950(1551)_==天文20年==(最新版)

>_<あくまでも司空が各種資料に基づき独自に調査した結果ですので、誤りがあっても司空は一切の責任はとりません。>_<
>_<ご利用に際しては、解説・注意をご確認の上、各人で十分に史実をご確認ください>_<

 天文20年1月11日、本願寺証如が、四天王寺に参詣。
 天文20年1月15日、石山本願寺の御堂の庭で町衆が綱引きを競う。
 天文20年、ザビエルが、激しい雪の中、入京。//朝廷や将軍に布教の許可を得ることを目的としていたが、朝廷にその力はなく、将軍は近江に逃れて不在であったため、失意の中で堺に戻る。
 天文20年2月2日、加賀三カ寺に就いて追放され浪人になった者40人が、門徒への復帰を赦される。//加賀への帰国は許されず。
 天文20年2月5日、本願寺証如の嫡男茶々(のちの顕如、9歳)が、帯直しの祝儀。
 天文20年2月、将軍足利義藤が、朽木に移る。//この頃、三好長慶が義藤に近づき、義藤と細川晴元との関係が微妙に。
 天文20年2月、細川晴元が、相国寺に布陣し、三好長慶と合戦するも、大敗。
 天文20年3月3日、織田信秀が、尾張の末盛城(名古屋市千種区田代町城山)で病死。享年42歳。//織田信長(18歳)が跡目を相続。//葬儀は那古野の万松寺、この際、信長の出立、振舞いが奇矯だったことが知られる。
 天文20年3月28日、実悟(浄土真宗、蓮如の実子)が、吉野の本善寺に籠り、「下間系図」を完成。
 天文20年4月5日、石山本願寺が、前将軍足利義晴の一周忌の仏事料として1万疋を献上。後日、幕府が差し押さえていた山科の土地を還付。
 天文20年4月7日、石山本願寺が、足利義維(前将軍足利義晴の弟)の息子義親の元服費用として2千疋を贈る。
 天文20年4月29日、石山本願寺が、九条稙通に参内費用として3千疋を贈る。
 天文20年7月17日、本願寺証如が、石山本願寺の盆踊りで、民衆が北殿や南殿の庭に踊り込むのを見て、来年以降、踊りを禁じる。
 天文20年7月24日、飛騨や越中を転々としていた浄土真宗聞名寺が、寺領を越中の婦負(ネイ)郡八尾に定め、石山本願寺にその旨を報告する。//砺波の瑞泉寺とともに越中門徒を統率する存在となる。
 天文20年、本願寺証如が、能登守護の畠山義統の家中で老職の勢力争いが起きたのを見て、門徒に介入せぬよう指示する。
 天文20年(1551)8月1日、長尾景虎が、天文19年に謀反した坂戸城主長尾政景に誓詞を送り、降伏する。//長尾政景は天文19年12月に謀反。//景虎は長尾政景が義兄であること、老臣たちの切なる助命嘆願があったので、許して臣下とした。
 天文20年(1551)8月29日、大内氏重臣陶隆房が謀反の旗を揚げ、周防富田の若山城を出陣。午の刻(正午頃)山口に突入。杉重矩・内藤興盛らとともに法泉寺を攻める。
 天文20年9月1日、大内義隆、陶隆房の叛乱・追撃により長門深川の大寧寺で自害。享年45歳。//武功夜話では天文18年9月1日に大内義隆が長門国大寧寺で自害とある。
 天文20年9月1日、大内義隆が自決。//義隆に招かれていた前関白二条尹房や前左大臣三乗公頼(本願寺証如の嫡男茶々の婚約者の実父)は陶方に殺される。
 天文20年10月、ザビエルが、インドへ退去するため、豊後の府中(大分市)を船出//山口から豊後へ移っていた。
 天文20年10月、石山本願寺において、「正信偈和讃」が完成。
 天文20年10月25日、能登守護の畠山義統が、本願寺証如に宛てて、畠山家の内紛が無事落着したのは本願寺が静観したおかげということで、書状と馬一匹を贈る。
 天文20年12月6日、下間頼言(浄土真宗、本願寺証如の側近)が鉄砲で雁を撃ち落とし、北殿で雁汁が振る舞われる。
 天文20年12月、上杉景虎が、上洛の安全を確保するため、近江の六角定頼に太刀と鷹を贈る。
 天文20年12月15日、石山本願寺が、「正信偈和讃」を再版。//10月に完成したものが、品切れになったため。

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