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第十八章 剣山(1)

 清太が吉野川の河畔をゆっくりと東進する。前日までの雨で川は増水しているが、峡を出立した日に比べれば水嵩は少ない。あの日、初めて俗世へと旅立つ清太とともに吉野川を下った弥蔵、亥介、そして、総馬はこの世にいない。それを思うと、清太の胸中に寂寥が広がる。  清太の視界が本流吉野川と支流貞光川の合流点を捉える。 「あそこで南に進路を取って、支流に沿って上ります。」  清太は大きな流れの乱れを指差しながら、背後を振り返る。 「剣のお山はいずこでしょうか。」  清太の背後を歩くよしのが左手に視線を移し、錦秋の盛りを越えた山々を眩しそうに眺めながら、弾むような口調で尋ねる。 「剣山はあの山並を越えたさらに向こう側です。まだここからは見えません。」  清太が微笑みながら答える。よしのはこれから人生の大半を過ごすであろう峡の美しく、厳しい自然を想像しながら、左手に雄大に広がる遠い山並を透き通った瞳で見つめる。 「峡まではあとどのくらいかな。」  よしのと並んで歩く平次郎が尋ねる。 「ここからはこれまでとは比べものにならぬ険路です。よしのさんのことを考えて、二泊をかけようと思います。」 「それが宜しいでしょう。わたしも霊場剣山の険路は噂に聞いたことがある。」  清太が再びよしのに視線を移す。 「よしのさんは峡に入れば、一人で下界に戻ることはできないでしょう。それでも宜しいですか。」  清太がよしのの意思を確かめる。 「わたしは清太さんについて参ります。」  清太は、よしのの揺るぎない決意を確認して、微笑み返す。 「わたしもしばらく峡に滞在して、毀誉褒貶のない場所で兵法を極めてみたい。」 「部丞達も拒むことはないでしょう。それに、平次郎殿が峡にいれば、乙護法は御劔に手を出せませぬ。」  信貴山城から脱出したあと、清太は改めて、平次郎が乙護法を駆逐できた理由を、尋ねた。  平次郎は、 ―闇の世界で乙護法という呼称をもって知られる術者であれば、薬と術を使ってどんな人間もほぼ思い通りに操ることができるだろう。しかしながら、妖術や幻術は万能ではない。よほどの術者でもまれに術の効かぬ相手が存在すると言う。これは術や兵法の巧拙如何ではなく、術者とその相手との相性のようなもの。乙護法にとって術が効かない相手が、偶然にもわたしだったということだろう。しかし、清

第十七章 信貴山(3)

 陽が大きく傾き、周囲の色彩が明度を失っていく。  天守が地面に落とす暗影が秋の夕陽を受けて東の方角へと伸長しながら、次第に地面の色に同化していく。 ―陽が沈めば、動きます。  先頭にいる亥介が地面に伏臥したまま背後にいる四人を振り返り、自分の意思を伝達する。  清太は残照に包まれる灌木群の中で息を潜め、前方の天守を見つめる。城兵達が放つ緊張と殺気が地面に伏せる清太の全身に容赦なく降り注ぐ。清太は夕闇の訪れを待つ焦燥との相乗で、ともすれば気息が乱れそうになるのを精神力で押さえ込む。  心身の忍耐は実際以上に時間の経過を長く感じさせる。  遠方で新たに喊声が上がり、城郭全体が震動する。 ―また、どこかが破れた。  山頂へと殺到する織田兵の地響きが、冷たい地面を通して清太の身体に微かに伝わる。  内曲輪のすぐ外側まで喊声、矢唸り、硝煙の炸裂、そして、干戈の響きが迫る中、亥介が暮色の深まる灌木群の先端まで静かに移動し、天守に近付く。  亥介が漸進を止め、再び背後を振り返り、 ―今はここが限界。 と、口許の微妙な動きで後続の四人に知らせる。亥介の眼前には数本の灌木が残っているだけで、天守の土台がすぐ向こう側に見えている。  最後尾の平次郎が背負っている太刀を静かに握る。清太も背中にある杖に手を伸ばす。 ―敵は死兵、力で制するのは愚策です。  焦燥で冷静な判断を失いがちな平次郎と、それに釣られる清太を、弥蔵が掌で押さえる。 ―内曲輪の城門が破れた瞬間、混乱を衝いて天守に侵入する。  清太は沈着を取り戻して、亥介と弥蔵の企図を読み、色彩を失いつつある秋空に、闇の到来を祈念する。  その時、一際巨大な鯨波が内曲輪の空気を激しく震わせる。 ―城門が落ちた。  瞬間、天守を固める城兵達が心身の内部に蓄積していた緊張を一気に爆発させ、人間の声とは思えぬ雄叫びを発する。  天守の裏手を守っていた城兵が城門から殺到してくる織田兵を迎え撃つため、正面側へと移動する。  亥介が無言のまま小さく右手を動かして弥蔵と総馬を誘う。三人は素早い動作で灌木の陰から這い出て、天守へと駆け寄り、先頭の亥介が天守の足下で振り返ったあと、両手を組んで踏み台を作ると、背後に続く弥蔵と総馬が亥介の両手に脚を掛けて天守二階へと跳ね上がり、欄干を跳び越える。亥介が、弥蔵の垂ら

第十七章 信貴山(2)

