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10月, 2018の投稿を表示しています

学び舎は…

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社会人になって20年も経過すると、卒業した学校が徐々に姿を変えていきます。 高校は自分が3年生の時に建て替え工事が終了し、自分の下の学年から新校舎に移動しました。工事の騒音と埃に悩まされた記憶はあまりありませんが、得をした世代ではないなぁと思います。 さて、久しぶりに母校(大学)に行く機会があったので、当時、自分の通った研究室があった建物に足を運んでみました。 当時は、土木工学科が入っていた建物なのですが、いまは工学部ごと郊外の新キャンパスに移ったため、人文系の研究施設が入っているようです。 耐震補強が行われていて、外観が多少マッシブになっていました。大人数授業用の階段教室には自動ドアがついているのか、少し入口の様子が変わっています。 この階段教室はいまでも土木工学科が使っていると聞いています。 この階段教室の下が実験室になっていたのですが、いまはどんなふうになっているのか。興味が湧きましたが、建物内に入ると怒られそうなので、残念ながらあきらめます。

掛川神社(高知市薊野)

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土佐神社(一宮神社)に向かう途次、道路脇に「掛川神社」という看板を見つけたので、帰路に立ち寄ってみました。 その名称から想像するに、土佐藩主山内家が土佐に入部する際に、以前の所領であり、関ヶ原合戦の戦功の契機となった遠江掛川から分祀したのではないかと思われます。 主要道路を曲がると自動車が通れる舗装された参道があり、前方には石段が見えます。 参道脇に駐車場スペースがありました。 鳥居を潜り、石段を上ると、中間地点付近に手水鉢と社務所らしき建物があり、さらに上ると本堂があります。 本堂は小さな独立丘陵の頂上を造成して平地にしていますが、本堂の大きさにしては比較的大規模に造成しており、本堂以外と管理所以外に大きな建物がないことと相まって、雑木林に囲まれた境内としての空間は広く感じられます。 同神社の由緒は、石段下にある看板に拠れば、以下のとおりです。 ========================= 江戸時代の寛永十八年(1641)、第二代土佐藩主山内忠義が、その産土神であった牛頭大王を遠州掛川から勧請して、高知城東北の鬼門守護神として建立したのがはじめてである。以来、代々藩主から特別の崇敬を受けていた。明治元年(1866)現社名に改称した。 合祭神社中、瀧宮神社、海津見神社は、現境内地付近に鎮祭の古社で、いずれも明治三二年(1899)合祭した。 東照神社は延宝八年(1680)四代藩主豊昌が徳川家康の位牌殿を設けたのが始まりで、文化十一年(1814)には、十二代藩主豊資が境内に社殿を築造し、東照大権現と称していたが、明治元年東照神社と改称、明治十三年(1880)に合祭した。祭神が徳川家康であることから、県下の神社では唯一、社殿の軒下や手水鉢に徳川家の家紋“三ツ葉葵“がつけられている。 社宝として、国の重要文化財に指定されている「糸巻太刀 銘国時」(山内忠義奉納)、「錦包太刀 銘康光」(山内豊策奉納)がある。いずれも現在東京国立博物館に寄託されている。 飛地境内として椿神社・秋葉神社がある。 ========================= わたしは、山内一豊が旧領掛川時代の家臣と、新規採用の家臣団を伴って、新領土佐に入部した際に、山内家の繁栄鎮護のために、この掛川神社を勧請したものと想像していましたが、少々違っていたようです

峡の劔:第六章 四天王寺(1)

