峡の劔:第三章 軍師(2)

「清吾が亡くなったのは誠に残念だ。」
 重治は清太の端正な顔立ちに清吾の俤を感じながら、微かに瞳を潤ませる。
「よい目をしている。真実を見透すことのできる瞳だ。清吾の薫陶の賜物だな。峡はよい後継者を得た。」
 重治は感慨深げに旧知の弥臓に語り掛ける。重治の口調は静かだが、情感があり聞く者に落ち着きと温かみを感じさせる。
「清太も存じておるかもしれぬが、…。」
 重治は前置きして、清吾が初めて菩提山城を訪れた時の様子から始まり、清吾、そして、峡との様々な思い出を語る。そこには、清太が知っている事柄もあり、初めて聞く内容もあるが、峡の外部から見た重治の話は清太にとってはどれも新鮮に聞こえる。清太は、それぞれの出来事の表裏両面を改めて知り、ときに大きく頷き、ときに重治に質問して理解を深める。
「わたしと峡との付き合いはまだ長くはないが、格別に深いと思っている。」
 重治は回想を締め括り、会話の重心を織田氏を中心とした天下の情勢に移していく。
 天正三年(一五七五)四月、信長は三好康長が拠る河内高屋城を落とすなど摂津、河内で次々と蜂起する本願寺、阿波三好氏などの反対勢力を捩じ伏せながら、石山御坊攻略のため、兵十万を摂津四天王寺に進めた。信長が畿内に兵力を集中させ、東海方面が手薄になったと見た甲斐の武田勝頼は、信長と同盟関係にある徳川家康の本拠三河に侵入し、国境に近い長篠城を囲んだ。これを見た信長は三千挺の鉄砲を駆使し、武田信玄が育て上げ、当時天下無敵と賞賛された武田騎馬軍団を完膚無きまでに叩き潰した。
 これにより東海方面の不安要素を取り除いた信長は、八月、加賀・越前二国を支配していた一向一揆を殲滅し、北陸方面の本願寺勢力を一掃して、柴田勝家を越前北ノ庄に置き、北陸攻略の拠点とした。
 さらに、十月、信長は求めに応じる形で石山御坊と和睦し、山城から摂津、河内の安定確保に注力しながら、明智光秀に丹波攻略を命じるなど、さらなる勢力拡大を図った。
 この時期、信長の勢力伸長を見た播磨国人衆の別所長治、小寺政職、赤松広秀が秀吉を申次にして信長に拝謁した。また、この頃、土佐一国を掌中に収めた長宗我部元親が信長に使者を出して阿波侵攻の了解を得るとともに、嫡男弥三郎の元服に当たって信長から一字を譲り受けるなど、遠近の戦国大名が勢力伸長著しい信長との交誼を求めた。
 天正四年(一五七六)一月、信長は右大将に任官し、安土城の築城を決め、丹羽長秀に城普請を命じた上で、自身も早々に岐阜から安土に移った。
 石山御坊には雑賀衆など各地の門徒衆が続々と参集し、元亀四年(一五七三)に信長に追放されて紀伊由良に流遇していた足利義昭が、毛利氏に打倒信長の決起を促すため、備後鞆ノ津に動座するなど、反織田勢力に不穏な動きが目立ち始めた。
 これらの動きが石山御坊攻囲戦へと連続している。
「木津川河口での敗戦で時流は大きく変わった。」
 重治が呟く。
「この一戦が「毛利は強勢、織田は劣勢」という印象を世間に与えている。」
 そのような中で、信長は秀吉に播磨計略を命じた。とは言え、秀吉自身は信長から拝領した近江長浜の経営に加え、石山御坊攻囲戦への援軍や安土城普請の手伝いなど多忙を極めており、山陽方面に兵力を割く余力はない。
 信長は木津川河口での大敗を受けて、毛利水軍の火力に対抗するため、伊勢の九鬼義隆に船体を鉄板で装甲した鉄甲船の建造を命じつつ、石山御坊の包囲を継続する。重治は、
「海上が封鎖できねば、穴の開いた桶に水を注ぐようなものだ。」
と皮肉混じりに批評する。
 天正五年(一五七七)二月、信長が紀伊を平定した頃、謙信は北条氏に攻められた関東諸将の要請に応じて能登から関東に転戦した。
「これが謙信の限界だ。合戦は神の如く巧みだが、天下を宰領できる器ではない。」
 重治は一刀両断する。とは言え、既に謙信は越後春日山城に戻り、再び上洛の準備を進めているとの噂も流れる。これを受けて、信長は摂津天王寺砦に在番していた秀吉騎下の羽柴小一郎、竹中重治、蜂巣賀小六、前野将右衛門などの任を解き、秀吉に北陸への出陣を命じる。
 後任には松永久秀が就く。
「石山御坊は畿内に唯一残る反織田勢力の拠点だ。対処を誤れば、織田氏を内側から食い荒らす。ゆえに、天王寺砦を破綻させる訳にはいかない。」
 重治は語気を強めて、天王寺砦の重要性を説き、清太と弥蔵に天王寺砦に在番する久秀の監視を命じる。
―それだけか…。
 清太の表情に油断に似た色合いが現れたことを、重治は見逃がさない。
「当面は久秀の監視だが、もし、久秀が不審な行動を取るようなことがあれば、事態は急展開する。そうなれば峡衆としての力量を遺憾なく発揮してもらうことになる。それに備えて、油断なく頼む。」
 重治の口調は父親が我が子を叱咤するように厳しくもあり、諭すように優しくもあった。

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