投稿

ラベル(925_==(歴史小説:短編)虎の肝==)が付いた投稿を表示しています

虎の肝(一)/歴史小説

虎の肝 北白川 司空 一人の権力者が発した一通の書状から、物語が始まる。 太閤様為御養生、可参御用候虎を御取候て、鹽能仕置可有御上之由、御意候、皮者此方不入候間、其仁へ可被遣旨被仰出候、頭肉腸何も一疋之分御沙汰候て可被参候、恐々謹言 (文禄三年)十二月廿五日 権力とは、その頂点に存在するたった一人の人間と、それに迎合し、追従する無数の人々によって成立する。どちらの一つが欠如しても、物質としては無機的な、それでいて人間が集団になったときにだけ有機的な意味を持つ、 -権力。 すなわち、 -権(かり)なる力 は、形作られることはない。 権力の風景は、幾重にも連なる山脈に例えることができるかもしれない。山脈は数々の山頂を有する山々の集合体である。山々はそれぞれに高低差をもち、固有の姿を持って地形を彩る。独自の形を持って偉容を湛え、幾重にも折り重なる山々は、身を寄せ合うことにより始めて一つの山脈を作り上げる。山脈の最高峰が最も強大な権力を持つ者とすれば、高低の差はあれ、最高峰に従属する数多の山々はその権力に巵従する従者に過ぎない。そして、最高峰を含む全ての山の頂は、重力に逆らわない程度の勾配を保つ土岩によって、その足下を支えられている。どの山の頂も、それを支持する大量の土塊なくしては、存在することさえも不可能であり、また、土塊あるところに必ず有限の高さを持つ頂が生まれる。そして、土塊達は自分たちが保持している頂が高ければ高いほど、その量を級数的に増大する。そんな土塊達に支えられた幾多の山頂が、集団を成し、地理的な意味での山脈を形成する。 天工の山脈はそのように形容できるが、人工の権力は常に厄介な地殻運動に悩まされ続ける。山岳を成す土塊は、自らを礎として成る山塊に強い誇りを感じながら、時に集団として、時には個人として、常時、今在る高度よりも上を目指し、他の土塊を押し退けて山頂に近づこうと、他の多数の土塊を唆し、それを貶める。そういう欲望が過剰に膨張したとき、人はあわよくば自らが山頂たらんとし、山頂を含んだ大崩壊を生ぜしめる。また、山頂に居て山脈の最高峰を羨望の眼差しで仰ぎ見る者たちも然りである。 冒頭の書状の発端は、そんな当時の日本という山脈の最高峰たる豊臣秀吉の山裾、海抜にすればほぼ海面に近い位置にある土塊の中の微少な土の粒子程度が発した個体としての

虎の肝(二)/歴史小説

その書状は、厳冬の日本海の波濤を乗り越え、文禄四年(一五九五)一月、朝鮮に外征している諸将に渡った。 それを受け取った武将の一人に、大隅一国一七万五千石の太守島津義弘がいた。実兄であり、薩摩一国の太守である島津義久とともに、鎌倉時代から脈々と続く名門島津家の頭領の地位にいる勇将である。 秀吉の天下統一以前には、島津家も、他の戦国大名と同様、その覇権を握るべく、国を富まし、兵を強くし、領土の拡大に邁進した。天正一三年(一五八五)には、長年の宿敵であった筑後の大友宗麟、肥前の龍造寺隆信らを抑え、ほぼ九州一円をその手中に収めるまでに雄張していた。 しかし、九州制覇を目前にして、脆くも夢は崩れ去った。非業に倒れた乱世の英雄織田信長の遺志を継ぎ天下統一の野望に燃える豊臣秀吉が、島津に臣従を求めるべく、薩摩に使者を差し向けた。 「鎌倉以来続いたこの島津家が、氏素性もわからぬ秀吉が如き卑賤の者の下に着けるか。」 真偽のほどは知らず、島津家の祖は源頼朝が九州に逃れてきたときの落胤であるという伝説があった。そんな家柄に対する誇りと九州をその版図に加えるほどの力に対する驕りが、義久と義弘の時流を読み取る触覚を鈍らせ、草履取り上がりに過ぎない秀吉に臣下の礼をとることを肯わせなかった。 島津からの返答に秀吉は激怒するよりも、時勢を感じることのできぬ田舎者に対する愁雲を覚えた。しかし、天下統一の野望に燃える秀吉にとっては、その覇業への道程を阻もうとするものに斟酌の余地は残されていなかった。秀吉は、島津家を倒し、九州をその傘下に収めるべく、近畿、中国、四国の大小名に出陣を触れ、兵二十万を動員し、天正一四年(一五八六)九月、九州討伐を命じた。 当時、この国で最も剽悍な種族の一つとされていた薩摩隼人達は、義久、義弘という二人の名将に率いられ、一騎当千の働きで、一時は数において大いに勝る秀吉軍の先鋒を押し返すという凄まじい戦功を立てた。その情勢を見て、天正一五年(一五八七)三月、ついに秀吉は、自らの本隊二五万を催し、その居城大坂城を発ち、九州征伐の途についた。 島津家の全兵力が五万、秀吉の動員した兵が公称五五万、すでに兵力は懸絶していた。秀吉の九州着陣以降は、石礫が急坂を転落していくように島津家は負け戦を重ね、本領薩摩・大隅二国に追い詰められ、天正一五年五月、ついに秀吉に膝を屈した。

