是非、最新版でお楽しみください(^^)/
>_<あくまでも司空流の「こうかも」年表ですので、誤りがあっても司空は一切の責任はとりません。>_<
>_<ご利用に際しては、解説・注意をご確認の上、各人で十分に史実をご確認ください>_<
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天正6年(1578)1月1日、織田信長、安土において諸国の大名の祝賀を受ける。
天正6年1月2日、播磨利神城の別所定道(治定の孫)の代に天正5年の上月の役を向かえたが、病弱な定道は勝算のない戦いを無益に感じて人質を差し出して和を乞うたという。しかし、その弟の日向守林治は好戦的で、上月城の守将となった山中鹿之助に挑戦し、これに憤った山中鹿之助は同城を攻めて横坂、甕岩の1戦で別所軍を大いに打ち破った。⇒山中鹿之助は京都に上っており、事実でない可能性大?
天正6年1月6日、織田信長、正二位に叙せられる。
天正6年1月7or8日、明智光秀、坂本にて津田宗及と茶会。
天正6年1月末、尼子勝久/山中鹿之助、上月城を宇喜多勢から奪回。
天正6年1月、吉川元春が月山富田城に入城。但馬/丹波の国人衆との連携強化を図る。しかし、別所長治の織田家への謀反により東播磨の情勢が変化したため、目標を播磨に変更。特に孤立化した上月城を攻撃目標とした模様。
天正6年2月、播磨三木城主別所長治が織田信長・羽柴秀吉を裏切り、毛利方に寝返る。
天正6年2月上旬、宇喜多直家、5千の兵力を上月城(城兵は5百程度)に投入し、攻撃。尼子勢(尼子勝久、山中鹿介ら)は羽柴秀吉の命により上月城を捨て、退却。宇喜多直家、上月村出身の上月一郎景貞を在番とし、城兵2千を預ける。
天正6年2月23日、羽柴秀吉が播磨に帰陣。加古川の糟屋内膳武則の城を借りて1部の軍勢を入れ上方との連絡の拠点とし、秀吉自身は書写山に本陣を据える。//直後、三木城別所長治が反旗を翻し、毛利方につく。別所長治の離反は東播磨の国人衆に大きな影響を及ぼす。
天正6年3月6日、羽柴秀吉は三木城攻城戦の本陣を書写山円教寺に移陣。⇒「播州円教寺記」には、「老若上下方々に馳せ散り、坊舎仏閣、1時に破損す」とある。
天正6年3月、明智光秀/細川藤孝が丹波に再度進攻し、波多野氏の八上城を攻囲を開始。//織田信長自身の出陣の可能性もあったが、最終的には滝川一益・丹羽長秀・細川藤孝らを派遣。
天正6年3月8日、細川藤孝、吉田兼見を訪ねて、「明日、坂本に下向する」旨を述べる。
天正6年3月9日、丹波の赤井直正が丹波黒井城内で病死。(織田信長合戦全録による)⇒明智光秀の丹波攻めで赤井直正は強敵だった。(織田信長合戦全録による)
天正6年(1578)3月12日、毛利輝元、小早川隆景(2万)、吉川元春(1万5千)、宇喜多勢(1万4千)が播州上月城に向け出陣。毛利水軍700余艘も出陣。
天正6年(1578)3月13日、上杉謙信、急逝(織田信長合戦全録による)⇒以降1年近くの間2人の養子景勝と景虎が上杉家の家督争いを続ける。織田信長は好機とみて越中の守護代の家系である神保長住を派遣し、越中の上杉方の勢力を勧誘。⇒神保長住が露払いの形になり、ある程度大局が定まってきた段階(同年9月)で斎藤新五郎を派遣。
天正6年3月15日、織田信長、丹波八上城攻略中の明智光秀・滝川一益・丹羽長秀・細川藤孝に宛てて、彼等の行動を是認し、なお油断なきようにとの書状を与える。
天正6年3月下旬、羽柴秀吉が上月城を再び攻撃し、陥落。奪還した上月城に再び尼子勝久/山中鹿之助らを入れる(?)。
天正6年3月下旬、羽柴秀吉が毛利方に翻った三木城攻略に着手するため、書写山から三木城近辺に移動。このため、上月城は対毛利戦線の最前線に孤立。
