950(1562)_==永禄5年==(最新版)

>_<あくまでも司空流の年表ですので、誤っている可能性があります。>_<
>_<ご利用に際しては、解説・注意をご確認の上、各人で十分に史実をご確認ください>_<


2018.4.1更新

 永禄5(1562)、小早川隆景と毛利隆元率いる毛利勢の北九州方面軍が撤兵し、石見の毛利元就本隊と合流。

 永禄5(1562)16日、上杉輝虎(後の上杉謙信)が、上野国館林城(群馬県館林市)を攻めるため、小泉城(群馬県邑楽郡大泉町)城主富岡重朝に参陣を求める。

 永禄5(1562)123日、夜、石山本願寺の寺内町で大火が起こり、二千軒余が焼失。幸いにも、堂舎は火を逃れる。

 永禄525日、毛利勢が尼子方の刺賀岩山城(城主多胡辰敬)を落とす。多胡辰敬は城を枕に討死。

 永禄52月、毛利勢(この時には北九州方面軍と合流済み)が石見川上松山城を落とし、福屋隆兼の次男隆任を斬る。>これを見た福屋隆兼は乙明城を放棄し、尼子義久を頼るも毛利氏との和睦を望む尼子義久には受け入れられず、大和信貴山城の松永久秀のもとに走る。

 永禄529日、上杉輝虎が上野国館林城(城主赤井照景)を攻める。

 永禄5213日、上杉輝虎が、甥の喜平次顕景(アキカゲ)に習字の手本を送る。//輝虎は上野国館林城包囲中。

 永禄5217日、上杉輝虎が上野国館林城を攻略し、城主赤井照景を忍城に追い、その後に長尾当長(マサナガ)を入れる。

 永禄5227日、上杉輝虎が、家臣で春日山城留守蔵田五郎左衛門に府内・春日の火の用心と春日山城の普請を厳命。//春日は輝虎側近諸将の居住地、府内は参勤諸将と有力町人の居住地。

 永禄53月、関白近衛前嗣が、前関東管領上杉憲政を伴って帰城。

 永禄5315日、上杉輝虎が、家臣金津新兵衛尉などの留守将に春日・府内・善光寺門前の火の用心を命じる。

 永禄56月、尼子方の有力武将本城常光が毛利方に寝返りこれを受けて鰐走の牛尾氏、温泉津の湯氏が敗走し、石見が毛利方のものとなる。また、本城常光の寝返りにより、大森銀山が毛利方の手に落ちる。

 永禄5(1562)、毛利勢、石見を平定し、大挙して出雲に進出。

 永禄56月、出雲西端に勢力のあった尼子方の赤穴久清が毛利方に寝返る。これと前後して、仁多の玉峰城主三沢為清、飯石の三刀屋城主三刀屋久扶、松江の満願寺山城主湯原春綱、川の高瀬山城主米原綱寛らの出雲国人衆が相次いで毛利方に寝返り。また、伯耆の南条宗勝が東伯の羽衣石に、行松入道が尾高泉山に入城して尼子に敵対する。 永禄57月、上杉輝虎が、越後国分寺五智如来堂を再建し、勅使に勧修寺中納言晴秀を迎えて、落慶式を行う。

 永禄57月、上杉輝虎が、松倉城(富山県魚津市鹿熊)の椎名康胤を救援するために、越中に出陣し、神保長職を撃退。//神保長職は、能登守護畠山義綱の仲介で上杉景虎に降伏し、増山城に入る。

 永禄573日、毛利元就が出雲攻略のため15千を率いて安芸吉田郡山城を出陣。石見路を阿須那、都賀を経て出雲入城して入国。

 永禄5721日、毛利元就、石見都賀に着陣。出雲赤穴城に向かう。

 永禄5728日、毛利元就、出雲赤穴城に着陣。その後、赤穴城の北東頓原にしばらく滞在し、同年121日進発。

 永禄5115日、毛利元就が本城常光とその一党を暗殺し、大森銀山を手中に収める。これを見た旧尼子系列の諸将が自らの立場を危ぶみ、尼子方に再び寝返る。毛利方に留まったのは三沢為清、三刀屋久扶、米原綱寛、赤穴久清ら。毛利元就はこの情勢を見て赤穴まで退陣。

 永禄5年、北条軍五万が、上野・武蔵国の上杉方の諸城を撃破し、武蔵国松山城に押し寄せる。岩槻城(埼玉県岩槻市)城主太田資正が上杉輝虎に救援を求める。

 永禄51124日、上杉輝虎が武蔵国松山城救援のため春日山城を出陣。

 永禄51127日、上杉輝虎が、武蔵国松山城救援の途次、柏崎(新潟県柏崎市)に到着。

 永禄51128日、上杉輝虎が、武蔵国松山城救援の途次、小千谷(新潟県小千谷市)に到着。//この後、大雪のため行軍が難航。

 永禄5121日、毛利元就が再び赤穴を進発。天倫寺山の洗合に本陣を移す。長期戦を見越して、宍道湖と中海を結ぶ水道を扼す洗合山に半永久的な城を築く。洗合山は富田城から25㌔ほど離れた場所。その後、宍道湖と中海の中間にある和久羅山を攻略し、支城を築くさらに安芸水軍の児玉就方が中海に浮かぶ大根島を占拠し、海上権を掌握。>これにより毛利元就は富田城と出雲白鹿城および島根半島との連絡を断つ。

 永禄51216日、上杉輝虎が、武蔵国松山城救援の途次、沼田城(群馬県沼田市)に到着//上杉景虎はこのまま沼田城で越年。

 永禄512月、尼子方は毛利勢の補給線を断つため、出雲三刀屋付近に進撃するが、毛利方の三刀屋久扶の働きにより失敗。毛利元就が三刀屋久扶宛に1227日付で感状を送る。>毛利方の補給線は出雲三刀屋に宍戸、山内両将をおき、掛合に嫡男毛利隆元を配する。

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