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950(1920)_==大永5年==(最新版)

>_<あくまでも司空が各種資料に基づき独自に調査した結果ですので、誤りがあっても司空は一切の責任はとりません。>_< >_<ご利用に際しては、解説・注意をご確認の上、各人で十分に史実をご確認ください>_<  大永5年(1525)1月10日、本願寺実如が病に冒され、孫の証如(当時10歳)に譲り状を書く。  大永5年1月28日、本願寺実如が枕元に主だった者として弟蓮淳と蓮悟、子の実円、蓮慶(蓮綱の子)、顕誓(蓮誓の子)を呼び集め、自分の亡き後を五人が相助けて掟を守る仏法繁盛に心がけることを遺言する。  大永5年2月2日、本願寺実如が逝去。享年69歳。//実如の死を受け、山科付近の者が5名、越前で2名、加賀で6名が川や海に身を投げて後を追う。  大永5年4月、細川高国が入道して管領職から退隠。//名目のみの退隠だった。  大永5年(1525)晩春、毛利元就、大内氏重臣陶興房の誘いを受け入れ、大内氏帰属を決する。大内義隆は毛利元就に安芸国内で1370貫を宛行う。  大永5年6月、大内氏の重臣陶興房が安芸賀茂郡の志和米山城(城主天野興定)を包囲//天野興定は毛利元就の勧めにより大内氏に下る。  大永5年7月16日、越前朝倉教景の救援を受けた北近江の浅井亮政と南近江の六角定頼が戦う。//浅井亮政は近江北半国守護の京極氏から自立し、小谷城に拠ったが近江南半国守護の六角氏に圧迫されていた。  大永5年8月、大内氏の重臣陶興房、安芸志芳庄で同年6月に大内氏に下った天野興定らとともに尼子勢と戦う。  大永5年12月、豊後の大友宗麟が尼子氏のために援軍一万を派遣。(派兵先は不明)

950(1921)_==大永6年==(最新版)

>_<あくまでも司空流の「こうかも」年表ですので、誤りがあってもご容赦ください>_< >_<ご利用に際しては、解説・注意をご確認の上、各人で十分に史実をご確認ください>_<  大永6年(1526)以前、尼子経久が伊予守に任じられる。  大永6年(1526)3月、石見大森銀山の地下銀採掘が博多豪商神谷寿禎により始められる//この頃は大内義興の所領で、銀山北西の山吹城(銀山城)で大森銀山を守備していた。  大永6年5月18日、後柏原天皇が崩御し、本願寺が「三部経」と香典千疋を献上。  大永6年7月13日、細川高国が丹波の香西元盛を殺害。//香西元盛は細川尹賢の下で摂津中島の堀城を修築に加わっていたが、尹賢と元盛の人夫の喧嘩から両者の間がこじれたため、尹賢が細川高国に対して元盛を中傷したことがきっかけ。  大永6年(1526)9月6日、出雲雲樹寺に八俵半を寄進し、政久の菩提を弔う。  大永6年10月、波多野稙通と柳本賢治(カタハル)が、丹波八上などにおいて細川高国に反旗を翻す。//稙通と賢治は7月13日に細川高国に殺害された香西元盛の兄弟。//これを機に摂津や阿波でも反細川高国派が蜂起し、争乱となる。  大永6年、細川尹賢が、細川高国に反旗を翻した丹波勢討伐に向かったが、敗れて京へ引き上げる。//この間に反細川高国派が摂津をほぼ占領。  大永6年12月2日、山城で土一揆が起こり、幕府は徳政令を出してこれをなだめる。  大永6年12月15日、阿波で挙兵した細川晴元の先鋒細川政賢が三好勝長・三好政長らを率いて、堺へ上陸。//摂津の衆は続々とこれに合流。丹波の柳本賢治は、京を伺う。

950(1921)_==大永7年==

>_<あくまでも司空流の「こうかも」年表ですので、誤りがあってもご容赦ください>_< >_<ご利用に際しては、解説・注意をご確認の上、各人で十分に史実をご確認ください>_<  大永7年(1527)2月、安芸武田氏の属城安芸郡新城/熊野城が相次いで大内勢により陥落。  大永7年(1527)2月5日、丹波の柳本賢治が山城に進出し、山崎(京都府乙訓郡大山崎町)を占領。  大永7年2月13日、細川晴元の軍勢と細川高国の軍勢が川勝寺付近の桂川で衝突し、晴元方が大勝する。//三好勝長らが晴元方として戦闘。  大永7年2月14日、細川高国が室町将軍足利義晴を奉じて近江坂本へ脱出。//これに伴い、柳本賢治の兵が入京。  大永7年(1527)3月、安芸武田氏の属城安芸郡瀬野鳥子城が大内勢により陥落。ついで、武田光和の安芸銀山城の攻略にかかる。  大永7年3月22日、細川晴元が堺に上る。14歳。//阿波の三好元長が細川晴元と足利義維(ヨシツナ)を擁立。//三好元長は細川高国に殺された三好之長の嫡孫にあたる。足利義維は足利義晴の弟にあたる。  大永7年4月2日、本願寺証如が、慣例に従い青蓮院において、得度。12歳。  大永7年(1527)5月、大内勢が安芸府中城を府中城を攻めたため、武田光和は単独救援に赴く。  大永7年7月、毛利勢と尼子勢が備後和智で合戦。  大永7年7月、尼子経久が備後に入る。  大永7年8月、尼子経久と大内氏重臣陶興房が備後江田で対陣。  大永7年8月9日、尼子経久と大内氏重臣陶大内氏が備後和智の細沢山で合戦。尼子勢は米原山城守、牛尾信濃守らを失い、和智豊広も大内氏に下る。  大永7年10月13日、足利義晴を擁した細川高国が、朝倉義景や六角定頼の兵とともに、近江から京に入り、東山若王子(京都市左京区若王子)に陣を張る。//この後、東寺に移る。//11月19日、主力の朝倉義景勢が西院(京都市右京区西院)において、三好元長勢と戦い、敗れる。  大永7年11月、尼子勢と大内勢が三次で合戦。  大永7年11月19日、足利義晴および細川高国方の朝倉義景が西院(京都市右京区西院)において、足利義維・細川晴元方の三好元長と争い、敗れる。  大永7年、近江堅田の本福寺(浄土真宗)の明宗のもとへ、蓮淳