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磁場の井戸:第二章 舞台(六)/長編歴史小説

 冠山が落城したことを知った四月二五日の夜も、宗治は今と同じ定規で討死を遂げた林重真の心情を計った。必死に太刀を振るいながら、死んでいったであろう自分の郎党林重真に対して、宗治は、 「先に三途の川で待っておれ。儂もじきに行く。」 と重真の死様をさも羨むふうな表情をしながら、七郎次郎の前で口走った。宗治は、自らの最後を飾るこの織田勢との戦いにおいて、悟りを求道する禅僧のように、乱陣の中での死を心底から求めていた。そんな宗治にとって、重真の死様はまさに自分の望む最後の姿と寸分違わぬものだった。  宮地山城の落城により、高松城の北は全て敵方の領するところとなり、ついに高松城という鶴翼の頭、扇の要が敵の前面に姿をさらけ出す形となった。毛利方がじりじりと押されていることは、今日の戦の有様、そして、宮地山、冠山の二城が落城したことを見ても明白である。戦は始まったばかりであるにもかかわらず、時勢の天秤が、予想した以上に大きく傾き始めていることを宗治は知った。 (織田勢に順風、味方に逆風。) 一度、傾き始めた時勢は、水が高い場所から低い位置へと流れ込むように、片側の重みが次々と増し、時の経過と共に彼我の軽重が隔絶する。その勢いを矯めるには、天賦の才か、人智の届かぬ偶然が必要だった。宗治は自らの死後、残された隆景や毛利家のために、人智の届かぬ偶然が発生することを神仏に祈るしかなかった。

磁場の井戸:第二章 舞台(五)/長編歴史小説

 夕刻の訪れと共に、宇喜多勢は和井元へと退いた。この日も、先日と同様、鉄砲戦に終始した。視界を妨げる白煙と、鼻腔を刺激する硝煙の臭いが、高松城の周囲を弛むように流れていた。 宇喜多勢は、城に向かって楯を並べ、その影を利用して、城兵に応射した。寄せ手、守り手とも物陰に隠れて、敵の影を狙った。 「寄せ手の死者二〇余かと。」 人目に付きにくい高松城の北側の山稜の杣道を、敵兵の影を避けるようにして高松城内へと潜入し、宗治の前に現れた七郎次郎が、宗治に知らせた。 (その程度のものだろう。) 宗治は七郎次郎に頷き返しながら、自分のこの日の戦の結果に対する読みが概ね間違っていないことを確認した。  宗治は、射撃戦において断然有利であるはずの城方の損害の大きさに、敵の巨大さを知った。味方は強固な城壁を頼りにして防戦し、敵方は貧弱な一枚の楯だけを頼りに城方と向き合った。にもかかわらず、織田勢の優勢な火力に、城内では百名近くの城兵が命を失っていた。 (押しまくられた。) という気持ちだけが宗治の胸中に残った。鉄砲の数で与えられる攻撃力と城壁や楯板で与えられる守備力との単純な足し算が、この結果を生んだことは、自分の心の中においてでさえも否定しようがなかった。高松城は敵との相対比較において、決定的に攻撃力が不足していた。  無言のまま、考え続けている宗治に向かって、七郎次郎は思考をとぎれさせることを詫びるような小さな声で言った。 「本日、宮地山城が落城、城主乃美元信様は織田方に城を明け渡し、陣を払いました。」 宗治は、七郎次郎の言葉が耳に入らなかったように、表情を変えることなく、月光のない薄闇を見つめていた。  七郎次郎は言葉を止めた。乾いた闇の中で二人の間に静寂が流れた。七郎次郎は宗治の言葉を待ちながら、息を潜め、気配を絶った。刻の経過とともに、闇の帳が、宗治と七郎次郎とが作る狭い隙間に滑り込んだ。  宮地山は険しい山の頂に造作された要害で、周囲は峻険な断崖に囲まれ、敵兵の接近を激しく拒んでいた。秀吉は宇喜多勢をして、何度かこの要害に力攻めを試みたが、要害に加え、城兵は城主乃美元信のもと一丸となって防戦し、敵を城壁にさえも近づけない奮戦を演じた。  これには宇喜多勢も辟易とし、秀吉も力攻めの愚を悟り、宮地山に対しては持久策を採った。秀吉は宮地山が山城であるこ

磁場の井戸:第二章 舞台(四)/長編歴史小説

 その夜、宗治は、今日一日の様子を知らせるために、宗治の寝室の前に現れた七郎次郎を呼び止めた。 「七郎、秀吉はどんな男であったか。」 宗治は微妙な言い回しで七郎次郎に問いかけた。 「しかとは見えませんでしたが、猿と言われるだけに痩せた小男でございました。」 七郎次郎は、足守川に向かって走る径畔の脇にある草叢の中に身を潜めながら見た秀吉の外見を素直に口にした。 「見た目は猿か。」 馬の背中に身を委ねる猿の姿を想像し、宗治は一瞬、微かな笑みを浮かべたが、すぐさま真顔に戻って、重ねて問いかけた。 「七郎、お主、秀吉に何を見た。」 七郎次郎は、宗治を見つめていた顔を俯き加減にして、息を五つするほどの間、宗治の問いの意味を咀嚼した。そして、草叢から忍び見た秀吉の姿に忘れられぬほどの強い印象を持って、七郎次郎の心の中に残った残像を思い返した。 「秀吉の周囲に七色の虹が見えたような気がいたします。」 七郎次郎は言った後で少し面映ゆそうにしながら、慈父を見つめる眼差しを宗治に返した。 「お主も見たか。儂には夕陽が秀吉の後光のように見えたぞ。目が潰れそうなほど眩しい光彩を放っておったわ。」 「殿も御覧になられましたか。」 二人は主従とはいえ、同じ目を持っていた。宗治が自分自身で磨き上げた心の鏡と、宗治が彫琢した七郎次郎の心の鏡は、秀吉の放つ神々しい光を鮮やかに映し出した。しかし、二人にはその光が何物かを解く術は無かった。それは、死を決意した者だけが目にすることのできる未来だったのかもしれない。  高松城の北、和井元と呼ばれる部落から城に向かって、騎馬の離合をも妨げるような狭隘さで、一本の道が焦茶色の深田を貫くように走っている。その道が高松城にぶつかり、広がる場所が、高松城の搦め手、和井元口である。  天正一〇年五月二日、その小径を宇喜多勢の人馬の群がゆっくりと進んでいた。人馬の最前列には厳重な楯が並び、兵達は炎を恐れる獣のように楯に身を隠しながら、前進を続けていた。これが、秀吉による二回目の高松城総攻めとなる。  先鋒は一度目の四月二七日の総攻めと同じく、宇喜多勢、攻め口も同じ和井元口である。初回の総攻めでは宇喜多勢は策を弄さず、力と数で高松城を落とそうと、和井元口に殺到した。その二日前の四月二五日、宇喜多勢が先鋒となって、高松城のすぐ北、八幡山を