天正6年3月29日、羽柴秀吉、播磨三木城を囲む。城兵4、5千程度。三木城には淡河/神吉/志方/高砂/野口など周囲に支城がった。
天正6年4月、明智光秀/細川藤孝が滝川一益/丹羽長秀の援軍と共に波多野氏与党荒木氏綱の守る細工所城を落とす。
天正6年4月、羽柴秀吉、播磨三木城の支城の1つ野口城を落とす(織田信長合戦全録による)
天正6年4月9日、織田信長、右大臣と右近衛大将の官職を辞する。
天正6年4月18日、毛利勢(吉川元春/小早川隆景ら)が上月城を包囲。吉川元春は上月城北方の太平山に、小早川隆景は南方の大亀山(狼山)に布陣。東側の佐用川沿いの平地には、杉原盛重ら吉川元春の武将や宇喜多勢(宇喜多直家は病気と称して参陣せず、弟忠家が参陣)が布陣。毛利勢の厳重な包囲のため上月城は外部との連絡を断たれる。この時、毛利輝元は備中松山城に入城。
天正6年、毛利勢が宇喜多七郎兵衛忠家とともに1万有余の軍勢をもって播磨国境の大亀山に布陣。ただし、宇喜多直家自身は病と称して出陣していない。
天正6年4月22日、織田信長、京都に入る。
天正6年4月27日、織田信長、安土城に帰城。
天正6年4月、織田信長は荒木村重に播磨への出陣と羽柴秀吉の救援を命じる。織田信長は親征を考え、荒木村重を先発させたと思われる。**その後、羽柴秀吉と荒木村重の両将は上月城の東側、川を隔てた高倉山に着陣し毛利勢と対峙するも、約2カ月間膠着(織田信長合戦全録による)
天正6年4月、明智光秀・滝川一益・丹羽長秀、秀吉の援軍のため、播磨に入る。
天正6年4月29日、明智光秀,播磨攻略中の羽柴秀吉の援軍として,播磨に出陣。
天正6年5月1日、織田氏の中国播磨への援軍(総大将は織田信忠)が京都を出陣。織田信長自身も播磨に出陣しようとしたが、親征については佐久間信盛や滝川一益が諌止。かわりに長子信忠を総大将として、北畠信雄/神戸信孝/細川藤孝/佐久間信盛らが、尾張/美濃/伊勢の兵を率いる。その後、信忠らの援軍は神吉城、志方城などの攻撃のため加古川付近に布陣し、三木城を牽制。
天正6年5月4日、佐久間信盛/滝川一益の軍勢が上月城周囲に着陣(織田信長合戦全録による)。この時点で織田軍1万、毛利軍3万。**織田信忠率いる援軍は上月城までは出張らなかったとの説も
天正6年5月4日、羽柴秀吉は、荒木村重の援軍が到着後すぐに、村重とともに上月城救援に向かい、佐用川を隔てた上月城東側の高倉山に布陣。
天正6年5月初旬、毛利方の部将杉原盛重が忍びを使って、羽柴秀吉の本陣高倉山に夜襲をかけて成功。その後、吉川元長は大規模な夜襲を提案し、吉川元春は賛成するも、小早川隆景の反対で採用されず。
天正6年5月13日、織田信長は自身の播州出陣について再度触れを出すが、洪水のためまた沙汰止み。
天正6年5月14日、羽柴秀吉、播磨上月城に尼子勝久/山中鹿之助を入れる(??タイミング的に遅すぎる尼子勢が上月城に入城したのはかなり以前のはず??)。
天正6年5月28日、毛利勢小早川隆景が上月城南の大亀山に大筒を据え、辰の刻(午前8時頃)から上月城に向けて発砲。尼子方の吉田三左衛門は弾丸が命中して惨死。城内の士気低下。…毛利方の部将杉原播磨守盛重、堺にて手にいれた小型の大砲を入手し、陣地に運び、上月城を砲撃。最初の1発は城内の水の手に命中し、水道口を破壊。2発目は城内の櫓に命中し、この時吉田三郎左衛門が即死。その後も砲撃は続く。⇒この砲弾の1つが宝暦年間に上月城2の丸の崖崩れの際に発見されたが、鉛玉で5百匁程度だったと言われている。
天正6年5月晦日、吉川元長発信書状のなかで、城内は兵糧や水が欠乏していること、上月城から落人が出ているとある。また狂歌を2首「あら木弓はりまのかたへおしよせて いるもいられず引くもひかれず」、「なにしおふさよの朝霧たちこもり 心ほそくもしかやなくらん」
