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ラベル(950(1532)_==天文年間==)が付いた投稿を表示しています

950(1555)_==弘治1年==(最新版)

>_<あくまでも司空流の「こうかも」年表ですので、誤りがあっても司空は一切の責任はとりません。>_< >_<ご利用に際しては、解説・注意をご確認の上、各人で十分に史実をご確認ください>_<  天文24年(1555)、この年10月、弘治に改元。  天文24年(1555同年改元し、弘治1年)、 尼子晴久(詮久)が国内の動乱や大内/山名の侵攻を退けたことを感謝し、出雲大社に出雲で2百貫の地を寄進。  弘治1年(1555)1月14日、長尾景虎が、安田城(柏崎市城の組)城主安田景元に柿崎景家や琵琶島城衆らと北条城を攻略するよう命じる。  弘治1年(1555)2月3日、長尾景虎の奉行大熊朝秀、直江実綱、本庄宗緩が、安田景元に起請文を差し出す。  弘治1年(1555)2月初旬、長尾景虎が、善根(柏崎市善根)に出陣し、北条城攻撃の陣頭指揮をとる。//武田氏の援軍はなく、北条高広(天文23年12月に上杉に謀反)は景虎の軍門に下る。  天文24年(1555)4月12日、本願寺証如(天文23年8月逝去)が、朝廷から法眼の僧位を授かる。  天文24年(1555)、尾張守護代の織田広信が、清洲城に同居する守護斯波義統を織田信長に通じたと理由で誅殺する。信長は叔父織田信光と謀って、主筋にあたる広信を誅殺し、清洲城を奪って自分の居城とする。  天文24年、長尾景虎が、越後兵を率いて信濃に入り、善光寺に布陣。また、越前の朝倉義景に対して北国の門徒を牽制するよう、書状で依頼。  天文24年4月24日、甲斐の武田晴信が、長尾景虎の信濃侵攻を受けた出陣を前に、石山本願寺へ正室(三条公頼の娘で、その実妹が顕如の婚約者)の使者を出し、門徒衆に越後を突かせて、景虎の背後を脅かすよう依頼。//慶寿院(顕如の祖母)はこれを躊躇うが、加賀では教芳らが越前朝倉討伐で鼻息が荒い。  弘治1年(1555)7月、長尾景虎が精兵八千を率いて信濃国川中島に出陣。//その後、善光寺背後の横山城(長野市)を本陣として、武田氏の旭山城(長野市)を攻撃。  弘治1年(1555)7月19日、長尾軍と武田軍が犀川付近で交戦したが、決定的な勝負とはならず。  天文24年7月23日、朝倉教景が、8千の兵を率いて加賀に侵攻。門徒の籠る大聖寺、

950(1554)_==天文23年==(最新版)

>_<あくまでも司空が各種資料に基づき独自に調査した結果ですので、誤りがあっても司空は一切の責任はとりません。>_< >_<ご利用に際しては、解説・注意をご確認の上、各人で十分に史実をご確認ください>_<  天文23年(1554)1月1日、本願寺証如が、夜明け頃、腹痛を訴える。  天文23年(1554)初頃?、石見津和野三本松城主吉見正頼(おそらく大内方)が陶晴賢討伐のため挙兵。⇒大内氏重臣陶晴賢がこれを討伐するため出陣。  天文23年(1554)2月12日、室町第13代将軍・足利義藤が義輝に改名。近江朽木で流遇中。  天文23年3月初旬、北条氏康が、今川義元の三河侵攻の隙を突いて駿河へ出兵し、今川との盟約により、武田晴信が援軍を差し向け、駿河の刈屋川(静岡県富士市加島)で激戦を展開。//今川氏の宿老大原雪斎の斡旋で、武田氏・今川氏・北条氏が瀬古の善徳寺(富士市今泉)で和約を締結。//晴信の娘を氏康の子氏政に、氏康の娘を義元の子の氏真に嫁がせることを決める(善徳寺の会盟。  天文23年(1554)5月、毛利元就が陶晴賢討滅のため挙兵>このとき陶晴賢は石見三本松城主吉見正頼を攻めていた。  天文23年5月4日、実従(浄土真宗、蓮如の実子)が「蓮淳葬送中陰記」を書き写す。  天文23年5月、周防の陶晴賢が、安芸の毛利元就に対して、石見への派兵を要求。  天文23年5月12日、毛利元就が、主人大内義隆を殺した陶晴賢に対し、安芸の吉田郡山城で挙兵。天文23年8月2日、本願寺証如が、天文5年元旦から書き続けた日記を病のために筆をおく。//その後、危篤となる。  天文23年8月12日、本願寺証如の嫡男茶々(顕如)が、証如の病を受け、急ぎ剃髪し、証如自身が自ら剃刀を当てて、法名(顕如)を与える。また、その日に本寺である青蓮院に使者を出し、大坂から上洛する時間がない旨を伝える。  天文23年8月、本願寺証如が、逝去。享年39歳。//本願寺顕如(12歳)が第11代宗主となる。//大方殿と呼ばれる祖母の慶寿院が宗務を見て、順興寺の実従(蓮如の末子)や教行時の実誓(蓮如の孫)がこれを助ける。  天文23年8月23日、石山本願寺が、前宗主本願寺証如の葬儀を行う。  天文23年(1554)9月、毛利元就が安芸桜尾

950(1553)_==天文22年==(最新版)

