>_<あくまでも司空流の年表ですので、誤っている可能性があります。>_<
>_<ご利用に際しては、解説・注意をご確認の上、各人で十分に史実をご確認ください>_<
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永禄4年(1561)2月、長尾景虎が総勢11万5千騎で小田原城(城主北条氏康)を包囲する。//先陣は岩槻城主太田資正、二陣は忍城主成田長泰、羽生城主広田式部大輔、深谷城主上杉憲盛、越後諸将は直江実綱、柿崎景家、斎藤朝信、本庄慶秀、中条藤資、甘粕長重、本庄繁長、鮎川清長、安田長秀、新発田長敦、桃井義孝、黒川清美、宇佐美定満、大川忠秀らが従う。
永禄4年2月、三河の松平元康が、尾張清州を訪れ、織田信長と対面、和解する。//今川義元の死後、松平元康は独立を目指す。義元の跡目を相続した氏真が、尾張訪問について元康に詰問するが、元康は弁明の使者を出してごまかす。
永禄4年(1561)3月13日未明、長尾景虎が、相模国小田原城攻めのため高麗山に本陣を構え、攻城を開始。//その後、1ヶ月半に及ぶ城攻めを展開するも、小田原城は落城せず。そのうち、北条氏康と手を結んだ武田信玄が信濃国に出陣するとともに越中一向一揆にも不穏な動きがあり、長尾景虎は鎌倉(神奈川県鎌倉市)に引き上げる。
永禄4年3月18日、石山本願寺において親鸞の三百回忌が始まる。以後10日間続く。
永禄4年3月18日、十河一存が病死//日が不詳?//一存は、三好長慶の弟で、長慶配下の有力武将だった。
永禄4年(1561)閏3月16日、長尾景虎が、鶴岡八幡宮において、上杉憲政の要請で山内上杉家を相続し、関東管領に就任。この際、憲政の一字を賜り政虎と改め、上杉氏を称する。//この際、鶴岡八幡宮へ黄金100枚を奉納したと伝わる。
永禄4年4月1日、上杉政虎(のちの上杉謙信)が、鎌倉で宝生・金剛の能楽を催す。
永禄4年4月11日、本願寺顕如が、権僧正に任じられた礼として二千疋を朝廷に献上。
永禄4年5月11日、美濃の斎藤義竜が、稲葉山城で逝去。享年35歳。嫡子斎藤竜興が跡目を相続。
永禄4年5月14日、織田信長、森部で美濃斎藤勢と戦う。
永禄4年5月23日、織田信長、軽海で斎藤勢と戦う。
永禄4年6月21日、上杉政虎が、越後帰国のため厩橋城を進発。
永禄4年6月28日、上杉政虎が、越後国春日山城に帰城。
永禄4年7月、三好長慶が、河内飯盛山城で千句連歌を楽しんでいた所、近江の六角義賢が京に入って勝軍地蔵山に布陣し、長慶方と睨み合う。//河内を追われた畠山高政も動き、和泉岸和田に攻め寄せる。
永禄4年7月、キリスト教宣教師ヴィレラが、日比屋了珪に招かれて堺に到着。
永禄4年8月3日、藤吉郎(豊臣秀吉)が、織田家中弓衆の浅野長勝の養女おねを娶る。おねの生家の姓をとり木下と称する。
永禄4年8月14日、上杉政虎が、一万八千の兵を率いて春日山城を進発//その後、善光寺に集結した後、善光寺に後詰5千の兵を残して、自ら1万3千の兵を率いて雨宮の渡しから千曲川を渡って妻女山に陣を構える。//この際、会津の蘆名盛氏、羽前の大宝寺義増に援軍を要請するとともに、姉婿の坂戸城(南魚沼郡六日町)城主長尾政景に春日山城の留守を命じ、赤田城(刈羽郡刈羽村)城主斎藤朝信、不動山城(糸魚川市)城主山本寺(サンポンジ)定長らを越中魚津城(魚津市)に在城させる。
永禄4年8月18日、武田信玄が、上杉政虎(のちの謙信)襲来の報せを受け、弟信繁、嫡男義信をはじめ1万7千を率いて甲府を進発。
永禄4年8月29日、武田信玄が、17,000の兵を率いて信濃国海津城(長野市松代町)に入城。
永禄4年9月9日夜半、上杉政虎が、妻女山を下り、千曲川の十二ヶ瀬、狗ヶ瀬を渡って、武田信玄が陣取る八幡原へと軍を進める。//政虎は、立ち上る炊煙とはためく武田軍旗の波に武田方の啄木鳥の戦法を看破し、出陣を命じる。
永禄4年9月10日、上杉政虎と武田晴信、八幡原を包む濃霧が晴れる(朝6時過ぎ)と同時に両軍が激突。//第四回川中島の合戦。上杉政虎が車懸の陣法で武田軍に突撃し、それを武田軍が鶴翼の陣法で迎え撃つ。上杉方3400人余り、武田方4600人余りが討死。
永禄4年9月13日、上杉政虎が、武田方との合戦を終え、軍功の将色部修理進勝長、安田治部少輔長秀、垂水孫二郎、本田右近丞、中条越前守藤資、松本大学忠繁、岡田但馬の七人に「血染めの感状」を与える。
永禄4年11月頃、小早川隆景らが率いる毛利勢が豊後大友宗麟と北九州で激戦を交える。
永禄4年11月、毛利方の乙明城主福屋隆兼が、所領の扱いを巡る不満から、尼子方に寝返り。小早川隆景ら毛利勢が北九州に出陣していた虚を突く。
永禄4年11月、北条氏康が、武田信玄に応じ、武蔵国松山城を攻撃する動きを見せ、古河城に滞在中の関白近衛前嗣が上杉政虎に救援を求める。//上杉政虎はこれに応じて出陣。
永禄4年11月27日、上杉政虎が武蔵国羽生で北条軍と合戦。北条軍と武田軍は上杉方の倉賀野城を攻囲するも、幼少の倉賀野城主倉賀野直行を重臣橋爪若狭守が幼君を助けて、北条軍・武田軍を撃退。//12月25日、上杉政虎が橋爪若狭守に感状を発行。
永禄4年(1561)、尼子義久、旧領復活を目指し、播磨国内に進行。山中鹿之助は義久の近従として初陣し、上月城を攻撃。これが山中鹿之助と上月城の初めての出会い。
永禄4年、尼子方に寝返った福屋隆兼らが毛利方の邇摩郡温泉津城主吉川経安を攻める。>将軍足利義輝の意向で毛利氏との和睦を望んでいた尼子義久の意志に反したものだった。>これに対し毛利方は川本に兵を進めるとともに、吉川元春が大田に兵を進め、吉川経安を援助。
永禄4年12月、毛利勢が尼子方の福屋隆兼の支配下にあった中村、矢上を落とす。
永禄4年(1561)
12月7日、吉川広家が生まれる。
永禄4年暮れ頃、上杉政虎(後の上杉謙信)が室町13代将軍足利義輝から一字を賜り、上杉輝虎に改名。
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