虎の肝(三)/歴史小説

義弘は秀吉から届いたその書状を開いて、明らかに顔を顰めた。 -何かが変わった。 天下統一の野望に燃えていた往時の秀吉から発せられていた端厳しい光彩を思い返しながら、胸中で呟いた。それは、天正一九年(一五九一)に秀吉が朝鮮出兵を大小名に命じたときから、義弘の腹中に蟠(わだかま)るように残り続けていた想いの再来だった。 -いったい何を考えているのか。 秀吉が天下人への階を昇っていた頃、義弘はその打つ手の全てに対してその辣腕ぶりを、時に嘆息を洩らしながら、時には手を打つようにして賞賛した。しかし、天下人の地位に昇り、老耄と言えるまでに衰弱した秀吉から発せられる様々な命令は、愚にもつかぬ代物ばかりだった。 -人間とは、人生の目標に達したとき、その人格の輝きの頂点に達し、以後は衰えていくしかないのかもしれぬ。 義弘はこの頃の秀吉の振る舞いを想うたびに、そういう想いを抱くようになっていた。 義弘は書状を破り捨てたいという激しい衝動が喉元に湧き上がってくるのを懸命に抑えた。その衝動を堪えて主君秀吉の命に従うことのみが、その庇護にある自分とその家臣達という一つの山岳が生き延び、成長してゆく唯一の道であることを彼は知ってしまっていた。 -このような下らぬ命は肯諾できぬ。 義弘は、そういう毒薬のような感情に対する体内の拒絶反応が発する苦痛を、自分の配下の者達に代わって、堪え忍ばざるをえなかった。 義弘を始め豊臣政権という精密機械にも似た権力構造の中に組み込まれている大小の歯車達が、秀吉という最も重要な歯車に微妙な狂いを感じていた。 -秀吉という歯車は、長年月の旋回で摩耗し、風雪に侵され、古寂びているのかもしれない。 多くの武将は秀吉という歯車がどこかと噛み合うたびに発する異様な振動を感じ、そんな想いを抱いていた。 その振動は、 -秀吉の愛児棄の死を慰めるために加藤清正が朝鮮征伐を言い出し、秀吉が歓喜した。 とか、 -宇喜多秀家がそれに迎合した。 とか、口性ない殿中の噂が巷間に流布されるごとに急速に振幅を増大していった。そういった大小の噂を含め、秀吉とその周辺から発せられる様々な事柄に多少の違和感を覚えながらも、権力という傘の下に屯する者達は、周りの人間の顔色を窺いながら、権力者の命じるところに従わざるをえなかった。皆、自分を含めた集団の心の奥底に言葉に

虎の肝(四)/歴史小説

義弘は、微笑の刻み込まれた鋼の仮面を自らの表情に被せて、意気揚々と日本六十余州一の勁悍を誇る薩摩隼人のうちでも特にその名を家中に知られた兵士達を虎狩りのために厳選した。 虎狩隊に選ばれた精鋭は、大将格の上野権右衛門をはじめ、『突きの次郎兵衛』の異名を持つ安田次郎兵衛、無足衆の帖佐六七ら、いずれもその武勇を家中に轟かす薩摩隼人ばかりだった。 義弘は、虎狩隊一行の出陣に当たって、その士気を鼓舞するため、自らの前に彼等を呼んで激励した。 「薩摩隼人の名を世に知らしめるためにも、太閤殿下御所望の虎を頼むぞ。」 虎狩りという奇妙な役目であるにもかかわらず、この剽悍な薩摩隼人達は、何ら疑問を感じることなく、その役目を享受した。彼らにとって、限りなく神に近いと言っても良いほどに義弘は崇敬な絶対的存在であり、その言葉に疑問を差し挟むなどという思考の方法を、生を受けて以来、学んだことはなかった。幼少から体中に刻み込まれた薩摩武士道という名の洗脳にも似た思想教育は、彼ら薩摩隼人に主君の命令を絶対とし、隼人の名誉のためには死することさえも厭わない封建的価値観を強いた。 人間という群れることでしか生きることのできない生物は、集団として一つの激越な教えを受けたときに、その教える所、換言すれば自らの存在の意義に反する人間を、異物として排除しようとする悲しい習性を持っている。その性は、教えそのものが激越であるほど人間の集まりである集団そのものを思想的に純度の高い結晶へと凝縮させ、集団という物質の中に溶け込んでいる人間達の自意識と自己愛を過剰なまでに膨張させる。 義弘の言葉と薩摩隼人であるという結晶度の高い自意識は、そういう教えにより鍛造された虎狩隊の面々の全身に溶岩のような熱い血潮を駆け巡らせ、彼等の顔面を紅潮させた。

