虎の肝(三)/歴史小説

義弘は秀吉から届いたその書状を開いて、明らかに顔を顰めた。
-何かが変わった。
天下統一の野望に燃えていた往時の秀吉から発せられていた端厳しい光彩を思い返しながら、胸中で呟いた。それは、天正一九年(一五九一)に秀吉が朝鮮出兵を大小名に命じたときから、義弘の腹中に蟠(わだかま)るように残り続けていた想いの再来だった。
-いったい何を考えているのか。
秀吉が天下人への階を昇っていた頃、義弘はその打つ手の全てに対してその辣腕ぶりを、時に嘆息を洩らしながら、時には手を打つようにして賞賛した。しかし、天下人の地位に昇り、老耄と言えるまでに衰弱した秀吉から発せられる様々な命令は、愚にもつかぬ代物ばかりだった。
-人間とは、人生の目標に達したとき、その人格の輝きの頂点に達し、以後は衰えていくしかないのかもしれぬ。
義弘はこの頃の秀吉の振る舞いを想うたびに、そういう想いを抱くようになっていた。
義弘は書状を破り捨てたいという激しい衝動が喉元に湧き上がってくるのを懸命に抑えた。その衝動を堪えて主君秀吉の命に従うことのみが、その庇護にある自分とその家臣達という一つの山岳が生き延び、成長してゆく唯一の道であることを彼は知ってしまっていた。
-このような下らぬ命は肯諾できぬ。
義弘は、そういう毒薬のような感情に対する体内の拒絶反応が発する苦痛を、自分の配下の者達に代わって、堪え忍ばざるをえなかった。
義弘を始め豊臣政権という精密機械にも似た権力構造の中に組み込まれている大小の歯車達が、秀吉という最も重要な歯車に微妙な狂いを感じていた。
-秀吉という歯車は、長年月の旋回で摩耗し、風雪に侵され、古寂びているのかもしれない。
多くの武将は秀吉という歯車がどこかと噛み合うたびに発する異様な振動を感じ、そんな想いを抱いていた。
その振動は、
-秀吉の愛児棄の死を慰めるために加藤清正が朝鮮征伐を言い出し、秀吉が歓喜した。
とか、
-宇喜多秀家がそれに迎合した。
とか、口性ない殿中の噂が巷間に流布されるごとに急速に振幅を増大していった。そういった大小の噂を含め、秀吉とその周辺から発せられる様々な事柄に多少の違和感を覚えながらも、権力という傘の下に屯する者達は、周りの人間の顔色を窺いながら、権力者の命じるところに従わざるをえなかった。皆、自分を含めた集団の心の奥底に言葉にすることの許されぬ権力者に対する批判的感情が潜んでいることを感じていたが、そんな思いは、各人が一つの個体に戻ったときには、自分一人が権力を非難すれば権力者とそこに集う人間達が、
-自分を磔殺するかもしれない。
という幻覚と妄想から生まれる恐怖にも似た成分に希釈され、何時の間にやら、各個は権力者に迎合し、ひたむきに保身に向かって駛走していた。
-逆らわない限りは、自らの安泰が保証される。
という安堵感は、長年、隣接する他勢力への精神的、肉体的消耗を強いられ続けてきた戦国武将達にとって、桃源郷にいるような錯覚を起こさせた。それは、甘い蜜のように武将達の骨身に浸透し、心を瀞かした。
権力とはそういう幻覚作用のある薬物であるのかもしれず、集団で生きることしかできなくなった人間に、悪魔が下げ渡した魔性の道具であるのかもしれない。秀吉はその道具を縦横無尽に用いることにより、戦国大名という猛獣たちを飼い慣らし、人々の心に偽りの安寧をもたらした。
荒くれ者の戦国大名達はその幻覚性のある薬物を繰り返し処方されることにより桃源郷での暮らしの永続を望み、秀吉に事の理非を解く気概を失った。
秀吉に諫言する気概を喪失したとはいえ、外征を命じられた武将達の胸中には、朝鮮の役に対する疑問が氷釈することのないまま、初冬の根雪のように残り続けていた。そして、今、
-なぜ、虎が必要なのか。
という新たな、そして、大きな疑問が彼等の心に湧き出し始めていた。
戦場にあっては、敵を屠り、薙ぎ倒し、寸土であろうとも拡大することが、権力者の意に叶う唯一の道であるはずだったが、秀吉は、領土でもなく、敵の首でもなく、野生の獣を所望した。
この役に従軍した兵卒達は、故郷を遠く離れ、外征の地で石にかじりつくように、ある者は実際に壁土を喰らいながら、懸命に敵と戦っていた。
-にもかかわらず、一頭の野獣を求めるとはどういうことか。
という、秀吉に対する批判めいた疑念がほとんどの武将の脳裏に繰り返し明滅していた。
遠征の地にある諸将は、そんな異物感に苛まれながらも、虎狩りの手配りを始めざるをえなかった。中には権勢に対して先の漢方医と同種類の鋭敏な嗅覚を持つ者もあり、そういった類の武将は冒頭の書状に含まれる権力者の欲望を嗅ぎ分け、自らが虎を捕獲し、主人秀吉に取り入ろうとする出世欲に取り憑かれたように、異国の野で虎を探し求め始めていた。その種の人間達は虎が一個の獣にすぎないことを忘却し、異国の原野に埋められた宝の山だと錯誤していた。
-虎の肉を所望する。
という、戦場にある武将達にとって珍奇な命令は、こうして遂行され始めた。そして、全ての武将が周囲の流れに絡め取られるように、そして、環境の温度に体温を合わせざるをえない変温動物のように自らの感情の温度を調整し、虎狩りを企図し、朝鮮の原野に虎を求めて彷徨し始めた。

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