磁場の井戸:第三章 水牢(七)/長編歴史小説

 高松城の豪雨が止んだ数日後、三原城の小早川隆景は厳しい表情で、宗治から届けられた書状を手にしていた。隆景の面前には、今、三原城に到着したばかりの七郎次郎が小さくなって座っている。本来なら隆景と同座できる身分でない七郎次郎は恐縮し、ただでさえ小さい体を折り曲げるようにして平伏していた。書状を取り次ぐことだけを七郎次郎は望んだが、隆景は強いて七郎次郎を座敷に上げた。
 七郎次郎は隆景に言われるままに面を上げた。隆景から見ると、高松の湖水と敵の警戒の網を潜り抜けてきた七郎次郎の表情は、宗治の必死の覚悟が乗り移ったかのような羅刹のそれだった。
 その鬼気迫る表情は、隆景の冷静な心の中に、一点の炎を投じた。七郎次郎の形相は、宗治と高松城の苦境を、有り余るほどに隆景に感じさせるものだった。隆景は、七郎次郎の表情と彼が携えてきた書状の内容を見比べ、書状を元の封書の中に戻した。そして、すぐさま筆をとり、宗治に当てた書状を認め、それを面前の七郎次郎に渡した。
「できるか。」
隆景が七郎次郎に向かって言った。七郎次郎は平伏したまま、小さいが、ハッキリとした声で、
「確かに。」
と返答した。隆景は強く頷いた。七郎次郎は、両手でその書状を受け取ると、それを懐にしまいこみ、平伏したまま、座敷を下がった。
 既に出陣を躊躇する段階を越えたことを悟った隆景は、甥であり毛利家の当主である輝元宛に出師を促す書状を認めた。さらに続けて、兄である吉川元春に宛てた、至急の来援を求める書状に筆を走らせた。
(毛利全軍を挙げてこれを救わねば、毛利家は中国筋の諸将の信を失い、瓦解する。)
隆景は二通の書状の中で諄々と説いた。
 これ以上の逡巡は、高松城を、そして、毛利家全体を窮地に陥らせるだけである事を悟らざるを得なかった。ただ、全力を尽くしての決戦という絵図面は隆景の胸中には存在しなかった。
(毛利家の保全のためには、一戦試みた上での条件付きの和平でなければ、秀吉とその背後の信長には受け入れられまい。)
というところまで、織田信長という一個の巨人は、毛利というもう一方の巨人を追いつめるだけの、底力を蓄えていた。
 二通の書状を書き終えた隆景は、傍目にはゆっくりと、急き立つ心を表面に表さぬように気を引き締め直した後、文机の前を離れ、部屋を後にした。気付いてみると自分の身体から不快なほどに汗が噴き出し、濡れ雑巾のように水分をたっぷりと含んだ下着が肌に付着してくるのを感じた。
(今日は蒸し暑いな。)
書院に向かう廊下を歩きながら一人呟いた。隆景は自分の感覚が自分を包む空気のせいではなく、自分の内部から発せられる焦燥のためであることに、すぐ気付くだけの器量を持っていた。

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