>_<あくまでも司空流の年表ですので、誤っている可能性があります。>_<
>_<ご利用に際しては、解説・注意をご確認の上、各人で十分に史実をご確認ください>_<
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2018.4.1更新
永禄2年(1559)、浦上宗景が、宇喜多直家に直家の妻の父中山備中守信正の謀殺を命じる。-直家は居城を新庄山城主(岡山市竹原)から中山信正が居城としていた亀山城(沼城?)に移る。この後、直家は亀山城(沼城?)を大改造。(Wiki)
永禄2年2月2日、織田信長が上洛。室町13代将軍足利義輝に謁見。信長26歳。
永禄2年(1559)2月3日、本願寺顕如の妹東向が、播磨の本徳寺と三河の本宗寺住持であった実円の孫教什と婚約。東向14歳、教什20歳。
永禄2年3月、織田信長が、織田信賢の岩倉城(愛知県岩倉市)を攻略し、尾張一国をほぼ手中にする。//今川義元が尾張南部を伺っている情勢。
永禄2年4月2日、石山本願寺の東の直下の鴫野(シギノ、大阪市城東区鴫野)で勧進能が催される。//途中喧嘩が起こり町衆も河内衆もそれを制止した番衆にも死者が発生し、舞台や楽屋などが放火される。
永禄2年(1559)4月3日、長尾景虎(後の上杉謙信)が5000の兵を率いて上洛の途につく。//手土産として将軍足利義輝へ黄金30枚(300両)、将軍の母慶寿院へ白銀1000両、その他内裏修理資金や、延暦寺・金剛峯寺・石清水八幡宮など洛中洛外の神社仏閣へ金銀・青銅を寄進。//供奉した武将は長尾藤景、本庄実乃(サネヨリ)、直江実綱、柿崎景家、吉江景資、北条高常ら。
永禄2年4月18日、本願寺顕如の妹東向が、播磨の阿賀へ輿入れ。
永禄2年(1559)4月20日、上洛の途にある長尾景虎が、近江坂本の目代舟橋弥兵衛尉の家に到着。
永禄2年(1559)4月21日、将軍足利義輝が、上洛の途にある長尾景虎に、大館藤安を使者として遣わし、景虎の入洛を促す。
永禄2年4月27日、長尾景虎が入洛。
永禄2年(1559)、長尾景虎が、将軍足利義輝に拝謁して、太刀一腰、馬一疋代黄金三十枚(黄金三百両)を献上し、将軍に忠節を誓う。将軍義輝は返礼として、文の裏書、塗輿、菊桐の紋章、朱柄の傘、屋形号の使用を許し、千年の白傘袋と毛氈の鞍覆と合わせて、上杉の七免許と呼ばれることとなる。//文の裏書は、三管領の細川・斯波・畠山氏とその一族のみが許されていたもの。
永禄2年(1559)5月1日、長尾景虎が、正親町天皇に拝謁し、天盃と御剣を賜る。//この時の御剣は刀身八寸五分、五虎退(ゴコタイ)と呼ばれる名刀。//景虎は内裏修理の資金を献上し、南門を再興。//景虎30歳。
永禄2年5月15日、長尾景虎が、近衛前嗣に隼を贈って和歌懐紙を所望し、「三智抄」という歌書を求める。//その後、近衛前嗣は景虎に懐紙を贈って懇意を感謝し、「三智抄」については知らない旨を伝える。//景虎は、近衛前嗣の父稙家から歌学を学ぶ。
永禄2年(1559)、長尾景虎(後の上杉謙信)が、上洛中、近衛稙家(タネイエ)から和歌奥義の伝授を受けるとともに、息子近衛前嗣(サキツグ)とも交友を深める。//近衛稙家は、別れにあたり、長尾景虎に「詠歌大概」を自ら書写して景虎に贈呈する。
永禄2年(1559)5月、毛利勢、備中吉備郡猿掛城主穂田為資を下す。>穂田為資が前年頃に毛利方の備中川上郡3村家親を攻めたため、毛利勢が石見温湯城から兵を引き、穂田為資の攻略に宛てた。
永禄2年5月、毛利勢が再度石見温湯城攻めのため、石見に出陣。
