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950(1565)_==永禄8年==(旧版)

>_<あくまでも司空流の「こうかも」年表ですので、誤っている可能性があります。>_< >_<ご利用に際しては、解説・注意をご確認の上、各人で十分に史実をご確認ください>_<  永禄8年(1565)、毛利輝元と吉川元資(後の元長)が出雲富田城攻めに参陣。輝元と元資はこの時が初陣。  永禄8年(1565)、清水宗治、石川久孝の跡を継ぎ、高松城城主となる。  永禄8年(1565)1月8日、上杉輝虎が、武田信玄上野国侵攻の報に対し、沼田城主松本景繁、河田重親、小中大蔵少輔、小国刑部少輔、新発田長敦に軍備を充実して、武田・北条勢の動向を探らせるとともに、沼田城に応援を送る。  永禄8年(1556)1月13日、キリスト教宣教師ヴィレラとフロイスが、将軍足利義輝に新年の挨拶のために拝謁し、幕府は丁重に彼らを遇する。//仏教勢力が幕府の態度に反発。  永禄8年(1556)2月3日、石山本願寺において、阿弥陀堂の立柱式が行われる。//永禄7年12月26日の大火により焼失していた。  永禄8年2月5日、石山本願寺において、坊舎の立柱式が行われる。//永禄7年12月26日の大火により焼失していた。  永禄8年(1565)、越前一城谷城(福井県福井市)城主朝倉義景が加賀に出陣して、一向宗徒と戦い、上杉輝虎に救援を求める。//上杉輝虎は救援を承諾するも、関東危急のため朝倉救援を中止。  永禄8年2月24日、上杉輝虎が、関東出陣のため、下野国の小山高朝に厩橋城出陣を求める。  永禄8年3月27日、本願寺顕如のもとの、武田信玄からの書状が届く。//書状の内容は、武田信玄と昵懇にし、長尾輝虎からの要請には応じず、越中の備えは信玄で申し合わせるよう下知してほしいとの要望。//顕如はこの時期興正寺を仮住まいとしていた。//この手紙に顕如が応じようとするのを見た下間頼良が顕如に熟考を求めたが、顕如はf退け、下間上野の添状を付けて、甲府の門徒坊主の実了に盟約に関する書状を届ける。  永禄8年3月、将軍足利義輝の仲介で、長尾輝虎と北条氏康が和睦する。  永禄8年4月、毛利元就、本陣を富田城付近の星上山(京羅木山の西)に移し、八幡の浄安寺山、石原の滝山に布陣。  永禄8年(1565)4月17or18日、毛利元就、富田城を総攻撃を開

950(1564)_==永禄7年==(旧版)

>_<あくまでも司空流の「こうかも」年表ですので、誤りがあっても司空は一切の責任はとりません。>_< >_<ご利用に際しては、解説・注意をご確認の上、各人で十分に史実をご確認ください>_<  永禄7年(1564)、山中鹿之助、伯耆に入り杉原盛重と戦う。  永禄7年(1564)、上杉輝虎が、和田城(群馬県高崎市)攻城をやめ、小田城(茨城県筑波郡筑波町:城主小田氏治)攻めに向かう。//太田城主佐竹義昭や宇都宮城主太田資正らも動員される。  永禄7年(1564)1月29日、上杉輝虎が、小田城を攻略。//城兵二千余人が討死。城主小田氏治は菅谷氏の土浦城へ逃亡。//輝虎は、このまま唐沢山城(栃木県佐野市:城主佐野昌綱)の攻城に向かう。  永禄7年1月11日、三河の一向一揆八百余人が、大久保忠勝の守る上和田の砦(岡崎市六ツ美町)に迫る。//松平家康が急を聞き、岡崎城から駆け付ける。//激戦の中、忠勝は左眼を射抜かれる。//家康の近臣だった一揆勢の土屋重治は、家康が危ういのを見て、地獄に墜ちることを覚悟の上、家康を守る。//三河は混沌としている。  永禄7年1月22日、本願寺顕如に次子が誕生。佐超と名付ける。  永禄7年1月25日、甲賀忍者二人が、三河の上宮寺に忍び込み、放火を試みるも、発見され、その場で殺される。  永禄7年2月17日、上杉輝虎が、唐沢山城(城主佐野昌綱)を攻略する。//佐野昌綱は、佐竹義昭や太田資正の嘆願により助命される。  永禄7年2月17日、上杉輝虎が、一連の関東での合戦に関し、色部勝長や宮島惣三、栗林二郎左衛門、楠川左京亮、斎藤朝信などに感状を与える。  永禄7年2月、上杉輝虎が、長尾虎房丸に佐野家の家督を継がせることを決め、色部勝長、萩原伊賀守、吉江織部を唐沢山城に留める。  永禄7年、三河の一向一揆に味方していた吉田源太郎や蜂屋半之丞らが、松平家康に帰参。//織田信長が、滝川一益を使者に立て、無益な合戦をやめて今川に備えるべきと助言。  永禄7年2月28日、松平家康と三河の一向一揆が、上和田の浄珠院で和睦の起請文を取り交わす。//和睦の条件は、一揆に加担した者の本領安堵、門徒道場・僧侶は旧の如く、一揆の張本人達の命を助けるなどだった。//一揆に加担した家臣は浄土真宗を捨

