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平成26年 温泉納めー油谷湾温泉 ホテル楊貴館  楊貴妃の湯

平成26年の温泉納めは長門油谷湾温泉のホテル楊貴館の陽貴妃の湯でございます。 ホテル楊貴館は宿泊者以外にも館内の温泉施設を解放(もちろん有料です)しております。 油谷湾に面したホテルからの眺望は最高です。本日は天候が荒れて、強風が吹いており、海面には白波が立っていましたが、寒い中、強風が吹いていても、露天風呂は至高の一時です。 以前入湯した際には露天風呂がなく、窓から日本海・油谷湾の眺望を楽しんだのですが、やはり露天風呂は数段味わいが違います。 露天風呂の追設は正解だと思います。 平成26年の大晦日に道の駅「蛍街道 西ノ市」の温泉+油谷湾温泉の2つの良いお風呂に入れて幸せです。 ホテル陽貴館URL http://www.hotelyokikan.jp/index.php

平成26年 ラン納めー道の駅「蛍街道 西ノ市温泉」

平成26年のラン納めということで、12月31日び大晦日の午前中に山口県下関市豊田町にある道の駅「蛍街道 西ノ市」の温泉施設へ。 平成26年の大晦日は天気が下り坂ということで、早めの時間にランニング納めです。 10時に道の駅の温泉が開くということで、9時50分頃、道の駅に到着。 そこから、7km程度を目標に豊田町内をラン。 道の駅「蛍街道 西ノ市」を出発して、「蛍の里ミュージアム」を右手に見ながら、山の方に向かって進むと、工業団地の看板が見えます。そのまま工業団地の方面に向かい、高等学校らしき校舎・グラウンドをみながら、方角としては戻り勝手にランを続けます。 そこから、道の駅「蛍街道 西ノ市」の前の国道を通り過ぎて、川を渡り、右折します。 しばらく行くと、「豊田トリムコース」と書いた大きな看板を発見。往復3kmと5kmのランニングコースが設定されています。 折角なので、このトリムコースを走ることにしました。走るために工夫されている訳ではありませんが、車も少ないので安全という点ではオッケーだと思います。 トリムコースを途中で離れ、道の駅に向かって戻ります。 合計9km程度のラン。 ラン終了後、本日の目的の一つである温泉に入浴。 男湯は室内に大きな浴槽が1つとサウナが1つ(水風呂付)、さらに露天風呂が1つです。 ほぼ無色透明です。入浴していると肌にぬめり気のようなものを感じます。お肌によさそうな感じです。 浴室周りは石造り、柱天井は木造です。道の駅自体が豊田産の木材で建築していることを売りにしているので、この浴室もおそらく豊田産の木材でできていると思われます。 とっても良い湯です。 山口県は良い温泉がたくさんあって羨ましいですね。この道の駅の近くにも、一の俣温泉、俵山温泉など著名な温泉が多数あるようです。

赤穂シティマラソン腰痛悪化のため、出場断念!

赤穂シティマラソンのゼッケンやランナーズチップが届いたが、激しい腰痛のため、出場できず(T_T) 椎間板ヘルニアが再発したような雰囲気。 拙者のランナー人生はここでピリオドかと…。 とも思ったが、スイミングと腰痛体操でリハビリして、2ヶ月後の平成26年の年末から再びランニングを始動。 しかし、2ヶ月のブランクは大きく、なかなかペースがあがらない。 1から身体を作り直す感じです。 ちなみに、赤穂シティマラソンのランナーズチップを郵送でお返ししたのですが、記念品は走ってないので、貰えないですよね。

セルフうどん 空海坊

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ループしおのえに行く途中、高松空港の近くにある空海坊に立ち寄りました。 昼過ぎの14時前にもかかわらず、駐車場は結構一杯です。 店内は比較的広くて、駐車場が一杯の割には、店内は整然としています。また、注文からうどんが出てくるまでの店員の要領もよく、スムーズに流れています。 空海の水というのを無料で出しています。 透明感のあるなかなか美味しい水です。 新しいお店で恒例のかけうどんを発注。 店員さんがうどんを温めてくれ、出汁まで入れてくれる形式です。 メンチカツと竹輪天を取り、ネギやワカメ、天かすをトッピングして、準備完了。 いただきます。 うどんの麺は、適度な腰のいわゆる女麺だと感じました。 この女麺にクセのなあっさりとしたお出汁が最高に合っています。 空海坊というインパクトのある力強い名前とは対照的なとても上品なかけうどんです。 天ぷら類も美味しく、何度でも通いたくなるおいしい店という印象とはです。

磁場の井戸:第四章 対岸(四)/長編歴史小説

 宗治は、そう遠くない所から木霊してくる鬨の声と鉄砲の音に耳を傾けていた。硝煙の香りは漂ってこない。ただ、音のみが宗治の想像を掻き立てた。城外との連絡を絶たれて十数日、これほど情報と言う得体の知れないものに枯渇した事は無かった。  湖がこの城を取り巻くまでは、巷の噂や他国の伝聞などは当然の如く、また、時には、耳に煩く感じるほど、豊富に流れ込んできた。しかし、今、宗治は、生物が空気を欲するように、外との連絡を欲していた。 (一体、何が起こっているのか。) 宗治はあれこれと思案した。音の方角、距離、そして、巻き上がる黄色い砂塵の位置からして、日幡で何かが起こっていると言うところまでは察しがついた。しかし、それ以上の事に関しては、想像する材料さえも持ち合わせていなかった。  日幡では、樽崎弾正忠が、城に向かって千丁の鉄砲の火蓋を切った。辺りには一斉射撃の轟音が鳴り響き、その後には、きな臭い硝煙の匂いが漂い、流れた。続けざまに鉄砲は鳴り響く。毛利方は、毛利家の一門とも言える武将が寝返ったということもあり、 (右衛門大夫だけは許すまじ。) という隆景と元春の気迫が乗り移ったかのように、火を噴くが如く、日幡城を攻め立てた。その勢いは日幡城の城壁を貫き、城兵を次々と薙ぎ倒した。この様子を見た宇喜多勢は秀吉の弟であり、良き補佐役である羽柴秀長の陣に使いを走らせ、 「敵は小勢、打って出るならば、今でございます。備前勢のみをもって、日幡城を囲む敵を全て平らげてご覧に入れまする。また、日差山から小早川勢が来援しても、備前勢のみで弾き返します。もし、それを見た吉川勢が山を降りてきましたならば、そのときこそ筑前様の御旗本衆に御出陣いただきたく、さすれば、この戦、一気にケリを付けることができましょう。ぜひとも、出陣の御下知を、…。」 と宇喜多の将自ら、宇喜多勢全軍の出陣の命を求めた。 (兄者は動くまい。) 秀長はそう思いながらも、 (新参の宇喜多勢の心証を害しては、・・・。) と考え、総大将である兄秀吉の本陣に一往の使者を出し、宇喜多の策を伝えた。 秀吉は使者の言葉に、時折、深く頷きながら、 (さもありなん。) という表情で、耳を傾けていたが、使者が口上を終えると、間髪を置かず、こう返答した。 「我が胸に秘策有り。今は我が命に従うべし。」 使者は秀長に秀吉の言