 天は高い。  清澄な秋空の中天を太陽が通過する。  信貴山城を囲む織田軍が、色とりどりの軍旗を秋風に揺らし、燦々と降り注ぐ陽光を煌びやかな甲冑で弾き返しながら、にわかに動き始める。  織田勢の先鋒と思しき無数の将兵が城柵と一定の距離を取りながら、幾重にも堵列して、厚い人壁を形成していく。万余の軍勢は見る者の胸を締め付けるような緊張を周囲に放射する。  深夜の行動に備えて樹上や木陰で休息していた五人が、信貴山の足下から沸き上がる異様な気配で、誰ともなく地上に集まる。  間をおかず、法螺貝、太鼓が一斉に鳴り響き、盾を並べた先鋒が密度の高い集団となって、大地を震わせるような武者押しを発しながら、進軍を開始する。織田軍の中央で総大将信忠の馬印「桝形に金の切裂」がゆっくりと動き始める。  信貴山城を取り巻く風雲が、短兵急を告げる。  許嫁幸と両親の命を奪った藤佐への怨念が心中に渦巻く平次郎が、 「総攻めが始まった。急がねば、…。」 と、焦燥を前面に押し出しながら、清太を促す。 「御劔があるとすれば、おそらくは久秀の籠る本丸。城柵の破れに乗じて、城内に侵入し、本丸に忍び込みましょう。」  亥介が平次郎の感情とは異なる視点から、冷静に献策し、清太がそれを採る。  五人は疾風に姿を変え、翔ぶように駆け出す。  織田軍が生駒連山に鯨波を響かせながら、城柵に迫る。  清太達は織田軍の最後尾で一旦停止し、雑木林に身を隠して周囲を探る。暫くすると、織田軍の後方を哨戒する十人ほどの雑兵が、清太達の視界に入る。雑兵達が眼前を通過した瞬間、清太達は一斉に雑木林から躍り出し、次々と当て身して全員を気絶させ、樹叢の中に引き摺り込んで、具足、陣笠などを剥ぎ取り、そのまま着込む。さらに、気絶したままの雑兵達に眠り薬を嗅がせ、手近な樹幹に固縛して身動きを封じた上で、一群となって前線へと走る。  外曲輪を猛然と攻め立てる織田軍の最先鋒と、必死に抵抗する城兵が城柵を挟んで激しく揉み合う。双方の怒号、干戈の響き、鉄砲の炸裂音が響く中、亥介を先頭にした五人は一塊を維持しつつ、織田軍の先鋒に跳び込む。  最前線にいる織田兵は城門、城柵に取り付こうと、降り注ぐ矢玉、落石、さらには転落する味方の将兵に脇目も振らず、一心不乱に信貴山の急斜面を攀じ上る。  合戦経験の浅い清太の眼で見て

第十七章 信貴山(1)

 冷気を含んだ秋風が空気中の微細な粒子を払い、頭上を清澄な碧色に染める。  信貴山の北東に広がる大和のまほろばに集結した数万の織田勢が、五千ほどが籠る信貴山城を厳重に包囲する。  久秀は各地に分散する反織田勢力の蜂起に期待しながら、畿内にあって織田勢力の獅子身中の虫となるべく決起したものの、同調した勢力は紀伊雜賀衆のみで、地理的に最も近い摂津石山御坊は織田勢に包囲されたまま逼塞し、毛利氏は状況を静観する。上杉謙信は加賀手取川で柴田勝家が率いる織田軍に大勝したものの、その後、上洛する気配はない。  織田勢は旺盛な戦意を誇示し、孤立無援になった信貴山城の衰弱を待つ。  清太は織田軍の後方、生駒山脈の山腹斜面が奈良盆地に潜り込む辺りで、信貴山の山頂に聳える天守を見上げる。 「先日、四天王寺から宝剣を持ち去った老僧が信貴山城に入りました。」  信貴山に残り、監視を続けていた総馬が、この日未明に合流した清太と弥蔵に報告する。 「役者は揃ったというところだな…。」  清太が呟くと、 「その舞台が信貴山朝護孫子寺というところにも情趣がある。」 と、平次郎が、復讐という暗い感情を抑制しながら、重い声を発する。平次郎は、 ―藤佐が信貴山に入った。 という亥介の伝言を嘉平から聞いて、信貴山に駆け付けた。 「朝護孫子寺に住持する乙護法という妖僧をご存じないでしょうか。」  清太が、裏世間に精通しているはずの平次郎に、尋ねる。  平次郎は首を小さく左右に振る。無論、亥介、総馬にも心当たりはない。 「丞様から届いた書状に拠れば、朝護孫子寺に乙護法という僧形の術者がいるらしい。ここからはわたしの推量だが、天王寺の宝剣を盗み出した老僧、そして、天王寺砦で弥蔵に手傷を負わせた僧侶は、この乙護法ではないだろうか。」  横合いから総馬が尋ねる。 「乙護法は何を目的に多数の宝剣を盗んでおるとお考えでございますか。」 「誰かに依頼されて刀剣を集めておるのかも知れぬ。その依頼主が久秀ということならば、天王寺砦の松永陣屋に乙護法が訪れたことと辻褄は合う。しかし、断定はできぬ。いずれにせよ、この信貴山のどこかに御劔がある可能性は十分に考えられる。」  清太が答える。  弥蔵が兎吉の所在について亥介と総馬に尋ねた。 「全く掴めておりませぬ。」  亥介が答えたところに、

第十六章 娘と刀剣(4)

 ある時、醍醐天皇が重病を患った。  仏教諸派の高僧達が病気平癒の加持祈祷を修したものの、いずれも効験なく、容態はますます悪化した。  万策尽き掛けたとき、ある朝臣(あそん)が、 ―大和信貴山に数々の奇蹟を行う法師がおります。その者なら…。 と進言し、朝廷はすぐさま信貴山に勅使を下向させた。  勅使はまもなく信貴山の毘沙門堂に参籠する命蓮という法師を探し出した。勅使を迎えた命蓮は病気平癒の修法について謹んで勅命を拝受したものの、至急の上洛を要請する勅使に対して、 「信貴山にて祈祷します。」 と申し出た。勅使はこれを訝しみ、 「帝のご病気が平癒あそばしたみぎり、貴僧の法力によるものか、定かならず。」 と、上洛を強く勧めた。しかし、命蓮は、 「数日後、御所の天空に光芒が現れ、童子とともに下りて参ります。それが拙僧の修法が成就した証でございます。」 と、上洛を固辞して、信貴山で祈祷を始めた。諦めて京に戻った勅使は、病床で苦しむ醍醐天皇に、命蓮の言葉を伝えた。  数日が経過した。  高熱の続く醍醐天皇は朦朧とする意識の中で、茜色に染まり始めた夕空に宵の明星に似た小さな光点を発見した。光点は御所に接近しながら、次第に大きな光球へと変化した。  異変を感じた醍醐天皇が病床から上体を起こし、手を伸ばして、その光に触れようとした瞬間、光は童形に変化し、直後、一筋の光茫となって天空に消滅した。  この出来事のあと、醍醐天皇の容態は快方に向かい、間もなく完治した。  醍醐天皇は周囲に、 ―病気平癒は命蓮の功力。 と語り、再び勅使を信貴山に走らせて、命蓮に、 「僧都、僧正の位を与え、寺領を寄進したい。」 との叡慮を示した。しかし、 「位階などは無用でございます。」 と、命蓮はこれも固辞した。醍醐天皇は勅使を通じて命蓮に幾度も働き掛けたが、命蓮はここでも譲らず、結局、醍醐天皇は命蓮への位階下賜を断念して、信貴山に朝廟安穏・守護国土・子孫長久の意味を込めて朝護孫子寺の勅号を授けた。  命蓮は、醍醐天皇の病気平癒以外にも、托鉢に用いる鉢を吝嗇の長者のもとに飛ばして欲深を戒め、また、堆く米俵が積まれた米蔵を遠方から信貴山まで飛翔させて貧者に分け与えるなど、数々の奇蹟譚を残したと言う。 「興味深い伝承です。乙護法は命蓮上人の秘術を身に付けているとい

