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6月, 2012の投稿を表示しています

今日は軽くラン!

最近、平日のランが不足しているためか、心なし、お腹の贅肉が再びつき始めたような気がしています。 しかも、膝が痛くなり、週末に距離を稼ぐという作戦も難しくなりつつあるので、平日の朝、膝が痛くならない程度の距離を小まめに走る作戦に変更しようと、本日より朝ランを再開しました。 3kmくらいを8分/kmくらいのペースでゆっくり走って膝に負担をかけない程度に頑張りたいと思います。  ちなみにそれくらいで走っても、拙者の体重ならば、200kcalくらいは消費できるので、5日間走れば1,000kcal、1週間走れば1,500kcalくらいにはなります。  最近、週末だけ10km〜20kmくらい走ることが多かったですが、それだと1週間の消費カロリーは1,500kcalくらいなので、消費カロリーとしてはほぼ等価くらいです。 ただフルマラソン挑戦への道のりは遠退いていくのが、少し辛いですね(-_-)/~~~ まあ、大阪マラソンは落選しましたし、ここは膝の治療に専念したいと思います(^_^ゞ

磁場の井戸:第一章 想い(五)/長編歴史小説

 天正十年四月初旬、新緑が漸く目立ち始める頃、高松城の宗治のもとに城の東南方、高松城から肉眼でも明瞭に見える程の距離にある吉備津宮の神主堀家掃部が訪れた。  堀家掃部は秀吉からの誘いの書状を宗治に差し出した。 二人は武士と神官の違いはあれ、近隣のよしみで、旧知の間柄であり、堀家掃部はこの書状を秀吉方から頼まれても、 「無駄である。」 と言い、何度もこの使者を拒絶した。しかし、抗しきれず、仕方なく高松城まで秀吉からの書状を携えるのみの役目を引き受けた。  書状には宗治に対して備中一国を、傍らの副将中島大炊介に備後一国を宛行うという望外な恩賞の言質が認められていた。宗治はその書状に一通り目をとおし、読み終えたままの姿で、傍らの中島大炊介に手渡した。 大炊介もその書状に目を走らせた。そして、再び宗治の手に書状を戻した。宗治はそれを丁寧に元あった封書の中に収め、傍らの中島大炊介にチラリと目線をやった。大炊介はその目線に力強く頷き返した。宗治は再び堀家掃部に向き直り、大きく息を吸い、それをゆっくりと吐き出しながら、静かに言った。 「筑前守殿にお伝え願いたい。丁重なお誘い、誠に忝なく存ずる。筑前守殿、さらには織田殿にはそれがしこれまで全く遺恨はござらんが、毛利家から被った恩、忘却しがたく、義において、御味方に馳せ参ずることできかねる。向後、一切のお誘いは無用の事と思し召しいただきたい。」 堀家掃部の目を真っ直ぐに見つめ返しながら、宗治は封書ごとその書状を破り捨てていた。堀家掃部は愁眉を開いたように笑った。 「それでこそ、宗治殿にございます。」 宗治は堀家掃部に微笑みだけを返した。堀家掃部は使者としての使命を果たせなかったことを、むしろ喜ぶかのように、揚々として高松城を後にした。

左膝がヤバそうです(>_<)

本日、1週間ぶりにラン。 前回、左膝の外側に違和感と痛みがあり、1週間の休養をとってみました。 出発して3kmくらいまでは膝がまた痛みだすと怖いので、7分/kmくらいのゆったりペースでラン。ここまでは何の違和感もなく、快調にラン。 しかし、5km越えたところ辺りで左膝の裏側というか外側に鈍い痛みが走りました。 歩いたり、止まったりしていると痛みはないのですが、走るとすぐに痛みが再発します(>_<) 結局、残り2kmはほぼ歩きになりました。この運動量だと、太ってしまいそう。 ヤバイなーぁ(´д`)