虎の肝(五)/歴史小説

このとき、島津勢は朝鮮半島の南端、唐島(巨済島)に陣を据えていた。朝鮮半島は既に、厳冬の峠に差し掛かり、凍え、身体の末端を失うかと思えるほどに寒冷だった。義弘五九歳、当時としては老境であり、北の異国の凛然たる寒気は老骨の節々を音を立てて軋ませるほどに寒い。それは薩摩という南国で育った隼人たちにとっても同様だった。 そんな極寒の中、虎狩隊一行は、その厳寒を忘れるほどの高ぶった興奮を保ったまま、唐島の僻陬、人煙などは皆無と言ってもよい島の北部、原野と呼ぶに相応しい野生を残す昌原の地へと向かった。その辺りは、土地の者ならば懼れて近づくことも避けるほどに古来より野生の朝鮮虎の生息地として知られており、彼等にとっては恰好の狩り場といえた。 権右衛門をはじめとする虎狩隊は雪の荒野を彷徨い、目指す敵を探し求めた。冬の異国の枯れ野を、人の踏み入れた痕さえもない山中に分け入り、虎の水場になりそうな所など、足が棒になるほど野獣の影を探し続けた。しかし、こちらが探すほどに、虎は巧みにその姿はおろか、生息の痕跡さえも残さなかった。 -追えば逃げる。 虎狩りを始めて三日目、獲物の姿を捕捉することさえもできぬ虎狩隊に焦燥の色が見え始めた。一行は、主君の命を忠実に行うという使命感のようなものに苛まれながら、心血を絞るように、そして、五感を研ぎ澄まして虎の姿を求めた。しかし、それでも虎は見つからなかった。皆、 -虎を獲るまでは戻ることはできぬ。 という悲壮な決意を胸に秘め、 -万一、虎を見つけることができねば、この原野で腹を切る。 という覚悟が、同一の思想により彫琢された彼等の心中に、暗黙の内に芽生え始めていた。そんな窮地に立ち始めた時、権右衛門が一計を案じた。 -こちらは、待てばよい。 考えれば、ただそれだけのことだった。冬枯れの一本の木の幹に囮の子牛を繋いだ。一同は虎から気取られぬよう、子牛が犬の大きさに見えるほどの距離を置き、灌木に身を隠して待った。 子牛の臭いに釣られるようにして容易に敵は訪れた。全身黄色の下地に黒の鋭い線を幾本も掃いた虎の姿を眼にしただけで、一同はこの小さな師旅の目的を果たしたかのような安堵感に無言まま欣喜した。しかし、それと同時に、 -でかい。 と、子牛と同じほどもあろうかというその巨大さに誰もが瞠目した。 皆が驚愕と茫然に包まれる中、権右衛

