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磁場の井戸:第四章 対岸(一)/長編歴史小説

 毛利の軍勢が備中に陣を布いて、数日を経ていた。織田勢の堅い守りと巨大な堤に、隆景、元春の率いる毛利の軍勢は為すことなく、徒に時を過ごした。  宗治は日々嵩を増し続ける湖水に膝の上まで具足を濡らしながら、城内を回り、兵士達を叱咤した。彼は、日々の見回りを通じて、来援が訪れた日を極大に、城兵の士気が急速に衰えてきているのを感じていた。戦場で敵と刃を交わすならば、生を忘れて遮二無二突進する城兵達だったが、相手が水では如何とも為しがたく、戦場で華々しい働きをして、名を上げたいという籠城当初の純粋な城兵達の想いは、今では溺れ死なぬ事を願うばかりと為り果てていた。さらに、湖水に浮かぶ三艘の船からの砲撃に、櫓や木の上に巣食う城兵達は成す術も無く、ただ自分の頭上に砲弾が落下しない事を祈るのみしかなかった。人間は自分で生への道を切り開こうとするとき、想像を絶する力を発揮するが、他者に自らの運命を握られたときには、その力は普段に比して皆無と化すのかもしれない。  宗治は胸を掻き毟られるような焦燥の思いに急きたてられながらも、この人工としては大き過ぎる湖の前で立ち竦むことしかできなかった。  元春と隆景は、本陣日差山から水没していく高松城の窮状を見つめながら、沈黙を続けていた。 「隆景、何か良い策はないものか。このままでは、毛利の両川がはるばる備中にまで出向いて、何をしておったのか、物見遊山に来たのかと、天下の笑い者だぞ。」 元春は、高松城とその湖水を睨むような目つきのままで、呟いた。 「されど、兄上。先日来の軍議のとおり、秀吉がこうも堅く守っておっては、どうにもなりませぬ。あの陣地にこちらから切り込めば、此方がやられるのは目に見えております。」 元春の声に合わせるかのように、隆景も低い声で応答した。 「どうにもならぬ事を幾度繰り返しても仕方がないが、あの城を見ては居ても立ってもおられぬ。このまま、おめおめと城が落ちるのを眺めていては、毛利家の信義が地に落ちよう。」 「それも一理ありますが、この戦をどう凌ぐかが、毛利家の安泰のための礎を築くことになるのでは、…。下手に手出しをして、痛手を被っては元も子もございません。ここは、戦機を待つしかございますまい。それまでは、城に保ってもらうしか…。」 隆景は、心の鎧を纏ったまま、他人事のように冷淡な口調で兄元春に返答した。

赤穂シティマラソンにエントリー

大会まで1ヶ月を切りましたが、何も音沙汰がありません。 ゼッケンも何も届かない。 どうなっているのかなぁ。。。 ================================ 7月22日にエントリーを締め切ったようですが、その後、動きはないですね。 ゼッケン等が送られてくるのを待つ。 ちなみに、赤穂市は「スポーツ都市宣言」をしたそうですね。 がんばって欲しいと思います。 それにも増して、赤穂市には浅野内匠頭と吉良上野介の確執に端を発する「忠臣蔵」と赤穂浪士の伝説があると思うので、赤穂シティマラソンの機会に、そちらも堪能したいと思います。 あとは赤穂の塩ですなぁ。 なかなか立ち寄る機会がないので、楽しみです。 ================================ 大阪マラソン、神戸マラソンと抽選に外れ、このままでは今年度もマラソンを走らずに終わってしまうおそれがあったので、近隣の市民マラソンを探索しました。 探してみると、「赤穂シティマラソン」というハーフマラソンが11月に開催されるようで、まだ、定員に空きがあったので、エントリーしました。 入金でエントリー完了ということで、早速コンビニで振り込みました。 大会要領等の到着を待ちます! 赤穂シティマラソン公式:http://www.e-marathon.jp/akocity/