病院と調剤薬局の共存共栄と効率性

先日、早朝に街中をランしていて、ふと、病院と調剤薬局が隣接しているのが、目に止まりました。 今はかなり小規模な個人病院でも近くに調剤薬局があって、診療した後、調剤薬局に行って、薬を貰うのが一般的になりました。  しかし、小さな個人病院にも、それぞれ一つずつ調剤薬局が付属するような形になっているのは、国民経済的に見て如何なのでしょうか。 我々患者側としては、病院内で薬をもらうことができて、清算も一括でできる方が手間がかかりませんし、病院から一度外に出てわざわざ調剤薬局に行かなければならないのは、なんとも不合理です。  また、病院や薬局側から見ても、密接度の高い両者にわざわざ別の敷地と建物を構えるのは、相当な経費増加に繋がっていると考えられます。  この経費は健康保険料の浪費に繋がっているような気がします。 この枠組みは病院側にも患者側にも恩恵がないように思います。誰も幸せを感じることがない枠組みはありえないと思いますので、誰かが利益を得ているのでしょう。 しかし、誰が利益を得ているにせよ、この病院と調剤薬局分離のシステムは不合理には違いありません。  税と社会保障の一体改革(一体改悪かもしれませんが…)の中で是非議論して、高齢者を含めた全体医療費の低減を目指していただきたいものです。

うどん県の風土病(?)

 Yahooニュースのヘッドラインにこんな記事が。。。 ========================== 糖尿病:有病者と予備群、県成人男性の4割超 全国平均上回る 原因や背景分析へ/ 香川 毎日新聞 6月9日(土)15時58分配信 http://headlines.yahoo.co.jp/hl?a=20120609-00000277-mailo-l37  県が昨年実施した「県民健康・栄養調査」で、成人男性の42・6%が、糖尿病の有病者またはその予備群とされ、全国平均(09年調査)より約12ポイントも高かったことが分かった。県民の糖尿病死亡率は全国的にも高く、県は今後、原因や背景の分析などに取り組む。【馬渕晶子】  調査は、県の健康増進計画(01年度~今年度)を評価するとともに、次期計画(13年度から)策定の前提となる基礎データを得るために実施。国が毎年行う国民健康・栄養調査の項目に県独自の生活習慣アンケートを加え、5年に1回程度実施している。  糖尿病については今回初めて調べた。県内から抽出した約680世帯の1843人が対象で、血液検査には407人(27・3%)が協力した。  血液検査では、血糖値と相関関係があるとされる血中ヘモグロビンA1c値を調べた。その結果、男性は23・8%が有病者(ヘモグロビンA1c値6・1以上か、治療薬の服薬者)、18・8%が予備群(同5・5以上6・1未満)に分類され、合わせると42・6%に上った。特に60代は52%と過半数を占めたほか、70歳以上は64・6%と、全国平均(4割前後)より20ポイント以上高かった。一方、女性は有病者が8・8%、予備群が10・1%の計18・9%と、全国平均より約6・5ポイント低かった。  県は今年度、糖尿病対策に1700万円を計上。専門家らによる検討会を設置し、要因分析する。また、小中学生対象の成人病予防検診(血液検査)の費用を半額助成し、市町からデータを集め、子どもの生活習慣から把握していくとしている。  県では、10年の人口動態統計で糖尿病死亡率が全国5位、08年患者調査で糖尿病受療率が全国1位となっている。 ==========================  香川県= うどん県 だけあって、やはり炭水化物の取り過ぎが原因でしょうか。  それとも讃岐男は運動不

950(1555)_==弘治1年==(最新版)