950(1563)_==永禄6年==(最新版)

>_<あくまでも司空流の年表ですので、誤っている可能性があります。>_< >_<ご利用に際しては、解説・注意をご確認の上、各人で十分に史実をご確認ください>_< 2018.4.1更新  永禄 6 年 (1563)1 月、尼子方の宇山、牛尾、立原らが富田城を出撃し、出雲三刀屋の南地王峠で三刀屋川を隔てて毛利勢と激戦を展開。>出雲白鹿城救援と一致?>当日戦況が有利に進み、次の日を期していたが、毛利勢の援軍が洗合から出陣したとの虚報を信じ、富田城に帰還。>尼子方にとって、これが毛利方の補給線を断つ好機であった。  永禄 6 年 (1563)1 月、尼子勢が毛利軍に包囲された出雲白鹿城を救援するために援軍を派遣。この時 山中鹿之助 19 歳、援軍の先鋒を願い出るも、大身の反対で叶わず。秋上庵介が従軍。退却時の殿軍で功があったと言われる。 立原久綱 は、尼子勢の三刀屋城攻撃において尼子義久の近習頭として先発隊を率いたのが史書に現れる最初。  永禄 6 年 1 月 (1563) 、上杉輝虎が厩橋城 ( 群馬県 ) で関東諸将に号令をかけ、武蔵国松山城へ向かう。  永禄 6 年 (1563)2 月、本願寺顕如が、紀伊に出張り、弥勒寺山にあった坊舎を鷺森 ( 和歌山市鷺ノ森 ) に移す。  永禄 6 年、上杉輝虎が、私市 ( サキイチ ) 城 ( 埼玉県北埼玉郡騎西町 : 城主小田家時 ) 及び忍城 ( 城主 : 成田長泰 ) を攻略し、降伏させる。 // 成田長泰は、鶴岡八幡宮における上杉景虎の関東管領職就任の儀式の際に、頭が高かったという理由で輝虎から扇子で顔を二度叩かれ、それを契機に北条氏康に味方していた。  永禄 6 年、大友宗麟が毛利方の豊前苅田松山城を攻撃 ⇒ 毛利元就は掛合に在陣中の嫡男毛利隆元に北九州出陣を命じる。  永禄 6 年 3 月 1 日、細川晴元が、摂津富田の普門寺で、死去。享年 50 歳。  永禄 6 年 3 月上旬、毛利氏と大友氏の和議が成立。 ⇒ 毛利隆元は北九州の陣から出雲へ。  永禄 6 年 4 月、尼子勢が出雲松江の津田表を夜襲。  永禄 6 年 4 月 15 日、上杉輝虎が、小山城 ( 栃木県小山氏 ) の小山秀綱を攻略する

磁場の井戸:第三章 水牢(五)/長編歴史小説

 宗治は、澄み渡った空の下、城の彼方で繰り広げられる儀式を、城内の櫓から眺めていた。兄の月清、そして末近信賀、高市允が宗治と共に、巨大な堰が眩い陽光の下で濁流により切削されていく光景を凝視していた。 堰の切り込みから溢れ出る水勢は、各人が頭の中で思い描いていたよりも激しかった。堰を奔出した濁水は白波を噴き上げながら、城の西の田畑、沼沢を水底に沈め、このままの勢いをもってすれば、時を経ず、城の周辺の深田が水流に飲み込まれるかのように思えるほど、水勢は強かった。 「よくもこれだけの水を集めたものでございますな。」 高市允が感心したように呟いた。 「足守川もこの空梅雨で河原が大きくなっておりましたが、集めればあるものですな。」 市允に返答するような形で、月清も呟いた。  五人は四半刻もその流れを見つめ続けた。既に、決壊した堤から流れ出る水の勢いは目立って衰え始めていたが、水は未だに高松の城はおろか、城下にも至っていなかった。その一部始終を眺め続けていた月清が、再び言った。 「やはりこのようなことは人間の成すべき事ではないのでしょう。この地上にたった十数日で広大な湖を現出させるなどは、大師様ならいざ知らず、神仏のみの成せる技、我々のような人間が行うことではございません。」 月清は仏門に身を置くものとして、堤を築き、人工の湖を創り出すことの愚かしさを思った。宗治も、月清に同感であるというふうに、頷いた。 「神仏か、よほど神仏の加護を受けた者でなければ、これは成るまい。」 すでに、原古才あたりの田畑に溜まった水でさえも、その嵩を減らし始めていた。春先からの旱で、高松城を囲む平野に導かれた水の殆どは、乾いた地面に虚しく染み込んでいった。 高松城の雑兵達はこの様子を眺めながら、織田勢の愚かさを罵った。そして、罵りながら、自分達の考えていたとおり、この備中の広大な平野に突如として、湖を出現させるなどと言う気違い地味た行為が成功するはずがないことを、口々に語り合った。