磁場の井戸:第四章 対岸(三)/長編歴史小説

 日差山から下った一群は隆景の命を受けて、日幡城攻略に向かう軍勢であった。大将は隆景配下の樽崎弾正忠、その数、数千である。  日幡城は備中境目七城の一つで、その扇の要にあたる高松城からは南方へ加茂城の次に連なる城だった。その城主は日幡六郎兵衛という備中の豪族で、この正月三原城で隆景から太刀を授かり、宗治とともに死を誓った武将だった。  この城にも、高松城の末近信賀と同様な形で、毛利家から上原右衛門大夫元祐という武将が軍監として差し向けられていた。元祐は、毛利元就の娘婿であり、すなわち、元春、隆景には妹婿にあたり、毛利家の準一門と言える男である。  その上原元祐が、突如、羽柴秀吉からの誘いに転び、日幡城主日幡六郎兵衛を討ち、そのまま日幡城に居座り、城内に宇喜多勢を導き入れた。  隆景、元春は予期せぬ妹婿の謀叛に憤怒した。 「毛利の威信にかけても、右衛門大夫だけは許す事はできぬ。」 早速、諸将を集め、日幡城攻略にかかるべく軍議を開き、出陣を決した。 「日幡は寝返って間もないので、まだ守りも手薄でしょう。今、攻めたてれば易々と落とす事も可能ですが、…。」 軍議の席上、吉川元春の嫡男元長は献策した。元長は勇猛果敢な父吉川元春の血を濃く受け継ぎ、家臣達からの人望も篤い。その武勇は、父元春とともに、「鬼吉川」の名を広く世間に知らしめていた。 「しかし、恐ろしいのは秀吉の後詰でございましょう。」 元長は言葉を続けた。樽崎率いる城攻めの軍勢の後ろから、秀吉が襲いかかれば、兵数の多寡から言って、必ずや樽崎の一隊は全滅するであろう。元長の言葉を聞いて、隆景は静かに語った。 「確かに、今、日幡に槍を向ければ、秀吉が日幡を救おうと軍勢を繰り出すかもしれん。そうなれば、毛利全軍を上げてこの山を駆け下り、秀吉と干戈を交えてもよかろう。」 隆景は武勇の誉れ高い甥の元長を励ますような口調で言った。しかし、隆景の心の内は違っていた。 (おそらく、秀吉は出ては来るまい。日幡の小城ごときを救うために、あの堅牢な野戦陣地から出てくるくらいならば、もうとっくの昔に出てきているはずだ。秀吉の尻はそれほど軽くはあるまい。) これまでの戦の経過からして、この程度の事で秀吉という大亀は甲羅の中から頭を出すことはないと感じていた。しかし、隆景は元長を立てるために、言葉を続けた。 「もし、

世界遺産 熊野古道7 那智の御滝

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那智熊野大社に参詣後、巨大お神籤をおいている社務所の横を通り抜けると、那智の御滝が遠望できる高台に出ます。那智の御滝の右手前には三重塔が見えます。 記念写真を撮影後、三重塔の脇を通って那智の御滝に徒歩で下ります。 那智の御滝の参道入口には大きな鳥居があり、そこからは両脇に大樹がならぶ暗く幽玄な空間になります。参道は勾配の緩やかな階段です。 その先に那智の御滝を足許から見上げる観覧場所があります。 滝の足許は滝壺からの風と飛沫で夏の真昼にも関わらず、涼しさを感じます。 そして、足許から眺める大瀑布の迫力に、荘厳な神の存在を感じます。先人がこの滝を神として祀ったのも当然です。

世界遺産 熊野古道7 那智の御滝

那智熊野大社に参詣後、巨大お神籤をおいている社務所の横を通り抜けると、那智の御滝が遠望できる高台に出ます。那智の御滝の右手前には三重塔が見えます。 記念写真を撮影後、三重塔の脇を通って那智の御滝に徒歩で下ります。 那智の御滝の参道入口には大きな鳥居があり、そこからは両脇に大樹がならぶ暗く幽玄な空間になります。参道は勾配の緩やかな階段です。 その先に那智の御滝を足許から見上げる観覧場所があります。 滝の足許は滝壺からの風と飛沫で夏の真昼にも関わらず、涼しさを感じます。 そして、足許から眺める大瀑布の迫力に、荘厳な神の存在を感じます。先人がこの滝を神として祀ったのも当然です。

世界遺産 熊野古道6 熊野那智大社

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 熊野古道と川湯温泉を楽しんだ後は、川湯温泉近くのキャンプ場で購入した猪肉(鹿肉も販売しているそうなのですが、運悪く売り切れ(T_T))とA-coopで購入した食材でBBQ。  当初、BBQの予定はなかったのですが、子供達が段取りしてくれると言うことで、急遽開催。  BBQコンロはクアハウス熊野本宮から無料レンタル、炭は熊野本宮前の日曜大工店で調達です。  途中から結構な雨になってきたのですが、くじけずに傘をさして、肉を焼き続けてくれた子供達に感謝。  お陰様で、美味しいお酒が飲めました。  翌朝、満を持して、熊野川右岸の国道を那智熊野大社に向かいます。自動車で1時間以上はかかりますが、頑張って運転です。  無事到着すると、那智熊野大社への参道始点に近い場所に無料の駐車場を発見!当然、お土産店が隣接していますが、もともとお土産を購入する予定だったので、迷い無く駐車です。  那智熊野大社は山の中腹にあり、一般的には自動車を駐車場に止めて、階段の参道を歩いて上がります。  8月の普通の週末でしたが、沢山の参詣者が参道を往来していました。  那智熊野大社に参詣です。  荘厳ですが、沢山の参詣者で賑わっています。  面白かったのは、バズーカ砲のような巨大なお神籤です。  相当重いですが、お神籤を振って、番号がかかれた棒を出す姿は結構コミカルです。  

世界遺産 熊野古道番外編 素晴らしき川湯温泉!