>_<あくまでも司空流の「こうかも」年表ですので、誤りがあっても司空は一切の責任はとりません。>_< >_<ご利用に際しては、解説・注意をご確認の上、各人で十分に史実をご確認ください>_<  天文 24 年 (1555) 、この年 10 月、弘治に改元。  天文 24 年( 1555 )、尼子晴久(詮久)が国内の動乱や大内/山名の侵攻を退けたことを感謝し、出雲大社に出雲で 2 百貫の地を寄進。  弘治 1 年 (1555)1 月 14 日、長尾景虎が、安田城 ( 柏崎市城の組 ) 城主安田景元に柿崎景家や琵琶島城衆らと北条城を攻略するよう命じる。  弘治 1 年 (1555)2 月 3 日、長尾景虎の奉行大熊朝秀、直江実綱、本庄宗緩が、安田景元に起請文を差し出す。  弘治 1 年 (1555)2 月初旬、長尾景虎が、善根 ( 柏崎市善根 ) に出陣し、北条城攻撃の陣頭指揮をとる。 // 武田氏の援軍はなく、北条高広 ( 天文 23 年 12 月に上杉に謀反 ) は景虎の軍門に下る。  天文 24 年 (1555)4 月 12 日、本願寺証如 ( 天文 23 年 8 月逝去 ) が、朝廷から法眼の僧位を授かる。  天文 24 年 (1555) 、尾張守護代の織田広信が、清洲城に同居する守護斯波義統を織田信長に通じたと理由で誅殺する。信長は叔父織田信光と謀って、主筋にあたる広信を誅殺し、清洲城を奪って自分の居城とする。  天文 24 年、長尾景虎が、越後兵を率いて信濃に入り、善光寺に布陣。また、越前の朝倉義景に対して北国の門徒を牽制するよう、書状で依頼。  天文 24 年 4 月 24 日、甲斐の武田晴信が、長尾景虎の信濃侵攻を受けた出陣を前に、石山本願寺へ正室 ( 三条公頼の娘で、その実妹が顕如の婚約者 ) の使者を出し、門徒衆に越後を突かせて、景虎の背後を脅かすよう依頼。 // 慶寿院 ( 顕如の祖母 ) はこれを躊躇うが、加賀では教芳らが越前朝倉討伐で鼻息が荒い。  弘治 1 年 (1555)7 月、長尾景虎が精兵八千を率いて信濃国川中島に出陣。 // その後、善光寺背後の横山城 ( 長野市 ) を本陣として、武田氏の旭山城 ( 長野市 ) を攻撃。  弘治 1 年 (1555)7

950(1569)_==永禄12年==(旧版)

>_<あくまでも司空流の「こうかも」年表ですので、誤りがあっても司空は一切の責任はとりません。>_< >_<ご利用に際しては、解説・注意をご確認の上、各人で十分に史実をご確認ください>_<  永禄12年(1569)、尼子氏と但馬の山名氏が同盟を結ぶ。  永禄12年(1569)1月4日、三好三人衆並びに斎藤右兵衛太輔竜興、長井隼人ら、南方の諸浪人を催し、薬師寺九郎左衛門を先鋒として、将軍足利義昭の御座所六条に取り詰め、門前を焼き払い、寺中に乗り入れようとする。(三好三人衆とは三好長逸らで、堺の後援を受ける。このとき、六条に立て籠もる武将は、細川典厩・織田左近・野村越中・赤座七郎右衛門・赤座助六・津田左馬丞・渡辺勝左衛門・坂井与右衛門・明智一兵衛・森弥五八・内藤備中・山県源内・宇野弥七。斎藤竜興は後に越前に下って、朝倉義景を頼ったが刀根山の合戦で戦死。しかし、竜興の弟(斎藤新五郎≒織田信孝の家老斎藤玄蕃允利堯か?)は道三の孫であることから、信長はこれを助けて、斎藤家の跡を継がせるため、生活をできるだけの領地を与えた。)  永禄12年(1569)1月4日、薬師寺九郎左衛門(三好方)が山県源内、宇野弥七両人を討ち取る。  永禄12年(1569)1月5日、三好三人衆が京都に乱入し、足利義昭の住む六条本圀寺を襲う。(この際、細川典厩藤賢・津田左近・赤座七郎右衛門・赤座助六・津田左馬丞・渡辺勝左衛門・明智一兵衛・森弥五八・内藤備中守および若狭衆の山県源内・宇野孫七らが切ってで、後巻きとして伊丹・荒木・茨木・細川兵部大輔(藤孝)・三好左京大夫らがかけ向かい、桂川辺りで1戦に及んで大利を得た(原本信長記)(1/6か)。)  永禄12年1月、三好左京大夫、細川兵部太輔、池田筑後、六条将軍御座所に救援に向かう。  永禄12年1月、京都桂川あたりにて、織田軍と三好軍がぶつかる。織田勢は、細川兵部太輔、三好左京大夫、池田筑後、伊丹、荒木、茨木ら。三好勢のうち、高安権安、吉成勘介、同弟、岩成弥介、林源太郎、市田鹿目介らを討ち取る。  永禄12年1月6日、織田信長、三好三人衆が京都に乱入した旨の飛脚の知らせをうける。(この日、大雪)  永禄12年1月6日、織田信長、大雪の中、美濃岐阜城を出発。  永禄12年1月8日、織田信長が