第十六章 娘と刀剣(3)

 清太は、再度、堤防を駆け上がってくる安次の姿を視界に捉えると、おもむろに起き上がり、全力で安次に走り寄ったと思うと、立ち止まることなく、安次の横を走り過ぎる。清太の背後に続く弥蔵が左掌を安次に示しながら、 「話はあとだ。」 と、安次に早口で言い捨てて、清太の背中を追う。  清太は堤防の法面に繁茂する背丈の高い草叢の向こう側に、娘達の姿を捕捉し、往来の人々を間に挟んで、一定の距離を保って追跡を開始する。娘と小男、清太と弥蔵の二組は着かず離れず土手の上を進み、さらに賀茂川の河畔を離れて、洛中の殷賑へと溶融したあと、洛外に出る。この間、休息を取ることもなく、歩き続ける。  陽が西に傾斜を加え、情景が茜色を帯び始める頃、二組四人は距離を保ったまま、伏見に至る。それでも娘達は歩度を緩めない。 「歩き慣れていますな。」  弥蔵が疲労の色を見せない娘の足取りに嗟嘆する。 ―三条河原の老夫に刀剣の収集を依頼する娘などまともなはずがない。 と、頭では理解はしているが、遠目にも華奢で典雅と言っていい外見の娘がこれほどの距離を平然と歩く姿は、追跡している清太達に様々な想像を惹起させる。  娘達は伏見の町外れで街道を逸れると、六地蔵、黄檗を経て、宇治川の畔に至る。  既に陽が山塊の向こうに沈み、西の空は残照に染まる。路上の人影は疎らである。 「いずこまで行くつもりでしょうか…。」  弥蔵の呟きと同時に、娘達が小径を曲がる。  少し間を置いて、弥蔵が曲がった先の様子を窺うため先行する。  弥蔵の視野に廃屋らしき影が見える。  その瞬間、弥蔵の前方に複数の気配が湧き上がる。清太と弥蔵は咄嗟に地面に伏せて、自分達の存在を闇に溶かし、見えない触手を伸ばして前方を探る。 「手遅れじゃ。宵闇に若い娘の背後を付けるとは不粋な御仁じゃ。」  濃厚な警戒を含んだ陰湿な声が夕闇に響く。  弥蔵が無抵抗の意思を示すため、緩慢な動作で上体を起こして、両手を頭上に差し上げ、闇に向けて左右にゆっくりと大きく振る。弥蔵は大きく動くことで周囲の空気を撹拌し、自分の背後で俯せになって静止している清太の気配を掻き消す。  清太は地面に頬を乗せたまま、闇に浮かぶ気配の数量と形質を見積もる。 ―数は十に満たない。鋭気はあるが、力で突破できぬことはない。  清太は闘争に至る覚悟を決めた上

第十六章 娘と刀剣(2)

 涼風が強弱を繰り返しながら鴨川の水面(みなも)を吹き抜ける。外界と河原を不明瞭に区画する土手の斜面に背丈の高い草叢(そうそう)が繁茂し、水面の細波と同調して優しく揺れる。  初夏に峡を出て以降、遮二無二、暑中を駆け回ってきたが、ふと立ち止まると、風の音は秋色を帯び、洛中の三方を囲む山並みでは錦秋への準備が始まっている。 ―峡ではもう冬支度を始めている頃か。  清太が故郷に想いを馳せながら、洛北の山並みをぼんやり眺めていると、三条河原には不釣り合いな麗容の娘とその従者らしき小男が堤防の斜面を下り、粗末な小屋が密集する河原の中心部へと消えていく。  間もなく、安次が河原から堤防を駆け上ってくる。弥蔵が居場所を知らせるため、草叢から起き上がり、安次の方に軽く手を振る。 「娘が来やした。」  安次が息を切らしながら報告する。 「見ていた。娘のほかに小男がいたようだが、見知っているか。」 「あっしはみたことはございやせんが、娘が二度目に来た時には一緒だったようです。刀剣の運び役か何かでしょう。」  草の上に仰向けになって、青空に浮かぶ鰯雲を眺めていた清太が、 「娘が出てくるのをここで待つ。安治は小屋に戻って娘と爺様の様子を見ていてくれ。」 と、命じた。清太達が河原に下りるものと思い込んでいた安次は、拍子抜けしたように肩を落として河原へ戻っていく。弥蔵がその背中を見送りながら、清太に尋ねる。 「先刻の娘と小男、若様はどうみましたか。」 「遠目ではっきりとは分からぬが、二人の様子に暗い影は感じられぬ。我欲や悪意があって刀剣を集めている訳ではないのだろう。あの爺様の言うとおり娘も小男も誰かに頼まれて遣いをしているだけで、詳しい事情を知っているとは思えぬ。」 「同感です。」 「河原で捕らえて騒ぎが大きくなっても面倒だ。河原を出た二人の後を追いたい。娘と老夫の会話は、必要ならば、後刻、安次から聞けばいい。」  弥蔵が頷く。  河原では娘と老夫の取引が行われているはずである。

第十六章 娘と刀剣(1)