>_<あくまでも司空が各種資料に基づき独自に調査した結果ですので、誤りがあっても司空は一切の責任はとりません。>_< >_<ご利用に際しては、解説・注意をご確認の上、各人で十分に史実をご確認ください>_<  天文22年(1553)、室町第13代将軍・足利義藤(のち改名して義輝)が細川晴元と協力して三好長慶との戦いを開始。その後敗れて近江朽木に逃れ、以降5年間を近江朽木で過ごす。  天文22年(1553)1月1日、杵築大社法楽の連歌会が催され、宗養が「八雲にもけふ九重の霞かな」と発句。  天文22年(1553)1月26日、実孝(浄土真宗、吉野貝塚の本善寺住職)が逝去。享年59歳。  天文22年閏1月19日、織田信長の守役平手政秀が、信長への諫言を残して、自害。 天文22年(1553)2月10日、長尾晴景(上杉謙信の実兄)が病死。享年45歳と伝えられる。法名千厳院殿華獄光栄。//長尾景虎(のちの上杉謙信)が越後の大名となる。  天文22年(1553)春頃、大内家重臣陶隆房が、当主大内晴英の1字をもらい陶晴賢と改名。  天文22年2月29日、実孝(浄土真宗)の野辺送りで吉野に来ていた実従が、兄の実悟(浄土真宗、蓮如の実子)と共に高野山に上る。//同時期に連歌師の里村紹巴や前左大臣三条西公条が吉野を旅行。  天文22年3月、将軍足利義藤が、三好長慶との関係悪化に伴い、京の霊山城に籠る。//これを見て、近江にいた細川晴元が京奪還に向けて動き、六角義賢や摂津芥川城の芥川孫十郎らがこれに呼応し、長慶方が窮地に立つも、松永久秀の奮戦により長慶方が京を保つ。  天文22年4月、美濃の斎藤道三が、娘婿の織田信長と、尾張富田にある聖徳寺(名古屋市中川区富田町)で初対面。//道三が町家に忍んで信長を盗み見ると異様な風体で長槍500本と鉄砲500挺を足軽に持たせて進んでいたが、寺について対面すると身なりを整え威儀を正して道三に拝謁し、道三を驚かせた。  天文22年(1553)4月、尼子晴久が備後の失地回復を目的として、出雲仁多郡横田に出陣、先方は甲山に到着。⇒備後比叡尾山城主の三吉氏が毛利元就に援軍を依頼。<<尼子晴久は備後甲山城主山内隆通や川西旗返城主江田隆連らが尼子方に味方したことを契機に備後

950(1552)_==天文21年==(最新版)

>_<あくまでも司空が各種資料に基づき独自に調査した結果ですので、誤りがあっても司空は一切の責任はとりません。>_< >_<ご利用に際しては、解説・注意をご確認の上、各人で十分に史実をご確認ください>_<  天文21年(1552)1月2日、南近江守護の六角定頼が逝去。//子の六角義賢が跡目を相続。  天文21年(1552)、下間仲之が生まれる。//下間仲之は、親鸞の直弟子蓮位房法阿の直系の子孫で代々本願寺の坊官を務め下間少進と称した家系で、後に石山本願寺の最高幹部の一人として顕如を助けて活躍した。  天文21年(1552)1月、室町第13代将軍足利義藤(のちに改名して義輝)が、細川氏綱を管領にするという条件で三好長慶と和睦し、京に戻る。(天文18年に京を追われていた)  天文21年(1552)1月10日、関東管領上杉憲政が小田原城(神奈川県小田原市)城主北条氏康に敗れ、長尾景虎を頼って上野国平井城(群馬県藤岡市)から逃亡する。//景虎は、平子(タイラク)孫太郎と庄田定賢らを沼田城(群馬県沼田市)に派遣。  天文21年1月20日、実従(浄土真宗)が、天文20年10月に完成した「正信偈和讃」の版木に誤字を発見したため、訂正する。  天文21年1月28日、室町幕府将軍足利義藤と三好長慶が和睦し、義藤が近江の堅田から京に帰る。細川晴元は出家して若狭に落ちる。  天文21年2月2日、細川氏綱が、管領になる。//三好長慶の傀儡。  天文21年(1552)3月3日、陶隆房が大友宗麟の弟晴秀を大内家当主として山口に迎える。/前年9月に大内義隆を討取ったことを考えると若干遅めか。  天文21年(1552)3月3日、織田信秀逝去。享年42歳。当時19歳の織田信長が跡目を相続。織田信長は三男ながら嫡出だった。  天文21年(1552)4月2日、尼子晴久、室町幕府から出雲/隠岐/因幡/伯耆/備前/美作/備後/備中の守護職の補任を受ける。>大内氏が陶晴賢の謀叛のため混乱していた。>この時には既に毛利元就は次男元春が吉川家を、三男隆景が竹原・沼田の両小早川家を相続させていた。  天文21年(1551)4月23日、長尾景虎(後の上杉謙信)が、百五代後奈良天王から従五位下弾正少弼に叙任される。  天文21年、尼子晴久(

950(1551)_==天文20年==(最新版)

>_<あくまでも司空が各種資料に基づき独自に調査した結果ですので、誤りがあっても司空は一切の責任はとりません。>_< >_<ご利用に際しては、解説・注意をご確認の上、各人で十分に史実をご確認ください>_<  天文20年1月11日、本願寺証如が、四天王寺に参詣。  天文20年1月15日、石山本願寺の御堂の庭で町衆が綱引きを競う。  天文20年、ザビエルが、激しい雪の中、入京。//朝廷や将軍に布教の許可を得ることを目的としていたが、朝廷にその力はなく、将軍は近江に逃れて不在であったため、失意の中で堺に戻る。  天文20年2月2日、加賀三カ寺に就いて追放され浪人になった者40人が、門徒への復帰を赦される。//加賀への帰国は許されず。  天文20年2月5日、本願寺証如の嫡男茶々(のちの顕如、9歳)が、帯直しの祝儀。  天文20年2月、将軍足利義藤が、朽木に移る。//この頃、三好長慶が義藤に近づき、義藤と細川晴元との関係が微妙に。  天文20年2月、細川晴元が、相国寺に布陣し、三好長慶と合戦するも、大敗。  天文20年3月3日、織田信秀が、尾張の末盛城(名古屋市千種区田代町城山)で病死。享年42歳。//織田信長(18歳)が跡目を相続。//葬儀は那古野の万松寺、この際、信長の出立、振舞いが奇矯だったことが知られる。  天文20年3月28日、実悟(浄土真宗、蓮如の実子)が、吉野の本善寺に籠り、「下間系図」を完成。  天文20年4月5日、石山本願寺が、前将軍足利義晴の一周忌の仏事料として1万疋を献上。後日、幕府が差し押さえていた山科の土地を還付。  天文20年4月7日、石山本願寺が、足利義維(前将軍足利義晴の弟)の息子義親の元服費用として2千疋を贈る。  天文20年4月29日、石山本願寺が、九条稙通に参内費用として3千疋を贈る。  天文20年7月17日、本願寺証如が、石山本願寺の盆踊りで、民衆が北殿や南殿の庭に踊り込むのを見て、来年以降、踊りを禁じる。  天文20年7月24日、飛騨や越中を転々としていた浄土真宗聞名寺が、寺領を越中の婦負(ネイ)郡八尾に定め、石山本願寺にその旨を報告する。//砺波の瑞泉寺とともに越中門徒を統率する存在となる。  天文20年、本願寺証如が、能登守護の畠山義統の家中で老職の

