掛川神社(高知市薊野)

土佐神社(一宮神社)に向かう途次、道路脇に「掛川神社」という看板を見つけたので、帰路に立ち寄ってみました。

その名称から想像するに、土佐藩主山内家が土佐に入部する際に、以前の所領であり、関ヶ原合戦の戦功の契機となった遠江掛川から分祀したのではないかと思われます。

主要道路を曲がると自動車が通れる舗装された参道があり、前方には石段が見えます。
参道脇に駐車場スペースがありました。

鳥居を潜り、石段を上ると、中間地点付近に手水鉢と社務所らしき建物があり、さらに上ると本堂があります。

本堂は小さな独立丘陵の頂上を造成して平地にしていますが、本堂の大きさにしては比較的大規模に造成しており、本堂以外と管理所以外に大きな建物がないことと相まって、雑木林に囲まれた境内としての空間は広く感じられます。

同神社の由緒は、石段下にある看板に拠れば、以下のとおりです。

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江戸時代の寛永十八年(1641)、第二代土佐藩主山内忠義が、その産土神であった牛頭大王を遠州掛川から勧請して、高知城東北の鬼門守護神として建立したのがはじめてである。以来、代々藩主から特別の崇敬を受けていた。明治元年(1866)現社名に改称した。
合祭神社中、瀧宮神社、海津見神社は、現境内地付近に鎮祭の古社で、いずれも明治三二年(1899)合祭した。
東照神社は延宝八年(1680)四代藩主豊昌が徳川家康の位牌殿を設けたのが始まりで、文化十一年(1814)には、十二代藩主豊資が境内に社殿を築造し、東照大権現と称していたが、明治元年東照神社と改称、明治十三年(1880)に合祭した。祭神が徳川家康であることから、県下の神社では唯一、社殿の軒下や手水鉢に徳川家の家紋“三ツ葉葵“がつけられている。
社宝として、国の重要文化財に指定されている「糸巻太刀 銘国時」(山内忠義奉納)、「錦包太刀 銘康光」(山内豊策奉納)がある。いずれも現在東京国立博物館に寄託されている。
飛地境内として椿神社・秋葉神社がある。
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わたしは、山内一豊が旧領掛川時代の家臣と、新規採用の家臣団を伴って、新領土佐に入部した際に、山内家の繁栄鎮護のために、この掛川神社を勧請したものと想像していましたが、少々違っていたようです。

また、県下で唯一、三つ葉葵が用いられているというのを観察できませんでした。残念です。





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