 清太と弥蔵は三条河原に近い木賃宿を根城に定める。  弥蔵は亥介達と繋ぎを付けるために、一旦、大原に戻り、清太は木賃宿に残って、安次からの知らせを待つ。安次には、三条河原に娘が現れれば、この木賃宿に一報するよう命じてある。  清太は安次を待ちながら、三条河原という社会の底辺で生きる者達のありようを、僅かな時間ではあったが、直接肌で感じ、考えていた。  河原者達は襤褸を纏う者ばかりだが、その外見とは対照的に、表情は明るい。清太は、彼らの屈託のない笑顔に、しばしば羨望にも似た眩しさを感じた。それをたまたま隣にいた安次に話すと、安次はしたり顔で、 「合戦に破れて落ち延びた者、郷里を追われた者、商いに失敗した者など事情は百人百様でございやすが、ここにいる連中は全てを失い、行く宛てもなく、家族や世間からも見放され、息絶え絶えでこの場所に流れ着いた連中ばかりでやす。その代わり河原者には守るべき物も、失う物もございやせん。逆に言えば、河原者は何者にも縛られることはなく、何人(なんびと)からも自由でやす。」 と、答えた。  清太は、住人の中にはその身ごなしから裏世間の人間と思われる者を、何人も見かけた。彼らが仲間を裏切った正真正銘の河原者なのか、それとも河原者に擬態して何事かを偵知しているのかは、定かではない。おそらく、両者が同居していると考えるのが妥当なのだろう。 ―兎吉も、峡という束縛からの解放と自由を、求めたのか。  清太の脳裏にふと兎吉の影が過った。  夜更けになり、弥蔵が大原から戻ってきた。 「丞様から書状が届いておりました。」  弥蔵が、小さく畳み込まれた書状を、清太に手渡す。限られた紙面上に伝えたいことを簡潔に記した内容だが、所々に孫の身を按じる想いが滲んでいる。  清太は読み終えた書状を折り畳みながら、弥蔵に尋ねる。 「朝護孫子寺という寺院に住持する乙護法という僧侶を知っているか。」 「朝護孫子寺は大和信貴山に聖徳太子が創建した古刹かと…。しかし、乙護法という僧名は聞いたことがございませぬ。」  清太の質問の意味を解しかね、弥蔵が曖昧に答える。  清太は弥蔵に書状の概要を語る。 「丞様からの書状に拠れば、久秀が多聞山城を召し上げられて筒井順慶に譲り渡した際、朝護孫子寺の乙護法と呼ばれる妖僧が裏で糸を引いて、久秀を信貴山に呼び寄せた

第十五章 三条河原(1)

 京三条河原には浮浪人や罪人など日の当たる場所で生きることができなくなった人々が身を寄せ合うように暮らしている。そういう場所だけに表世間には出回らない機微な情報も散在しており、そういう類いの話題を求めて裏世間の人間も出入りする。  清太と弥蔵は安次の案内で鴨川の土手から、葦葭などを粗雑に葺いた掘っ建て小屋が、不規則に乱立する河原へと下っていく。安次は河原から堤防を上がってくる河原者達と擦れ違うたびに明るく声を掛け、簡単な挨拶を交わしていく。 「安次、なかなか顔が利くな。」  清太が安次を軽く持ち上げると、安治は清太の言葉に満更でもない様子だが、 「この河原でひと月も寝食すれば、住人同士、自然と馴染みになりやす。」 と、忙しげに首を振って否定する。  安次は、無数の掘っ立て小屋を支持する細い材木が乱雑に入り組む狭隘な通路を、迷いなく抜けて、何の変哲もない一棟の小屋の前で立ち止まる。安次に拠れば、娘は、この小屋の住人で三条河原の顔役的存在である老夫に、刀剣の収集を依頼したと言う。 「爺様、安次です。今、戻りやした。」  小屋の中から年寄り特有の嗄れた咳払いと応えが聞こえる。安治は清太と弥蔵を外で待たせて、単身で小屋に入る。  京までの道中、安次は幾度か逃走を試みたが、いつも少し逃げた所で弥蔵に追い越され、道を塞がれた。それを繰り返し、最終的に、 ―二人を娘と対面させるまでは、逃がれることはできぬ。 と、安次は観念した。弥蔵は、安治が逃走を諦めるまで泳がせていただけに過ぎない。いずれにしても、安治は逃走する意思を失っている。  安次は間もなく小屋の出入口から顔だけを出して、清太と弥蔵を小屋の中に招き入れる。小屋の内部は清太が想像していたよりも暗く、狭い。その小空間で、地面に敷いた敷物の上に一人の老夫が立て膝で座っている。清太達の立ち位置は、老夫の座っている場所とさほどの距離はないが、老夫の周辺は光量が十分に絞られているため、清太の鍛え上げた視力でも老夫の表情は窺えない。反対に、老夫には出入口付近に立っている清太達の表情が手に取るように分かるはずである。 「概略は安次から聞いた。娘のことを知りたいとな。」  陰気な口調だが、拒否は感じられない。 「娘に興味がある訳ではない。その娘が集めている刀剣に関心があると言っておこう。」  弥蔵が老夫の出

第十四章 盗人(2)

 数日後、孝高は、一粒種の嫡子松寿丸を織田氏に預ける旨を、秀長に申し出る。無論、織田氏への人質である。 「肝が据わっておられる。」  重治は、信長や秀吉が山陽道や播磨の情勢を最も不安に感じているこの時期に、人質を差し出すことを願い出た孝高の深慮遠謀と覚悟を高く評価した。  秀長も織田氏に種々の劣後要因がある中、松寿丸の存在を奇貨とし、信長のもとに間違いなく送り届けることを約束する。これにより、孝高に対する信長、秀吉の信頼はますます厚くなるはずであり、孝高としても全面的な支援が受けやすい。  後刻、孝高が重治のもとを訪れる。 「もし、黒田家に万一のことがあれば、松寿丸のことをお願いいたします。」  孝高の真剣な眼差しには、単なる懇願とは異なり、常ならぬ気配が感じられる。 「わたしは織田様こそが唯一この戦国の世に終止符を打つお力を備えていると信じます。その天下平定の一助となるべく、知略を尽くして粉骨砕身する所存。しかし、わたしの仕掛ける際どい謀に対してあらぬ噂が流れることもございましょう。そのような折でも、竹中殿だけはわたくしを信じていただきたいと、こうしてお伺いした次第です。」 「なぜ、わたしを頼られる。」  重治は孝高の真意を探る。 「知謀を尽くして天下太平を目指す同志と感じました。」  重治は 「わたしは非才です。」 と、冷静に受け流す。孝高が、 「策士は時に人に誤解され、貶められます。羽柴家中、いや、日ノ本六十余州の中でそのことを理解していただけるのは竹中殿のみと見ました。どうかわたしの六尺の孤をお願いいたします。」  と語り、両拳を床について頭を下げる。  この一事が重治をして孝高を真の盟友にせしめる端緒となった。  同席していた清太は二人の純度の高い思想に感銘し、自身も天下太平の一助とならんことを改めて誓った。  羽柴氏の重臣達は松寿丸を伴い、近江への帰路についた。  清太と弥蔵は一行と別れて、姫路城の外れにある牢屋を訪ね、牢格子を挟んで、一人の小男と対面している。小男は、先日、播磨の名刹書写山圓教寺に忍び込み、刀剣を盗み出そうとした罪で捕縛された盗人である。  小男に拠れば、 「京三条河原に宝剣を高値で買い取る娘がいる。」 という。小男は素人ではないが、大した腕前ではなく、単に対価に目が眩んで、山陽道筋の古社名

