950(1553)_==天文22年==(最新版)

>_<あくまでも司空が各種資料に基づき独自に調査した結果ですので、誤りがあっても司空は一切の責任はとりません。>_<
>_<ご利用に際しては、解説・注意をご確認の上、各人で十分に史実をご確認ください>_<


 天文22年(1553)、室町第13代将軍・足利義藤(のち改名して義輝)が細川晴元と協力して三好長慶との戦いを開始。その後敗れて近江朽木に逃れ、以降5年間を近江朽木で過ごす。
 天文22年(1553)1月1日、杵築大社法楽の連歌会が催され、宗養が「八雲にもけふ九重の霞かな」と発句。
 天文22年(1553)1月26日、実孝(浄土真宗、吉野貝塚の本善寺住職)が逝去。享年59歳。
 天文22年閏1月19日、織田信長の守役平手政秀が、信長への諫言を残して、自害。 天文22年(1553)2月10日、長尾晴景(上杉謙信の実兄)が病死。享年45歳と伝えられる。法名千厳院殿華獄光栄。//長尾景虎(のちの上杉謙信)が越後の大名となる。
 天文22年(1553)春頃、大内家重臣陶隆房が、当主大内晴英の1字をもらい陶晴賢と改名。
 天文22年2月29日、実孝(浄土真宗)の野辺送りで吉野に来ていた実従が、兄の実悟(浄土真宗、蓮如の実子)と共に高野山に上る。//同時期に連歌師の里村紹巴や前左大臣三条西公条が吉野を旅行。
 天文22年3月、将軍足利義藤が、三好長慶との関係悪化に伴い、京の霊山城に籠る。//これを見て、近江にいた細川晴元が京奪還に向けて動き、六角義賢や摂津芥川城の芥川孫十郎らがこれに呼応し、長慶方が窮地に立つも、松永久秀の奮戦により長慶方が京を保つ。
 天文22年4月、美濃の斎藤道三が、娘婿の織田信長と、尾張富田にある聖徳寺(名古屋市中川区富田町)で初対面。//道三が町家に忍んで信長を盗み見ると異様な風体で長槍500本と鉄砲500挺を足軽に持たせて進んでいたが、寺について対面すると身なりを整え威儀を正して道三に拝謁し、道三を驚かせた。
 天文22年(1553)4月、尼子晴久が備後の失地回復を目的として、出雲仁多郡横田に出陣、先方は甲山に到着。⇒備後比叡尾山城主の三吉氏が毛利元就に援軍を依頼。<<尼子晴久は備後甲山城主山内隆通や川西旗返城主江田隆連らが尼子方に味方したことを契機に備後出陣。
 天文22年(1553)4月9日、武田信玄が、葛尾(カツラオ)城(埴科郡板城町)を落とす。//同年8月5日、城主村上義清は越後に逃れる。
 天文22年4月20日、長尾景虎が、延暦寺座主二品堯尊(ニホンギョウソン)親王からの依頼で、山門大講堂造営費として黄金200枚を寄進。
 天文22年4月22日、上杉軍と武田軍が八幡(更埴市)で合戦//長尾景虎や武田晴信が出陣したか否かは不明。
 天文22年5月、長尾景虎が、天文21年4月の従五位下弾正少弼叙任の御礼に、金余(カナマリ)親綱を上洛させ、朝廷へ剣、黄金、巻絹を、将軍義輝へ長光の太刀一腰、河原毛の馬1疋、青銅3000疋(30貫)、大鷹1本を、将軍夫人へ樽代500疋を贈る。同時に、大館晴光に太刀一腰、鳥目500疋、大鷹1本、大覚寺義俊に青銅1000疋、渡辺盛綱・神崎光勝・富森信盛らにもそれぞれ鳥目200疋を贈り、斡旋の労を謝した。
 天文22年5月7日、山科言継が、三好長慶の依頼を受け「玉葉和歌集」を書写。
 天文22年(1553)5月21日、尼子晴久、備後比婆郡口和町泉山城を攻撃するも、毛利勢破れ、甲山に退却。⇒この後、旗返の支城も次々と陥落>この合戦で両軍が泉川を挟んで対陣中の所、尼子方米原左馬允は荻ノ瀬橋上に突進し、佐久木新右衛門の強弓に倒れる<陰徳太平記には「米原はたく香に髪をこがして、勇を備陽の戦場にとどめたりと、そのころ万人の美談となって聞く者感をもよほ」したとある。
 天文22年5月頃、但馬の山名祐豊が毛利元就に味方して尼子晴久討滅の決意を語る。
 天文22年7月、本願寺証如が腹部を患ったため、名医と言われた上池院が来診。//大事ないとの見立て。
 天文22年8月1日、三好長慶が、摂津や河内の精兵を率いて、京の霊山城に迫り、戦端が開く。//霊山城の将軍足利義藤は散々に敗れて丹波に逃れ、さらに近江朽木に退去。
