>_<あくまでも司空が各種資料に基づき独自に調査した結果ですので、誤りがあっても司空は一切の責任はとりません。>_<
>_<ご利用に際しては、解説・注意をご確認の上、各人で十分に史実をご確認ください>_<
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天文9年(1540)、尼子氏対大内氏の対立が激化。尼子氏は播州から撤退したと思われる。
天文9年、春から夏にかけて、諸国に疫病が流行し、京では鴨川で洪水が発生。飢饉が起こる。
天文9年(1540)1月、大内勢が安芸国内の尼子勢討伐のため防府を出陣。⇒同年3月に岩国に向かい尼子勢に備える。
天文9年(1540)1月23日、青蓮院門跡尊鎮法親王が、石山本願寺を訪れる。//証如は厚くもてなし、寺内で名手とされる下間光頼に能を舞わせるなど歓待。//法親王は、証如に金襴の袈裟と紫衣を、証如の母に慶寿院の院号を許し、鎮水の名を下す。
天文9年6月6日、近江本福寺の明宗(浄土真宗)が、逝去。享年72歳//明宗は浄土真宗本山の蓮淳などに責められ、何度か破門された人物。//子の明誓が本福寺を相続。
天文9年6月、尾張の織田信秀が、伊勢外宮の仮殿造営費用を寄進。//これによって信秀は三河守を任ずる。
天文9年6月下旬、尼子勢のうち尼子国久率いる新宮党3千余騎が安芸吉田郡山城に向けて進発//尼子氏の昨年来の軍議では尼子下野守久幸が毛利氏討伐に反対し、また、尼子経久も久幸に賛同するも、当主尼子詮久はこれを容れず、大内氏が同年3月に岩国に向かったことを聞き、早々に新宮党を進発させた。⇒その後、三刀屋、掛合、頓原、赤穴を経て、尼子方の三吉隆信の守る安芸志和地八幡山城に進出。⇒此処から江の川上流の可愛川を渡って高田郡甲立に至り、吉田郡山城を背後から攻めようとした。八幡山城から南西4㌔の地点に祝山城があり、備後五竜城主宍戸元源の弟深瀬隆兼が守備し、守りを堅固にして尼子勢の来襲を待つ⇒尼子勢は祝山城を目指し、可愛川東岸から祝山城麓の石見堂の渡り口に押し寄せ可愛川を渡河しようとしたが、水深が深く渡河できず、そこに深瀬隆兼が全軍に攻撃を命じ、可愛川を挟んで散々に防戦。尼子勢の背後から伏兵もおこり、尼子勢は八幡山城間で退却し、さらに富田城に退いた。
天文9年8月、尼子方の川本温湯城主小笠原長隆が大森銀山を奪取。
天文9年6月6日、近江本福寺の明宗(浄土真宗)が、逝去。享年72歳//明宗は浄土真宗本山の蓮淳などに責められ、何度か破門された人物。//子の明誓が本福寺を相続。
天文9年6月、尾張の織田信秀が、伊勢外宮の仮殿造営費用を寄進。//これによって信秀は三河守を任ずる。
天文9年8月6日、二条家から本願寺に対して、宿敵朝倉との和議が進んでいることについて、将軍や関白、大覚寺などへ礼を言うように書状が届く。//本願寺証如は、この和睦協議について依頼したこともなく、多いに怒る。
天文9年8月19日付、尼子家家臣団の奉加帳(近江竹生島宝厳寺造営のため同寺から自尊上人が出雲に下向)。奉加帳には、詮久/刑部少輔国久(詮久の叔父)/式部少輔誠久(サネヒサ)/下野守久幸/新四郎久豊/彦四郎清久/次郎四郎詮幸/小四郎久尊(ヒサタカ)/又四郎の8名の尼子氏一族、次に「御一族衆」の宍道八郎(宍道氏は尼子氏の祖高久の弟秀益を祖)/鞍智右馬助(鞍智氏は高久の祖父京極高氏(導誉)の弟時満を祖)/宍道九郎が見える。次に「奉公の末」として朝山安芸守(神門郡朝山郷を名字/本拠とする有力国人)など。次に「出雲州衆次第不同」とあり、隠岐五郎右衛門尉以下68名で隠岐氏/湯氏/古志氏(以上義清流佐々木氏の流れを汲む国人)や三沢/三刀屋/赤穴氏(出雲生え抜きの有力国人)。最後に「富田衆次第不同」とし湯原次郎右衛門尉以下37名を記載。総数百17人。//当時国久を中心とする新宮党が尼子宗家の柱石として働いていた。
