ手の細川晴元勢は奮戦するも、落城には至らず。//この時、本願寺証如は18歳。
天文2年、細川晴国(細川晴元に追われて敗死した高国の弟)が挙兵し、丹波衆を率いて高雄から京を目指す。
天文2年5月30日、薬師寺国長(細川晴元方)が、京に残る晴元方の残兵を集めて、細川晴国に当たるが、仁和寺付近で討死。//この敗戦を契機に細川晴元が本願寺と和睦。しかし、主戦論派の下間頼盛は摂津中島近辺で抵抗を続け、本願寺証如もこれを黙認。//4万の細川晴元勢と法華宗徒を相手に石山本願寺は陥落しない要害となった。
天文2年7月、山科言継が、朝廷への経済的支援を求めるため、勅使として尾張に下向//織田信秀にもとに滞在し、信秀の居城や家臣平手政秀の屋敷の立派さに驚いたと言われる。
天文2年7月25日、朝、実従(浄土真宗)が、親鸞の影像を奉じ、大坂石山本願寺に到着。
天文2年8月、安芸の有力国人衆熊谷信直が武田光和と不和になり、毛利元就に味方する。//熊谷信直の妹が武田光和に嫁していたが、武田光和と不仲になり銀山城から信直のもとに帰ってきたのが一因。
天文2年9月6日、摂津国人衆の河原林正頼が、一向宗徒に味方し、摂津越水城を奪う。//その後、三好利長(後の長慶)が池田氏、伊丹氏とともに河原林正頼を攻め、越水城から追い出す。
天文2年10月24日、長尾為景が上条城城主上条定憲、坂戸城(南魚沼郡六日町坂戸)城主長尾房長、鳥坂城(北蒲原郡中条町)城主中条藤資、新発田城(新発田市大手町)城主新発田綱貞らを三カ月以内に退治したら社殿を造営すると居多神社に祈願。
天文2年11月21日、親鸞の生身像が、石山本願寺の御影堂に安置される。
天文2年(1533)、尼子氏が出雲日御碕神社に伯耆会見郡の山名氏旧領福田保/犬田村のうち51俵地利を寄進//尼子氏は社寺政策に相当の配慮を行っている。
天文2年(1533)、上条城(柏崎市黒滝)城主上条定憲方の長尾房長、中条藤資、新発田綱貞らが越後一の宮である居多神社(上越市)に乱入し、社殿などを焼く。
天文2年(1533)1月2日、一向宗徒が、細川晴元方の松井宗信が守る大物城を攻める。
天文2年1月23日、薬師寺国長と法華宗徒が、松井宗信の守る大物城救援のために京を出陣して、富田で一向宗徒と衝突し、敗退。
天文2年2月10日、一向宗徒が、石山本願寺を出陣し、堺を攻める。//細川晴元は小船で淡路洲本に逃げる。//本願寺証如が石山本願寺から堺の信証寺に移る。
天文2年、細川晴元が、将軍足利義晴から摂津平定の教書を請ける。//義晴は同時に摂津国人衆に細川晴元に協力するよう要請。//本願寺は幕府の逆徒となる。
天文2年2月14日、京の町衆が、浄土真宗の僧を間者として捕らえ、六条河原で斬首する。//京の町衆は大部分が法華宗。
天文2年3月5日、摂津の一向宗徒が、伊丹親興の守る伊丹城に攻め寄せる。
天文2年3月29日、木沢長政が、京の法華宗寺院から1万を動員し、摂津の伊丹城を救援し、一向宗徒を破る。//一向宗徒は5百人ほどが討死。//長政は敗走する一向宗徒を茨木辺りまで追撃し、さらに島下郡中を焼き払う。
天文2年、細川晴元が阿波衆6千を従えて、避難先の淡路洲本を発し、摂津池田城に入城。その後、芥川城に移り、畿内に号令して体勢挽回を図る。
天文2年4月26日、細川晴元方の4万の兵が、堺を占領する本願寺勢を攻める。//この陣中に11歳の三好千熊丸も出陣。//一向宗徒は敗走し、本願寺証如は大坂に逃れる。//信証寺は細川晴元勢により破却される。
天文2年5月2日、細川晴元勢と法華宗徒勢が、石山本願寺を攻めるため、天王寺に着陣。//9日には堀を越えて土居に辿り着き、19日には法安寺前の堀を破壊。//寄せ手の細川晴元勢は奮戦するも、落城には至らず。//この時、本願寺証如は18歳。
天文2年、細川晴国(細川晴元に追われて敗死した高国の弟)が挙兵し、丹波衆を率いて高雄から京を目指す。
天文2年5月30日、薬師寺国長(細川晴元方)が、京に残る晴元方の残兵を集めて、細川晴国に当たるが、仁和寺付近で討死。//この敗戦を契機に細川晴元が本願寺と和睦。しかし、主戦論派の下間頼盛は摂津中島近辺で抵抗を続け、本願寺証如もこれを黙認。//4万の細川晴元勢と法華宗徒を相手に石山本願寺は陥落しない要害となった。
天文2年7月、山科言継が、朝廷への経済的支援を求めるため、勅使として尾張に下向//織田信秀にもとに滞在し、信秀の居城や家臣平手政秀の屋敷の立派さに驚いたと言われる。
天文2年7月25日、朝、実従(浄土真宗)が、親鸞の影像を奉じ、大坂石山本願寺に到着。
天文2年8月、安芸の有力国人衆熊谷信直が武田光和と不和になり、毛利元就に味方する。//熊谷信直の妹が武田光和に嫁していたが、武田光和と不仲になり銀山城から信直のもとに帰ってきたのが一因。
天文2年9月6日、摂津国人衆の河原林正頼が、一向宗徒に味方し、摂津越水城を奪う。//その後、三好利長(後の長慶)が池田氏、伊丹氏とともに河原林正頼を攻め、越水城から追い出す。
天文2年10月24日、長尾為景が上条城城主上条定憲、坂戸城(南魚沼郡六日町坂戸)城主長尾房長、鳥坂城(北蒲原郡中条町)城主中条藤資、新発田城(新発田市大手町)城主新発田綱貞らを三カ月以内に退治したら社殿を造営すると居多神社に祈願。
天文2年11月21日、親鸞の生身像が、石山本願寺の御影堂に安置される。
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