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トンネルを潜ると、…。 昨日、クアハウス熊野本宮に置いていた地元の観光名所のパンフレットに「川湯温泉」が掲載されているのを見つけ、ここまで来たからには、是非、立ち寄りたいと思い、熊野古道歩きの後、16時くらいに川湯温泉に向かいました。 熊野本宮大社からクアハウス熊野本宮への帰路、国道311号線を左折すると川湯温泉に向かうトンネルがあり、そのトンネルを抜けると、熊野川の小さな支流があります。大塔川という名称かもしれません。 暫く走ると、水着を来た家族連れや若者のグループが河原の玉石を掘って小さな池を作り、その中に浸かっています。 その区間、目分量で約50m、皆さん思い思いの池を作って、楽しんでいます。 川の左岸側に対向二車線の道路が整備されており、道端には旅館が並んでいます。旅館の窓から宿泊客の顔が散見されます。 その旅館の並びを抜けると、駐車場があったので、そこに車を置きます。 河原の中にも駐車場がありました。 到着した時点では、まだまだ人が多いため、皆さんが小池を作っている範囲の隅の方にあった前の人が残した池を掘り直して浸かってみました。 時折、川底から小さな泡が水面に浮かび上がり、泡が発生する付近に掌を当ててみると、温かい温泉がゆっくりと出ているのが感じられます。 暫くの間、「小さな子供を連れて川遊びをするには丁度いい。」と思いながら、河原で自作の温泉を楽しむという珍しさを楽しみながら、ぬるいお水に浸かっていました。 徐々に陽が傾き始め、河原で遊んでいた皆さまが帰り始めます。 拙者が入浴している近くの池が空いたので、好奇心で移動してみると、水温が全然違うと言うことに驚きます。 50m程の区間に皆さんが集まっている意味が理解できます。 温泉はこの50m程の区間に集中的に出ており、中央付近に行くほどたくさんの温泉が湧出しているようです。 さらに、中央付近の空いた池を見つけて入浴すると、これは本当に温泉です。陽が傾いて水着では肌寒くなりはじめていましたが、ここに入れば全く寒さを感じず、逆に暑いくらいでございました。 これは素晴らしい! 自作の天然露天風呂でございます。 夜空を眺めながら浸かれば、さぞ、気持ちがよいでしょうね。 ちなみに、川の水は非常に冷たく、拙者は泳ごうとは思いませんでした。

世界遺産 熊野古道5

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ついに熊野本宮に到着! この本宮に来るまで知らなかったのですが、熊野本宮はヤタガラスをお祀りしていました。 ヤタガラスにまつわる黒一色のポストもありました。 さらに、現在の熊野本宮から少しだけ足を伸ばせば、熊野川の中州にあった旧熊野本宮跡が大鳥居とともに残されています。 紀伊山脈に降り注いだ雨を集めた聖なる熊野川で禊ぎして身を清め、さらに、その滔々とした流れに半身を沈めながら、本宮に参詣した姿が想われます。 写真は1枚目が熊野本宮大社の社殿、2枚目は熊野本宮大社の大鳥居、3枚目が旧熊野本宮大社の巨大な大鳥居です。

世界遺産 熊野古道4

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三軒茶屋跡のおじいさん、おばあさんありがとうございました。 三軒茶屋跡をでると、山道が続きます。 進んでいくと、三軒茶屋跡のおじいさんが追いかけて来ました。 ー忘れ物でもしたのかなあ? と立ち止まると、一つ山の遊びを教えてくれるとのこと。 左右対象の形がよいシダの葉を摘んで、葉の端っこをハサミで切り落とし、そっと投げる(投げるというよりは、頭の上あたりで離す感じ)とあら不思議、風の谷のナウシカに出てくる乗り物(メーベ???)のように静かに滑空します。 へぇー、面白いヽ(^o^)丿 みんなでシダを探して、誰が一番飛ぶかを競争しながら、山歩きを楽しみました。 ちなみに、はさみは持っていないので、葉の端っこは手でちぎって行きます。 結構、上り下りがある道で、少し歩き応えがあります。 最後に急に道が開けて、住宅街が現れます。そこから下り坂の舗装道路を歩きます。 熊野本宮大社の杜が見えてきます。熊野本宮大社の裏口のすぐ手前に最後の王子「祓殿王子」が現れます。 祓殿王子は熊野本宮大社に参詣する前に身を清めるための王子だそうです。 ここまでシダ飛行機で遊びながら歩いたので、1時間半くらいかかりました。 シダ飛行機、楽しかったです。 写真は祓殿王子までの山道とシダ飛行機、祓殿王子でございます。

世界遺産 熊野古道3

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水呑王子、伏拝王子を経て、三軒茶屋跡に到着。ここまでで、ゆっくりあるいて1時間半くらいだったかと。 三軒茶屋跡にて、少し早めの昼食です。 今回はバンガローに炊飯器を持ち込み、ご飯を炊き、おむすびを握って用意万端! 周辺にはコンビニがなく、道の駅にもおにぎりの類は無かったので、これは正解でした。お宿で弁当を頼めるようだったのですが、こちらはコストが高い(>_<)ゞ 塩を効かしたおにぎりに先ほどコウニュウした梅干し。 この梅干しは神の領域です…。 三軒茶屋跡では地元の皆様とお話ができました。紫蘇ジュースやアイスを食べて、いざ、出発。 ちなみに、三軒茶屋跡からの眺望は有名でテレビでも紹介されたようです。 写真は途中の風景、三軒茶屋跡からの眺望、道端の可愛らしいお地蔵さま、三軒茶屋跡の直上にある石碑です。

世界遺産 熊野古道2

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写真、1枚目は発心門王子、2、3枚目は熊野古道でーす。4枚目は幻の梅干しが売っていた無人販売所。 発心門王子から、今、来た道を戻る形で、幅一車線の舗装道路を歩き始めます。 熊野古道は羊腸な細い山道が延々と続いているという訳ではなく、生活道になっている所もあるようです。 舗装道路から枝分かれした細い山道へと入ります。世界遺産だけあって、山道と雖も きれいに整備されています。 途中の無人販売所に自家製の梅干しがあったので、紀州名物ということで購入してみました。 途中、昼ご飯に朝握ったおにぎりを食べながら、この梅干しをたべたのですが、これは絶品(*⌒▽⌒*) 勘当しました。これは店には売ってないわー。 お世辞でなく、幻の梅干しでござる。

世界遺産 熊野古道1

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先日の週末に少し休暇を付け足し、世界遺産熊野古道と熊野本宮大社、那智大社に 参詣しました。 1日目は車で移動のみ。阪和道で事故があり、高速を降りて一般道を走りましたが、道が複雑で非常に苦労しました。 宿泊はクアハウス熊野本宮のバンガロー。一泊15000円強で、一人あたりにするとまずまず安価に宿泊できました。管理棟には温泉も付いていて、施設も全体的には奇麗だったので、まずまず満足です。 強いて言えば、バンガローの窓の一部が建て付けが悪いため、うまく閉まりませんでした。 翌朝、クアハウス熊野本宮から車で熊野本宮大社まで。約10分とかなり便利です。 熊野本宮大社の駐車場に車を置き、バス停へ向かいます。 コースは初心者向きの中辺路発心門王子〜熊野本宮までの約7kmです。 バス停の前に立つと、近くに停車していたタクシーの運転手さんが、5人団体の我々に近付いてきて、 「五人でバスに乗るよりも安くするので、タクシーでどうですか?」 って、近くでバス待ちをしていた地元のおばさんもそう言うので、それを信じてタクシーに乗車しました。 きれいに舗装された山道を15分ほど走れば発心門王子に到着します。 千里の古道も、一歩から! いざ行かん、世界遺産! 1、2枚目の写真はクアハウス熊野本宮のバンガロー、3枚目は発心門王子にある石碑です。

巨大なイノシシの親子らしき…

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愛媛県の玉川町と朝倉村の境界付近にて巨大なイノシシの親子とおぼしき藁人形を発見。遊び心満載ですが、藁人形のクオリティはメチャクチャ高いです。 偶然通りかかってラッキー! 本当にいい仕事してますね(^^)/ 感動しました!