第十四章 盗人(1)

 山陽道の景色は様々な場所で明瞭な色彩を持って往来の旅人達に季節の移ろいを感じさせ始めている。  秀吉の異父弟羽柴秀長を筆頭に、竹中重治、蜂須賀正勝ら、羽柴氏の重臣達が百人前後の兵卒を従え、軽塵を上げて西へと向かう。大津でこの一行に合流した清太は集団の中央よりやや前方の位置にあって重治の轡を取りながら駆け足で進む。 「存外、多くの兵を伴われましたな。」  清太は半分だけ振り返りながら、騎乗の重治に話し掛ける。 「秀吉殿が謹慎中の身なので、目立った行動は控えるべきところだが、播磨国人衆に我々の健在を示すためには最低限の人数は伴わざるを得まい。まあ、たった百ほどの将兵では播磨国人衆に対する自慢にも恫喝にもならぬかもしれぬが…。」  鞍上、重治が痩身を揺らしながら、自嘲気味に語る。 「勝家殿と謙信との対決は近い。勝家殿はやはり野戦を挑むらしいが、以前にも話したとおり、勝家殿が野戦で謙信に太刀打ちできるとは到底考えられぬ。北陸で勝家殿が大敗すれば、山陽道で織田氏に傾斜しつつある流れが逆流しかねぬ。それを少しでも食い止めるのが、この百余人だ。」 「しかし、たかだか百人とは言え、兵馬を動かしたことが信長様のお耳に入れば、さらにご勘気を被りませぬか。」  清太が自分の懸念を素直にぶつけて、重治の見解を確認する。 「秀吉殿は、「鬱々と逼塞していては、逆に信長様に謀反の準備などと誤解されかねぬゆえ、信長様が目を瞑ることができる範囲で動いておかねばならぬ」と、読んでいる。信長様がどこまでお許しになるのかは、わたしには分からぬ。いざとなれば、この百人は「単なる護衛」と言い逃れればよい。それでも秀吉殿がさらなるご勘気を被るようなら、秀吉殿の御運もそれまでよ。」  清太は説明を聞きながら、「百人」という数字を、 ―重治様なりに播磨国人衆への示威と信長様の許容範囲との微妙な均衡を計った上での結論。 と解釈する。  重治が続ける。 「羽柴家中には様々な才能を持った優秀な人材が綺羅星の如く揃っている。この道中で重臣達の言動をよく観察しておくとよい。」  重治は、将来、峡で甲丞になる清太のため、さらに広い視野を涵養するという観点も含めて、播磨下向に随行させていることを暗に清太に示す。  清太は一行とともに播磨に入ると、竹中家中の「池田清太」として、一行の到着を知らせ

峡の劔:第十三章 よしの(5)

 翌朝、朝陽が山の端を離れた頃、信貴山に出張っていた弥蔵が夜駆けして大原に戻った。 「宮内卿法印が信貴山城に赴き、久秀に翻意を促しましたが、久秀は拒否しました。」  宮内卿法印、名を松井友閑といい、堺商人出身の著名な茶人で、織田政権の中枢にあって堺奉行を務める。茶の湯を通じて久秀と懇意にしている友閑の説得を以てしても、久秀の決意は崩れなかった。  友閑の報告を受けた信長は、すぐさま、嫡男信忠を総大将に任命して兵一万を預け、岐阜を進発させるとともに、天王寺砦に滞陣中の明智光秀や細川藤孝などに信貴山城への転戦を命じた。信貴山城周辺には織田の軍勢が参集しつつあり、総大将信忠と主力の到着を待っている。 「藤佐らしき武士が信貴山城に入ったそうです。」  弥蔵が次の話題に移る。 「藤佐という悪党とはよくよく因縁があるようだな。」  清太は苦笑したあと、平次郎とよしのに関する昨日の出来事を、弥蔵に説明する。 「偶然とはいえ、若様が伏見でよしのを救ったことから始まった繋がりがこのように広がるとは思ってもみませんでした。」  弥蔵は様々な経験の中で、大成する人物が不思議なほどに奇縁良縁に恵まれる場面を幾度も自分の目で見てきた。あるいは、逆に、天に縁(えにし)を恵与された者が大成するということかもしれない。いずれにしても、清太を中心にした縁の広がりに沁々と感じ入る。 「序章は、伏見でよしのを救ったことではなく、御劔からかもしれぬな。」  清太が天象を予測する時に見せる茫洋とした表情で呟いた。  翌日の昼過ぎ、近江長浜から飛脚装束の伝輔が大原を訪れる。  伝輔は離れ屋から出てきた清太を見て、安堵の表情を浮かべ、時間を惜しむように、 「重治様をはじめ羽柴家の重臣方が隠密で播磨に下向することとなりました。出立は明日。重治様が清太殿に播磨までの先導を依頼したいとのこと。子細は道中にてお話するそうですので、急なことではございますが、明日の夕刻、大津で重治様一行と合流いただきたい。」 と、その場で清太に切り出した。 「承知した。」  清太に是非はない。  伝輔は復命のため、休息を取ることなく、長浜への帰路につく。  翌朝、鍛練を終えた清太は、普段と変わらず井戸端で洗濯をしているよしのに、 「今日、大原を発ちます。」 と、ことさらに明るい口調で告げる。

峡の劔:第十三章 よしの(4)

