950(1564)_==永禄7年==(旧版)

>_<あくまでも司空流の「こうかも」年表ですので、誤りがあっても司空は一切の責任はとりません。>_<
>_<ご利用に際しては、解説・注意をご確認の上、各人で十分に史実をご確認ください>_<

 永禄7年(1564)、山中鹿之助、伯耆に入り杉原盛重と戦う。
 永禄7年(1564)、上杉輝虎が、和田城(群馬県高崎市)攻城をやめ、小田城(茨城県筑波郡筑波町:城主小田氏治)攻めに向かう。//太田城主佐竹義昭や宇都宮城主太田資正らも動員される。
 永禄7年(1564)1月29日、上杉輝虎が、小田城を攻略。//城兵二千余人が討死。城主小田氏治は菅谷氏の土浦城へ逃亡。//輝虎は、このまま唐沢山城(栃木県佐野市:城主佐野昌綱)の攻城に向かう。
 永禄7年1月11日、三河の一向一揆八百余人が、大久保忠勝の守る上和田の砦(岡崎市六ツ美町)に迫る。//松平家康が急を聞き、岡崎城から駆け付ける。//激戦の中、忠勝は左眼を射抜かれる。//家康の近臣だった一揆勢の土屋重治は、家康が危ういのを見て、地獄に墜ちることを覚悟の上、家康を守る。//三河は混沌としている。
 永禄7年1月22日、本願寺顕如に次子が誕生。佐超と名付ける。
 永禄7年1月25日、甲賀忍者二人が、三河の上宮寺に忍び込み、放火を試みるも、発見され、その場で殺される。
 永禄7年2月17日、上杉輝虎が、唐沢山城(城主佐野昌綱)を攻略する。//佐野昌綱は、佐竹義昭や太田資正の嘆願により助命される。
 永禄7年2月17日、上杉輝虎が、一連の関東での合戦に関し、色部勝長や宮島惣三、栗林二郎左衛門、楠川左京亮、斎藤朝信などに感状を与える。
 永禄7年2月、上杉輝虎が、長尾虎房丸に佐野家の家督を継がせることを決め、色部勝長、萩原伊賀守、吉江織部を唐沢山城に留める。
 永禄7年、三河の一向一揆に味方していた吉田源太郎や蜂屋半之丞らが、松平家康に帰参。//織田信長が、滝川一益を使者に立て、無益な合戦をやめて今川に備えるべきと助言。
 永禄7年2月28日、松平家康と三河の一向一揆が、上和田の浄珠院で和睦の起請文を取り交わす。//和睦の条件は、一揆に加担した者の本領安堵、門徒道場・僧侶は旧の如く、一揆の張本人達の命を助けるなどだった。//一揆に加担した家臣は浄土真宗を捨てる旨の誓紙を家康に提出したが、本多正信は信仰を捨てず、三河を出て加賀に落ちる。//主立った武士が三河を出奔した頃、家康は門徒寺に改宗を命じ、主な門徒寺を破却した。
永禄7年3月、織田信長が、北近江の浅井長政に使者を送り、妹お市が長政に嫁ぎ、誼を通じたい旨を申し入れ。//長政の父久政は南近江の六角義賢と結ぼうとしていたが、長政が信長と結ぶことを望み、申し入れを承諾。
 永禄7年3月9日、実悟(浄土真宗、蓮如の実子)が、「浄土真宗聞書」の書写を終える。
 永禄7年、三好長慶が、松永久秀の讒言を信じて、実弟安宅冬康を河内の飯盛山城に招いて殺害。
 永禄7年3月4日、上杉輝虎が、武田信玄の信越国境への出兵に関する報を受け、関東から春日山城留守将蔵田五郎左衛門、萩原伊賀守に春日山城の普請と、城を枕に討死する覚悟で城を守るよう厳命する。
 永禄7年(1564)4月15日、立原久綱、尼子義久より富田城籠城の功を賞され、同時に兄幸隆より家督を相続した折の新恩の宛行いを約束されている。
 永禄7年4月18日、武田軍が、上杉輝虎(関東出陣中)の留守を狙って野尻城(上水内郡信濃町)を攻略し、越後領内に侵入して村々を焼き払う。//これを見た輝虎は同年5月13日、飯塚八幡宮で五壇護摩を執行し、武田晴信の討伐を祈願する。