950(1550)_==天文19年==(最新版)

>_<あくまでも司空が各種資料に基づき独自に調査した結果ですので、誤りがあっても司空は一切の責任はとりません。>_< >_<ご利用に際しては、解説・注意をご確認の上、各人で十分に史実をご確認ください>_<  天文19年(1550)、毛利元就、有力家臣の井上衆を専横のかどで誅伐。  天文19年(1550)1月、三好長慶が、自ら伊丹に出向き、伊丹城の伊丹親興を激しく攻める。  天文19年(1550)、尼子晴久(詮久)、出雲大社の遷宮を執行。  天文19年(1550)2月26日、越後守護上杉定実が逝去。法名永徳院殿天仲玄清。越後守護上杉家は断絶。  天文19年(1550)2月28日、長尾景虎が室町十三代将軍足利義輝から白傘袋(シロガサブクロ)と毛氈の鞍覆(クラオオイ)の使用を許される。//事実上の国主待遇。  天文19年3月28日、三好長慶と伊丹城主伊丹親興の和睦が成立。//これにより摂津一円が長慶の支配下に入る。  天文19年4月、本願寺証如が、紀伊を訪れる。紀伊の門徒の中心である黒江の道場を訪れ、和歌浦などを周遊。  天文19年5月4日、室町幕府前将軍足利義晴が近江の朽木で逝去。享年40歳。  天文19年5月、室町第12代将軍・足利義晴が近江常在寺にて死去。  天文19年5月6日、石山本願寺の阿弥陀堂前に鐘楼が建立される。  天文19年6月、室町幕府13代将軍足利義藤が、三好長慶の摂津平定の多忙につけ込み、如意ケ岳の西北の中尾城(京都市左京区一乗寺中尾ケ谷)に立て籠もる。//長慶は直ちに摂津から軍を進める。//細川晴元勢がこれを迎えて北白川から鹿ケ谷にかけて合戦が続く。  天文19年8月18日、蓮淳(浄土真宗、蓮如の実子)が石山本願寺で逝去。享年87歳。  天文19年8月、ザビエルが、肥前平戸領主松浦隆信に迎えられる。//たちまち百人ほどの信者を得る。  天文19年9月、ザビエルが、周防山口を訪れ、大内義隆の許しを得て、町に立って説法を行う。  天文19年10月、近江国友村の鉄砲鍛治が、昨年7月に織田信長から受注した鉄砲5百挺を納入。  天文19年、三好長慶が、将軍足利義藤の籠る中尾城を攻め、京の東方面を焼き払う。  天文19年11月、将

950(1549)_==天文18年==(最新版)

>_<あくまでも司空が各種資料に基づき独自に調査した結果ですので、誤りがあっても司空は一切の責任はとりません。>_< >_<ご利用に際しては、解説・注意をご確認の上、各人で十分に史実をご確認ください>_<  天文18年(1549)1月20日、本願寺証如が、朝廷から「三十六人集」を拝領。//「三十六人集」は最古の三十六歌仙の歌集で平安期の元永年間に書写されたもの。  天文18年1月26日、本願寺証如が、勅許により、権僧正となる。//権僧正は僧官職の極官位。  天文18年2月2日、本願寺実如の25回忌法要。  天文18年2月12日、三好長慶が、摂津越水にあって、細川晴元方の伊丹城主伊丹親興を攻めて、城下を焼く。//敵の三好政長が池田城外に放火したことがきっかけとも。  天文18年2月25日、本願寺証如が、権僧正任官への謝礼として、朝廷に2千疋、青蓮院に1万疋を献上。  天文18年2月26日、三好長慶が、兵を摂津伊丹から尼崎に移す。河内の高屋にいた遊佐長教が、娘婿長慶に呼応して、北進を開始。摂津西成郡守護の細川晴賢は居城堀城(別名中島城、大阪市東淀川区十三本町)を捨て、柴島(東淀川区柴島)の三好政長のもとに逃げ込む。//三好長教が、尼崎から三国川を渡り、空になった堀城に入る。  天文18年3月1日、三好長慶の大軍勢が、細川晴賢や三好政長が籠る柴島城に迫ったため、晴賢や政長は戦意を失って柴島城を退き、淀川を渡って榎並に籠る。  天文18年3月6日、三河の松平広忠、岡崎城内で近臣の岩松八弥に切られて死亡。享年24歳。//嫡男竹千代(のちの徳川家康)は8歳で、尾張の織田信秀の人質となっていた。//今川義元がこの隙に三河を手中に収める。  天文18年3月10日、石山本願寺において、花見が行われ、酒宴が深夜八つ時(午前2時頃)まで続いた。  天文18年(1549)、三好長慶、遊佐長教(長慶の岳父)が、細川高国の養子氏綱を擁立し、細川晴元家臣三好政長(晴元の軍事面を支えていた)を摂津榎並で討ち取る(江口の戦い)。  天文18年6月、三好長慶・細川氏綱が、足利義晴・義藤(のち改名して義輝)父子、細川晴元を京都から再び追う。将軍父子は近江坂本に逃亡し、常在寺に留まる。  天文18年

950(1548)_==天文17年==(最新版)