走っていると膝に痛みが(>_<)

今朝、雨が上がっていたので、朝ランに出発しました。 しかし、1kmほど走った所で、左膝の外側が痛み始め、3km過ぎたあたりから全く走ることができなくなってしまいました。 そこから歩いて結局7kmほどラン&ウォークしたのですが、最後の方は階段とかちょっとした坂道でも痛みを感じるようになりました。 帰ってネットでランニング中の膝の外側の痛みについて調べてみると、 (1)いわゆる「ランナー膝」、正式には腸脛靭帯炎が疑われる (2)椎間板ヘルニアの影響から来る膝外側の痛み などが考えられるようです。 拙者は過去に椎間板ヘルニアを患ったこともあり、二つの疑いとも否定できない状況です。 とりあえず、ランナー膝であれば、まずはランニング後のアイシングやマッサージをしてみます。 それでだめなら、サポーターを買って、保護しようと思います。 それでもだめなら、スポーツドクターに見てもらった方がよいのでしょうねぇー(-_-;)

名古屋市内の建物 in Nagoya

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名古屋訪問の続きです♪ あまりにも時間がなく、名古屋城のすぐそばまでいったのですが、結局、名古屋城の勇姿を殆ど目にすることはありませんでした。ちらりと見えたのは、片方の金鯱と白緑色の屋根瓦位です。まあ、名古屋城は鉄筋コンクリート造の復元であり10年程前にも昇っているので、今回は遠慮することにいたしました。 しかし、その10年程前には気付かなかったのですが、お城に隣接する市役所が非常に古風で姿のよい建物でした。 全く予備知識がなかったのですが、地下鉄の駅から地上に出てきたときに、最初に目に入りました。 あとで調べたところによると、昭和天皇の御即位を記念する事業の一つとして建設されたとありました。 着工が昭和6年、完成が昭和8年。 設計者は公募により選ばれた建築家平林金吾で、この方は大阪府庁舎も手掛けられているそうです。 庁舎の中心部に位置する塔構造物の形状と色彩が目を引きます。遠くから眺めたのでそれほどはっきりは見えませんでしたが、ネットで写真をよく見るとそれがよくわかりました。 全体の色調や形から大正時代かと思いましたが、残念ながら、外れでした。 市役所とか県庁とかって、いい佇まいの建物がけっこう残っていると思います。 あと、おまけといっては何ですが、名古屋体育館です。大相撲の名古屋場所の案内が出ていました。名古屋場所→名古屋体育館が名古屋城の郭内で開催されているとは存じませんでした(^^)d