道後温泉と松山城一周ラン

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久しぶりに道後温泉に宿泊しました。 夕刻、道後温泉本館には少し行列ができていました。相変わらずの人気ぶりです。 今回は時間的に少し余裕があったので、念願の松山市内ランです。 道後温泉を出発し、松山城の城山の麓、北側を東西に走る平和通を駆け抜け、松山城のお堀端、三の丸公園を抜け、県庁前、大街道を抜けて、帰還するルートです。 色々な先入観があるためかもしれませんが、道行く老若男女、建物、街路樹などなど、何となく文化の芳香と気品が感じられます。 道後温泉は本当に名湯だと思います。 極僅かに青みがかった透明度の高いお湯に浸かると、全身が引き締まるとともに、肌にも張りが出て、温泉水そのものさえも弾くような感覚がしています。 松山市が誇る観光資源です。 写真は、道後公園湯築城跡、市内各所に設置された俳句を投稿するボックス、松山城三の丸公園から望む松山城です。あと、夕食です。

磁場の井戸:第四章 対岸(二)/長編歴史小説

 中国山地に注いだ豪雨は一度地面に蓄えられ、じっくりと時間をおいて備中の野を潤す。それも、二、三日の遅延でなく、長いときには一ヶ月にも及ぶ。あの突然の豪雨以来、備中の野は晴天が続き、高松城を取り囲む深い緑色の山々からは蝉の鳴き声が煩わしいほどに騒がしく聞こえていたが、山々に貯留された雨水の滲出により、高松城は日毎に湖の中に没し続けた。 「このまま溺れ死ぬのはいやじゃ。」 足下からは湖水が迫り、頭上からは断続的に砲弾が降り注がれ、兵達は極限的精神状態に追い込まれていた。どの兵も眼球が落ち窪み、皮膚が浅黒く変色し始めていた。  為すことなく、ただ、死を迎えるまでの毎日の中に突然変化は訪れた。城内から彼方に見える日差山の一所でゆらゆらと揺れていた旗が活発に動き始めた。宗治は、末近信賀、高市允と共に、櫓の上で蝉鳴を聞きながら、満々たる湖水の先にある丘陵の斜面を眺めていた。先ほど来、三人は対岸に見える日差山辺りの気配が昨日までと異なっている事を感じ、額から流れる汗を拭うのも忘れ、日差山とその尾根続きの岩崎山の辺りを凝視し続けていた。しばらくすると、小早川家の紋である三つ巴の旗の群が日差山から麓に下り始めた。 (ついに、隆景様が動いたか。) 宗治は大声で叫びそうになったが、辛うじて溢れ出る感情を喉元で食い止めた。まだ、その群の運動の方角が見切れていなかった。少なくともそれを見極めるまでは、大将自らが騒いではならぬという意識が、激しい音に対して瞼を閉じる条件反射のように、宗治の骨髄の中に染み込んでいた。 「小早川様ならば、必ずや、この城の水難をお救い下される。」 高市允がだれに言うとも無く、喜びに溢れる声で言った。隆景の家臣である末近信賀も、 (同感だ。) と言ったふうに頻りと頷いた。  しかし、宗治は旗の向かおうとする力の方向を見極めるため、漠とした目線を日差山の方に向けたきり、市允の言葉と信賀の点頭を無視し続けていた。先端のみを凝視すれば、全体の動きを見誤るという歴戦の経験が、自然と宗治の意識を漠たるものにしていた。  日差山から高松城の方角に向けて山を下り、備中の野に降り立った三つ巴の旗の群は隊列を整えるために休止した。時を経るに連れ、整然と並び始めた隊列が有する潜在的運動の方向が北東の織田勢の方角ではなく、どちらかというと南に向いて構えているように、

八幡浜ランパート2(その2)

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海岸沿いの半島を回ると、諏訪崎(?)に向かう三叉路がありました。 諏訪崎は少し遠そうなので、八幡浜市街に戻る方向を目指します。 坂道を降りていくと、再び、右手に海が広がります。 その海の中に石の鳥居があり、陸側に神社がありました。おそらく地元で大切にされているのでしょう。綺麗に掃き清められていました。厳島神社のミニチュア版のようでとてもよい雰囲気でした。 さらに走ると、再び三叉路です。 片方は三瓶という土地に、片方は八幡浜市街です。もう、5km以上走っているので、迷いなく八幡浜市街へ。 昔のトンネルを通り、八幡浜市街の北辺あたりに出ました。最近できたと思しき佐田岬半島に向かう高規格道路がありました。 そこから、八幡浜市街の宿泊場所に帰還しました

八幡浜ランパート2(その1)

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八幡浜で二回目のランです。 前回は保内町方面に向かいましたが、今回は八幡浜港から海岸線を南に向かい、諏訪崎の入口辺りから八幡浜市内に戻る周回コースです。 まずは、造船所を右手に見ながら、海岸線を走ります。八幡浜港の南側に突き出た半島を進む、上り坂です。 暫く走ると、道路右手の海側が開けた場所があり、宇和海を眼下に一望できます。生憎、雲の多い空模様ではありましたが、かえって、雲間から零れる夕日が静穏な海面に反射し、その中をゆっくりと小さな船が進んでいました。 とても幻想的でした。 良い景色でしたので、何枚も写真を撮ってしまいました。 瀬戸内生まれの拙者としては、宇和海の多島海の眺望は心の落ち着く風景です。 また、かなり海面から高い位置にいると感じるのですが、道路を二匹の小さな蟹が横断していました。 続く

愛媛県八幡浜市ラン(二)

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シーロード八幡浜を通過し、少し走ると、 ガーン( ̄0 ̄) 行き止まり! 半島を一周できませんでした。 来た道を県道?まで戻り、保内町方面に向かうトンネルに入ります。 トンネルは約600mだったかと…。 周囲はかなり暗くなってきました。 トンネルを通過し、保内町に入りましたが、トンネルに続く下り坂を下りきったところで次の予定の関係で引き返すこととしました。 この佐田岬に来ると、丘陵地の頂上付近まで畑や果樹園として人間の手が加えられていることに感服します。 まさに、「耕して天に至る!」です。 清の政治家 李鴻章の言葉だったかと思います。李鴻章の場合、「以て、貧なるを知るべし。」と続きますが、小生の場合には「先人の営み、偉大なるかな!」となります。日本人のたゆまぬ努力と悠久の歴史を感じさせてくれる世界に誇るべき、また、後世に残すべき文化遺産だと思います。 最後は八幡浜港の夜景です。 なかなか綺麗なものです。

愛媛県八幡浜市ラン(一)