>_<あくまでも司空が各種資料に基づき独自に調査した結果ですので、誤りがあっても司空は一切の責任はとりません。>_< >_<ご利用に際しては、解説・注意をご確認の上、各人で十分に史実をご確認ください>_<  天文17年(1548)、吉川元長誕生。幼名鶴寿丸、長じて、少輔次郎と名乗る。父は吉川元春で嫡男。  天文17年(1548)3月22日、越前の朝倉孝景が逝去。//15歳の義景が相続。  天文17年4月、細川晴元方の三好範長(26歳)と細川氏綱方の遊佐長教が、和睦。遊佐長教の娘を範長に輿入れ。  天文17年4月26日、本願寺証如が、朝廷から借りていた御家流の祖尊円法親王が書いた「鷹巣法帖」を、金品を添えて返却。  天文17年5月、摂津池田城主池田久宗が、細川晴元の下命により、細川氏綱に内応した罪で、自害。//この後、池田家中が、細川晴元派と三好範長派に別れて内紛。  天文17年6月、本願寺証如が、御家流の祖尊円法親王が書いた「鷹巣法帖」を朝廷から下賜される。//4月26日に一度返却していた。  天文17年8月、摂津池田城内で政変が起こり、三好範長派が細川晴元派を追い出す。//天文17年5月参照。  天文17年8月、三好範長が、摂津池田城の政変を契機に、細川晴元とその配下で同族の三好政長と手を切る事を決意。名を長慶に改める。  天文17年8月、美濃の斎藤道三が、尾張の織田信秀の侵攻に対して、和睦を求め、道三の娘濃姫が信秀の嫡男信長に輿入れ。  天文17年8月、加賀の能美郡において、門徒の組の棟梁徳田縫殿助らが反乱し、江沼郡林村の超勝寺などを襲う//18日、本願寺証如は徳田らを処罰。  天文17年10月、三好長慶が、細川晴元に反乱。//三好政長が、細川晴元に長慶について告げ口をしたことがきっかけとも?//長慶は、三宅に拠って、江口(大阪市東淀川区江口)に拠る政長を攻める。  天文17年12月7日、本願寺証如が、北近江の浄土真宗僧侶の求めに応じて、浅井長政に書状を出し、誼みを通じる。  天文17年12月26日、狩野元信が、8月から描いていた石山本願寺の襖絵を仕上げ、証如から100貫文を受領。  天文17年(1548)12月30日、長尾景虎(越のちの上杉謙信)が、越後守護上杉定実の調停で、栃尾城

950(1547)_==天文16年==(最新版)

>_<あくまでも司空が各種資料に基づき独自に調査した結果ですので、誤りがあっても司空は一切の責任はとりません。>_< >_<ご利用に際しては、解説・注意をご確認の上、各人で十分に史実をご確認ください>_<  天文16年(1547)、武田信玄が甲州法度之次第を制定。  天文16年(1547)、吉川経家が生まれる。  天文16年(1574)1月4日、本願寺証如が、御堂衆の下間光頼の屋敷に赴き、茶を喫し、万里江山の軸を見る。  天文16年2月20日、比叡山延暦寺西塔院が、昨年と同様、本願寺に対して茶々(のちの本願寺顕如、当時5歳)を新礼拝講の執事役にと要請。//2月25日、本願寺証如は昨年同様要請を断る。  天文16年2月25日、阿波にいる足利義維(ヨシツナ、前将軍足利義晴の弟)が、本願寺証如に上洛の援助を依頼。//この頃、足利義晴・義藤父子と細川晴元の仲が怪しくなり始める。  天文16年3月、細川晴元方の三好範長が、細川氏綱方の三宅国村の居城三宅城(茨木市丑寅)を落とす。//三宅国村は門徒。  天文16年3月、足利義晴(前将軍)・義藤(現将軍)が、細川晴元を裏切って、細川氏綱に通じ、細川晴元を攻めるため、北白川に入る。  天文16年3月15日、本願寺証如が花見を催す。  天文16年5月8日、公周尼(浄土真宗実悟の妻)が逝去。享年29歳。//実悟はこの時56歳。蓮如の子供でありながら、証如に追放されている。  天文16年5月12日、御影堂に落書きして5月11日に捕らえられた門徒海老名孫次郎が、本願寺証如の命で死罪となる。  天文16年6月、法華宗の寺々が、六角定頼の口利きで京に帰ることを許される。//11年間もの間京から追放。  天文16年6月、甲斐の武田晴信が、甲州法度之次第を制定。//いわゆる信玄家法。法華宗と浄土との宗論を禁じる。  天文16年7月12日、細川晴元が、相国寺に布陣し、北白川の足利義晴(前将軍)・義藤(現将軍)父子を攻める。細川晴元に南近江の六角定頼が味方し、義晴らは近江坂本に逃れる。  天文16年7月12日、細川晴元方の三好範長と細川氏綱方の遊佐長教が、摂津の舎利寺(大阪市生野区舎利寺)で激突。  天文16年7月29日、細川晴元と、

950(1546)_==天文15年==(最新版)

>_<あくまでも司空が各種資料に基づき独自に調査した結果ですので、誤りがあっても司空は一切の責任はとりません。>_< >_<ご利用に際しては、解説・注意をご確認の上、各人で十分に史実をご確認ください>_<  天文15年1月、織田信長(幼名吉法師)が、父信秀が新たに築いた古渡城(名古屋市中区橘2丁目)において、平手政秀らの立会いのもと、元服。13歳。三郎信長を名乗る。  天文15年(1546)、越後の黒田秀忠がふたたび黒滝城に立て籠もり、長尾景虎に反旗を翻す。  天文15年(1546)2月28日、長尾景虎は守護上杉定実の命で黒滝城に出陣し、黒田一族を討伐し一族全員を切腹させる。  天文15年4月25日、叡山の西塔院から、石山本願寺に対して、来年の新礼拝講の執事役に、本願寺顕如(当時4歳)を指名したい旨、申し入れ//本願寺証如は、即日、先例がないとの理由で断る。  天文15年6月9日、摂津生玉社の遷宮。  天文15年、細川晴元が、勢いを盛り返した細川氏綱に対抗するため、三好範長を堺に出陣させたが、氏綱は河内守護遊佐長教と結んで三万余の兵で堺を囲む。//三好範長が窮地に立つのを見て、堺の会合衆36人が仲介し銭をやって氏綱らをひかせる。  天文15年、細川氏綱が、堺から北上し、大塚城(大阪市天王寺区茶臼山町)を攻める。これを見た摂津の池田久宗や三宅国村らの国人衆が細川晴元に背き、氏綱に味方する。//伊丹親興は細川晴元に味方。  天文15年9月、細川晴元が、遊佐長教に迫られ、京から高雄に落ちる。  天文15年9月、三好範長が、阿波から実弟の安宅冬康を堺へ呼び寄せ、阿波や淡路の兵が続々と堺に上陸。これに細川晴元が合流し、北摂津の諸城を次々と奪還。//石山本願寺の周辺が戦場になったが、本願寺は中立を保つ。  天文15年9月、一島新兵衛らが、越前から加賀江沼郡に乱入。//江沼郡は徳政がもとで混乱していた。//本願寺証如は、石山本願寺に詰めていた江沼衆を直ちに下国させた上で、他の石川、能美、河北三郡に平穏を保つよう指示。  天文15年(1546)9月20日、山中満幸(山中鹿之助の父)、逝去。享年27歳。  天文15年10月29日、尾山御坊が完成。本願寺証如は、阿弥陀如来の本尊や、親鸞の御影、仏具等を下賜。/