 清太は平次郎の真正面に立ち、杖から剣を抜き、背筋を伸ばして、剣を持つ右腕と杖を持つ左腕を胸の前で交差させる。剣と杖は清太の頸部を左右から挟むような位置にあり、先端は斜め後方、やや上方を指す。  平次郎は清太の意図を察して、何も問わずに、木太刀を中段に構える。 「わたしの家系に代々相伝される剣技です。」  清太は言い終えると同時に、両腕を交差させたまま、前傾姿勢を取って、平次郎との距離を一気に詰め、右腕の剣を斜め後方から一閃させる。平次郎は上体を反らせつつ、木太刀を握る両拳を僅かに下げて、清太の斬撃を避ける。清太は剣を振り抜いた勢いで回転して、左手の杖で横殴りの打撃を繰り出し、さらに、残った回転力で回し蹴りを入れたと思うと、再び右手の剣を袈裟懸けに斜め上方から振り下ろす。清太の流れるような連続技は、平次郎に反撃の機会を与えない。清太はさらに突き、正面からの蹴りなどを交えて、平次郎を攻める。  ここまで木太刀を構えたまま、間合いを見切ることだけで清太の攻めをかわしてきた平次郎が、清太の鋭い刺突に差し込まれて距離を取る。その瞬間を逃さず、清太が鶴が羽ばたくように両腕を広げて跳躍し、平次郎の頭上から剣と杖を同時に振り下ろす。平次郎は右に身体を捻って杖を避けるが、剣をかわしきれず、反射的に木太刀を頭上にかざして、受け止めた。  清太が大きく後方に跳び、剣を杖に収めて、 「失礼しました。」 と頭を下げた。 「様々な兵法を見てきたが、今のような体術は初めてだ。特に最後の太刀筋は必殺の剣。但し、相殺の剣と見た。」  清太が頷く。  平次郎は、この立ち会いで清太が妖術を知っていること、そして、常人を超越した身体能力を持っていること、双方の理由を得心した。そして、秘伝の剣技を披露することによって無言でそれを語った清太に対して、 ―自分もその世界を知っている。 という意味の言葉を告げた。  平次郎の住む兵法の世界には大名や群衆を前にした試合など華々しい世界がある反面、 ―勝利のため、流派繁栄のためには、手段を選ばぬ。 という、赤黒い血塗られた一面がある。その目的を達成するため、多くの兵法者達が世間の表裏の境界を往来する。そして、藤佐のように最終的に兵法を究めることができなかった人間が身に付けた武芸を持ったまま、裏世間へと堕ちていくことも少なくない。また、霊

峡の劔:第十三章 よしの(3)

 その朝、清太は奈良へ発つ亥介を見送ったあと、弥蔵を大原に残して洛中へと向かう。  平次郎が数日前に大原の嘉平屋敷を訪れ、自分の居場所とともに、 ―当分の間、京に滞在するので、清太殿がここに立ち寄ることがあれば、訪ねて貰いたい。 という伝言を残していた。  清太は、平次郎が示した洛中の材木商を訪ねたものの、平次郎は生憎外出中で、いつ戻るかさえ分からないと言う。  清太は得るところなく大原へ戻らざるを得なかった。しかし、 ―折角の洛中だ。見聞を広げておこう。 と気を取り直し、道行く人々に場所を尋ねながら、祇園社や知恩院、南禅寺、慈照寺など著名な寺社仏閣を巡り、大原に戻った。  その日の夕餉は、嘉平夫妻・治平夫妻ともに近隣の寄合があり、よしのが給仕役して清太と弥蔵の三人で取ることになった。少人数ということもあり、昨日とは打って変わって清太もよしのも明るく会話を弾ませる。  二人は、今朝の出来事を弥蔵に気付かれぬよう、昨日までと変わらぬ態度を装っている。  清太は、よしのが片付けを始めたところを見計らい、よしのに声を掛けて、懐から小さな包みを取り出す。 「洛中のお土産です。匂袋は於彩さん、於妙さん、そして、よしのさんに、そして、この櫛はよしのさんが使って下さい。」  よしのが頬を僅かに染めて小さな笑顔を浮かべ、清太から櫛と三つの匂袋を白い両手で大事そうに受け取る。  その夜、布団に入った清太に隣室で寝ている弥蔵が、 「若様、よしのさんと何かございましたか。」 と、単刀直入に尋ねる。  清太は、一瞬、身体を固くしたが、すぐに平静を取り戻し、灯火の消えた暗い天上を見つめながら、抑揚を付けずに弥蔵に答える。 「特段何もない。どうかしたのか。」  弥蔵が小さな咳払いを入れる。 「朝餉の折に若様とよしのさんの様子を見た於妙さんが「二人の様子が昨日までと少し違うように感じます。」と言っていました。女衆のこういう勘はなかなか侮れませぬ。先刻の夕食の様子を見ていると、わたくしも二人の雰囲気が昨日とは違うような気がしたもので…。」 ―於妙さんの入れ知恵か。  清太は女性特有と言っていい鋭い感性に内心驚きつつ、井戸端での出来事を見られていた訳ではないことを知って安堵する。 「於妙さんの思い違いだろう。弥蔵は心配性ゆえ、於妙さんの話を聞いてわたしとよ

峡の劔:第十三章 よしの(2)

 翌薄明、日課の鍛錬を終えた清太は汗を流すため、屋敷の裏にある井戸へ向かう。  井戸端で小さく動く気配がある。清太は鼓動の高鳴りを感じて、立ち止まり、気配に背を向けて、再び杖を振り始める。  幾ばくかの時間が経過する。  井戸端で屈んでいるよしのの小さな気配が止まる。  暫くすると、早朝の爽やかな空気とは不釣り合いなすすり泣きが静寂に小さく響く。清太は素振りを止め、惹き寄せられるようによしのに歩み寄る。清太はよしのの直ぐ背後で立ち止まったが、よしのは振り返ることなく、すすり泣きながら、再び洗濯の手を動かし始める。  清太は、屈んだまま洗濯を続けるよしのに、 「よしのさん、どうされましたか。」 と、優しく声を掛ける。よしのは唇を閉ざしたまま、清太の視線から逃れるように顔をそむける。 「どうしたのですか。」  清太がもう一度よしのの顔を覗く。よしのが身体ごと向きを変える。 「よしのさん。」  清太が強い口調になって、よしのの肩に手を添え、やや強引に彼女を身体ごと自分の方に向かせようとする。よしのは清太の力に抗えず、しかし、表情を見せまいと俯き、嗚咽を漏らすまいと肩を震わせながら、自分の肩に置かれた清太の掌を払い除ける。  沈黙が流れる。 「清太さまに…。」  よしのの頬を涙が伝う。 「お声を掛けていただけませぬ。」  清太が動揺する。 「皆と楽しく話していたので、話し掛けなかった。」 「宜しいのです。わたしのことなど気になされていないのでしょう。」  よしのが清太の胸を両手で押し返して、離れようとする。 「そんなはずはない。ただ、話し掛ける機会がなかっただけだ。」 「記憶もなく、素性も分からぬわたくしなどに清太さまがお声を掛けて下さらないのは、仕方がないことでございます。」 「何を訳の分からぬことを言っているのだ。」  よしのが清太を見つめ返した瞬間、清太はよしのの両腕を掴んで、強引に抱きしめた。よしのの全身から力が抜け、崩れるように清太の胸に顔を埋める。無言ではあったが、肌と体温を通じて初めて素直な感情を交わした二人は、小鳥達が美しく囀ずる中で、暫くの間、静かに抱き合っていた。

峡の劔:第十三章 よしの(1)