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H26/9/2八幡浜ラン 八幡浜近郊の地図を眺め、10km程度のランコースを探します。旧跡めいたものがあればと思ったが、めぼしいものがないため、海岸線を伝って保内町に向かうルートを選択しました。 まず、八幡浜市街を西向きに流れる新川沿いに八幡浜港に向かいます。新川沿いにある駐車場が河川に飛び出しているユニークなものでした。 八幡浜港に出たら、進路を北にとり、道の駅を横目に見ながら、フジグラン北浜を通り過ぎ、左に曲がって、海岸沿いに走る県道?249号線に入ります。 八幡浜港の前面に広がる夕暮れの宇和海を左手に見ながら、快調にランニング!結構暗くなってきていましたが、まだ、ものの形状は判別できました。 保内町に向かうトンネルの手前で、「おさかな牧場シーロード八幡浜」という看板を見つけ、トンネルよりも海岸線を走りたいと思い、幹線道路から外れます。(2枚目の写真) 行くこと15分ほどで目的のシーロード八幡浜に到着しました。養殖場兼釣り堀かなぁ?と想像しましたが、営業が終了していましたので、実際にどういう施設なのかは不明です。ただ、養殖筏がたくさん設置されているのに加え、養殖筏までは斜張橋が設けられているなど、かなり大掛かりな施設でした。(3枚目の写真)

磁場の井戸:第四章 対岸(一)/長編歴史小説

 毛利の軍勢が備中に陣を布いて、数日を経ていた。織田勢の堅い守りと巨大な堤に、隆景、元春の率いる毛利の軍勢は為すことなく、徒に時を過ごした。  宗治は日々嵩を増し続ける湖水に膝の上まで具足を濡らしながら、城内を回り、兵士達を叱咤した。彼は、日々の見回りを通じて、来援が訪れた日を極大に、城兵の士気が急速に衰えてきているのを感じていた。戦場で敵と刃を交わすならば、生を忘れて遮二無二突進する城兵達だったが、相手が水では如何とも為しがたく、戦場で華々しい働きをして、名を上げたいという籠城当初の純粋な城兵達の想いは、今では溺れ死なぬ事を願うばかりと為り果てていた。さらに、湖水に浮かぶ三艘の船からの砲撃に、櫓や木の上に巣食う城兵達は成す術も無く、ただ自分の頭上に砲弾が落下しない事を祈るのみしかなかった。人間は自分で生への道を切り開こうとするとき、想像を絶する力を発揮するが、他者に自らの運命を握られたときには、その力は普段に比して皆無と化すのかもしれない。  宗治は胸を掻き毟られるような焦燥の思いに急きたてられながらも、この人工としては大き過ぎる湖の前で立ち竦むことしかできなかった。  元春と隆景は、本陣日差山から水没していく高松城の窮状を見つめながら、沈黙を続けていた。 「隆景、何か良い策はないものか。このままでは、毛利の両川がはるばる備中にまで出向いて、何をしておったのか、物見遊山に来たのかと、天下の笑い者だぞ。」 元春は、高松城とその湖水を睨むような目つきのままで、呟いた。 「されど、兄上。先日来の軍議のとおり、秀吉がこうも堅く守っておっては、どうにもなりませぬ。あの陣地にこちらから切り込めば、此方がやられるのは目に見えております。」 元春の声に合わせるかのように、隆景も低い声で応答した。 「どうにもならぬ事を幾度繰り返しても仕方がないが、あの城を見ては居ても立ってもおられぬ。このまま、おめおめと城が落ちるのを眺めていては、毛利家の信義が地に落ちよう。」 「それも一理ありますが、この戦をどう凌ぐかが、毛利家の安泰のための礎を築くことになるのでは、…。下手に手出しをして、痛手を被っては元も子もございません。ここは、戦機を待つしかございますまい。それまでは、城に保ってもらうしか…。」 隆景は、心の鎧を纏ったまま、他人事のように冷淡な口調で兄元春に返答した。

赤穂シティマラソンにエントリー

大会まで1ヶ月を切りましたが、何も音沙汰がありません。 ゼッケンも何も届かない。 どうなっているのかなぁ。。。 ================================ 7月22日にエントリーを締め切ったようですが、その後、動きはないですね。 ゼッケン等が送られてくるのを待つ。 ちなみに、赤穂市は「スポーツ都市宣言」をしたそうですね。 がんばって欲しいと思います。 それにも増して、赤穂市には浅野内匠頭と吉良上野介の確執に端を発する「忠臣蔵」と赤穂浪士の伝説があると思うので、赤穂シティマラソンの機会に、そちらも堪能したいと思います。 あとは赤穂の塩ですなぁ。 なかなか立ち寄る機会がないので、楽しみです。 ================================ 大阪マラソン、神戸マラソンと抽選に外れ、このままでは今年度もマラソンを走らずに終わってしまうおそれがあったので、近隣の市民マラソンを探索しました。 探してみると、「赤穂シティマラソン」というハーフマラソンが11月に開催されるようで、まだ、定員に空きがあったので、エントリーしました。 入金でエントリー完了ということで、早速コンビニで振り込みました。 大会要領等の到着を待ちます! 赤穂シティマラソン公式:http://www.e-marathon.jp/akocity/

磁場の井戸:第三章 水牢(十)/長編歴史小説

 蛙ヶ鼻の本陣からその様子を眺めていた秀吉は、表面上、少し渋い顔をしながらも、全くうろたえることはなかった。 (我が事なれり。) 表情とは裏腹に腹の中では、自分の思うとおりに事が運んでいるという悦な気分に浸っていた。 (そうでなければ、中国の雄毛利家ではなかろう。) 秀吉は心の中でうれしそうに相手の打った手に感じ入っていた。秀吉の嗄れた掌に全てのものが吸い込まれるが如く、彼の思いどおりに事は進んでいた。  秀吉は眼前の毛利家を倒す事ではなく、既に倒した後の事を考えていた。主人信長の天下布武はもう目前に迫っていると言っても、過言では無い。天下統一が成就すれば、秀吉を始めとする糟糠の家臣達、特に功大なる者は、遠ざけられ、果ては、追われることを秀吉は書物からではなく、本能として感じていた。その兆候は現時点においても徐々に織田家の中に現れ始め、信長の周りには、森欄丸や力丸兄弟、堀久太郎などの小姓衆がその事務や日常生活の一切を取り仕切り、小姓衆へ申し入れない限りは功多き野戦の部将でさえも信長に拝謁できないようになってきていた。  武田家は滅亡し、上杉景勝は越後一国を辛うじて支え、また、石山本願寺が膝を屈した今となっては、織田家の天下統一を阻む大名は、中国の雄毛利家しかあるまい。その毛利家を討ったとなれば、功は衆に抜きん出る。この功により一時は快楽を貪る事ができるかもしれないが、当然、功多き者は才に長け、上にとっては、家臣の意志に依らず、その地位を脅かす危険な存在と変態する。権力者が自分を脅かす者を排除するのは至極当たり前の事であり、従って、ここで毛利家を倒すと、秀吉はゆくゆく信長から痛いしっぺ返しを頂戴する事になる。  中途半端な来援であれば、秀吉は喜ぶ事無く、表情どおり苦虫を噛み潰していたに違いない。ただ、毛利家は現状で投入しうる最大規模の兵力を備中に展開している。その数は高松城を囲んでいる織田勢よりも多いだろう。これならば、秀吉は主人信長に、 「毛利は存亡を賭けて、備中表へ参陣しております。猿には、とても敵いません。ここはぜひ上様の御出馬を給わりとうございます。」 と言って、信長に泣きつくこともできるし、毛利家を倒した後にも、 「上様のご来援があったればこそでございます。」 と、信長に下駄を預けてしまう事も可能である。  そこまで読みきって、秀吉は