永禄2年5月29日、岸和田城の十河一存が救援に和泉へ入り、根来寺衆徒と戦うが敗れる。
永禄2年5月、武田晴信が、信玄の号を称する。
永禄2年6月18日、長尾景虎が、東谷正覚坊の案内で比叡山にのぼり、延暦寺根本中堂に参詣。
永禄2年6月20日、長尾景虎が、石清水八幡宮に参詣。橘本坊を宿坊に定め、黄金を献納。
永禄2年6月26日、足利義輝が、長尾景虎に対して関東管領上杉憲政の進退については景虎に任せる旨の御内書をを下す。//さらに、将軍は、長尾景虎に対し、文の裏書、塗輿、菊桐の紋章、朱柄の傘、屋形号の使用を許した。先年の白傘袋と毛氈の鞍覆の使用と合わせて、世にこれを上杉の七免許といい、関東管領職にふさわしい待遇。特に文の裏書は、三管領の細川、斯波、畠山氏とその一族のみ許されていた資格。塗輿は将軍・三管領・相伴衆なみの待遇。
永禄2年6月下旬、長尾景虎が、近江坂本の陣所で腫物を患う。
永禄2年6月29日、将軍足利義輝が、長尾景虎のもとに大館輝氏を遣わして、病気を見舞うとともに、景虎の帰国にあたり、鉄砲と「鉄砲薬之方並調合次第」という火薬の作り方を記した書物を送る。
永禄2年7月、尼子晴久が毛利勢により攻められている温湯城救援のため、石見温湯城の対岸に出陣。//渡河さえもできず、大田から富田に帰城。
永禄2年8月、毛利勢が石見温湯城を落とす。城将小笠原長雄は毛利氏に下る。
永禄2年8月1日、三好長慶が、河内守護代の安見直政が守る高屋城を攻略。//直政に追われた河内守護畠山高政を高屋城に入れる。//後日、直政が勢いを盛り返し、合戦は長期化。
永禄2年8月6日、三好長慶が、河内の飯盛山城を攻略。
永禄2年8月6日、松永久秀が筒井城に筒井藤勝(順慶)と戦い、これを破る。藤勝は椿尾上城へ逃れる。
永禄2年8月、松永久秀が大和信貴山城(奈良県生駒郡平群町信貴畑)を修築し、ここに大和支配の拠点を構える。//信貴山城の城下には堺と奈良をつなぐ街道が通っていた。
永禄2年8月、豊後の大友宗麟が、府内(大分市)における異国商人の交易を許す。
永禄2年8月、キリスト教宣教師ガスパル・ヴィレラが、豊後府内から堺を経て、京に到着。//三好長慶は、ヴィレラに対していち早く布教の許可を与える。
永禄2年10月2日、松永久秀が春日社に参り神馬一疋を奉納する。また若宮へは十二貫神楽を奉納する。
永禄2年10月28日、長尾景虎が、上洛からの帰国を祝って、越後諸将から太刀を贈られる。//この時の諸将の名簿が「侍衆御太刀之次第」として残っている。
永禄2年11月13日、長尾景虎が、上洛からの帰国を祝って、信濃衆から太刀を贈られる。
永禄2年12月9日、石山本願寺で宗主顕如の補佐をしてきた実従(浄土真宗、蓮如の実子)が、淀川を船で上って枚方の順興寺(大阪府枚方市枚方元町)に入る。//代わって顕誓(浄土真宗、蓮如の孫)が御影堂の鎰取役になる。
永禄2年12月15日、正親町天皇の勅使として前内大臣万里小路秀房が、石山本願寺に下り、本願寺を門跡に列する旨が伝えられる。また、門跡に設置する坊官については頼良ら下間家の三人が任じられる。
永禄2年(1559)12月、本願寺が寺院として最高の格式である門跡に列せられ、下間氏がその坊官となる。 永禄2年12月27日、本願寺顕如は、下間頼良を朝廷に遣わし、本願寺を門跡とする勅許の礼を伝え、礼銭として三万疋を献上。朝廷から顕如に対して、赤地錦の袈裟などが下賜される。//勅使となった万里小路秀房やその他の公家、青蓮院、将軍足利義輝、幕府の重臣達にも金品を献上。
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