天正6年6月初旬、尼子勝久は進藤甚助、力石小六らに大筒の奪取を命じ、大亀山に忍び込み大筒を谷底に投げ落とす。**山中鹿之助は砲撃により城内の士気が低下したことを懸念し、笛石七平/進藤勘介/力石小六/堀権大夫/伴大介らに大砲奪取を命じる。尼子勢は杉原の陣地を夜討し、大砲奪取に成功したものの、途中毛利勢に発見され、上月城内に持ち替えることはできなかったが、谷底に大砲を落として、上月城への攻撃を回避することに成功。
天正6年6月16日、羽柴秀吉は上洛して織田信長に戦況報告(播磨を始めとする中国地方の状況)し、今後の方針の指示を仰ぐ。>織田信長は高倉山の陣を引き払い、神吉/志方城へ押し寄せ攻め破り、三木城を落とすことが先決と指示。>この時の織田信長の言葉は「謀略相調はず、陣を張りても曲なく候間、先づこの陣を引払ひ」、三木城攻撃に注力せよと命じる。>羽柴秀吉は織田信忠に「鹿之助をすてさせ給ひしは、西国のはてまでも御名をながし給ふくちをしさ」と訴えたらしい
天正6年6月21日、毛利勢の吉川元長、杉原盛重、天野隆重らが熊見川を渡って高倉山の麓に向かい織田方の陣地を攻撃。しかし、羽柴秀吉を始め織田方は積極的に応戦せず。この時、羽柴秀吉は既に織田信長から上月城からの撤退と播州三木城攻めへの兵力集中を命じられていた。**6月初旬に大砲を奪取されていた杉原盛重が吉川元長に羽柴秀吉本陣高倉山攻撃を従容。織田勢は熊見川で手水や馬の足洗いなどをしていた。それを探知した杉原盛重他毛利勢が伏兵を熊見川の川べりに配置し、鉄砲を打ち掛け、切り込む。高倉山本陣からは中村孫平次/神子田判左衛門ら2千の兵が逆襲。杉原勢の苦戦を見た毛利方南条伯耆守/小鴨左衛門進が援護に駆けつけ、かねてより申し合わせていたとおり狼煙が上がるのを見た吉川元長も手兵を率いて来着し、両軍が衝突。吉川元長の来援を見た高倉山の織田勢からは更に大谷吉継らが4千の兵を率いて毛利勢の前方に展開し、両軍が槍衾を作って睨み合い。大谷吉継は1騎で敵の陣列の近くまで馬を寄せ、隙があれば1気に突入しようと様子を窺う。それを見た毛利勢鉄砲を射掛けるも大谷吉継は悠々と味方陣地に引き揚げる。それを見た南条伯耆守の郎党末石弥太郎が走り出るも織田勢の放った鉄砲に足を負傷、その時織田勢から1騎の武者が駆け出し、毛利勢の鉄砲が降り注ぐ中、ものともせずに末石弥太郎の首を上げ、名乗りをあげる。この武者が福島市松で18歳の初陣、後の左衛門大夫正則。味方の苦戦を見た吉川元春は部将児玉小次郎元兼率いる鉄砲隊3百を投入。吉川元春の手勢の中でも精鋭の鉄砲隊で鉄砲と騎馬隊を巧みに用いる。児玉鉄砲隊の投入で毛利勢が優位にたち、羽柴秀吉は織田勢に撤退を命じる。織田勢は慎重に退却するも、毛利勢の攻勢を受け、かなりの損害。を受ける。この日の合戦は毛利勢の勝利。羽柴秀吉は姫路書写山円教寺に退却。
天正6年6月、亀井茲矩、羽柴秀吉の密使として、隠密理に上月城に入り、尼子勝久/山中鹿之助らに退城を説く。
天正6年6月23日、播磨援軍中の明智光秀ら、三日月山に引き上げ、羽柴秀吉自身も高倉山を引き上げる。
天正6年6月24日払暁、亀井茲矩、上月城から羽柴秀吉の高倉山本陣に帰陣し、尼子勝久/山中鹿之助ら尼子勢の状況を復命。
天正6年6月24日(26日とも)、羽柴秀吉が書写山への退陣を開始。上月城に籠もる尼子勢の命運が尽きる。