 亥介と総馬は天王寺砦に入って以来、日々、四天王寺に赴き、日中は寺の周囲から境内の建物や庭の造作、樹木や置物の配置などを調べ、夜更けになると境内へ侵入する。  神社仏閣における宝剣盗難を伝聞している四天王寺では、陽が沈むと偸盗の侵入に備えて多数の篝火を焚き、僧侶、僧兵が境内を巡回して不審者を厳重に警戒する。逆に言えば、これらの行為は四天王寺に宝剣があることを示唆しており、亥介達が四天王寺に日参している理由もそこにあった。亥介達は警戒の間隙を縫って、毎夜、灌木や建物の影などに潜みながら、偸盗の出現を待つ。  この日も、薄雲に霞んだ眉月が瀬戸内の細波立つ海面に沈み、暗い夜空に無数の星々が明滅する。夜半を過ぎれば、肌に触れる涼感を帯びた微風が秋の到来を感じさせる時節だが、今夜の四天王寺は多量の湿分を含んだ不快な生暖かい空気に覆われている。 「今宵はことさらに蒸せる。」  総馬が額に滲む汗を拭いながら、小声で呟く。亥介と総馬は百を超すであろう僧兵達に厳重に警備されている四天王寺の中心伽藍を囲む回廊の瓦屋根の上に俯せて、伽藍内部の様子を窺っている。 ―昨夜までとは何かが違う…。  二人は怪異の予感に、 ―臨兵鬪者皆陣裂在前。 の九字を唱え、邪気を払う。  中心伽藍の僧侶、僧兵達は不自然に上昇する暑気に、ある者は全身から噴き出す汗を幾度も拭い、ある者は扇子をあおぐ。時間の経過とともに、僅かに涼を与えていた微風さえも停止する。中心伽藍内部の不快が極大に達し、下品(げぼん)な僧兵達は襟を寛げて素肌を露出し、一部の者は口渇に耐えられずに水を求めて持ち場を離れる。  突然、烈風が起こり、伽藍内に蓄積した湿分と暑気、さらには、伽藍内に残留していた僅かな警戒心を吹き払う。 ―何かが始まる。  亥介と総馬が中心伽藍を見つめる。  再び烈風が中心伽藍を吹き抜け、中心伽藍の正面入口に当たる中門で燃え盛っていた篝火を掻き消す。中門の足下にできた闇溜まりに、突如、湧出した老僧が中門を固めている屈強な僧兵に歩み寄る。声を掛けられた僧兵は老僧の出現に何の疑念も持たず、先導して中心伽藍の内部へと案内する。 ―面妖な…。  外部から見ている亥介と総馬にとっては明らかな異状である。  僧兵に先導された老僧は、耿々と周囲を照らす篝火の中、中心伽藍を警護する僧侶、僧兵達に慰労の言葉

峡の劔:第五章 悪党の頭領(1)

 陽が夕凪ぎの瀬戸内海に傾斜し、情景が茜色を帯び始める。 ―日が沈んだ向こう側に西方浄土があるというならば、さぞ美しいことだろう。  清太は、瀬戸内の多島海に沈んでいく韓紅の夕陽を天王寺砦から眺望して、阿波剣山の山頂から眺望する、焼けるような紅い夕空とは全く別趣の、儚さを含蓄した佳景に心を奪われた。この日も精神を透明にして凝然と美しい夕陽を眺めていると、清太の視界の隅を見覚えのある旅装束の武士が横切った。 ―よしのを拐かそうとした悪党の頭領。  その頭領が松永陣屋の門前に立ったあと、門番の案内で陣屋に入っていく。  清太は門番に歩み寄り、掌に幾ばくかの銭を握らせて、武士の素性を尋ねる。門番は下卑た愛想笑いを浮かべ、銭を素早く懐に入れながら答える。 「わしも初めて会った武士じゃ。「久秀に兵法者の籐佐が茶を飲みに来たと伝えよ。」と言うておった。」  久秀は織田氏の武将であるとともに、著名な茶人、数寄者である。 ―怪しい。  清太は直感する。  幼少期から、時々刻々と転変する峡の厳しい自然の中で、清太は祖父や父から、 ―逡巡は命を危機に曝す。そうならぬため、自らの直感を磨き、そして、その直感を信じて行動せよ。 と、繰り返し教授されてきた。清太は修業を通じて自身の直感を研磨し、さらに、実践を積み重ねて、様々な事象に躊躇なく、直感に従って行動できる心胆を練り上げてきた。 「少し探ってくる。」  清太は隣にいる伝輔に言い残して駆け出し、夕闇に溶融し始めた松永陣屋の外側にある灌木の影に同化し、直後、軽々と砦(さい)柵(さく)を飛び越え、陣屋内に散在する小さな闇を素早く選び、残照を頼りに兵糧を使う雑兵を避けながら、陣屋の内部へと侵入し、一棟の建物の床下に滑り込む。床板の隙間から灯火の薄光だけが射し込む暗闇を、清太は気配を押し殺して匍匐で進む。耳を澄ませば廊下が軋む不規則な音に混じって、複数の会話が耳朶に流れ込む。清太はそれらの会話の断片から余人に気付かれることを恐れる密談を探り当て、慎重に接近する。  清太は峡における鳥獣との接触を通じて習得した動物的な感覚で、人間を含めた動物が他者との接触を警戒するために備えている無色透明な結界を触覚できる。  清太が幽かに漏れる会話との距離を計る。相手に自分の存在を気付かれないために確保すべき距離は、相手の他者