天文9年8月下旬(或は1日)、尼子民部少輔詮久、自ら3万の軍勢を率いて、毛利氏の安芸郡山城に向け、出雲月山富田城を出陣。尼子下野守久幸や尼子紀伊守国久、国久の嫡男式部少輔誠久、次男兵部少輔豊久、三男左衛門大夫敬久、誠久の嫡男氏久らの一門衆を始め、家老の面々等々、出雲、伯耆、因幡、美作、備中、石見六州の兵が従う。⇒飯石郡赤穴を経て石見路を進み、口羽を経て安芸に進攻。
天文9年9月4日、尼子詮久率いる尼子勢3万が安芸多治比の風越山に本営を据える。//風越山は安芸吉田郡山城の南東およそ4㌔で、吉田郡山城を眼下に見下ろす位置にある。//吉田郡山城に籠もる毛利勢は兵2400ほど、その他を合わせて8000ほど。
天文9年9月5日、尼子勢が安芸吉田上村の民家に放火。
天文9年9月6日、尼子勢が安芸吉田西方の太郎丸とその周辺に放火。
天文9年9月6日、石山本願寺が、朝廷に蒲鉾100枚や鯛酒漬5桶など5荷を献上。
天文9年9月12日、尼子勢が大挙して吉田郡山城下に進み、後小路付近の民家に放火。この日、吉田郡山城南東麓の大田口で激戦が展開される。
天文9年9月23日、尼子詮久が本陣を風越山から青山、3塚山の間に移す。⇒吉田郡山城の南西約1数町の場所。⇒尼子詮久の移動後、風越山の陣地は毛利勢によって焼き払われた。
天文9年9月26日、尼子勢が、大内方の安芸吉田郡山城救援部隊杉元資の1隊と竹原の小早川興景が陣取る坂・豊島を攻撃したが、逆に吉田郡山城から打って出た毛利勢に挟撃され、尼子方の侍大将湯原弥次郎宗綱が討ち取られ惨敗。
天文9年9月、尼子方の小笠原長隆が大内氏から石見大森銀山を再び奪取。//灰吹法によって産出量が年々急激に上昇し、激しい争奪戦が展開される。
天文9年9月30日、石山本願寺が、朝廷に雁3羽を献上。
天文9年10月6日、摂津守護細川晴元の奉行茨木長隆が、摂津国人衆の池田久宗に勝手な横領をやめるよう命じる。//越水城を拠点に三好範長(後の長慶)が摂津国人衆の動きを後押し。
天文9年10月11日、尼子勢のうち新宮党の誠久が一党を率いて吉田郡山城に肉薄。毛利元就もこれに応じて吉田郡山城内から打って出る。「青山土取場の合戦」。尼子勢は左右両面からの伏兵に挟撃され、青山山麓に退却。尼子勢は三沢為幸以下数十名が討死、毛利勢は1名討死のみで、毛利勢の大勝。
天文9年10月16日、石山本願寺が、「本願寺系図」を後奈良天皇の天覧に供する。
天文9年10月19日、石山本願寺が、後奈良天皇から宸筆の「観無量寿経」を賜る。
天文9年11月下旬、安芸吉田郡山城を包囲中の尼子勢と毛利勢が小競り合い。
天文9年12月3日、大内氏重臣陶隆房の率いる1万余の大内勢が吉田郡山城南東の山田中山に来援、布陣。
天文9年12月11日、安芸吉田郡山城に籠城中の毛利元就が宍戸元源らとともに相合(アイオイ)の宮崎長尾に陣する尼子勢を急襲。
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