峡の劔:第四章 梟雄(1)
第四章 梟雄 清太と弥臓は重治から預かった伝輔という若者とともに、船上にあって琵琶湖を南進する。 湖上の船中、弥蔵が清太に久秀の略歴を語る。 久秀は、室町幕府に大きな影響力を持ち、畿内に一大勢力を形成した阿波守護代三好長慶に重用されて、世に出た。長慶が永禄七年(一五六四)に逝去すると、跡目を相続した長慶の養子三好義継の後見として当時三好三人衆と呼ばれていた三好長逸、三好政康、岩成友通とともに三好氏、さらには、室町幕府を専横し、永禄八年(一五六五)には三好三人衆と共謀して室町幕府十三代将軍足利義輝を京都二条御所において弑逆する。 ―将軍殺し。 清太は室町幕府の存在や征夷大将軍という地位に何らの感傷も持ち合わせてはいないが、久秀と三好三人衆による欲望に塗れた反逆に対して彼らの精神のありように強い疑問を覚える。 その後、久秀は三好家内部の権力を巡って三好三人衆と袂を別ち、以前、敵対した三好義継と手を結んで、永禄十年(一五六七)に、古都奈良において三好三人衆・筒井順慶の連合軍と合戦に及び、三好三人衆が籠った東大寺に火を放った。 焼け落ちた大仏殿と毘盧遮那仏の無惨な姿に奈良の民衆達は、 ―必定、仏罰が下る。 と噂し、影で久秀を貶めた。 永禄十一年(一五六八)、岐阜から南近江を平定して上洛を果たした信長に対して、久秀は茶道具の大名物九十九髪茄子を献上して臣従を誓い、大和一国切り取り次第の手形を得て、宿敵筒井順慶などの敵対勢力を押さえ込んだ。 しかし、元亀三年(一五七ニ)、甲斐の武田信玄が足利義昭の要請を受けて、上洛の途につくと、久秀は三好義継や三好三人衆と再び手を結んで、信長に叛旗を翻した。しかし、信玄が上洛途上で病魔に倒れた結果、残された反織田勢力は支柱を失い、打倒信長の企図は水泡に帰した。そして、元亀四年(一五七三)七月、信長は足利義昭を追放して、室町幕府の命脈を絶ち、久秀の籠る多聞山城を攻めた。降伏開城した久秀は織田氏への帰参を許されたものの、大和一国を召し上げられ、同国信貴山に移った。大和一国は織田氏の重臣原田直政に与えられたが、直政が石山御坊の合戦で討死すると、信長はその後任に久秀の宿敵筒井順慶を充てた。 「おそらく、久秀はこの人事に多いに不満を持っています。」 弥蔵が話しを結んだ。 清太達は大原に戻り、洛中で御劔の