虎の肝(六)/歴史小説

隼人達は、眼前に現れたその敵を飛び道具で仕留めようとは、毛頭考えていなかった。己の武術に対する確固たる自信に加え、薩摩隼人としての誇りが、例え、畜獣であろうとも飛び道具を持たぬ相手に対して、弓鉄砲で撃殺するような卑劣な行為を許さなかった。相手がどんなに獰猛であろうとも、自分と仲間達の尊厳を汚す行為を峻拒するという信念が、自らの存在意義の根源をなす薩摩隼人魂ともいえる概念の中に植え付けられていた。 先鋒は安田次郎兵衛、得意の長槍を両手で扱きながら、槍と同様、真一文字に虎に向かって疾駆した。 虎は異様な気配を感じ、子牛に襲いかかろうとしていた顔を次郎兵衛の方に向けた。次郎兵衛の姿に殺気を感じた虎は、次郎兵衛の突進を真正面から受け止めるために、四肢をゆっくりと動かし、身体ごと向きを転じた。さらに、自分を殺すために向かってくる敵への反撃のため、四肢を撓め、顔を地面に擦り付けんばかりに上体を低めた。虎の一連の動作は緩慢ではあるが、緩慢であるが故に見る者に勝利への揺るぎない自信を感じさせた。 次郎兵衛は相手が戦いの体勢に入ったことを悟りながら、さらに突進に速度を加えた。次郎兵衛の加速に合わせて、後ろに続く兵達も虎という目標に向かって、一つの塊と化して疾走した。 次郎兵衛は躊躇することなく、虎との間合いを詰め続ける。槍の間合いは長いとはいえ、やはり虎の目の輝きが明瞭に見える距離、そして、虎の息使いが聞こえる所まで近付かなければ、必殺の一撃を加えることはできない。猛獣を確実に仕留めるためには、一撃で倒すしかないこと、そして、もし、最初の一撃を仕損ずれば、野獣はあらん限りの死力を尽くし、自分と仲間達をその鋭い爪牙にかけるであろうことを、次郎兵衛は頭ではなく、幾多の戦場での経験により感得していた。 次郎兵衛は顔を俯き加減にし、眉庇(まびざし)の向こうに見える不動の虎を睨みながら、急速に間合いを詰める。 -あと三歩。 次郎兵衛が放胆な踏み込みを続ければ、虎は彼の必殺の刺突の間合いに入るはずだった。 次郎兵衛が間合いを計ったその刹那、虎は無拍子で四肢に蓄えていた力の全てを解放し、次郎兵衛に向かって、鍛鉄のバネのように跳躍した。虎は鋭い直線を描いて、その飛翔の頂点に達し、美しい黄金色の放物線を描きながら、次郎兵衛の脳天目掛けて、落下し始める。虎は落下しながら、真っ赤な口を開き

虎の肝(七)/歴史小説

虎は空中に浮かんだまま全身の力を失い、四肢を垂れた。同時に串刺しの虎は次郎兵衛を支えている槍の石突きを中心に黄金色の円弧を描きながら、地面に倒れた。柔らかな肉塊が地面に叩きつけられたときに発する低く鈍い音が荒野に響いた。 次郎兵衛が歓喜の声をあげようとした瞬間、彼の背後に黄金色の鋭い風が起こった。 風は隊列の最後尾を、獲物を仕留めた喜びと主君の命を果たすことのできた充足感に惑溺したような表情で次郎兵衛に向かって駆け寄る権右衛門の前を吹き抜けた。権右衛門は、その風が彼の前を掠めるのと同時に顔面に灼熱の鋼棒を押しつけられたような激痛を感じ、思わず両手で顔面を覆った。彼は曲げた両の肘から赤黒い液体を止めどなく滴り落としながら、前向きに倒れ伏した。 権右衛門の前を走っていた帖佐六七が権右衛門の異変に気付き、背後を振り返る。そこには血溜まりの中に俯伏する権右衛門だけがいた。突然の事態を飲み込めぬまま、六七は権右衛門に駆け寄ろうとした。権右衛門の方に駆け出したその刹那、六七は鮮血の絨毯が地面に広がり続けている理由を知った。 黄色い風は烈風となって六七と権右衛門の間を吹き抜けた後、地面に当たると、間髪入れず、弾性的に反発し、今度は一本の光芒に変化して、振り返った六七の方角に向けて、矢のような速度で地面を摺動するかのように駆け出した。神速の黄金の矢は地面を這うような低さを保ちながら、六七との距離を一気に縮めた。美しい黄金の軌跡に魅せられたように立ち竦む六七の体に、太く明瞭な光跡を描くその光の矢が吸い込まれた。一瞬の出来事に槍を構えることさえも失念していた六七は、巨大な岩塊に押し潰されたような衝撃と、右太股を万力で微塵に砕かれたような激痛で我に返った。六七はそのまま剛体棒のように仰向けに倒れた。 彼は自分の体が発する激しい疼痛の場所を自らの目で確かめた。そこには、針金のように硬く鋭い黄金色の体毛を逆立て、身を怒りに震わせる巨大な虎の姿があった。 次郎兵衛の仕留めた虎の裕に三回りもあろうかという巨虎だった。次郎兵衛に突き殺された虎の母虎かもしれない。六七の太股に食らいついた巨虎は、彼の体から溢れ出る鮮血で口際を染め、怒りに忘我したように頭を左右に振り乱す。虎の動きに合わせて六七の体も地面に引きずられたが、彼に抗うだけの余力はなく、彼の体は虎のされるがままに左右に大きく揺れた