磁場の井戸:第三章 水牢(九)/長編歴史小説

 小早川隆景は、周防、安芸、備後の勢二万五千を率いて備中高松を目指した。また、隆景の兄、吉川元春も、隆景の動きに呼応して、出雲、石見両国の勢一万七千を率いて、進路を南へ、備中表に進発するとともに、毛利家当主輝元も旗本一万騎とともに備中へ出師した。都合五万余、国境の留守の兵力を差し引くと、五万という兵力は毛利家が出しうる限界の動員力だった。  その毛利勢が、五月二一日、備中表に馬を揃えた。  隆景率いる山陽勢は高松城を真正面に臨む日差山の北東側の斜面に陣を布き、元春率いる山陰勢は日差山の西北方、日差山に連なって海鼠形の尾根を成している岩崎山に布陣した。その後方六里で、後詰として毛利輝元率いる毛利旗本衆一万が控えた。  高松城に篭もる兵五千を合わせると、毛利勢は六万弱、これに対して秀吉率いる織田勢は三万五千、局地的に見れば、毛利勢は織田勢の兵数を上回っていた。兵数の上で優位に立ったことは否応なく毛利勢と高松城の城兵の士気を高めた。ただ、日差山の小早川本陣で膝を合わせて話している元春、隆景の両人は情勢を楽観することができず、悲壮に近い感情で高松城を中心に描いた絵図の前に座していた。 「この戦は五分五分かもしれん。が、ここで勝っても、我が方に余力は無く、相手方には有り余るほどの後詰が有る。局地戦に勝利することによって一時の利を得たとしても、その後、毛利家は滅びるのみしかあるまい。」 元春は苛立ちを腹の底に蔵し、低く圧力のある声で言った。隆景は、元春の言葉が終わるのを待って頷いた。 「確かに、この戦、大捷を得ても仕方がございません。今はじっと耐えて、風向きが変わるのを待つより他、ございますまい。」 隆景も声を落とした。二人は毛利家を安寧へと導くための参謀役として、冷徹な思考方法でこの戦を位置づけていた。二人の戦略は毛利本家の安泰という一点において悲しいほど、一致していた。その思考は、 (織田勢を蹴散らし、高松城とその中の将兵たちを救いたい。) という生身の人間としての二人の感情とはほど遠いものだった。  そんなことを知らない高松城の城兵達は、城の南西の日差山とその麓の岩崎山に翻る小早川家と吉川家の無数の旗を指差しながら、喚声を上げて喜びあった。城兵達には、足守川対岸に現れた毛利勢の姿が、湖に孤立した高松城を救うために光臨した権現のように映っていた。

ループしおのえ

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温水プールのループしおのえを訪問! 隣接するクリーンセンターを熱源にした温水プール施設だと思います。 設備がとても綺麗で、気に入りました。 外観も小さな美術館を想像させる雰囲気で、お洒落です。 プールは一塊になっていて、その中に、25mプールが3レーン、その周囲に水中歩行用のサーキットがあり、そのサーキットに隣接して、水中用の筋トレ器具が6種類ほど(7種類?)揃っています。 このエクササイズ器具が初めての体験で結構楽しい(^^)/ プールサイドにはジャグジーがいくつか設置されていて、冬はうれしいでしょうね。 しかも、プールとは別にお風呂が男女別でついています。 夕方にプールで泳いで、風呂に入って帰ることができます。(お風呂場はシャンプーも石鹸も持ち込みOKみたいです。) しおのえといいながら、高松市内から程近い(高松空港の少し南)ので、行きやすいという点も良しです!

ししとうのマーガリン炒め

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しし唐辛子って、串焼きにするか、炒めものにするかしか思い付きませんが、炒めものにするにも、少し趣向を変えてはどうかと思い、作ってみました。 普通の炒めものに比べて、少し違った風味があるので、なかなか良かったです。 基本的には、酒の肴です。 材料は、 ・ししとう…適量 ・塩コショウ…適量 ・マーガリン…適量 というシンプルさ。 ししとうを5mm程度の輪切りにし、マーガリンをフライパンに入れて溶かし、ししとうを投入。適量の塩コショウで味を整え、炒めれば完成。 手際よくやれば、5分くらいで完成する簡単おつまみでーす(^^)/

焼売(シュウマイ)に挑戦

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最近、あまり新規開拓をしていなかったので、一念発起して、新しい料理に挑戦! 先日、喫茶店でオレンジページを読んでいたところ、レンジで簡単に作れる焼売というのがあったので、それを拙者なりにアレンジしました。 材料(五人分くらい)は、 ○豚ひき肉…500-600g ○玉ねぎ…1ヶ ○焼売の皮…70-80枚 ○もやし…2袋 ○キャベツ…半玉 ○片栗粉 ○塩・胡椒 ○胡麻油 です。 玉ねぎをみじん切りにして、適量の塩コショウ、片栗粉と一緒に豚ひき肉と混ぜ合わせます。拙者はこの時に榎茸を細かく刻んだものを入れて、嵩を増やします。 耐熱容器の上にキャベツのざく切りともやし(キャベツやもやし以外にも比較的水分が多いお野菜ならオッケーだと思います)を敷き、その上に焼売1個分の大きさに丸めた具材を並べていきます。 並べた具材の上に、水(普通の水です)に潜らせた焼売の皮を1枚ずつ載せて、焼売らしい形に整えます。焼売は上が開いているのが、普通ですが、このやり方だと上側は皮になります。 その上から濡らしたキッチンタオル(あの使い捨てのやつです)をかけ、さらにラップを軽く載せて、電子レンジに5-7分くらいかけ、そのあと2-3分蒸らしたらできあがり! 結構、綺麗に、しかも、美味しく仕上がって大満足\(^.^)/ 写真1枚目は電子レンジで蒸す前、2枚目は完成写真です。何となく焼売らしい感じはあるでしょう(^o^)/~~ 酢醤油&辛子がサイコー! お酒によく合いまーす! 追伸 翌日、弁当のおかずにしたのですが、1日冷蔵庫で保存すると、皮がふにゃふにゃになって見た目があまり宜しくはない感じでーす。