天正6年6月26日、毛利勢の吉川元春/小早川隆景/宇喜多直家、上月城を攻撃。羽柴秀吉、同月24日に陣を高倉山から書写山に移しており、同日別所長治の属城神吉城を攻めた。⇒1色藤長宛の吉川元春の書状(天正6年7月12日付)には「上月要害の儀も、山中鹿助種々懇望致し、尼子勝久・同助4郎(氏久)方に腹を切らせ申候。その外不肖の者迄も、近年芸州に対し悪意の者ことごとくあい果て、1着申し付け候。山鹿以下生捕の者をば、先ず備中輝元陣所に至り差し下し候。」とある。
天正6年6月29日、羽柴秀吉他、織田勢が完全に書写山へ退却。上月城の尼子勢は毛利勢に4囲を囲まれ、孤立無援状態に。
天正6年7月、山中鹿之助、尼子勝久とともに上月城に籠もっていたが、後詰めの羽柴秀吉が織田信長の命により引き揚げてしまったため、やむなく毛利軍に開城の使者を出す。当初の尼子からの条件は神西三郎左衛門元通の切腹により尼子勝久以下の助命を嘆願。⇒毛利方これを許さず、尼子勝久、氏久、神西、加藤4人の切腹を命じ、山中鹿之助や立原らの降参を許し助命。上月城落城。
天正6年7月1日、山中鹿之助、粟屋彦右衛門らに警護されて当時備中松山に在陣していた毛利輝元の本陣に向けて上月城を出立。
天正6年7月2日、神西三郎左衛門元通が上月城の前面の高みに出て、毛利勢の見守る中、切腹。⇒これにより尼子勝久はじめ城兵の助命退散を願い出る⇒毛利方はこれを許さず、主将尼子勝久ほか、尼子氏久、加藤の4名の切腹を要求し、その場合山中鹿之助/立原久綱らの降参を許し、助命すると回答。⇒毛利方が山中鹿之助の助命を許容した所が不思議。毛利側に立った史書が多く、毛利家の懐の広さを示したかったためか?>神西元通の切腹で事態を収めようとした尼子方の策略も解せない。元通を今回の首謀者に仕立て上げることができる理由は何か?本来、山中鹿之助や立原源太兵衛が切腹を申し出るべきところでは?
天正6年7月2日[7月3日など諸説あり]、山中鹿之助幸盛、害に合う。享年34歳。山中鹿之助の逝去日などは諸説あり。⑦//これは違うと思われる!!!
天正6年7月3日[7/2との説も]、尼子勝久/氏久、加藤が切腹。山中鹿之助は城外の田の中に柵を結い回した中に取り籠められる。
天正6年7月5日、吉川元春/小早川隆景の連署で、日野五郎、立原源太兵衛、山中鹿之助の3人に宛てた起請文。これにより上月城が開城。
天正6月7月6日、山中鹿之助、籠城の諸氏に感状を発行。
天正6年7月8日、山中鹿之助が遠藤勘介に宛て書状。「永々牢を遂げられ、殊に当城籠城の段、比類無く候。向後においていささかも忘却有るまじく候。然れば、何くへなりとも、御奉公あるべく候。恐々謹言。」
天正6年7月12日、吉川元春は一色藤長宛に書状。「此の表(播磨)敵陣の儀、昨月24日敗軍候。上月要害の儀も、山中鹿之助種々懇望致し、尼子勝久・同助四郎(氏久)腹を切らせ申候。その外不肖の者迄も、近年芸州に対し悪意の者ことごとくあい果て、一着申し付け候。山鹿以下生捕の者をば、先ず備中輝元陣所に至り指し下し候。」
天正6年7月17日、山中鹿之助、備中松山下向を命じられ、その途上、甲部川阿井の渡しで毛利家の臣天野元明が家臣川村新左衛門/福間彦右衛門が背後から切りつけられて、討死。享年34歳で、一説には39歳という
天正6年7月18日頃、山中鹿之助、備中高梁川と成羽川の合流点にある阿井の渡しに到着しそこで殺害される。享年34歳が通説(一説には37歳)。斬りつけたのは河村新左衛門だが河村は途中で山中鹿之助に押さえ付けられ、その背後から大力の福間彦右衛門が山中鹿之助の髻を掴んで引き倒して、漸く山中鹿之助を討ち取ったと言われる。⇒この時、山中鹿之助が首にかけていたという大海の茶入れは福間彦右衛門の子孫に、備前藤原国光作の刀は毛利家に、兜は吉川家に伝わった。
天正6年7月18日、立原久綱、吉川元春の家臣によって安芸に連行される途中、体調を崩す(脱出のための仮病か?)