ふるさとチョイスで藁焼きたたき from 高知県中土佐町

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ふるさとチョイスで高知県中土佐町の藁焼き鰹のタタキをいただきました。 寄附金額は15,000円だったと思います。 冷蔵の宅急便で送られてきたので、おそらく焼きたてを真空パックしたものです。 量的にはパンフレットに載っている写真と同じです。 ちょっと少ないかな、こんなもんかなぁ…、と悩みましたが、最近、返礼品に対する規制が厳しくなっているので、適正量かな。 タタキの短冊を厚さ8㍉前後に切り、お皿に盛りつけます。 薬味にニンニク×3欠片と細ネギ(風味を壊さないために敢えて10㌢くらいに切られています)が付いています。 ニンニクはスライスし、細ネギは細かく刻んで鰹のタタキを盛りつけたお皿に散らします。 さらに同梱のタレをかけて、出来上がり。 秋の戻り鰹は脂が乗っていて、とても美味美味! 藁焼きたたきは口に入れたときに藁が焼けるときの香りがほんのりと鼻腔に広がります。 燻製のようなこの香りがわたしはたまらなく大好きです。 久礼 山本鮮魚店さま、とても美味しい藁焼きたたきをありがとうございました。

坂本龍馬記念館

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 9月29日、台風24号が接近する中、土佐國若宮八幡宮を訪れたあと、浦戸にある坂本龍馬記念館を訪問。  以前、20年ほど前に訪れた記憶はありますが、その後、新館ができるなど、設備が拡充されております。  坂本龍馬記念館は長宗我部元親が築城した浦戸城城跡にあります。  壮大な太平洋の絶景を見下ろす、展望という観点では最高のロケーションです。  ただし、土佐國一国を支配する拠点としては南に偏り過ぎているように思われます。  山内一豊が土佐に入府して間もなく今の高知城に移ったのはその辺の理由もあるものと思います。  新館はシンプルな建物です。  本館は斬新・革新的なスタイルで、太平洋の方向に向かって色鮮やかな鯨が頭を突き出したような形状をしており、その頭の部分は硝子ばりの展望台になっています。  新館側から入館し、一階受付で入館料を支払います。企画展示が開催されていなかったため、入館料は490円でした。そのあと、二階に上がると、音声ガイドの受付があったので、保証金1,000円を支払って、レンタルしました。 音声ガイドは、展示の説明書きを棒読みしているだけだったので、あまり魅力を感じませんでした。ただ、補償金はあとで帰ってくる無料タイプなので内容が薄いのは仕方がないのかもしれません。 この日は、常設の展示(常設展示室とジョン万次郎展示室)のみでした。 しかし、常設展示室だけでも興味深い書簡(複製)が多数展示されており、知的好奇心という意味で眼福になりました。 「龍馬が行く」をはじめ司馬先生作品に出てくる龍馬関係の書簡を複製ではありますが、肌で感じることができます。 姉乙女への手紙であったり、薩長同盟直後に桂小五郎が龍馬に同盟の内容を確認するために発信した書状とその裏書き、土佐藩が藩を上げて薩長に協力することになったときに龍馬が発信した書状などなど、じっくりと読んでいけば、とても一日では回りきれない充実した展示です。 特に薩長同盟の内容に関する桂小五郎の書状はこれまで原文で読んだことがなく、当時の緊迫した時勢を感じられるものでした。 わたしは古文書を読めませんが、ここの記念館はほぼ全てに読み下しをつけてくれているので、非常に助かりました。 あと、こちらも複製ではありますが、坂本龍馬の写真がありました。演台のようなものに右肘をつき、羽織