 清太と弥蔵は大原に戻って、嘉平屋敷の離れ屋に入り、播磨を出立する際に大原への参集を命じておいた亥介を交えて、膝詰めで議論する。  清太は、依然として続く神社仏閣からの刀剣の盗難について、重治から聞いた七星剣の伝説も交えて一つの仮説を立てる。 「自らの実力を過信する謙信が七星剣の霊力を求めて軒猿などに寺社の宝剣を偸盗させるということは考え難い。筋書きとしては、義昭や久秀などが謙信に取り入るために七星剣を集めていると考える方が正鵠を射ているように思えるが、皆の考えはどうだ。」  清太が意見を求める。亥介が議論の視野を広げるために捕捉する。 「重治様の言うとおり、顕如やその周囲が霊力を求めるということはなさそうですが、本願寺に所縁がある者が藁にも縋る思いで七星剣を集めている可能性もないとは言い切れませぬ。」  嘉平に拠れば、近頃、京近辺では金目当ての小悪党達が手当たり次第に様々な刀剣を盗んでいるらしい。また、亥介と総馬が信貴山城監視の合間に奈良の幾つかの神社仏閣を探ったところでも、近頃の盗人達に四天王寺で出会ったような凄腕の術者は存在せず、単に生活や金に困窮した素人が盗みを働いているだけで、それらの多くは警備の網に掛かって処罰されていた。 「刀剣収集の元締めが必死になっているということかもしれぬ。今までの話を頭の片隅において引き続き情報を集め、一歩ずつでも御劔に近付いていくしかあるまい。」  清太が一呼吸をおいて続ける。 「兎吉の手掛かりは掴めたか。」  亥介が視線を落として、 「杳として知れませぬ。」 と呟いた時、離れ屋に気配が近づく。 「もうすぐ夕餉が整います。」  三人は於彩の声で議論を仕舞い、母屋へ向かう。囲炉裏部屋の隣にある土間仕立ての台所で於彩と於妙、そして、よしのが夕餉の支度に追われている。その姿が清太の座っている場所から垣間見える。 ―よしのの記憶は僅かでも戻っただろうか…。  清太は、きびきびと働くよしのをぼんやりと眺めている。  主客全員が囲炉裏を囲み、賑やかな夕餉が始まる。話好きの嘉平を中心に畿内で起こった事件・出来事などの雑談に花が咲く。会話の輪に入らず、控え目な微笑を浮かべて聞いているだけのよしのに弥蔵が声を掛ける。 「大原には慣れましたか。」  よしのが弥蔵に向かって明るい笑顔で頷く。これを呼び水にしてよし

峡の劔:第十二章 毘沙門天(2)

 夕刻、屋敷の一室で、清太と弥蔵が重治と対面する形で夕餉を取る。  重治が箸を進めながら、二人に切り出す。 「七星剣という呼称を聞いたことはあるか。」  重治は心の奥底に沈澱していた記憶を掘り起こしながら語る。 「私が清太と同じ年頃のことだ。奈良の古刹に所縁があると言う旅の老法師が菩提山城下に逗留したことがあった。諧謔や古(いにしえ)の伝説を交えながら青空の下で法話する老法師は城下で話題になり、わたしも老法師の説法を聞くため、何度か城下に足を運んだ。その雑話の中に七星剣と呼ばれる霊剣の伝説があった。」  清太と弥蔵が箸を止めて、聞き入る。 「この国には鎮護国家、破邪顕正を司る幾振りかの霊剣が伝承されているそうだ。邇邇芸命(ににぎのみこと)が天孫降臨の際に天照大神に授かったと伝えられる神剣「天叢雲剣」もその一つだ。」  重治曰く、老法師によれば、天叢雲剣とは別に天皇家には二振一対の「陰陽剣」と称される鎮護国家の霊剣が伝承されていたという。「陰陽剣」は聖徳天皇の御代まで奈良正倉院に収納されていたが、その後、いつの頃か、剣そのものとともに、この国の正式な記録からも消滅した。しかし、「陰陽剣」は今でも何人(なんびと)も知らぬ場所でこの国を鎮護していると言う。 「真偽はわからぬぞ。」  重治は念押しした上で、続ける。  この鎮護国家を司る「陰陽剣」に相対する破邪顕正の覇剣として、 ―七星剣。 と名付けられた七振の霊剣があり、こちらも正倉院に納められていたと伝えられる。七星剣は、称徳帝の御世に正倉院に納められていた数多の宝剣とともに、「藤原仲麻呂の乱」を鎮圧するために出陣した当時の官軍称徳帝側の将兵によって単なる武器として持ち出され、仲麻呂の乱が鎮圧されたあとも、正倉院から持ち出されたまま他の刀剣とともに消息を絶った。 「御劔の刀身には大小七つの澄鉄(すみがね)が浮かんでいます。」  清太が、峡衆のみの知る御劔の特徴を、説明する。 ―七星剣の中の一振りが紆余曲折を経て平氏に渡り、さらに、阿波の秘境で静かに眠っていたのかかもしれない。  重治は自身で語りながら、歴史の織りなす不思議な奇縁に酒分の高い液体を飲んだような眩きを覚える。 「その覇者の剣を、今、誰が欲しているか。」  重治は自分自身に問い掛けるように、また、清太と弥蔵に問答を仕掛けるよ

峡の劔:第十一章 毘沙門天(1)

第十二章 毘沙門天 ―羽柴秀吉が柴田勝家の戦術に異を唱えた揚げ句、北陸の戦場を無断で離脱した。  清太と弥蔵は、摂津から越前への道中、そんな噂を聞き、将兵達の時ならぬ帰還に不思議な活況を呈する長浜城下に立ち寄り、竹中屋敷の門を叩く。  案の定、重治は屋敷に居た。  重治には、先行した伝輔が播磨、そして、山陽道の情勢を伝えているはずであり、清太と弥蔵は詳細な報告を割愛し、重治の問いに回答することに重点を置いて会話を進める。特に、黒田孝高の情勢分析と人物評について、重治は多くの時間を割いて質疑した。  播磨周辺に関する一通りの会話が終わると、重治が話題を変える。 「筑前殿に北陸の戦陣から速やかに撤収するよう進言してはいたが、このような形で近江長浜に帰還するとは予想していなかった。」  独言のように呟く重治の表情には苦笑が浮かぶ。  北陸の戦陣にあった秀吉の胸中に、 ―勝家が主張する野戦では謙信に勝てるはずがない。 という重く積もった想いが、 ―北陸の戦場で手柄を挙げても、恩賞は勝家達北陸諸将のものでしかない。 という秀吉の感情の奥底に沈んでいた鬱屈と反応して、 ―北陸の戦陣から退去するしかない。 という衝動を励起した。その過程において、秀吉の深層心理の中に潜在している、 ―信長様は自分の考えを理解して下さる。 という甘えが触媒として作用していたのかもしれない。しかし、 「秀吉、無断退去。」 の一報を受けた信長は、周囲から見れば当然の反応として激怒し、安土城から遠くない近江長浜に帰還した秀吉に目通りさえも許さなかった。  信長の思考方法を読み違えた秀吉は、予想とは全く異なる方向に推移していく状況の中で、 ―信長様から見れば、自分の行為は久秀の天王寺砦退去と同質である。 ということに気付いた。 ―信長あっての羽柴筑前守秀吉。 ということを骨髄に沁みると言っていいほど認識している秀吉は事態の収拾を図るべく、信長とその近辺に着実に手を打つ。  重治は信長の対応を秀吉に任せて、次なる飛躍の舞台になるはずの播磨で、北陸戦線の大敗北により生じるであろう衝撃の伝搬とそれに伴う擾乱を極小化する施策を煮詰めている。  重治の指示を待つ清太に対して、重治は、 ―思案が定まらない。 という面持ちのまま、 「次の一手まで大原で待って貰おう