950(1545)_==天文14年==(最新版)

>_<あくまでも司空が各種資料に基づき独自に調査した結果ですので、誤りがあっても司空は一切の責任はとりません。>_< >_<ご利用に際しては、解説・注意をご確認の上、各人で十分に史実をご確認ください>_<  天文14年(1545)1月13日、石山本願寺において、本願寺証如のための新しい寝殿が落成。  天文14年、堺の橘屋又三郎が、種子島において鉄砲の製法を学び、堺に戻る。  天文14年5月25日、細川氏綱が、大和から山城に入るが、細川晴元が三好範長とともに宇治で迎え撃ち、氏綱を退ける。  天文14年8月、今川義元が、冨士川以東の北条氏の勢力を討伐するため、駿河に進攻。//同盟関係の武田晴信も出兵して義元を援護。  天文14年(1545)8月15日、山中鹿之助、月山の北麓広瀬川のほとり広瀬(富田)の山中屋敷に生まれたと言われる。あるいは月山山麓の新宮谷で出生。山中満幸の次男で、母は立原佐渡守綱重の娘。幼名甚次郎。(天文9年生まれとの説も)  天文14年9月14日、北条氏康が、武田晴信に書状を送り、今川氏との調停を依頼。  天文14年9月20日、織田信秀が、三河国安祥城を攻めていた松平広忠を破る。 天文14年(1545)10月12日、上杉家の老臣黒田秀忠が長尾景虎(のちの上杉謙信)の兄景康を殺害し、黒滝城(西蒲原郡弥彦村)に立て籠もり、謀反する。//春日山城危機の方に接した長尾景虎は「家国の瑕瑾」と憂い、兄長尾晴景のもとに馳せ参じ、黒田秀忠を討伐し、栃尾城に凱旋。  天文14年10月29日、甲斐の武田晴信、遠江の今川義元、相模の北条氏康が同盟を締結。

950(1544)_==天文13年==(最新版)

>_<あくまでも司空が各種資料に基づき独自に調査した結果ですので、誤りがあっても司空は一切の責任はとりません。>_< >_<ご利用に際しては、解説・注意をご確認の上、各人で十分に史実をご確認ください>_<  天文13年(1544)1月、織田信長、斎藤道三に兵を借りて那古屋城の留守居を委ね、村木城を攻める。  天文13年(1544)、尼子晴久(詮久)が出雲大社に伯耆の地を寄進。  天文13年(1544)1月5日、金春流の春日大夫が、本願寺証如に年始の挨拶。  天文13年2月、細川晴元が、近江国友鍛治に種子島(鉄砲)の製造を命じる。//種子島時尭はポルトガル人から買い取った2挺の鉄砲のうち、1挺を紀伊の津田算長に譲り、もう1挺を薩摩の島津義久に献上し、義久が足利義晴に献上した。義晴がこの鉄砲を見て、細川晴元に鍛治屋を探すよう下知した。  天文13年(1544)2月9日、長尾景虎(後の上杉謙信)が国内安全祈願のため、守門神社(栃尾市)に社領を寄進。//その後、景虎は栃尾城代本庄実乃(サネヨリ)、三条城代山吉行盛、母の実家栖吉城主長尾氏らの協力を得て、揚北衆を撃退。  天文13年2月中旬、尼子晴久が因幡攻略のため東征の途につく//去る大内義隆の出雲出兵に際して大内方についた南条宗勝や行松入道らを討伐するため。⇒その後尼子晴久は伯耆八橋(ヤバセ)城に入城し因幡平定に乗り出す。  天文13年3月、津田算長が、種子島において種子島時尭から譲り受けた鉄砲を携えて、紀伊に帰国。//算長は、弟である根来寺の杉坊明算に譲り、発射や火薬の製法を教授する。さらに、根来寺の門前町の西坂本にいた堺鍛治の芝辻清右衛門に鉄砲製造を命じ、苦心の末、成功。  天文13年3月11日、越中守護畠山稙長が、本願寺証如へ、越中の神保長職と椎名康胤との争いに一向衆徒が関わっているのを見て、一向衆徒にどちらにも加担しないよう依頼。  天文13年3月11日、毛利勢が尼子勢と備後甲奴郡田総(タテフ)で衝突。  天文13年3月17日、隠岐守護代隠岐宗清が逝去。跡目を嫡男豊清が相続。  天文13年3月21日、南近江守護六角定頼が、本願寺証如に対して、定頼が進めていた近江瀬田橋修築のための勧進に関して、50貫文を寄進して欲しい旨の書状を出し、証如がこ

950(1543)_==天文12年==(最新版)

>_<あくまでも司空が各種資料に基づき独自に調査した結果ですので、誤りがあっても司空は一切の責任はとりません。>_< >_<ご利用に際しては、解説・注意をご確認の上、各人で十分に史実をご確認ください>_<  天文12年(1543)、種子島に鉄砲が伝来。  天文12年(1543)、越後揚北衆(鳥坂城主中条藤資、本庄城主本庄房長、平林城主色部勝長ら)が長尾晴景(後の上杉謙信の兄)に従わなくなり、長尾景虎(後の上杉謙信)は兄晴景を助けるため敵に囲まれた三条城(三条市)に入り、ついで栃尾城(栃尾市大野)に移る。  天文12年(1543)、後の本願寺顕如が生まれる。  天文12年1月6日、本願寺証如に長子が誕生。幼名茶々、のちの本願寺顕如。母は庭田重親の娘。  天文12年(1543)1月21日、大内義隆、出雲宍道の畦地山に本陣を移す。//ここで富田城を眼下に望むことができる京羅木山への移陣について諸将に諮り、進軍に決する。  天文12年2月14日、織田信秀が、家臣平手政秀を京に遣わし、朝廷に4千貫文あまりを献上。//天文11年の台風で内裏の塀の屋根が飛んだことを聞き、信秀が用立てた。//その後、5月には石山本願寺を訪問。  天文12年2月12日、大内義隆、本陣を出雲京羅木山へ移し、陶隆房は経塚、兵庫頭は三沢為清、三刀屋久扶とともに出雲富田八幡山に布陣//京羅木山は出雲富田城を眼下に望む最前線となる。⇒そのまま3月上旬まで合戦でらしい合戦はなし。  天文12年3月14日、尼子方の大老牛尾幸清、川副久盛ら1千余が、大内方の寄手内藤興盛、毛利元就の連合軍5百余を出雲富田城の菅谷口蓮池縄手で撃退。  天文12年3月下旬、尼子新宮党2千余を率いた尼子誠久、敬久兄弟が新宮谷近くの金屋の洞光寺を攻めた大内方の平賀隆宗、益田藤兼ら5百余を撃破。この際、大内方の吉川興経が横槍を入れ、平賀らは討死を逃れる。  天文12年3月頃、大内義隆、出雲富田城包囲の陣中に京都の神道家吉田兼右を招き神道伝授を受ける。⇒この間、厳島神社や筑前箱崎宮、伊勢神宮、出雲日御碕神社、出雲揖屋神社に戦勝祈願依頼。⇒出雲鰐淵寺にも旧領を寄進。  天文12年4月11日、本願寺証如が、若狭守護武田元光から、越前の朝倉景高が船で西国に下るので堺までの道中を