上原屋本店

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高松市内、国道を挟んで栗林公園の向かい側にある上原屋本店を訪問。 噂に聞いた所では、栗林公園の近くに昔から店を開いていたのですが、数年前に新しく今の場所に店舗を開いた(移転した)とのこと。(真偽は不明) 国道11号線からは南向き車線からしか入れません。地核にあるハロッズの通りが裏道になっているので、その道を上手く使えば、比較的すんなりと入ることができます。 駐車場は結構広いように見えるのですが、キャパシティは私の見た目ほどはありません。店内ももっと広いと想像していたのですが、意外と手狭。 週末の昼御飯時はいつも店の前に行列ができています。駐車場も満車になっていることが多く、食べ終えた人が出ていくタイミングに合えば、ラッキーという感じです。 店内はセルフ店らしいレイアウトです。 カウンターで、まず、目に入るのは、天ぷらを揚げている店員さんです。珍しく太刀魚の天ぷらがあったので、定番の竹輪天と合わせて、お皿に載せます。 うどんは、暑いので、冷やかけにしました。 ネギ、天かす、しょうがはセルフですので、適量をトッピング。 麺はとても腰があります。それにも増して、出汁がよし!いりこ出しがお好みの方にはこのお店の出汁はよく合うのではないかと思います。 出汁が感じられて、誠に美味でした。

磁場の井戸:第三章 水牢(八)/長編歴史小説

 そのころ、高松城の一室では宗治を始め、中島大炊助や末近信賀さらには鳥越左兵衛、難波伝兵衛、白井治嘉など宗治の主立った家臣が集まり、この水牢に抗う策を練っていた。どの表情も暗い。軍議は良策を見出せぬまま、沈黙が続いていた。その沈黙の中、宗治の脳裏に七郎次郎が山陽道を疾走している姿が浮かんだ。想像としてはあまりにも鮮明すぎる影像だった。宗治は自分の中に現れた七郎次郎の幻影に向かって、 (頼むぞ。) とだけ呟いていた。  七郎次郎は、宗治の心中の結像に違うことなく、初夏の山陽道を脇目も振らず、走り続けていた。あの雨以来、瀬戸内の街道筋は焼け付くような真夏の太陽に照らされ、多量の湿気を含んだ粘り着くような暑さが訪れていた。その粘性に富んだ空気を切り裂くように走る七郎次郎の着衣は、総身の水分を絞り出したかのように、たっぷりと汗を含んで、黒ずんでいた。着物の裾から滴る汗は、七郎次郎の後を慕うように、街道の赤茶けた地面に点々と続いた。  空虚が七郎次郎の頭の中を支配していた。高松城は近い。既に全身が極限の疲労状態に達していたが、それでも両脚だけは無意識に動き続けていた。彼の両足を回転させているのは、もはや、 (高松城の宗治様の元に書状を届ける。) ためでなく、ただ立ち止まらず走り続けるという意志だけだった。左脚が地を蹴れば、次に右脚で地を蹴るという行為の繰り返しの命令だけが、七郎次郎の体を動かしていた。  既に薄暮が備中の野を覆っていた。赤みの混じった太陽の光が街道を東へ上る七郎次郎の体を押していた。もう、高松城が見えてくるはずだった。七郎次郎は両脚の回転の速度を変えることなく、地に長く落ちた自分の影を追いかけ続けていた。  満月が煌々と森に降り注いでいた。高松城の北側の山稜の中、七郎次郎はゆっくりと起きあがった。ちょうど日が落ちた頃、七郎次郎は高松の北側の山稜に着いた。 城の北側には宇喜多や淺野弥兵衛などの軍勢が陣営していたが、城の南側に比べれば物陰も多く、七郎次郎はいつも城の北側の山稜から高松城へと忍び入った。  日は暮れたとはいえ、まだ敵陣の動きは活発だった。七郎次郎は森の中に分け入り、彼のみの知る洞穴に潜り込み、夜が更けるのを待つことにした。七郎次郎は湿度の高い洞穴の中で疲労を癒すために体を横たえた。眠気が襲ってくれば、それに任せて軽い旨寝を取ろう

磁場の井戸:第三章 水牢(七)/長編歴史小説

 高松城の豪雨が止んだ数日後、三原城の小早川隆景は厳しい表情で、宗治から届けられた書状を手にしていた。隆景の面前には、今、三原城に到着したばかりの七郎次郎が小さくなって座っている。本来なら隆景と同座できる身分でない七郎次郎は恐縮し、ただでさえ小さい体を折り曲げるようにして平伏していた。書状を取り次ぐことだけを七郎次郎は望んだが、隆景は強いて七郎次郎を座敷に上げた。  七郎次郎は隆景に言われるままに面を上げた。隆景から見ると、高松の湖水と敵の警戒の網を潜り抜けてきた七郎次郎の表情は、宗治の必死の覚悟が乗り移ったかのような羅刹のそれだった。  その鬼気迫る表情は、隆景の冷静な心の中に、一点の炎を投じた。七郎次郎の形相は、宗治と高松城の苦境を、有り余るほどに隆景に感じさせるものだった。隆景は、七郎次郎の表情と彼が携えてきた書状の内容を見比べ、書状を元の封書の中に戻した。そして、すぐさま筆をとり、宗治に当てた書状を認め、それを面前の七郎次郎に渡した。 「できるか。」 隆景が七郎次郎に向かって言った。七郎次郎は平伏したまま、小さいが、ハッキリとした声で、 「確かに。」 と返答した。隆景は強く頷いた。七郎次郎は、両手でその書状を受け取ると、それを懐にしまいこみ、平伏したまま、座敷を下がった。  既に出陣を躊躇する段階を越えたことを悟った隆景は、甥であり毛利家の当主である輝元宛に出師を促す書状を認めた。さらに続けて、兄である吉川元春に宛てた、至急の来援を求める書状に筆を走らせた。 (毛利全軍を挙げてこれを救わねば、毛利家は中国筋の諸将の信を失い、瓦解する。) 隆景は二通の書状の中で諄々と説いた。  これ以上の逡巡は、高松城を、そして、毛利家全体を窮地に陥らせるだけである事を悟らざるを得なかった。ただ、全力を尽くしての決戦という絵図面は隆景の胸中には存在しなかった。 (毛利家の保全のためには、一戦試みた上での条件付きの和平でなければ、秀吉とその背後の信長には受け入れられまい。) というところまで、織田信長という一個の巨人は、毛利というもう一方の巨人を追いつめるだけの、底力を蓄えていた。  二通の書状を書き終えた隆景は、傍目にはゆっくりと、急き立つ心を表面に表さぬように気を引き締め直した後、文机の前を離れ、部屋を後にした。気付いてみると自分の身体から不快なほ

950(1582)_==天正10年==(最新版)