950(1562)_==永禄5年==(最新版)

>_<あくまでも司空流の年表ですので、誤っている可能性があります。>_< >_<ご利用に際しては、解説・注意をご確認の上、各人で十分に史実をご確認ください>_< 2018.4.1更新  永禄 5 年 (1562) 、小早川隆景と毛利隆元率いる毛利勢の北九州方面軍が撤兵し、石見の毛利元就本隊と合流。  永禄 5 年 (1562)1 月 6 日、上杉輝虎 ( 後の上杉謙信 ) が、上野国館林城 ( 群馬県館林市 ) を攻めるため、小泉城 ( 群馬県邑楽郡大泉町 ) 城主富岡重朝に参陣を求める。  永禄 5 年 (1562)1 月 23 日、夜、石山本願寺の寺内町で大火が起こり、二千軒余が焼失。幸いにも、堂舎は火を逃れる。  永禄 5 年 2 月 5 日、毛利勢が尼子方の刺賀岩山城(城主多胡辰敬)を落とす。多胡辰敬は城を枕に討死。  永禄 5 年 2 月、毛利勢(この時には北九州方面軍と合流済み)が石見川上松山城を落とし、福屋隆兼の次男隆任を斬る。>これを見た福屋隆兼は乙明城を放棄し、尼子義久を頼るも毛利氏との和睦を望む尼子義久には受け入れられず、大和信貴山城の松永久秀のもとに走る。  永禄 5 年 2 月 9 日、上杉輝虎が上野国館林城 ( 城主赤井照景 ) を攻める。  永禄 5 年 2 月 13 日、上杉輝虎が、甥の喜平次顕景 ( アキカゲ ) に習字の手本を送る。 // 輝虎は上野国館林城包囲中。  永禄 5 年 2 月 17 日、上杉輝虎が上野国館林城を攻略し、城主赤井照景を忍城に追い、その後に長尾当長 ( マサナガ ) を入れる。  永禄 5 年 2 月 27 日、上杉輝虎が、家臣で春日山城留守蔵田五郎左衛門に府内・春日の火の用心と春日山城の普請を厳命。 // 春日は輝虎側近諸将の居住地、府内は参勤諸将と有力町人の居住地。  永禄 5 年 3 月、関白近衛前嗣が、前関東管領上杉憲政を伴って帰城。  永禄 5 年 3 月 15 日、上杉輝虎が、家臣金津新兵衛尉などの留守将に春日・府内・善光寺門前の火の用心を命じる。  永禄 5 年 6 月、尼子方の有力武将本城常光が毛利方に寝返り ⇒ これを受けて鰐走の牛尾氏、温泉津の湯氏が敗

950(1561)_==永禄4年==(最新版)