絶対、ひつまぶし! in 名古屋

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本日、名古屋(^^)/ 名古屋と言えば、拙者の中のグルメは、味噌煮込みうどん、味噌カツ、そして、ひつまぶしです。 うなぎ大好きの拙者としては、何が何でもひつまぶしでございます( ̄^ ̄) 数年前、名古屋に来た際には、熱田神宮の近くにある「蓬莱軒」に行きました。 その日は前日出張で、翌日が休日で、その休日にゆっくりと熱田たで言ったような…。 あの時は確か誰かのアドバイスを受けて、11時開店の30分以上前に店についたものの、何と既に長蛇の列が出来ていて、たぶん1時間以上待って、漸く憧れのひつまぶしを食することができたと記憶しています。 本日は日帰りということで、時間がなく、昼前に名古屋駅に下り立ち、名鉄百貨店内のレストラン内にある「まるや」へと向かいました。まだ11時30分過ぎだったので、 ーまあ、少々待てば、食べられるだろう。 と思っていたのですが、なっなんと店の前には長蛇の列(*_*)、つづら折りの行列が出来ていました。 ー3,000円もするのに、なんでこんなに並んでいるのー(T_T) って感じです。  観光客だけではなく、地元の方も結構食べるのかなぁ…。  でも、3,000円ですよ!庶民がしょっちゅう食べることのできる値段ではないですよね。 この行列に並んでしまうと、さすがに昼休みが終わってしまうので、諦めました。 しかーし、、、 そんなことでは帰れません! 仕事が終わった後、帰りの電車の時刻を気にしながら、果敢に名鉄百貨店内の「まるや」に再挑戦です。 レストラン街の9階に上がってみると、百貨店たけに夜は人影がまばら…。 とまるやの前を見れば、行列は10人足らず。 ー作戦成功ー(^^)v 30分くらいでテーブルに就くことができました。 上ひつまぶしを注文です! 待つこと15分くらい。 さぁ、やって参りました。 上ひつまぶし。 小さな飯櫃に大きめの蓋、小さめのお茶碗に、汁椀、刻み海苔と、ねぎ・山葵・大葉の小皿でございます。(1枚目の写真です(^^)v) お作法としては、まず始めに飯櫃をお杓文字で数回かき混ぜた後、適量をお茶碗に移し、そのまま食します。 続いて、適量を茶碗に取りながら、お好みの薬味を合わせて、食します。 最後は、適量をお茶碗に入れ、温かいお出汁をたっぷりかけて御茶

Sony Ericssonに是非言いたいXperia IS11Sの取説について

ソニーエリクソンさんに言いたいことがございます。 拙者司空はIS11Acroのユーザーです。 ソニーエリクソンさんはIS11Acroの本体メモリーをもともと少な目に設定して販売されてますが、メモリー不足に悩んでいるユーザーそんは多いのではないでしょうか? そんな中、まあスマホの操作にある程度慣れてくれば、必要性が低下する「IS11取扱説明書」が本体メモリーから外部メモリーに移動できないのは何故ですか? 他社の携帯の中には比較的メモリー容量の多い機種もあるようですが、IS11はそもそも本体メモリーが少なく、ユーザーとしてはとても辛いです。 ソニーエリクソンが努力していただけると、5MB以上本体メモリーがあくので助かるのですが…。 次にスマホを機種変するときには、本体メモリー容量とその使い方の工夫が一つのファクターになりそうな気がします。 ソニーエリクソンさん、是非ともよろしくお願いします(^-^;

悦凱陣 純米吟醸 無ろ過生、凄い!

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丸尾本店さんで ・悦凱陣 純米吟醸 興 ・悦凱陣 純米吟醸 無ろ過生 を購入! さっそく家に帰り、無ろ過を冷蔵庫で冷やします。 折角なので、盃も冷蔵庫で冷やしておきました。 冷えた頃を見計らって開封。 トクトクという軽い音とともに、盃に透明な日本酒が注がれます。 集中して一口目に望みます。 盃に口をつけ、盃の半分ほどをゆっくりと口に含みます。 最初、口のなか一杯に、濃く厚みのある味わいが広がります。この味わいは、口中にずっと含み続けていても終わることがないと思わせるほど濃厚で、信じられないほどの深みがあります。 さらに、日本酒の香りが喉から鼻へ一気に吹き抜けます。 そして、飲み込むと、喉の奥まで味わいが広がり、それが喉を過ぎるとと、仄かな香りが口のなかに残っています。 濃厚で味わい深く、それでいて、すっと喉を流れていくという感じです。 日本酒がなんたるかを理解していない拙者ですが、複雑な味わいをとても美味しく、楽しくいただくことができました。 丸尾本店さん、ごちそうさまでした。