 永禄7年6月1日、実従(浄土真宗、蓮如の末子)が、枚方の順興寺で逝去。享年67歳。//蓮如の実子で最後に残された実悟はこれを悲しみ、6月22日に「順興寺実従葬礼並中陰記」を記す。
 永禄7年6月24日、上杉輝虎が、弥彦神社に、願文を捧げて、関東・信濃・越中へ出陣する理由を明らかにして、戦勝・加護を祈る。 永禄7年7月、三好長慶が病死。
 永禄7年夏頃、安国寺恵瓊、10年ぶりに安芸へ戻り、毛利元就と初めて接見。
 永禄7年7月4日、三好長慶が、河内の飯盛山城で病死。享年42歳。//長慶の死は長く世間に秘される。//長慶の跡目は養嗣子の三好義継が相続したが、実権は三好一族の長老長逸(ナガユキ)や家宰の松永久秀が握った。
 永禄7年7月5日、長尾政景(後の上杉景勝の実父)が、越後の野尻池(南魚沼郡湯沢町谷後)で、琵琶島城(柏崎市元城町)城主宇佐美定満と舟を浮かべて遊宴中に、定満とともに溺死。
 永禄7年7月下旬、上杉輝虎が、武田信玄との決戦のため、春日山城を出陣。
 永禄7年7月29日、上杉輝虎が、信濃国出陣の途次、善光寺に着陣。//先陣柿崎和泉守景家、二陣新発田尾張守長敦、三陣河田対馬守員政、左備高梨刑部少輔政頼、右備斎藤下野守朝信、後備須田相模守満親、遊軍中条越前守藤資・甘粕近江守長重、軍奉行直江大和守実綱の面々(上杉年譜による)
 永禄7年8月1日、上杉輝虎が、信濃国出陣の途次、更科八幡宮で武田信玄撃滅の願文を掲げる。
 永禄7年8月3日、上杉輝虎が、犀川を渡って、川中島に進出。//塩崎(長野市)に本陣を構えた武田信玄との対峙は60日間に及んだが、合戦には至らなかった。
 永禄7年8月17日夜半、川中島の合戦中、上杉軍が武田軍の夜襲を受け、死傷者を出したものの、遊軍の中条藤資・甘粕長重が700騎を2隊に分けて武田晴信の本陣を奇襲し、敵首80余りを討ち取り戦果をあげたと伝えられる。
 永禄7年8月24日、上杉輝虎(川中島の合戦中)が、春日山城留守将蔵田五郎に大門と大手門の修築を命じる。
 永禄7年9月17日、越前の朝倉義景が、越前門徒の蠢動が止まず、その原因が加賀にあるため、自ら加賀に出陣し、本折と小松を占領。
 永禄7年9月19日、越前の朝倉義景が、今湊川(手取川)まで深く侵入。//その後9月末には越前に引き揚げる。
 永禄7年10月、朝廷で出納を司る立入宗継が、尾張に下向し、織田信長に会って、尾張の年貢が届かないことを改善して欲しいと申し入れ。
 永禄7年10月1日、上杉輝虎が、信濃国川中島から越後国への帰国の途につく。//帰国にあたって、飯山城を修築し、桃井義孝・加地春綱に守らせる。//第五回川中島の合戦終了。
 永禄7年10月24日、上杉輝虎が、関東諸将を誘って輝虎に背き、北条氏康に味方した佐野昌綱を討伐するために、三国峠を越えて、沼田城に着陣。
 永禄7年10月25日、上杉輝虎が、沼田城から出陣し、二十余城を制圧。
 永禄7年10月27日、上杉輝虎が、唐沢山城を攻め、佐野昌綱を破る。
 永禄7年11月21日、上杉輝虎が、虎房丸と佐野氏の人質三十余人を連れて、色部勝長らとともに越後に帰国。
 永禄7年12月26日、夜、キリスト教宣教師ルイス・フロイスが黒頭巾とマント姿で堺から大坂に到着し、宿をとる。//この夜、石山本願寺で大火があり、宿に貴人が逃げてくるとともに、異郷の人間は殺されるとの噂があったため、フロイスは貧家の二階に隠れる。
 永禄7年12月26日、夜、法安寺から出火し、強風に煽られ、石山本願寺の御堂の大部分が焼失。寺内町にも燃え移り、900戸が焼失。//顕如は家族と共に類焼を免れた興正寺に避難。


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