>_<あくまでも司空流の年表ですので、誤っている可能性があります。>_< >_<ご利用に際しては、解説・注意をご確認の上、各人で十分に史実をご確認ください>_<  永禄 4 年 (1561)2 月、長尾景虎が総勢 11 万 5 千騎で小田原城 ( 城主北条氏康 ) を包囲する。 // 先陣は岩槻城主太田資正、二陣は忍城主成田長泰、羽生城主広田式部大輔、深谷城主上杉憲盛、越後諸将は直江実綱、柿崎景家、斎藤朝信、本庄慶秀、中条藤資、甘粕長重、本庄繁長、鮎川清長、安田長秀、新発田長敦、桃井義孝、黒川清美、宇佐美定満、大川忠秀らが従う。  永禄 4 年 2 月、三河の松平元康が、尾張清州を訪れ、織田信長と対面、和解する。 // 今川義元の死後、松平元康は独立を目指す。義元の跡目を相続した氏真が、尾張訪問について元康に詰問するが、元康は弁明の使者を出してごまかす。  永禄 4 年 (1561)3 月 13 日未明、長尾景虎が、相模国小田原城攻めのため高麗山に本陣を構え、攻城を開始。 // その後、 1 ヶ月半に及ぶ城攻めを展開するも、小田原城は落城せず。そのうち、北条氏康と手を結んだ武田信玄が信濃国に出陣するとともに越中一向一揆にも不穏な動きがあり、長尾景虎は鎌倉 ( 神奈川県鎌倉市 ) に引き上げる。  永禄 4 年 3 月 18 日、石山本願寺において親鸞の三百回忌が始まる。以後 10 日間続く。  永禄 4 年 3 月 18 日、十河一存が病死 // 日が不詳? // 一存は、三好長慶の弟で、長慶配下の有力武将だった。  永禄 4 年 (1561) 閏 3 月 16 日、長尾景虎が、鶴岡八幡宮において、上杉憲政の要請で山内上杉家を相続し、関東管領に就任。この際、憲政の一字を賜り政虎と改め、上杉氏を称する。 // この際、鶴岡八幡宮へ黄金 100 枚を奉納したと伝わる。  永禄 4 年 4 月 1 日、上杉政虎 ( のちの上杉謙信 ) が、鎌倉で宝生・金剛の能楽を催す。  永禄 4 年 4 月 11 日、本願寺顕如が、権僧正に任じられた礼として二千疋を朝廷に献上。  永禄 4 年 5 月 11 日、美濃の斎藤義竜が、稲葉山城で逝去。享年 35 歳。嫡子斎藤竜興

950(1560)_==永禄3年==(最新版)

>_<あくまでも司空流の年表ですので、誤っている可能性があります。>_< >_<ご利用に際しては、解説・注意をご確認の上、各人で十分に史実をご確認ください>_< 2018.4.1更新  永禄 3 年 (1560) 、吉川元長が元服。加冦は叔父の毛利隆元。  永禄 3 年 (1560)1 月 11 日、石山本願寺を訪れていた実従が、寺内町衆の大文字屋四郎左衛門に招かれ、茶の湯座敷で茶を立てる。  永禄 3 年 (1560)1 月 16 日、夜、石山本願寺の西町において火事が発生。  永禄 3 年 (1560)1 月 27 日、正親町天皇の即位大典を開催。 // 長尾景虎が幣物を献上。  永禄 3 年 (1560) 2 月 1 日、松永久秀、三好義興が義輝の御供衆となる。  永禄 3 年 (1560) 2 月 3 日、松永久秀が弾正少弼に任ぜられる。  永禄 3 年 3 月、本願寺の一家衆である興正寺の証秀が、河内錦織郡の富田芝と呼ばれていた荒れ地を守護代の安見直政から銭百貫文で会、興正寺別院とその寺内町を建設しようとした。  永禄 3 年 (1560)3 月 15 日、長尾景虎が、上洛からの帰国を祝って、関東八ヶ国の衆から太刀を贈られる。  永禄 3 年 3 月 26 日、長尾景虎が、松倉城 ( 富山県魚津市鹿熊 ) 城主椎名康胤らを助け、富山城 ( 富山市 ) 城主神保長職 ( ナガモト ) を討伐して上洛の道を確保するため越中に侵攻。  永禄 3 年 3 月 30 日、長尾景虎が、越中国富山城を攻略。 // 神保長職は城を脱出し、増山城 ( 砺波市 ) に逃げ込むが、景虎が追撃し、神保長職は行方知れずとなる。  永禄 3 年 5 月 8 日、実従 ( 浄土真宗、蓮如の実子 ) が鶯合わせや立花を楽しむ。  永禄 3 年 5 月 18 日、万里小路秀房が、石山本願寺に下り、慶寿院 ( 顕如の祖母、 68 歳 ) が朝廷から従二位に叙せられることを伝える。  永禄 3 年 5 月 18 日、今川義元が、二万五千の大軍を率いて、尾張沓掛 ( 愛知県豊明市沓掛町 ) に本陣を設ける。先陣は松平元康の三河勢で、この時元康 19 歳。三河

950(1559)_==永禄2年==(最新版)