讃岐琴平 丸尾本店 悦凱陣

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電車に乗って一路琴平に向かいます。 目的は香川県の小さな造り酒屋さんとしては白眉とも言われている丸尾本店さんの「凱陣」を調達するためです。 琴平は近いようでなかなか遠く、丸尾本店さんへの訪問は、拙者、初体験です。 住所を調べて、スマホで検索。 琴平駅から10-15分くらいあれば十分に着けそうな距離です。 丸尾本店さんは古い作り酒屋さんではないと聞いていましたが、表玄関はかなり古風な商家の作りです。商家の前に「悦 凱陣」 の樽が三角形に積み上げられていて、それが丸尾本店さんの目印になりました。 近くまで来てみて、 「作り酒屋さんは日曜日もやっているのか?」 ふと不安になったのですが、杞憂でした。丸尾本店さんは営業してました。(^^)v 古民家の軒を潜ると、右手に事務室のようなスペースがあり、女性が優しく声をかけてくれました。 正面には丸尾本店さんの凱陣の各種銘柄の空瓶が並んでおり、一部には「品切れ」の札がかかっています。 丸尾本店さんには、基本的にその時の出来た銘柄しかないため、古酒、熟成酒は取り扱いの酒店の方が豊富だそうです。 本日購入できるお手頃な銘柄をお聞きしたところ、 ・悦凱陣 純米吟醸 興(こう) ・悦凱陣 純米吟醸 無ろ過生 がよいのでは、とのことで、四合瓶をそれぞれ購入させていただきました。 帰って、飲みまーーす(⌒0⌒)/~~ 丸尾本店さん色々と教えていただき、ありがとうございました。

おがわうどんー琴平町

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本日はなんの下調べも事前情報も持たず、ふらふらと金比羅神社の門前町を歩いていて、目についた「元祖細切り おがわうどん」に入ってみました。 場所は、ことでん琴平駅やJR琴平駅から徒歩で5分くらい。 JR琴平駅からですと、駅を出て前を通る道を左(南東方向)に向かい、小学校に突き当たって、左に曲がり、JRの踏切を越えてすぐの所です。 琴平には、私の知りうる範囲ではセルフのうどん店がとても少ないです。(というか、地元でないのでセルフのうどん店を知りません) おがわうどんもセルフ店ではありません。 お品書きは写真にあるとおりです。 店内は比較的小さめで、四人掛けのテーブル席が8〜10席くらいありした。 お品書きを見ると、恒例のかけうどんが見当たらなかったので、暑かったこともあり、「ざるうどん」を採用しました。 ただ、ざるうどんでも細切りと普通の太さがあったので、ここは「元祖細切り おがわうどん」と宣伝しているくらいなので、細切りを注文しました。 数分して「細切りざるうどん」が登場しました。一人前ですが、けっこう量はありました。 細切りのうどんはほどよいコシで、おんな麺がお好みの方にはよく合うと思います。 つけ出汁は、出汁がよく効いていて、ほどよい甘味もあり、大多数の人が美味しいと頷けると思います。 細切りうどんは、出汁がよく絡まりますし、冷や麺の場合は冷たさが口の中でよく広がるので、細切りざるはよい組み合わせだと思います。 ふらりと入ったうどん店でしたが、とても美味しかったです。 駐車場は店の近くに5〜6台程度用意してあるようですので、車での来店も可能となっていました。 ーーーーーーーーー ことでん琴平駅周辺のうどん店ということであれば、「将八うどん」というお店も有名です。 お土産物屋さんや贈答用などでよく見かけるお店です。(ここもセルフではなかったと思います。) 今度、琴平に来ることがあれば、将八うどんに挑戦します(^^)/

志度カントリークラブ

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先日、香川県さぬき市の志度カントリークラブをラウンドしました。 合計27ホールの瀬戸内海に面した山岳コースです。 瀬戸内海に突き出た半島に位置しており、風が強いときには、海から吹き上げてくる強風で相当ボールが流されていきます。 瀬戸内海の多島海を一望でき、とても景色がよいコースです。 このコースのシンボルに白い灯台があります。確か中コースだったと思いますが、清楚な佇まいの小さな灯台です。 今もたぶん現役なのだと思います。 キャディー付きとセルフの設定がありますが、セルフの場合、東コースにある2つのロングホールのうち超打ち下ろしになっている7番ホールが、パー4になってしまいますので、東コースのセルフプレーは少し歯応えが軽くなります。 全体的なコースの印象はアップダウン・ブラインドが多く、攻略しがいのあるコースだと思います。 風が強い日はスコアが纏まらないことが多く、かなりハードになります。 拙者は東コースの5番右手が海に面した打ち下ろしショートホールが、志度の風を一番感じることができるホールだと思います。 昔は男子プロのツアーも開催さていた名門コースですが、最近はカジュアル路線を走っており、それほど敷居は高くはありません。 また、ラウンド後に割安な割引券などがあたる抽選会をやっている日もあり、その割引券があたるとちょっとだけラッキーです。

