950(1560)_==永禄3年==(最新版)

>_<あくまでも司空流の年表ですので、誤っている可能性があります。>_<
>_<ご利用に際しては、解説・注意をご確認の上、各人で十分に史実をご確認ください>_<


2018.4.1更新

 永禄3(1560)、吉川元長が元服。加冦は叔父の毛利隆元。

 永禄3(1560)111日、石山本願寺を訪れていた実従が、寺内町衆の大文字屋四郎左衛門に招かれ、茶の湯座敷で茶を立てる。

 永禄3(1560)116日、夜、石山本願寺の西町において火事が発生。

 永禄3(1560)127日、正親町天皇の即位大典を開催。//長尾景虎が幣物を献上。

 永禄3(1560)21日、松永久秀、三好義興が義輝の御供衆となる。

 永禄3(1560)23日、松永久秀が弾正少弼に任ぜられる。

 永禄33月、本願寺の一家衆である興正寺の証秀が、河内錦織郡の富田芝と呼ばれていた荒れ地を守護代の安見直政から銭百貫文で会、興正寺別院とその寺内町を建設しようとした。

 永禄3(1560)315日、長尾景虎が、上洛からの帰国を祝って、関東八ヶ国の衆から太刀を贈られる。

 永禄3326日、長尾景虎が、松倉城(富山県魚津市鹿熊)城主椎名康胤らを助け、富山城(富山市)城主神保長職(ナガモト)を討伐して上洛の道を確保するため越中に侵攻。

 永禄3330日、長尾景虎が、越中国富山城を攻略。//神保長職は城を脱出し、増山城(砺波市)に逃げ込むが、景虎が追撃し、神保長職は行方知れずとなる。

 永禄358日、実従(浄土真宗、蓮如の実子)が鶯合わせや立花を楽しむ。

 永禄3518日、万里小路秀房が、石山本願寺に下り、慶寿院(顕如の祖母、68)が朝廷から従二位に叙せられることを伝える。

 永禄3518日、今川義元が、二万五千の大軍を率いて、尾張沓掛(愛知県豊明市沓掛町)に本陣を設ける。先陣は松平元康の三河勢で、この時元康19歳。三河勢は、丸根砦の攻撃にかかる。

 永禄3(1560)519日、桶狭間の戦い。織田信長が今川義元を討ち取る。//蜂須賀小六、前野長康が今川軍に切込み、武功を上げる。//今川義元、享年42歳。今川勢は潰走。

 永禄36月、長尾景虎が、後奈良天皇の禁裏修理の遺勅を奉じて、御料所を献上する。

 永禄375日、相模の北条氏康が、門徒の禁制を解く。

 永禄3829日、長尾景虎が、関東管領上杉憲政の関東帰城の供のため、兵を率いて厩橋城(群馬県前橋市)に入城。//関東管領上杉憲政の関東帰城の御供をするためとし、このまま関東で越年。

 永禄31113日、三好長慶が、摂津芥川城から河内飯盛山城に移る。//河内飯盛山城は堺と京の中間地点にあたり、長慶はその両者を手中に収めることを目指す。

 永禄3年、松永久秀が、大和奈良に多聞山城(奈良市法蓮町)を築く。久秀は多聞山城を本城、信貴山城を支城として、大和支配を進める。

 永禄31121日、三河の本宗寺、長島の願証寺、大津の顕証寺が本願寺の院家(インケ)になることが勅許される。//院家とは門跡寺院の末寺のこと。

 永禄31224日、尼子晴久、逝去。享年47歳。(Wiki

 永禄31219日、石山の常楽寺などの五寺が院家となることについて勅許。

 永禄31224日、尼子晴久逝去。享年47歳?嫡男義久が後継。>尼子晴久の逝去を聞いた毛利元就の言葉からは両者の直接対決はなかった模様。

 永禄3年、山中鹿之助、甚次郎改め幸盛と称す。

 永禄3年、山中鹿之助、尼子義久に従軍し、伯耆国尾高城攻めに参加し、菊地音八を討ち取る。

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