虎の肝(八)/歴史小説

二人が虎に与えた脾腹の傷は致命傷とも言える深手ではあったが、虎の動きを完全に封じるまでには至っていなかった。虎は断末魔の叫びをあげながら、助十郎に襲いかかった。助十郎と助七郎はすでに虎の体内に突き刺さった槍を放し、抜刀して止めの体勢を整えていた。助十郎は彼に覆い被さるように頭上から落下してくる巨虎の眉間めがけて、必殺の突きを繰り出した。 助十郎は掌で太刀が何か硬質な物を砕いた感触と生命を絶ったときの確かな手応えを感じていた。落下してくる巨岩を受け止めたようなその衝撃は、助十郎の腕を伝播し、脊椎を伝わって、彼の脳髄に敵を砕くという純粋にして無垢な目的を達成したときの眩きをもたらした。巨虎の身体は急速に力を失い、重力に引きずられるように乾いた地面に落ちた。灰神楽のような土埃が、巨虎の周囲に沸き立った。落下の衝撃は、力無く開いた巨虎の口から、内蔵に溢れた真紅の血液を噴出させ、地面を鮮やかな紅色に染め上げた。 放心と恍惚が綯い混ざった複雑な表情を浮かべる助十郎に助七郎が体当たりするほどの勢いで駆け寄り、興奮した表情と叫ぶような口調で語りかけた。 「助十郎、おみごと。」 茫然と立ちつくす助十郎の意識を呼び戻すために、助七郎は助十郎の肩を二回ほど強く叩いた。 助十郎は叩かれた側に顔を向けた。そして、巨虎に突き刺さったままの太刀から自らの心へと流れ込む甘い微弱な痺れと陶酔から覚醒し、破顔した。 覚醒とともに、助十郎は巨虎との最後の物理的な結合であり、軽微な酩酊に似た快感を伝播する媒体でもある太刀を巨虎の身体から軽々と抜き取った。刀身は冬季に獣が纏う濃厚な脂質の薄い膜に覆われ、寒々とした冬空の中天から降り注ぐ陽光を、眩さを感じさせない程度に鈍く跳ね返した。助十郎がその霞んだ輝きを放つ太刀で宙を切り、刀身に残る獣の油脂を払い除けると、微細な油滴が冷涼な空気の中に霧散した。その白い煙霧の中、助十郎は手に持った太刀を流れるような動作で鞘に収めた。鍔が乾いた音を立てて、鞘に当る。その高い金属音が、この強敵との闘争に、隼人達が勝利したことに対する、天地と、そして、神仏への捷報となった。 「チェストー。」 助十郎は硬く握った拳を突き上げて叫んだ。その拍子に合わせて、助十郎の周りに集まった隼人達も一片の屈託も含まない清浄な声音で勝ち鬨を上げた。義弘の命を忠実に果たすことができたと

虎の肝(九)/歴史小説

 唐島の本陣において、義弘は喜悦に満ちた表情で、虎狩隊とその隣に横たわる彼等が仕留めた二頭の虎を代わる代わる見つめていた。 「よう致した。一頭でよいものを、まさか二頭までも仕留めるとは、…。さすが薩摩隼人じゃ。」 義弘はその武勇をいかんなく発揮した虎狩隊の面々に手ずから褒美を与え、直に声を掛けることによりその労をねぎらった。各人に一通り褒美の品を与えた後、 「して、いかにして二頭もの虎を仕留めたのだ。」 と、義弘は興味ありげに尋ねた。しかし、権右衛門を失った虎狩隊の中には義弘に直答を許される身分の者はいなかった。裏を返せば、義弘は彼等にとって口をきくこともできぬほどに偉大な存在だった。面を伏せたまま、お互いに目配せしている虎狩隊を見て、義弘は自ら言った。 「直答を許す。」 急くような辞色に促されるように次郎兵衛が躊躇いを残したまま、虎狩りの一部始終について語り始めた。 義弘は、会話の節々で相槌を入れ、唸り声をあげたりしながら、終始上機嫌で彼等の武勇譚に耳を傾けた。しかし、その心の奥底には蕭条とした情感が、純白の半紙に墨汁を一滴落としたような小さな染みとなって、存在していた。それは、下らぬ書状のために生命を落とし、ここに居て自らの言葉を聞くべき隼人の数が二名不足していることにも拠っていた。 -よき兵子を二人も失うとは、…。 惻隠の情が浮子のように精神という大海の水深の深いところから水面に奔出しようとするのを、義弘は懸命に抑え続けていた。胸中にそんな想いを抱えながら、表情との矛盾が欠片ほども現れぬよう、彼は微笑を湛えたまま、次郎兵衛の話を傾聴し続けた。義弘が傾聴するほどに一同の功名心は充盈した。そういう精神作用の触媒を果たすことが権力を操るための一つの手段であるということを義弘は無意識に知り、行っていた。しかし、彼等の心が充足し、表情が喜色に包まれるほどに、正体の掴めぬ空虚が義弘の心中を占めていった。 一通りの話が終わった所を見計らい、精神を支配しようとする虚無から逃れるように、義弘はこの場に着くことのできなかった二人の勇敢な兵子に用意した敷物に視線を移し、居住いを正し、殊更強い口調で言った。 「この場にはおらぬが、権右衛門、六七もよう致した。虎と差し違えるとは、薩摩隼人の鏡のような兵子どもじゃ。」 義弘は彼等の落命を意味あるものに換えるため、無