950(1542)_==天文11年==(最新版)

>_<あくまでも司空が各種資料に基づき独自に調査した結果ですので、誤りがあっても司空は一切の責任はとりません。>_< >_<ご利用に際しては、解説・注意をご確認の上、各人で十分に史実をご確認ください>_<  天文11年(1542)1月、大内義隆、出雲国遠征のため、自ら山口を出陣。//養嗣子周防権介晴持、陶中務大輔隆房、杉伯耆守重矩、内藤下野守興盛の三重臣以下、精兵1万5千が従軍。⇒その後安芸国国府で毛利元就ら芸備の兵を合わせて石見路から出雲に向かう。  天文11年3月17日、河内守護木沢長政が、細川晴元方の三好政長と河内守護代の遊佐長教の挟み撃ちに合い、河内の太平寺(柏原市太平寺)で敗死。//長政は天文10年10月に細川晴元に反旗。  天文11年(1542)3月初旬、大内勢の出雲遠征の先鋒が石見国邑智郡出羽(イズハ)二ツ山に到着。ここで、益田、福屋、佐波、出羽、小笠原、本城らの石見国人衆が合流。⇒その後、江川の都賀の渡を越えて出雲に入国。  天文11年(1542)4月5日、越後守護上杉定実は隠居を決意し、誓書を守護代長尾晴景(上杉謙信の実兄)に送る。  天文11年6月、大内勢が出雲国飯石郡赤穴の瀬戸山城を攻囲。城主は赤穴光清で、富田城から援軍として田中三郎左衛門が入城//瀬戸山城は尼子1旗の4番目に位置する富田城防衛の重要拠点。  天文11年6月7日、出雲瀬戸山城攻囲中の大内方の先陣熊谷直続が抜け駆けして城に肉薄するも、反撃にあい部下の荒川与三とともに討死。  天文11年6月29日、出雲遠征中の大内義隆が本営を飯石郡頓原の由木に移し、兵に休息を与える。  天文11年6月29日、実顕(浄土真宗)が、加賀の超勝寺で逝去。//下間頼秀・頼盛兄弟とともに、蓮悟らの加賀三カ寺を滅ぼした享禄の乱の張本人。//この結果、本山が加賀を直接支配することになる。  天文11年7月17日、石山本願寺において、阿弥陀堂造営の定礎を実施。//その後、7月21日に立柱、7月26日に上棟。  天文11年7月26日、武田晴信(後の信玄)が、妹婿の諏訪頼重を、甲斐板垣(甲府市東光寺)で切腹させる。//晴信は頼重を桑原城(諏訪市四賀)に追い詰め、偽って捕らえていた。  天文11年7月27日未明、出雲瀬戸山城攻囲中の大内勢4万

950(1541)_==天文10年==(最新版)

>_<あくまでも司空が各種資料に基づき独自に調査した結果ですので、誤りがあっても司空は一切の責任はとりません。>_< >_<ご利用に際しては、解説・注意をご確認の上、各人で十分に史実をご確認ください>_<  天文10年(1541)1月3日、安芸吉田郡山城を包囲中の尼子勢が相合近辺で小早川興景勢や毛利勢に攻撃される。  天文10年1月11日、大内氏重臣陶が本陣を山田中山から吉田郡山城麓の天神山へ移動//いよいよ戦機が熟す。  天文10年1月12日、尼子方の安芸桜尾城主友田興藤が3島村上水軍と連携し、厳島を占拠。  天文10年1月13日、毛利勢3千が、早朝、宮崎長尾の尼子勢の陣地を強襲。尼子勢の第1陣高尾豊前ら2千、第2陣黒正甚兵衛ら1千5百を破り、第3陣吉川興経1千と干戈を交える。吉川興経がよく防ぎ、勝敗不明のまま日没を向かえる。  天文10年1月13日、陶隆房率いる大内勢が、宮崎長尾の尼子勢を攻める毛利元就と連携し、尼子詮久の本陣を急襲。尼子本陣は手薄になっていたため、総帥尼子詮久の命運も危ういと見えた所に尼子下野守久幸が大内勢に突入し、大内勢の先鋒大将深野重房を倒し、宮川善左衛門ら数十名を討ち取ったが、乱戦の中、力尽きて戦死。久幸が奮迅する間に分散していた尼子勢が本陣に馳せ参じ、大内勢追い散らして、尼子詮久は事なきをえる//この日の合戦で尼子勢4百余人、大内勢470人が討ち取られたという。  天文10年1月13日夜、尼子詮久が安芸吉田郡山城攻めの本営に重臣を集めて軍議を開き、明日の総退陣を決定。  天文10年1月14日、早朝(寅の刻頃)、尼子勢が安芸吉田郡山城攻略から撤収開始//大内勢・毛利勢は退却する尼子勢を猛追し、多大な被害を与える。  天文10年(1541)1月、尼子詮久、毛利元就の安芸郡山城攻めを断念。毛利元就、籠城5カ月。陶隆房率いる大内氏の来援など。//尼子経久や尼子下野守久幸は当初より郡山城攻めに反対。この尼子氏の敗戦により、芸備の国人を始め出雲国内でも三沢/三刀屋らの国人が大内氏に誼みを通じるようになる。  天文10年1月15日、大内水軍が尼子方の村上水軍と厳島神社の大鳥居前での戦いに勝利するとともに、大内勢が尼子方の安芸桜尾城主友田興藤に占拠された厳島を奪還。  天文10年1

950(1540)_==天文9年==(最新版)

