950(1538)_==天文7年==(最新版)

>_<あくまでも司空が各種資料に基づき独自に調査した結果ですので、誤りがあっても司空は一切の責任はとりません。>_<
>_<ご利用に際しては、解説・注意をご確認の上、各人で十分に史実をご確認ください>_<

 天文7年(1538)、尼子氏再度西播磨に再度(前回は天文6年)進攻。赤松政村を失脚させ、城山城(龍野市と新宮町の境)に本拠を置く。この際、尼子勢は交通の要衝上月城に兵を入れたと伝えられる。=尼子晴久が出雲から播磨に進攻し、上月城を占領。ここを拠点に播磨を攻略。
 天文7年(1538)1月17日、堺の商人10人が、石山本願寺に参詣。//堺商人達が明へ貿易船を仕立て、本願寺が資金提供など後押ししていた。
 天文7年2月8日、本願寺証如が、加賀で反乱した鈴見長門の死罪と、洲崎兵庫の破門を命じる。
 天文7年3月15日、金春七郎喜昭が、石山本願寺において、初めて能を舞う。//この後、証如は金春座を贔屓にする。//喜昭は3月20日まで石山本願寺に逗留。
 天文7年3月20日、下間頼秀が、近江において、本願寺が放った7人の刺客による殺される。
 天文7年3月28日、石山本願寺が、北堀の工事を開始。
 天文7年(1538)6月、尼子勢が美作に出陣。
 天文7年6月10日、下間頼秀を殺した七人の刺客が、石山本願寺に戻ったため、本願寺証如が各人に褒美千疋を与える。また、刺客のうち、右京という者にさらに5百疋と太刀を与える。
 天文7年7月9日、摂津守護を兼務する室町幕府管領細川晴元が、石山本願寺に対して諸公事免除の制札を与える。//石山本願寺寺内町は守護不入となる。
 天文7年7月21日、石山本願寺が、本尊の左右に後奈良天皇の寿牌と先皇後柏原天皇の位牌を安置する。
 天文7年(1538)8月23日、尼子詮久が大軍を率いて富田城を進発し、美作/備前を攻略、さらに但馬から播磨に兵を進める//無人の野を行くが如し。//尼子詮久は美作/備前/播磨の国人衆を軍勢に加えながら播磨守護職赤松政村の根拠飾磨郡置塩に迫る⇒赤松政村は支え切れず高砂に逃れたが、ここで小寺重隆/明石修理亮らが尼子氏に味方したため再び淡路に出奔し、阿波細川持隆に身を寄せる。
 天文7年、尼子詮久率いる尼子勢が赤松氏の重臣別所就治の居城美濃郡3木城を攻めるも、城兵の頑強な抵抗により陥落せず。
 天文7年9月、尼子方の石見国人衆福屋上野介が長門に侵入し、大内方の益成友重を嘉年城に攻めるも、敗退。
 天文7年8月27日、石山本願寺に対して、先の徳政令は大坂寺内町を除外する旨の下知が届く。//守護不入の自治が強化される。
 天文7年9月、尼子方の石見国人衆福屋上野介が長門に侵入し、大内方の益成友重を嘉年城に攻めるも、敗退。
 天文7年9月14日、石山本願寺が、寺内町六町に火付け、盗人、博打を禁じる制札を示す。//守護不入の自治を進める上で、警察権や裁判権を確立。
 天文7年12月1日、本願寺証如が、明から訪れる唐船を見るため、忍びで堺に赴く。



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