虎の肝(十)/歴史小説

義弘は、彼等の姿を見つめ続けていた。義弘に誠忠無比であろうとする彼等はその命を忠実なまでに果たし、こうして今、自分の面前に呼ばれ、直々の言葉を受けたことに対して、感涙に噎(むせ)ばんばかりに、全身を振るわせ続けている。 -何故、お主達はそれほどまでに喜べる。 義弘は、秀吉に対する自らの立場を彼等に転嫁し、その心中を測ろうとした。何故、彼等は命を的にしてまで、野獣如きを狩るという武士としての生き様とは全く無縁の行為に執心するのか。そして、何故、今、彼等が自分に平伏しているのかを。 それを口にして直接尋ねたかったが、義弘はその行為が全く意味を為さぬことに気付いていた。彼等にとって義弘とは、彼等とそれに頼る一族、もう少し小さな単位に直すと、家族とも言えるささやかな人間の集団の生殺与奪の権に近い、形而上の世界にある得体の知れぬ、そして、絶大なる何かを握る存在だった。 だが、義弘にとっての秀吉は、虎狩隊にとっての義弘の存在とは明らかに異質のものだった。 義弘は、秀吉に出会うまでは自他共に認める絶対の存在だった。その絶対的存在がさらに上位の絶対的な存在である秀吉という人物に出会い、自らの生殺与奪の権を譲渡し、秀吉を恭敬しなければならないという価値観を強いられた。生を受けたときから、そういう価値観のもとであらゆる事柄を処理してきていれば、義弘も虎狩隊と同様、無条件とも言える忠誠を秀吉に対して向けることができたに違いない。だが、自らを律する基準と渡世の舵をとるための海図ともいえる思想が歳を経て凝結した段階で義弘の頭上に突如現れた秀吉とそれを尊奉しなけらばならないという価値観は、頭ではそうしなければならないと理解しえるものの、どうしても肉体がそれを拒んだ。 義弘は自らを動力源としない機械組織に徹しきれぬ一個の異形をした歯車に似ていた。島津家という組織の頂点にいて動力を発し、それを動かしていた島津義弘という一つの動力機関を持つ歯車は、天下という組織の中に組み込まれた当初、秀吉というさらに高度な動力に上辺だけでも回転を合わせ、馴染もうと努め、そうすることができたが、時を経るに連れ、無理のある回転の同期により発生する微妙な狂いは蓄積し、義弘という歯車は次第に齟齬を来した。 ずれていく回転を義弘は意識的に矯めながら、朝鮮に出陣し、秀吉に献じるための虎を狩ることを命じた。そして、

虎の肝(十一)/歴史小説

秀吉の欲する虎の肉腸はその書状とともに日本海を越え、秀吉の待つ大坂城へと届けられた。 肉腸、そして、虎の肝は塩の詰まった桶のまま、秀吉の面前に据えられた。秀吉を始め近従達はそれを、 ー如何にすべきか。 と途方に暮れた。そんな当惑を嘲笑するかのように黄金色の虎皮の毛氈二枚が、異様な輝きを部屋中に放っていた。 「彼の医者を呼べ。」 虎皮には一瞥さえもくれず、秀吉は名前さえも記憶していない身分の低い漢方医を呼ぶよう命じた。 顔面を蒼白にした件(くだん)の漢方医が、同朋衆に引きずられるような足取りで、秀吉の面前に連れ出された。 漢方医はこの日が来ることを予期していた。そして、虎が献じられたときの対処に日夜思案を巡らし、彼なりにその時の覚悟を決めていた。しかし、口先だけの輩の一典型のように、いざ、その時が来ると、 ーいっそ、逃げ出してしまいたい。 という衝動が漢方医の心中を充たしていた。彼は豪雨の中を走り抜けて来たかのような冷や汗を拭うことも忘れ、主君秀吉の前に平蜘蛛のようにひれ伏した。 秀吉は鷹揚に桶を扇で指し、漢方医に尋ねた。 「そなたが不老不死の妙薬と申しておった虎の肝が届いたが、如何に食せば良いのであろうな。」 秀吉の語調には叶うはずのない欲望を満たしてくれるかもしれぬ邪法の物具を眼前にして、それを使う術を知らない、例えば獲物を目の前にして弓矢を持たぬ猟師の心境に似た焦燥感が高い濃度で含まれていた。 その少し激した語調に漢方医は一瞬怯み、床に伏した身体を一段と小さく縮めた。 「その方、まさか知らぬ訳ではあるまいな。」 秀吉の表情にほんの少しだけ険が加わり、部屋に緊張した空気が流れた。僅かに鋭い棘を含んだ秀吉の言葉は、これ以上ないまでに縮めた漢方医の身体を微かに震わせた。そして、漢方医は、蚊の鳴くような声で、咄嗟に思いついた偽りを口にした。 「生で食するが最善かと聞き及びますが、日も経ております故、少々御炙りになられて、召し上がられるが上策かと存じます。」 呟くように言いながら、漢方医は秀吉に悟られぬ程度に目線だけを少し上げ、恐る恐る秀吉の表情の変化を伺った。 不老長寿という魔力を秘めた偽りの妙薬の処方は、秀吉の曇りがかかった表情を一変させた。その欣快の顔色に、漢方医は再び権力という階層の一段上に昇る梯子に手を掛けたことを確信した。喜