>_<あくまでも司空が各種資料に基づき独自に調査した結果ですので、誤りがあっても司空は一切の責任はとりません。>_< >_<ご利用に際しては、解説・注意をご確認の上、各人で十分に史実をご確認ください>_<  天文9年(1540)、尼子氏対大内氏の対立が激化。尼子氏は播州から撤退したと思われる。  天文9年、春から夏にかけて、諸国に疫病が流行し、京では鴨川で洪水が発生。飢饉が起こる。   天文9年(1540)1月、大内勢が安芸国内の尼子勢討伐のため防府を出陣。⇒同年3月に岩国に向かい尼子勢に備える。  天文9年(1540)1月23日、青蓮院門跡尊鎮法親王が、石山本願寺を訪れる。//証如は厚くもてなし、寺内で名手とされる下間光頼に能を舞わせるなど歓待。//法親王は、証如に金襴の袈裟と紫衣を、証如の母に慶寿院の院号を許し、鎮水の名を下す。  天文9年6月6日、近江本福寺の明宗(浄土真宗)が、逝去。享年72歳//明宗は浄土真宗本山の蓮淳などに責められ、何度か破門された人物。//子の明誓が本福寺を相続。  天文9年6月、尾張の織田信秀が、伊勢外宮の仮殿造営費用を寄進。//これによって信秀は三河守を任ずる。  天文9年6月下旬、尼子勢のうち尼子国久率いる新宮党3千余騎が安芸吉田郡山城に向けて進発//尼子氏の昨年来の軍議では尼子下野守久幸が毛利氏討伐に反対し、また、尼子経久も久幸に賛同するも、当主尼子詮久はこれを容れず、大内氏が同年3月に岩国に向かったことを聞き、早々に新宮党を進発させた。⇒その後、三刀屋、掛合、頓原、赤穴を経て、尼子方の三吉隆信の守る安芸志和地八幡山城に進出。⇒此処から江の川上流の可愛川を渡って高田郡甲立に至り、吉田郡山城を背後から攻めようとした。八幡山城から南西4㌔の地点に祝山城があり、備後五竜城主宍戸元源の弟深瀬隆兼が守備し、守りを堅固にして尼子勢の来襲を待つ⇒尼子勢は祝山城を目指し、可愛川東岸から祝山城麓の石見堂の渡り口に押し寄せ可愛川を渡河しようとしたが、水深が深く渡河できず、そこに深瀬隆兼が全軍に攻撃を命じ、可愛川を挟んで散々に防戦。尼子勢の背後から伏兵もおこり、尼子勢は八幡山城間で退却し、さらに富田城に退いた。  天文9年8月、尼子方の川本温湯城主小笠原長隆が大森

950(1539)_==天文8年==(最新版)

>_<あくまでも司空が各種資料に基づき独自に調査した結果ですので、誤りがあっても司空は一切の責任はとりません。>_< >_<ご利用に際しては、解説・注意をご確認の上、各人で十分に史実をご確認ください>_<  天文8年(1539)、周防大内氏重臣陶興房逝去。  天文8年(1539)1月12日、子の刻頃、石山本願寺の寺内町北町から出火し、28戸が焼失。  天文8年1月14日、三好範長(利長から改名、後の長慶)が、阿波衆2500を率いて、入京。//細川晴元の画策。  天文8年1月14日、本願寺証如が、将軍足利義晴や管領細川晴元以下に年始御礼のための金品を贈る。  天文8年4月初旬、宮王大夫が、石山本願寺を訪れたため、証如は桟敷9間を作って、4日間の勧進能を催す。  天文8年4月27日、本願寺証如が、近江北半国領主浅井亮政宛に、江南の六角定頼との争乱が鎮まったことを祝う書状と太刀、緞子を贈る。  天文8年5月、大内氏が尼子氏から石見大森銀山を奪回。//奪還後、大内義隆は大森銀山に年間5百枚の運上銀(6年前の5倍の運上額)を命じる。  天文8年、狩野元信が、石山本願寺の障壁画に取り掛かる。//15年間かけて完成する。  天文8年6月9日、本願寺証如が、朝廷から伏見天皇直筆の和歌一巻と盃1枚を拝領。  天文8年閏6月、三好範長(後の三好長慶)が、管領細川晴元を討つために決起。//晴元は一旦高雄に退いた後、花園妙心寺(京都市右京区)に進出。範長は山崎から向日(京都府向日市)に陣を張る。  天文8年7月21日、下間頼盛(浄土真宗)が、石山本願寺が放った刺客により殺される。//翌日、本願寺証如に報告される。//本願寺が室町幕府に反抗した件は、下間頼秀と頼盛兄弟が全ての責任を取り、殺される形で収束した。  天文8年7月28日、三好範長(後の長慶)と管領細川晴元が、将軍足利義晴の依頼を受けた六角定頼の仲介により和睦。//しかし、範長は、晴元方の木沢長政や三好政長との対立を解かない。  天文8年8月、畿内で大洪水が発生。//京から公家や職人が、山口の大内氏の元に下る。  天文8年9月15日、室町幕府より京からの退去を命じられている法華宗徒が、室町幕府に京への帰還を願い出たが、室町

950(1538)_==天文7年==(最新版)

>_<あくまでも司空が各種資料に基づき独自に調査した結果ですので、誤りがあっても司空は一切の責任はとりません。>_< >_<ご利用に際しては、解説・注意をご確認の上、各人で十分に史実をご確認ください>_<  天文7年(1538)、尼子氏再度西播磨に再度(前回は天文6年)進攻。赤松政村を失脚させ、城山城(龍野市と新宮町の境)に本拠を置く。この際、尼子勢は交通の要衝上月城に兵を入れたと伝えられる。=尼子晴久が出雲から播磨に進攻し、上月城を占領。ここを拠点に播磨を攻略。  天文7年(1538)1月17日、堺の商人10人が、石山本願寺に参詣。//堺商人達が明へ貿易船を仕立て、本願寺が資金提供など後押ししていた。  天文7年2月8日、本願寺証如が、加賀で反乱した鈴見長門の死罪と、洲崎兵庫の破門を命じる。  天文7年3月15日、金春七郎喜昭が、石山本願寺において、初めて能を舞う。//この後、証如は金春座を贔屓にする。//喜昭は3月20日まで石山本願寺に逗留。  天文7年3月20日、下間頼秀が、近江において、本願寺が放った7人の刺客による殺される。  天文7年3月28日、石山本願寺が、北堀の工事を開始。  天文7年(1538)6月、尼子勢が美作に出陣。  天文7年6月10日、下間頼秀を殺した七人の刺客が、石山本願寺に戻ったため、本願寺証如が各人に褒美千疋を与える。また、刺客のうち、右京という者にさらに5百疋と太刀を与える。  天文7年7月9日、摂津守護を兼務する室町幕府管領細川晴元が、石山本願寺に対して諸公事免除の制札を与える。//石山本願寺寺内町は守護不入となる。  天文7年7月21日、石山本願寺が、本尊の左右に後奈良天皇の寿牌と先皇後柏原天皇の位牌を安置する。  天文7年(1538)8月23日、尼子詮久が大軍を率いて富田城を進発し、美作/備前を攻略、さらに但馬から播磨に兵を進める//無人の野を行くが如し。//尼子詮久は美作/備前/播磨の国人衆を軍勢に加えながら播磨守護職赤松政村の根拠飾磨郡置塩に迫る⇒赤松政村は支え切れず高砂に逃れたが、ここで小寺重隆/明石修理亮らが尼子氏に味方したため再び淡路に出奔し、阿波細川持隆に身を寄せる。  天文7年、尼子詮久率いる尼子勢が赤松氏の重臣別所就治の居城美濃郡3木城