高松市御殿浄水場と水道記念館

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高松市の御殿浄水場は香東川の右岸、峰山の麓にあります。 そこには、大正10年(1921年)に高松市に初めてできた浄水場の建物跡が残っており、高松市の水道資料館として整備されています。 大正3年(1914年)に事業認可、同年着工で、完成までに7年の歳月と当時のお金で144万円の費用がかかったそうです。 大正時代独特の上品な雰囲気を醸しつつ、軽やかな作りで、和洋が巧みに組み合わされ、まずモダンな色使いや細かい作りが目を引きますが、全体的な構図に抑えが効いていて、自己主張が強すぎない好ましい佇まいの建物です。 実際に働いていた建物というのは、建物そのものの内側から滲み出す自信のようなものを見る者に感じさせます。 資料館の庭には往時実際の浄水設備に使用されていた煉瓦が通路のブロックとして敷設されています。 技術力が未熟な時代にもかかわらず、しっかりと原型を留めており、 高松で初めての水道事業であったからでしょうか、 当時、心を込めて焼かれたものだと感じました。

磁場の井戸:第一章 想い(四)/長編歴史小説

宗治は隆景の人格に惚れ抜いていたと言っていい。それは、ある出来事がきっかけだった。その出来事は四年前に突如起こった。毛利の仇敵である尼子の末裔尼子勝久とその家臣山中鹿之助幸盛らが織田信長の援護を受け、播州上月城に拠ったのを討伐するために、毛利勢が出陣した。出陣は天正五年、総大将は小早川隆景、この戦に宗治も参陣した。そして、戦が終盤を迎えようとしていた天正六年、宗治の居城高松城から、 「嫡男源三郎が、敵に誘拐された。」 という急報が、宗治のもとに届いた。嫡男を拉致した敵方は、当然の如く、宗治の寝返りを求めた。 (義において、寝返ることはできぬ。) 宗治はそう思いながらも、そのためには我が子を見殺しにしなければならなかった。道は二つ、二者択一であったが、どちらの道を選んだとしても、宗治は人間としての道に外れる行為を働かざるをえなかった。 宗治は、ただ一人、身を引き裂かれるような想いに、頭を抱え続けていた。しかし、逡巡は許されない。時を移せば、源三郎の命の危険が増していく。頭を地面に叩きつけたくなるような悩乱の中、宗治は隆景に呼ばれた。 「宗治、源三郎殿を救うため、一度、高松城に戻れ。」 隆景は、一時的な帰城を勧めるのではなく、それを強く命じた。命じることで、宗治の心中にある「躊躇」という成分を希釈しようと努めた。 今、宗治を高松城に帰せば、彼は敵方に寝返るかもしれない。それが、源三郎を救う唯一の道であることを知りながら、それを承知の上で、隆景は宗治に帰城を命じた。 「いや、わたくしは武士にございます。息子のために陣を払ったと言われては、…。」 それでも、宗治は躊躇った。隆景は再び厳しい語調で言った。 「今は、城に帰るべし。」 厳しい言葉とは逆に、隆景の瞳には暖かさが宿っていた。嫡男のために帰れと言う隆景の宗治に対する優しさは、宗治の心を強く打った。宗治は、隆景のその言葉の中に自らに対する隆景の「信」を感じた。宗治は己を知り、己を強く信じてくれる者を得た。宗治という漢の瞳から、知らぬうちに涙が零れていた。 (士は自らを知る者のために死す。) 宗治の脳裏をこの言葉が横切った。宗治は隆景のもとを去り、高松城に向けて馬を疾駆させた。 高松城に戻った宗治は、すぐさま留守居の兵を集めて、源三郎の捜索を命じた。すでに、宗治の胸中には敵方への寝返りという