虎の肝(十二)/歴史小説

「調理の塩梅を存じておるか。」 秀吉は再び漢方医に尋ねた。言葉は問いかけの形を取っていたが、それは既に、 ーお前は知っているはずであり、知っていなければならない。 という独善的な断定を言外に含んでいた。漢方医にはその問い掛けを拒絶する権利はない。秀吉に睨まれた今の漢方医にできることは、一度ついた偽りを、真心を込めた大量の虚構で厚く塗り固めることで、その偽りが限りなく純度の高い真実へと収斂することを信じることだけだった。 「存じ上げ候。」 漢方医は詐佯を悟られまいと、全身の力を喉に込めて、返答した。往時の秀吉ならば、この漢方医の茶番じみた虚言を、最悪でも、この時点までには看破できていたに違いない。しかし、秀吉は既に老い、往時の超卓なる人物眼は鈍化していた。秀吉は漢方医の返答に満足したように一度頷く仕草をして言った。 「やってみせい。」 秀吉は欲望という物の怪に取り憑かれて感情の平衡を失ったためか、その言葉に異常な迫力を加わっていた。その言葉に迫られるようにして同朋衆が火鉢を抱えて部屋に入り、当然の如く、漢方医の膝の前に据えた。それに続いて、虎の肝、そして肉が奉られるように部屋に運ばれ、神仏に供物を献上するような恭しさで秀吉に披露された後、これもまた当然、火鉢の横に置かれた。塩漬けにされたとはいえ、野獣の臓物は近付くものに不快感を与える生臭さを発し、漢方医の嗅覚を刺激した。その、異臭を悟られぬよう漢方医は普段通りの口調で告げた。 「失礼つかまつります。」 漢方医は赤々と熾った木炭の火を見つめ、いかにも慣れた手つきで薄切りにされた虎の肝を箸にとる。そして、箸を炭に向け、その先端を穏やかな調子で揺らすようにして、肝を炙り始めた。同室の人々の瞳は箸先の穏やかな揺動に釘付けられ、皆、口を閉じた。 部屋は静寂に包まれた。 しばらくして、肝から油滴がポトリと炭の上に落ち、咳(しわぶ)き一つ聞こえぬ部屋に油が高熱に弾ける小さな音が響いた。その瞬間、漢方医は手を素早く動かし、焼かれたばかりの黒い肝を傍らの蒔絵の皿に載せた。 漢方医の心理は、既に臓腑を締め上げるような緊張と、自らの発する珠玉の偽りによる自己暗示、さらにはゆっくりと揺れる箸先を見つめ続けたことによる催眠作用により、自らの行為の真偽さえも判別できぬほどの幽玄の中に埋没していた。そして、虚実を忘れた彼の