950(1537)_==天文6年==(最新版)

>_<あくまでも司空が各種資料に基づき独自に調査した結果ですので、誤りがあっても司空は一切の責任はとりません。>_< >_<ご利用に際しては、解説・注意をご確認の上、各人で十分に史実をご確認ください>_<  天文6年(1537)、尼子経久、81歳を迎え、嫡孫詮久(24歳)に尼子氏当主を譲り、形式上隠居。  天文6年、清水宗治、備中で生まれる(幼名才太郎)。  天文6年春、毛利勢が安芸高田郡生田城を落とす。  天文6年(1537)1月14日、本願寺証如(22歳)が、大僧都に昇進。//朝廷や、仲介役の青蓮院に金品を贈る。  天文6年2月2日、本願寺が実如の13回忌を実施。  天文6年2月6日、豊臣秀吉が、尾張中村の百姓父弥右衛門と母仲の間に生まれる?  天文6年2月、甲斐の武田信虎が、駿河守護を相続した今川義元に、長女を嫁がせる。  天文6年2月24日、石山本願寺において、金剛氏正らが勧進能を奉納し、証如らが見物。  天文6年3月初旬、北条氏綱が、武田氏と今川氏との和睦に激怒し、大軍を率いて箱根を越えて、駿河に侵攻する。//武田信虎は援軍を駿河に送り、義元を助ける。  天文6年4月25日、石山本願寺が、紀伊の雑賀など一向門徒に300人の上坂を命じる。  天文6年5月9日、本願寺証如が、下間頼秀・頼盛兄弟を見つけたら生害させるよう、加賀四郡に書状を発信。//細川晴元とに紛争を全て二人の責任にするため。  天文6年6月6日、六角定頼が、平井加賀守を使者に立て、石山本願寺に派遣。6月7日、加賀守は本願寺証如に謁見し、定頼からの進物を贈る。  天文6年7月1日、妙宗院(浄土真宗:蓮如の第9子、四女)が能登府中で逝去。享年79歳。//将軍足利義政の側室であったこともある。享禄の乱で加賀を追われていた。  天文6年7月下旬、加賀三カ寺派(浄土真宗)の浪人衆が、加賀本覚寺を襲撃。//本覚寺方に追い払われる。  天文6年8月、本願寺証如のもとに、加賀三カ寺派の浪人による加賀本覚寺の襲撃の背後に蓮悟がいる旨の知らせが入る。  天文6年8月、六角定頼が、正式に近江国守護となる。  天文6年8月16日、尼子勢、石見大森銀山を奪取。//天文2年に大内氏に奪還されていた。  天文6年9月13日、堺の納屋衆千与

950(1536)_==天文5年==(最新版)

>_<あくまでも司空流の「こうかも」年表ですので、誤りがあっても司空は一切の責任はとりません。>_< >_<ご利用に際しては、解説・注意をご確認の上、各人で十分に史実をご確認ください>_<  天文5年(1536)、長尾虎千代(のちの上杉謙信)が、越後春日山城下の林泉寺に入り、天室光育禅師の教えを受け始める。//林泉寺は虎千代の祖父能景が明応6年(1497)に建立した長尾家の菩提寺。  天文5年(1536)春、尼子経久が備後に兵を進め、甲山城を落とし、山内直通を隠居させ、直通の婿多賀山道広の嫡男婿法師(のち隆通)を直通の子豊通の娘と結婚させて家督を継がせる。  天文5年(1536)1月1日、本願寺証如が日記を付け始める。//証如21歳。  天文5年1月4日、返還された山科御坊に新たな道場を作るために立柱が催される。  天文5年1月7日、尾張清洲城の織田大和守が、本願寺証如宛に、4百文を添えて織田家臣が一向宗徒に迷惑をかけた旨の書状を発信。//大和守は織田信秀の主筋に当たる。  天文5年1月15日、石山御堂(?)前で能が興行される。//熊野、西行桜、舟弁慶、羽衣、道成寺など12番を興行。  天文5年2月10日、越後守護代長尾為景が、後奈良天皇から内乱鎮定の綸旨を賜る。  天文5年2月13日、石山本願寺が、美濃と尾張の門徒衆に上坂して、石山本願寺の警護に就くよう求める。  天文5年2月26日、後奈良天皇が、即位式を挙げる//費用がなく、10年間延期していた//本願寺も費用の一部を負担//この頃、本願寺は公家にしきりに金品を送り、それらの結果、勅願寺となる。また、本願寺証如は権中納言庭田重親の娘(蓮如の十女祐心と庭田宣親の子供)を妻に迎える。  天文5年3月、甲斐武田信虎の嫡男太郎が元服。将軍足利義晴の一字をもらい晴信(後の武田信玄)と名乗る。合わせて、駿河の今川氏親の仲人で左大臣三条公頼の娘を娶る。//武田晴信の妻の姉は細川晴元の妻。  天文5年3月1日、のちの室町13代将軍・足利義輝が、室町第12代将軍・足利義晴の嫡男として東山南禅寺で生まれる。  天文5年3月26日、一向宗徒が、摂津中島で蜂起し、三好伊賀守を攻める。//三好伊賀守が、一向宗徒側から細川晴元方に寝返っ