>_<あくまでも司空流の年表ですので、誤りがある可能性がございます。>_< >_<ご利用に際しては、各人で十分に史実をご確認ください>_<  天正10年(1582)?月、法華寺の事件//明智光秀が信長の前で「われらも年ごろ骨折った甲斐があって、諏訪郡のうちはみな上様の兵だ」といったことを信長が怒り、詰問。(色々と疑わしい点あり)  天正10年(1582)1月1日、羽柴秀吉、播州勢を連れ安土に滞留。//信長に御祝言上のため。織田信長に豪勢な土産を準備。  天正10年(1582)1月4日、秀吉、播州勢を連れ、安土を発つ。//本拠姫路に戻るため。途中摂津吹田で茶人長谷川宗仁の接待を受け、船中で茶の湯を愉しむ。その日は尼崎で1泊。  天正10年1月(1582)5日、秀吉、姫路に到着。  天正10年1月7日朝、明智光秀、津田宗及・山上宗二と茶会を催す。  天正10年1月15日朝、明智光秀、博多宗室・津田宗及と茶会を催す。  天正10年1月18日朝、明智光秀、津田宗及・銭屋宗納・山上宗二と茶会を催す。  天正10年1月、宇喜多氏が宇喜多直家の喪を発表。  天正10年1月下旬、小早川隆景が備中国境七城の城主を三原城に招く。//織田氏と毛利氏の勢力の最前線。  天正10年1~2月頃、秀吉、堺の商人に中国地方の米の買い占めを命じる。  天正10年2月、明智光秀が武田勝頼に信長に謀反する旨の書状を送る。(甲陽軍鑑より。これは疑わしい。)  天正10年(1582)2月12日、織田信忠が武田勝頼討伐のため岐阜を出陣。  天正10年2月12日、蜂須賀正勝、黒田孝高、3千3百を率いて、備前宇喜多と打ち合わせ児島郡常山城(城主戸川平右衛門)を攻略し、備中の国境に布陣。  天正10年2月、織田信長、長宗我部元親に対して、土佐・阿波二国を安堵し、その他を信長が召し上げる旨を通知//長宗我部元親はこれに怒る。元親は独力により既に四国を大略制覇。  天正10年3月1日、清水宗治、嫡男源三郎に宛て手紙を送る。//同年4/2に秀吉の備中乱入があることを予測した文章がある。  天正10年3月2日、織田信忠率いる織田勢が遠江高遠城を落とす。  天正10年3月5日、織田信長が武田勝頼討伐のため安土を出陣。同年2月に信忠が先発。

磁場の井戸:第三章 水牢(六)/長編歴史小説

 しかし、その数日後、高松城は湖水に浮かぶ孤城と化していた。  (まさか、この世に湖を出現させることなどできるはずがない。) 宗治でさえ、そう思い続けていた。  しかし、案に反して、城一帯の野は水面と化した。織田勢が足守川に築いた堰を切った天正十年五月十三日夜半のこと、これまで一滴の雨ももたらさなかった空に突如として黒い雲が現われ、直後より豪雨となって備中の野を襲った。強風を伴った雨は屋根を破らんばかりに城全体とその足下の野面を容赦なく打ちつけた。  城方はおろか織田勢までもが、最初、気まぐれな通り雨だと思った。だが、この雨は、今まで空が貯え続けてきた全ての水分を吐き出すような勢いで、止むことなく野を叩き続け、翌日には、城の周囲一帯は見渡す限りの水を湛えた。それでも、雨は降り止まず、突如備中の野に出現したこの湖は、突然の湿舌がもたらした雨滴を蓄えながら、その嵩を増し続けた。  数日後、途切れることなく降り続けた豪雨が上がった。備中の野は今までの雨が嘘のような晴天に包まれた。しかし、既に高松城下の水位は、城から外への連絡を絶つのに十分なまでに達し、城下の沼沢や田畑は水面下に沈んでいた。秀吉は頃合いも良しと見て、かねてより浅野弥兵衛に命じて作らせていた大船三艘を高松城の周囲に出現した湖上に浮かべた。三艘の大船からは昼夜を分かたず、高松城に向かって大筒が放たれ、以後、城兵を悩まし続けることとなった。  織田勢がこの僥倖に沸き返る中、秀吉は蛙が鼻の本陣から、遠くに見える高松城を眩しそうに眺めていた。 「皆のもの、見よ。湖水の城じゃ。美しいものじゃ。」 秀吉は玩具を作り終えた子供のように燥いでいた。燥ぐと秀吉の顔は猿のように愛嬌がある。傍らの謀臣黒田官兵衛はその天真爛漫とも言える表情を横目に見ながら、深く感じていた。 (この天運、この男は何かに憑かれ、そして、何かに護られている。この運は、天がこの男に何かを求め、与えているのではなかろうか。)  高松城の詰の丸で同じ事を考えている男がいた。宗治である。 (なぜ、こうなったのか。) そんなことを考えても仕方がないことはわかっていた。しかし、今はそれ以上の事を考えることができなかった。なぜ、秀吉はこの備中の野に湖を出現させることができたのか。それは「天運」という言葉でしか説明することができないほどの、幸運

余談:出雲国を小旅行

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尼子氏の本拠である月山が足立美術館から近そうだったので、足を伸ばして見ましたが、遺構のようなものはすぐには見当たりませんでした。 月山の山中に分け入れば、何かあるのかもしれませんが、道路沿いには目立ったものはありませんでした。 山中鹿介幸盛の生家や、新宮党の屋敷の場所などが簡単な看板で示されていて、少し歴史情緒を感じました。 写真は道の駅月山(というような名称だったと思います)の写真です。 あと、米子に行ったので、ベタぶみ坂に行ってみたいと思ったのですが、時間もなく、また、渋滞しているという情報でしたので、断念しました。

足立美術館

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二日目の5/4はきららコテージを出発し、神在月、出雲国以外では神無月になると日本の神々がこの浜から上陸すると言われている稲佐の浜に立ち寄ります。 日本海の海岸特有の細かい白砂で形成された弓形の浜に神霊を感じさせる大岩が砂浜から盛り上がっています。 神々にとっては、この岩が年に一度の出雲参詣の灯台、目印になるのかもしれません。 砂浜に孤立して残った岩というのは、 神奈備を感じさせます。 次は、米子方向に戻り、山陰道を安来ICで降りて、進路を南方向にとり、足立美術館へ向かいます。 もっと広大な敷地を持つ美術館をイメージしていたのですが、存外、外見は小ぢんまりとしています。駐車場がたっぷりととってあるのが素晴らしい。 美術館の玄関もそれほど大きくはありません。 しかしながら、美術館に足を踏み入れると、まずは庭園が広がります。美術館の向こうにある山々が巧みに借景されており、この美術館の敷地の大きさが想像できません。山並みは完全に美術館の庭に溶け込んでいます。 他にも茶室や池庭など巧みに造作された庭は必見です。 当然、足立美術館が誇る横山大観先生、菱田春草先生、榊原紫峰先生、橋本閑雪先生、平山郁夫先生など日本画壇を代表する画家に関するコレクションは圧巻です。 出雲国の小旅行、とても密度の濃い旅でした。