磁場の井戸:第三章 水牢(十)/長編歴史小説

 蛙ヶ鼻の本陣からその様子を眺めていた秀吉は、表面上、少し渋い顔をしながらも、全くうろたえることはなかった。 (我が事なれり。) 表情とは裏腹に腹の中では、自分の思うとおりに事が運んでいるという悦な気分に浸っていた。 (そうでなければ、中国の雄毛利家ではなかろう。) 秀吉は心の中でうれしそうに相手の打った手に感じ入っていた。秀吉の嗄れた掌に全てのものが吸い込まれるが如く、彼の思いどおりに事は進んでいた。  秀吉は眼前の毛利家を倒す事ではなく、既に倒した後の事を考えていた。主人信長の天下布武はもう目前に迫っていると言っても、過言では無い。天下統一が成就すれば、秀吉を始めとする糟糠の家臣達、特に功大なる者は、遠ざけられ、果ては、追われることを秀吉は書物からではなく、本能として感じていた。その兆候は現時点においても徐々に織田家の中に現れ始め、信長の周りには、森欄丸や力丸兄弟、堀久太郎などの小姓衆がその事務や日常生活の一切を取り仕切り、小姓衆へ申し入れない限りは功多き野戦の部将でさえも信長に拝謁できないようになってきていた。  武田家は滅亡し、上杉景勝は越後一国を辛うじて支え、また、石山本願寺が膝を屈した今となっては、織田家の天下統一を阻む大名は、中国の雄毛利家しかあるまい。その毛利家を討ったとなれば、功は衆に抜きん出る。この功により一時は快楽を貪る事ができるかもしれないが、当然、功多き者は才に長け、上にとっては、家臣の意志に依らず、その地位を脅かす危険な存在と変態する。権力者が自分を脅かす者を排除するのは至極当たり前の事であり、従って、ここで毛利家を倒すと、秀吉はゆくゆく信長から痛いしっぺ返しを頂戴する事になる。  中途半端な来援であれば、秀吉は喜ぶ事無く、表情どおり苦虫を噛み潰していたに違いない。ただ、毛利家は現状で投入しうる最大規模の兵力を備中に展開している。その数は高松城を囲んでいる織田勢よりも多いだろう。これならば、秀吉は主人信長に、 「毛利は存亡を賭けて、備中表へ参陣しております。猿には、とても敵いません。ここはぜひ上様の御出馬を給わりとうございます。」 と言って、信長に泣きつくこともできるし、毛利家を倒した後にも、 「上様のご来援があったればこそでございます。」 と、信長に下駄を預けてしまう事も可能である。  そこまで読みきって、秀吉は

磁場の井戸:第三章 水牢(九)/長編歴史小説

 小早川隆景は、周防、安芸、備後の勢二万五千を率いて備中高松を目指した。また、隆景の兄、吉川元春も、隆景の動きに呼応して、出雲、石見両国の勢一万七千を率いて、進路を南へ、備中表に進発するとともに、毛利家当主輝元も旗本一万騎とともに備中へ出師した。都合五万余、国境の留守の兵力を差し引くと、五万という兵力は毛利家が出しうる限界の動員力だった。  その毛利勢が、五月二一日、備中表に馬を揃えた。  隆景率いる山陽勢は高松城を真正面に臨む日差山の北東側の斜面に陣を布き、元春率いる山陰勢は日差山の西北方、日差山に連なって海鼠形の尾根を成している岩崎山に布陣した。その後方六里で、後詰として毛利輝元率いる毛利旗本衆一万が控えた。  高松城に篭もる兵五千を合わせると、毛利勢は六万弱、これに対して秀吉率いる織田勢は三万五千、局地的に見れば、毛利勢は織田勢の兵数を上回っていた。兵数の上で優位に立ったことは否応なく毛利勢と高松城の城兵の士気を高めた。ただ、日差山の小早川本陣で膝を合わせて話している元春、隆景の両人は情勢を楽観することができず、悲壮に近い感情で高松城を中心に描いた絵図の前に座していた。 「この戦は五分五分かもしれん。が、ここで勝っても、我が方に余力は無く、相手方には有り余るほどの後詰が有る。局地戦に勝利することによって一時の利を得たとしても、その後、毛利家は滅びるのみしかあるまい。」 元春は苛立ちを腹の底に蔵し、低く圧力のある声で言った。隆景は、元春の言葉が終わるのを待って頷いた。 「確かに、この戦、大捷を得ても仕方がございません。今はじっと耐えて、風向きが変わるのを待つより他、ございますまい。」 隆景も声を落とした。二人は毛利家を安寧へと導くための参謀役として、冷徹な思考方法でこの戦を位置づけていた。二人の戦略は毛利本家の安泰という一点において悲しいほど、一致していた。その思考は、 (織田勢を蹴散らし、高松城とその中の将兵たちを救いたい。) という生身の人間としての二人の感情とはほど遠いものだった。  そんなことを知らない高松城の城兵達は、城の南西の日差山とその麓の岩崎山に翻る小早川家と吉川家の無数の旗を指差しながら、喚声を上げて喜びあった。城兵達には、足守川対岸に現れた毛利勢の姿が、湖に孤立した高松城を救うために光臨した権現のように映っていた。