950(1555)_==弘治1年==(最新版)
>_<あくまでも司空流の「こうかも」年表ですので、誤りがあっても司空は一切の責任はとりません。>_< >_<ご利用に際しては、解説・注意をご確認の上、各人で十分に史実をご確認ください>_< 天文24年(1555)、この年10月、弘治に改元。 天文24年(1555同年改元し、弘治1年)、 尼子晴久(詮久)が国内の動乱や大内/山名の侵攻を退けたことを感謝し、出雲大社に出雲で2百貫の地を寄進。 弘治1年(1555)1月14日、長尾景虎が、安田城(柏崎市城の組)城主安田景元に柿崎景家や琵琶島城衆らと北条城を攻略するよう命じる。 弘治1年(1555)2月3日、長尾景虎の奉行大熊朝秀、直江実綱、本庄宗緩が、安田景元に起請文を差し出す。 弘治1年(1555)2月初旬、長尾景虎が、善根(柏崎市善根)に出陣し、北条城攻撃の陣頭指揮をとる。//武田氏の援軍はなく、北条高広(天文23年12月に上杉に謀反)は景虎の軍門に下る。 天文24年(1555)4月12日、本願寺証如(天文23年8月逝去)が、朝廷から法眼の僧位を授かる。 天文24年(1555)、尾張守護代の織田広信が、清洲城に同居する守護斯波義統を織田信長に通じたと理由で誅殺する。信長は叔父織田信光と謀って、主筋にあたる広信を誅殺し、清洲城を奪って自分の居城とする。 天文24年、長尾景虎が、越後兵を率いて信濃に入り、善光寺に布陣。また、越前の朝倉義景に対して北国の門徒を牽制するよう、書状で依頼。 天文24年4月24日、甲斐の武田晴信が、長尾景虎の信濃侵攻を受けた出陣を前に、石山本願寺へ正室(三条公頼の娘で、その実妹が顕如の婚約者)の使者を出し、門徒衆に越後を突かせて、景虎の背後を脅かすよう依頼。//慶寿院(顕如の祖母)はこれを躊躇うが、加賀では教芳らが越前朝倉討伐で鼻息が荒い。 弘治1年(1555)7月、長尾景虎が精兵八千を率いて信濃国川中島に出陣。//その後、善光寺背後の横山城(長野市)を本陣として、武田氏の旭山城(長野市)を攻撃。 弘治1年(1555)7月19日、長尾軍と武田軍が犀川付近で交戦したが、決定的な勝負とはならず。 天文24年7月23日、朝倉教景が、8千の兵を率いて加賀に侵攻。門徒の籠る大聖寺、