 天文22年8月5日、武田晴信が、信濃に侵攻し、村上義清が籠る塩田城(長野県上田市前山)を落とす。
 天文22年8月5日、信濃葛尾(カツラオ)城主村上義清が、上杉景虎に頼って越後に逃れる。
 天文22年8月、長尾景虎が武田信玄に領土を奪われた信濃国諸将(村上義清、高梨政頼、井上清政、島津規久、栗田寛明ら)を援助し、8000の兵を率いて信濃川中島に出陣。
 天文22年8月13日、本願寺証如が、父円如の三十三回忌法要を行う。
 天文22年8月22日、三好長慶が、京を制した後、摂津の芥川城を攻略。//長慶は本拠を越水から芥川に移す。
 天文22年8月下旬、長尾軍が、布施(長野市)で武田軍を破る。
 天文22年9月1日、長尾軍が、八幡(更埴市)で武田軍を破る。//その後、荒砥城(更級郡上山田町)、虚空蔵城(東筑摩郡四賀村)などを攻略し、9月末に帰国する。
  天文22年9月20日、長尾景虎が、雪に備えて、信濃から越後に兵を引き上げる。
 天文22年9月下旬、長尾景虎が、叙位任官(従五位下弾正少弼)の御礼言上のため、精兵二千を率いて上洛の途につく。//手土産として将軍足利義輝に青銅3000疋(30貫)、将軍夫人へ樽代500疋、大覚寺義俊へ青銅1000疋、大館晴光へ鳥目500疋、朝廷へ黄金、本願寺証如(光教)へ鳥目1000疋を献上。//その後、京で後奈良天皇に拝謁し、天盃と御剣を下賜される。//天皇から下賜された御剣は、無銘の6寸2分、豊後瓜実(ウリザネ)の剣と呼ばれ、「天下太平」の文字が彫られた上杉家の重宝。
 天文22年9月末、長尾軍が信濃国から帰陣。//第1回川中島の合戦が終焉
 天文22年、長尾景虎が室町13代将軍足利義輝に拝謁。
 天文22年10月3日、本願寺証如の嫡男茶々(本願寺顕如)が、実従(浄土真宗、蓮如の実子)について「正信偈」を教わる。
 天文22年10月3日、本願寺証如が、再び腹痛を起こす。//天文22年7月参照
 天文22年10月7日、武田晴信が、長尾景虎方が信濃から兵を引いたことから、甲斐へ兵を引く。//天文22年9月20日参照
 天文22年10月19日、尼子方備後旗返城主江田隆連が城を捨て、同国甲山城(城主山内隆通)のもとに走る。>これにより備後甲山方面の毛利氏と尼子氏の対陣に終止符が打たれる。
 天文22年11月6日、本願寺証如の嫡男茶々(本願寺顕如)が、眉直しとお歯黒の儀式を行う。
 天文22年11月12日、長尾景虎が、高野山に向かうため、京を出立。
 天文22年11月13日、長尾景虎が、上洛を果たした後、大坂を通過した際に石山本願寺の証如上人へ贈物を届けたあと、和泉国堺に立ち寄る。//鉄砲、玉薬、南蛮渡来の珍品を購入か?//この機会に大坂石山本願寺、紀伊高野山金剛峯寺、比叡山延暦寺、京都大徳寺などにも参詣。//長尾景虎は石山本願寺の証如上人に対して太刀、馬、鳥目千疋、樽代などを送る。//11月28日に武田軍・長尾軍の間で大会戦(川中島五戦記、川中島五箇度合戦之次第)があったとの説があるが、この時期、長尾景虎は上洛しており、大会戦の事実はないものと思料。
 天文22年11月14日早朝、石山本願寺証如上人が、堺滞在中の長尾景虎へ、11月13日の贈物への返礼として、太刀・緞子10反、縞織物20反を届ける。
 天文22年12月、尼子方の備後甲山城主山内隆通が多賀山通続とともに毛利元就と和睦し、毛利氏に属する。>備後内の尼子方勢力は消滅。⇒毛利元就は旗返城の守備を毛利氏にと、陶晴賢に願い出るも、陶晴賢は北備の要衝地点という理由で腹心の江良房栄を城将としていれた。⇒毛利元就と嫡子隆元はこの陶晴賢の処置に憤り、後に陶晴賢を討伐することになる。
 天文22年12月8日、長尾景虎が、京都大徳寺に参禅し、前住持第91世徹岫宗九(テッシュウソウク)から三帰五戒と法号宗心を授かる。
 天文22年末頃、長尾景虎が、京から越後に帰国。

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