峡の劔:第十一章 兵法者(3)

 翌早朝、清太が鍛錬のため屋外に出ると、平静を取り戻した平次郎が少し足を引き摺りながら、木太刀を振っている。清太は平次郎と少し距離を置いて、平次郎の様子を見ながら、一定の調子で杖を振り始める。  平次郎が素振りを止めたところに、清太が、 「宜しければ、一手ご教示いただけませぬか。」 と願い出る。平次郎は、昨晩、清太が示した誠意への返礼もあり、快諾して側に立て掛けてあった予備の木太刀を清太に手渡す。  二人は三間ほどの距離を置いて構える。最初、清太が数合撃ち込み、離れては、また、撃ち込む。幾度か同じ動作を繰り返す。その間、平次郎は足の傷を庇う意味もあり、ほとんど位置を変えずに清太の太刀を捌いている。 「清太殿、かなりの修練を積んでおられると見た。力の使い方、身体の捌き方、いずれも理に叶っている。強いて言えば、間合いの取り方がやや固い。間合いを会得すれば、さらに数段、技倆が上がるだろう。」  平次郎が軽く一歩だけ踏み出して、清太の左手をゆっくりと掠めるように太刀を振り下ろす。清太が左手を引き、木太刀を避ける。 「今の太刀筋ならば、紙一重で清太殿の左手には届かぬ。間合いを会得すれば、太刀筋が身体に触れるか否かを見極められるようになる。」  清太は、丁寧で理論的な平次郎の解説を、一を聞いて十を知る如く吸収していく。人間同士の生理的・本能的な相性というもので、清太と宗景の関係性とは正反対に、清太と平次郎は初対面から意気投合し、打ち解けていた。  その日、清太と弥蔵は、まだ少し跛行気味の平次郎、そして、宗景一行とともに須磨を出立し、道中の警戒を怠ることなく、摂津有岡城に至り、浦上主従を荒木家中に引き渡す。  清太は、宗景とのこれ以上の接触を忌避して、有岡城に長居せずに出立しようとしていたが、それでも有岡城を出る直前にももう一度平次郎に立ち会いを所望する。  清太は今朝の平次郎の指導を咀嚼して、早くも間合いの重要性を理解し始めていた。 ―平次郎殿の教授で剣術を極められるかもしれぬ。  清太は、今後も廻国修行しながら、藤佐を探し続けるはずの平次郎に対して大原の嘉平屋敷を示し、 「わたしが藤佐に関する情報を掴んだ時には、この屋敷の主人に伝言しておきます。京に上った際には、是非、お立ち寄り下さい。わたしが逗留していれば、是非とも兵法を指南していただきたい。

峡の劔:第十一章 兵法者(2)

 一行は宵の明星が輝き始めた街道を慎重に進む。平次郎は撒菱を踏んだ右足を庇って、道端で拾った木の枝を杖代わりにしながら、跛行(はこう)気味に歩く。一行は、四半刻ほどをかけて須磨の宿所に着くと、それぞれが旅塵を落とし、亭主の案内で宛てがわれた部屋に入った。  偶然にも清太と弥蔵は平次郎と相部屋となった。 「須崎平次郎。」  暗い表情のままの平次郎が短く名乗る。  弥蔵に勧められるまま平次郎が化膿止めの膏薬を自分の傷口に塗布する。その様子を見ながら、清太が会話の糸口を探して、求められるでもなく宗景と同道するに至った経緯を語る。  そのあと、平次郎はやむを得ないという表情で重い口を開く。  平次郎曰く。以前、廻国修行の途次、備前に立ち寄って、浦上氏の家臣達と試合し、その後、短期間ではあったが、逗留して浦上家中に兵法を指南したことが縁で、宗景と知古を得た。その宗景が宇喜多直家に備前を追われ、播磨の小寺氏に身を寄せていることを耳にして、旅の途中に播磨に立ち寄り、宗景から直に摂津有岡城までの護衛を依頼されたという。  平次郎が表情の陰翳をさらに深める。 「先刻、藤佐が擦れ違う貴殿に声を掛けたように見えたのだが、奴と顔見知りか。」  平次郎の質問に、清太は、 「詳しいことは存じませんが…。」 と断った上で、伏見街道で起こった出来事の概要を説明した。  平次郎が深く大きな溜め息を漏す。その落胆した表情を見つめながら、清太は二人の尋常でない関係を察しつつ、遠慮気味に尋ねる。 「初対面でさしでがましかもしれませぬが、藤佐という悪党と平次郎殿の間に何があったのか、お聞きしても宜しいですか。」  平次郎は少し躊躇したあと、 「私事ですが、…。」 と前置きして、語り始める。  平次郎と藤佐は無心流という田舎剣法を開いた兵法者熊谷止観斎を師匠として、剣術を研鑽する同門だった。止観斎の門弟の中で二人の実力は群を抜いており、周囲の者達は、 ―嫡男のいない止観斎はいずれかを一人娘幸(さち)の婿として迎え、後継者とするのではないか。 と噂した。  そんなある日、加齢により心身の衰えを感じ始めた止観斎が平次郎と藤佐を居室に呼んだ。 「一年後、わしの跡目を決めたい。今日より双方とも道場を離れて廻国せよ。一年後、ここに戻って試合し、勝者に跡目を譲りたい。」  修