950(1558)_==永禄1年==(最新版)

>_<あくまでも司空流の年表ですので、誤っている可能性があります。>_<
>_<ご利用に際しては、解説・注意をご確認の上、各人で十分に史実をご確認ください>_<

2018.4.1更新


 弘治4(1558)、この年2月に永禄に改元。

 永禄1(1558)、浦上政宗が、復権を目指して主人赤松晴政を廃し、晴政の子赤松義祐へと強制的に家督を継がせる。-追放された赤松晴政が娘婿である龍野城主の赤松政秀を頼った事により、龍野赤松氏が独立勢力化し新たな火種を産む。(Wiki

 永禄1(1558)2月、吉川元春が石見に進攻し、石見温湯城(城主小笠原長雄)を攻めるが、城方の抵抗が強い。>弘治2年に続いて再度進攻の形。

 弘治4(1558)228日、弘治から永禄に改元。

 永禄1年、尼子晴久が本城常光を石見に派遣し、大森銀山の糧道を絶つとともに、尼子晴久自身も大田に出陣し山吹城を攻める。

 永禄1(1558)316日、実従(浄土真宗、蓮如の実子)が少僧都の位を朝廷から授かる。

 永禄153日、近江の朽木に隠れていた将軍足利義輝が、近江に隠れていた前管領細川晴元と結び、六角義賢の援助を受けて、京回復を目指し、近江坂本まで進出。//この頃、摂津芥川にいた三好長慶が畿内はじめ8カ国を支配。//本願寺は先の顕如の婚儀もあり、細川晴元に近い。

 永禄1(1558)6月、尼子晴久が石見へ出兵。

 永禄169日、如意ヶ岳に布陣していた将軍足利義輝方が、北白川の勝軍地蔵山(京都市左京区北白川地蔵谷町)を占領。//松永久秀の軍勢と睨み合う。

 永禄1年、河内守護代の安見直政が、守護の畠山高政を追放し、高屋城に拠る。

 永禄1717日、本願寺顕如の母である顕能尼が逝去。享年37歳。

 永禄17月中旬、毛利勢が、尼子勢が攻められていた山吹城に兵糧を入れるようとしたところ、大田市川合の南方1里の忍原(オシハラ)で、尼子勢と激突し、毛利勢が大敗>「忍原崩れ」と呼ばれる。

 永禄193日、尼子勢が石見山吹城を落とし、本城常光を城将に任命し、富田に凱旋。

 永禄193日、本願寺顕如に、長子が誕生。茶々と名付ける。のちの教如。

 永禄111月、室町第13代将軍足利義輝と三好長慶が、六角義賢の仲介により、和睦。義輝が5年ぶりの入洛。

 永禄111月、長尾景虎(後の上杉謙信)が室町十三代将軍足利義輝の帰洛を喜び、それを祝すため神余親綱(カナマリ)を使者として遣わし、来年上洛することを伝える。

 永禄11127日、将軍足利義輝らと三好長慶らが、六角義賢の仲介により和睦、将軍足利義輝が入京。//長慶は管領の待遇を与えられる。 永禄112月、三好長慶が、将軍義輝とその腹心細川氏綱と和睦し、幕府相伴衆となる。実権は長慶が握り、義輝も氏綱は傀儡。

 永禄112月、長尾景虎が、越前の朝倉義景、近江の六角義賢らに書状を送って、来年の上洛の安全を依頼する。

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