峡の劔:第十三章 よしの(2)

 翌薄明、日課の鍛錬を終えた清太は汗を流すため、屋敷の裏にある井戸へ向かう。
 井戸端で小さく動く気配がある。清太は鼓動の高鳴りを感じて、立ち止まり、気配に背を向けて、再び杖を振り始める。
 幾ばくかの時間が経過する。
 井戸端で屈んでいるよしのの小さな気配が止まる。
 暫くすると、早朝の爽やかな空気とは不釣り合いなすすり泣きが静寂に小さく響く。清太は素振りを止め、惹き寄せられるようによしのに歩み寄る。清太はよしのの直ぐ背後で立ち止まったが、よしのは振り返ることなく、すすり泣きながら、再び洗濯の手を動かし始める。
 清太は、屈んだまま洗濯を続けるよしのに、
「よしのさん、どうされましたか。」
と、優しく声を掛ける。よしのは唇を閉ざしたまま、清太の視線から逃れるように顔をそむける。
「どうしたのですか。」
 清太がもう一度よしのの顔を覗く。よしのが身体ごと向きを変える。
「よしのさん。」
 清太が強い口調になって、よしのの肩に手を添え、やや強引に彼女を身体ごと自分の方に向かせようとする。よしのは清太の力に抗えず、しかし、表情を見せまいと俯き、嗚咽を漏らすまいと肩を震わせながら、自分の肩に置かれた清太の掌を払い除ける。
 沈黙が流れる。
「清太さまに…。」
 よしのの頬を涙が伝う。
「お声を掛けていただけませぬ。」
 清太が動揺する。
「皆と楽しく話していたので、話し掛けなかった。」
「宜しいのです。わたしのことなど気になされていないのでしょう。」
 よしのが清太の胸を両手で押し返して、離れようとする。
「そんなはずはない。ただ、話し掛ける機会がなかっただけだ。」
「記憶もなく、素性も分からぬわたくしなどに清太さまがお声を掛けて下さらないのは、仕方がないことでございます。」
「何を訳の分からぬことを言っているのだ。」
 よしのが清太を見つめ返した瞬間、清太はよしのの両腕を掴んで、強引に抱きしめた。よしのの全身から力が抜け、崩れるように清太の胸に顔を埋める。無言ではあったが、肌と体温を通じて初めて素直な感情を交わした二人は、小鳥達が美しく囀ずる中で、暫くの間、静かに抱き合っていた。

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