天正6年7月21日、神吉城(播磨三木城の支城で織田信忠率いる軍勢に4月頃から包囲されていた)が落城。城主神吉民部少輔が討死。引き続き志方城を総攻撃。志方城では城方の降参を受け入れ、落城。神吉城/志方城は羽柴秀吉に預けられる。その後、織田信忠率いる援軍は撤収し、羽柴秀吉のみ(兵力1万余か)で三木城(城兵4、5千ほどか)攻囲戦を継続。兵糧攻めの構えで羽柴秀吉は平井山に本陣をおく。
天正6年7月28日、足利義昭、吉川元春宛に、三木城支援のために羽柴秀吉を追撃すべきことを要請する文書を発信。しかし、吉川元春は上月城の処理が完了後、播磨から但馬に入る。
天正6年8月17日、織田信忠、播磨救援を終え、播磨から岐阜に戻る。
天正6年9月11日、明智光秀、吉田兼見に対して茶碗を所望。
天正6年9月18日、但馬攻略中の羽柴秀長に織田信長から播磨三木城の別所氏を攻略を指示する旨の書状に従い、羽柴秀長はじめ、前野将右衛門長康/生駒甚助親正/藤堂与右衛門高虎/木村常陸介重茲が播磨の与呂木に陣を構える。この際、平井山のの陣所は羽柴秀吉が上洛中のため、蜂須賀小六正勝と竹中半兵衛が在陣。
天正6年9月24日、織田信長、斎藤新五郎(斎藤道三の末子と言われる)に越中遠征を命じ、この日斎藤新五郎は美濃加治田城を出陣。以後、飛騨から越中西街道を進んで越中に入り、神通川沿いを北上し、神保長住と合流。(織田信長合戦全録より)
天正6年9月31日、織田信長、和泉堺に下り、九鬼水軍を視察。
天正6年10月、織田信長の耳に荒木村重が謀反を企てているとの情報が入り、松井友閑/明智光秀/万見重元を荒木村重のもとに使者として派遣し、弁明と安土城出頭を命じる。荒木村重は事実無根として弁明するも、安土城出頭には応じず。(織田信長合戦全録より)
天正6年10月12日、籠城中の播磨三木城から突然攻撃。城主別所長治の弟治定と叔父吉親が主将となって出陣し、羽柴秀吉本陣の平井山を目指す。羽柴秀吉は敵が平井山から1町ほどに接近したところで、弟秀長隊が1気に平井山を駆け降り、次に秀吉自らが主力を率いて参戦、たちまちのうちに別所勢を蹴散らす。別所治定が討死。
天正6年11月3日、織田信長、荒木村重討伐のため、安土城を進発し、上洛。(織田信長合戦全録より)
天正6年11月6日、織田方の九鬼水軍が木津川口の戦いで毛利方を破る。(第2次木津川口の戦い)⇒この勝利により織田信長は石山本願寺との和睦交渉を沙汰止みにする。またこの前後で荒木村重の家臣であった茨木城中川清秀、高槻城高山重友を誘い、味方につける(織田信長合戦全録より)
天正6年11月9日、織田信長、荒木村重討伐のため、京都を進発し、摂津有岡城に向かう。織田信忠や滝川/明智/丹羽/蜂屋、稲葉/氏家/安藤の美濃3人衆、佐々/前田らの越前衆などが招集され、3万余の大軍(織田信長合戦全録より)
天正6年12月8日(申の刻)、織田軍の堀秀政/万見重元/菅谷長頼が奉行となって荒木村重の有岡城の総構えの中に鉄砲を撃ち込む。続いて、平井久右衛門/中乃一安/芝山次大夫が弓衆を指揮して火矢を放ち、町に放火。戦は日没後も継続し、酉の刻から亥の刻にかけて織田信長が馬廻り衆に突撃を命じるが、総構えの塀を破れず、万見重元が討死(織田信長合戦全録より)
天正6年12月、立原久綱、毛利氏の命により、石見の金子左衛門太夫に預けられたとの説もある。
天正6年12月21日、織田信長、有岡城に包囲陣を残して、摂津の陣を引き上げ。天正7年の正月は安土城で過ごす。(織田信長合戦全録より)
天正6年12月、竺雲恵心和尚逝去。
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