>_<あくまでも司空流の年表ですので、誤っている可能性があります。>_< >_<ご利用に際しては、解説・注意をご確認の上、各人で十分に史実をご確認ください>_< 2018.4.1更新  永禄 2 年 (1559) 、浦上宗景が、宇喜多直家に直家の妻の父中山備中守信正の謀殺を命じる。-直家は居城を新庄山城主(岡山市竹原)から中山信正が居城としていた亀山城(沼城?)に移る。この後、直家は亀山城(沼城?)を大改造。( Wiki )  永禄 2 年 2 月 2 日、織田信長が上洛。室町 13 代将軍足利義輝に謁見。信長 26 歳。  永禄 2 年 (1559)2 月 3 日、本願寺顕如の妹東向が、播磨の本徳寺と三河の本宗寺住持であった実円の孫教什と婚約。東向 14 歳、教什 20 歳。  永禄 2 年 3 月、織田信長が、織田信賢の岩倉城 ( 愛知県岩倉市 ) を攻略し、尾張一国をほぼ手中にする。 // 今川義元が尾張南部を伺っている情勢。  永禄 2 年 4 月 2 日、石山本願寺の東の直下の鴫野 ( シギノ、大阪市城東区鴫野 ) で勧進能が催される。 // 途中喧嘩が起こり町衆も河内衆もそれを制止した番衆にも死者が発生し、舞台や楽屋などが放火される。  永禄 2 年 (1559)4 月 3 日、長尾景虎 ( 後の上杉謙信 ) が 5000 の兵を率いて上洛の途につく。 // 手土産として将軍足利義輝へ黄金 30 枚 (300 両 ) 、将軍の母慶寿院へ白銀 1000 両、その他内裏修理資金や、延暦寺・金剛峯寺・石清水八幡宮など洛中洛外の神社仏閣へ金銀・青銅を寄進。 // 供奉した武将は長尾藤景、本庄実乃 ( サネヨリ ) 、直江実綱、柿崎景家、吉江景資、北条高常ら。  永禄 2 年 4 月 18 日、本願寺顕如の妹東向が、播磨の阿賀へ輿入れ。  永禄 2 年 (1559)4 月 20 日、上洛の途にある長尾景虎が、近江坂本の目代舟橋弥兵衛尉の家に到着。  永禄 2 年 (1559)4 月 21 日、将軍足利義輝が、上洛の途にある長尾景虎に、大館藤安を使者として遣わし、景虎の入洛を促す。  永禄 2 年 4 月 27 日、長尾景虎が入洛。  永禄

950(1558)_==永禄1年==(最新版)

>_<あくまでも司空流の年表ですので、誤っている可能性があります。>_< >_<ご利用に際しては、解説・注意をご確認の上、各人で十分に史実をご確認ください>_< 2018.4.1更新  弘治 4 年 (1558) 、この年 2 月に永禄に改元。  永禄 1 年 (1558) 、浦上政宗が、復権を目指して主人赤松晴政を廃し、晴政の子赤松義祐へと強制的に家督を継がせる。-追放された赤松晴政が娘婿である龍野城主の赤松政秀を頼った事により、龍野赤松氏が独立勢力化し新たな火種を産む。( Wiki )  永禄 1 年 (1558)2 月、吉川元春が石見に進攻し、石見温湯城(城主小笠原長雄)を攻めるが、城方の抵抗が強い。>弘治 2 年に続いて再度進攻の形。  弘治 4 年 (1558)2 月 28 日、弘治から永禄に改元。  永禄 1 年、尼子晴久が本城常光を石見に派遣し、大森銀山の糧道を絶つとともに、尼子晴久自身も大田に出陣し山吹城を攻める。  永禄 1 年 (1558)3 月 16 日、実従 ( 浄土真宗、蓮如の実子 ) が少僧都の位を朝廷から授かる。  永禄 1 年 5 月 3 日、近江の朽木に隠れていた将軍足利義輝が、近江に隠れていた前管領細川晴元と結び、六角義賢の援助を受けて、京回復を目指し、近江坂本まで進出。 // この頃、摂津芥川にいた三好長慶が畿内はじめ 8 カ国を支配。 // 本願寺は先の顕如の婚儀もあり、細川晴元に近い。  永禄 1 年 (1558)6 月、尼子晴久が石見へ出兵。  永禄 1 年 6 月 9 日、如意ヶ岳に布陣していた将軍足利義輝方が、北白川の勝軍地蔵山 ( 京都市左京区北白川地蔵谷町 ) を占領。 // 松永久秀の軍勢と睨み合う。  永禄 1 年、河内守護代の安見直政が、守護の畠山高政を追放し、高屋城に拠る。  永禄 1 年 7 月 17 日、本願寺顕如の母である顕能尼が逝去。享年 37 歳。  永禄 1 年 7 月中旬、毛利勢が、尼子勢が攻められていた山吹城に兵糧を入れるようとしたところ、大田市川合の南方 1 里の忍原 ( オシハラ ) で、尼子勢と激突し、毛利勢が大敗>「忍原崩れ」と呼ばれる。  永禄