虎の肝(十三)/歴史小説

老猿という表現が限りなく符号する表情をした秀吉の唇に虎の肝の欠片が近付く。その老猿は少し唇を開きつつ、未知の食物への恐怖を露わにしながら、肉片の端を噛み取り、二、三度咀嚼した。秀吉が肉片を玩味するこのときこそ、漢方医の全ての詐偽が真実へと転じる瞬間のはずだった。しかし、秀吉の顔は黒雲(こくうん)に覆われた。 「まずい。」 老いた秀吉は味覚から伝わる不快な感情を抑えることができぬまま、憤然たる面持ちで言った。そして、唾液にまみれた肉片を畳の上に吐き出し、怒声を上げた。 「これが食い物か。」 殿中全体が震えるような大声だった。秀吉は、織田家の郎党であった昔より大声を家中に知られた男だったが、老いた今は肉体の損耗を恐れるかのように小声になっていた。しかし、精神の均衡が破れたときには、精力の吝嗇という配慮を忘れ、戦場にあるかのような恐ろしい大声を発することができた。 秀吉は自らの怒声により、さらに怒りを募らせ、激情の赴くままに茶坊主の捧げ持つ皿を払い落とし、目を剥いて漢方医を睨め付けた。 「このようなまずいものが妙薬であろうはずがない。そなた、この関白を騙したな。」 怒罵しながら、秀吉は右手の箸を漢方医に投げつける。漢方医の身体は再び冷たい脂汗に包まれた。 「めっそうもございませぬ。」 漢方医は、畳に額を擦り付けるようにし、秀吉の独善の為せる理不尽で巨大な怒りを前にして、全身で恐懼の感情を表現しながら、あらん限りの声で応答した。しかし、どんな大声を出したところで、憤怒の鎧を纏う秀吉の感情の奥底に秘められた極めて小さな寛恕の場所には届くことはなかった。 呆けた老人の感情に理非はない。秀吉は我が儘な幼児のように怒りという感情を爆発させ、その爆発力を用いてさらに誘爆を起こし続けるだけだった。そして、その怒りの暴走はもはや秀吉以外のだれにも制止することはできなかった。そういう性質の怒りを静めるためには、怒りの発する秀吉本人が、その原因であると思いこんでいる何らかの物象に対して、相応の懲罰を与えるしかない。 「牢に押し込めよ。」 秀吉は、扇の先で怒りの根源である漢方医を指しながら命じた。 居合わせた誰もが秀吉に非を感じていた。しかし、秀吉の発言はそれを取り囲む人間達にとっては、理非についてはどうであれ、無視することの許されぬ、寸分違うことなく忠実に実行すべき

虎の肝(一四:完)/歴史小説

再び、意味のない書状が日本と大陸とを隔てる大海を渡り、韓の国に達した。 虎之儀被仰遣候之処、即二、肉骨腸、色々取揃、入念到来別而悦思召候、此上不入候間、狩以下一切無用候、猶石田治部少輔可申候也 (文禄四年)卯月廿八日 羽柴薩摩侍従(島津義弘)とのへ 秀吉朱印 義弘はその書状を読み、自分の献上した虎の肉腸にまつわる話の顛末を聞き、憤激した。 ーこの救いようのない一人の老人と取るに足らぬ佞人のために、薩摩隼人が二人、そして、罪なき虎の母子が命を失ったのか、・・・。しかも、『此上はいらず候間、狩以下一切無用』とは、まるでこの狩りが不必要であったような物言いではないか、・・・。 義弘は己が巵従し続けなければならない老耄の権力者とそれに隷下する佞臣どもに対するぶつけどころのない憤怒に拳を震わせた。 ー自分は四つの命の上で胡座をかくように生き延び、追従を続けながら、長らえるのか。 義弘は悩んだ。悩み始めると、それは奈落の底まで落ちていくような自問自答の繰り返しだった。突き詰めて行けば、この難問に対する解が見えそうな気がしたが、その解を得たときに義弘自身の、 ー寝覚めが悪くなる。 というほどの漠然とした不安が心中を過ぎった。義弘はそんな不安から逃避したいがために、自問自答という単調な作業を、自らを正当化するための理屈を求めるものへと、無意識のうちに、転じていった。 ーこうしなければ、島津家と薩摩・大隅の民の安寧は得られぬ。儂は自らに臣従する兵子や民を守るために秀吉に従わざるを得ないのだ。 義弘はそういう形で二人に犠牲を強いたことを正当化しようとした。しかし、それは自分のみが枕を高くし、安んじて眠るための詭弁に過ぎなかった。彼等の犠牲が、 ー蒙昧な古代信仰における生け贄と変わらぬ。 という事に気付いていながら、義弘はそういう感懐を心の深層に沈淪させてしまうことによって、自らの安らぎのみを得ようとしていた。 権力という一個の山の頂に立つ者は、いつでも、その山を形作る土粒子達を守るべく行動したと自分だけで思い込みながら、自らの行為を正当化し、見かけだけの心の安寧を追い求める。その心理の中には自らとそれを支えている山塊が大きいという自負と、自分が山頂に居なければこの山塊が崩壊するという独善的な自己肥大が作用している。 だが、実は、この種の行動の発端は山頂