磁場の井戸:第二章 舞台(三)/長編歴史小説

宗治は七郎次郎の姿が茜色の夕日の中に消えた後、一人、考えた。 (城主乃美元信殿は武勇の将とはいえ、八千の敵勢に四百の城兵では、幾日持ちこたえられようか。援兵を送りたいが…。) しかし、援軍すれば、味方の兵は竜王山の斜面に陣を構える織田勢に丸腰の脇腹を曝すことになる。そこを逆落としに織田勢が攻め込んでくれば、敗北は必至、さらに兵数はこちらが寡ともなれば、野戦において勝利を得ることは不可能だった。  高松城の構造は周囲の深田、沼沢が外敵の接近を妨げる代わりに、城内の兵が迅速に城外へ突出することも阻んでいた。 (おそらく、秀吉もそれを知悉した上で竜王山に本陣を構え、高松城の枝葉の城塞を攻め、こちらの出方をみているのだろう。ここは、元信殿の胆力を信ずるほかあるまい。) 宗治は、秀吉の鮮やかな戦略眼に恐れ入ると同時に、今朝の微妙な振動が再び心中で美しい旋律を奏でながら踊り始めるのを感じた。 (ついに始まった。) 宗治の最後を飾る戦という舞台の幕が、宗治自身の位置とは遠いところで、静かに上がった。宗治は舞台の袖で出番を待つ主役のように自分の振り付けを反芻し、確認する以外に為す術がなかった。  夜更け、宗治は寝室にいた。寝室の明かりは消えているものの、宗治は覚醒して、寝床の上で腕を組みながら端座していた。七郎次郎の気配を感じた宗治は自らの手で障子を開き、庭に座っている七郎次郎が見える軒下まで出た。 「宇喜多勢は宮地山を力攻めで一気に落とそうとしましたが、城兵は強固に抵抗し、敵兵を城壁にも近づけず奮戦、本日、日暮れと共に宇喜多勢は後退し、城兵も一息ついたもののと思われます。」 七郎次郎の言葉で、宗治は城兵の士気が高いことを知り、胸を撫で下ろした。 (この分ならば、宮地山城は要害を頼りに幾日かは敵兵を弾き返すことができるだろう。) 当座の鎬であることを知りながら、一時の安堵が宗治の心中に満ちた。 「御苦労であった。今日はもう良い。また、明日、宮地山に赴き、様子を探ってくれ。」 そう言うと、宗治は寝室に戻り、寝床に潜った。 (宮地山は、既に、儂にはどうにもならぬ。元信殿の粘り次第だ。) 自分が宮地山城に対して、為す術のない無力の存在であることを悟ると、自然と彼の肝は据わった。 (この城を守り、秀吉を翻弄することのみが、儂の役割だ。) そう思うと、宮

磁場の井戸:第二章 舞台(二)/長編歴史小説

 この日、高松城の周囲は平静を保ったまま、静かに終わろうとしていた。太陽が中点を過ぎてから、既に何刻が経っただろう。西の空に浮かぶ陽光が鮮やかな黄金色の輝きに赤みを加え始める刻限だった。 「殿。」 書院の前庭に置かれた小童が蹲ったくらいの大きさの石の側に、小さな体をさらに小さく曲げて跪く影が声を発した。農夫姿の七郎次郎の影だった。 「織田勢が宮地山城に攻め掛かりました。」 七郎次郎は静かな口調とは裏腹に、興奮して紅潮した顔を宗治に向けて言った。宗治は表情を引き締め、赤らんだ七郎次郎の顔面を見つめ返した。宮地山の戦況を見届けた後、高松城までの山間の間道を全速力で韋駄天のように駆け戻り、すぐに宗治の所に訪れた七郎次郎は顔中の汗腺から水分を吹き出し、その着衣は彼の小さな体には重たげに見えるほど、ずっしりと水分を含んでいた。 「で、敵勢は。」 「先鋒は宇喜多勢八千。初戦とばかりに勢い込んで攻めております。」 「城の様子はいかがじゃ。」 「遠目でしかと見えませんが、門を堅く閉じ、押し寄せる敵勢に城壁から矢玉を馳走しております。」 「分かった。急ぎ宮地山に戻り、引き続き戦の様子を探ってくれ。」 「御意。」 七郎次郎は宗治に一礼すると、再び宮地山に向かうべく、背を向けて駆け出していた。  七郎次郎は城を囲む沼沢の灌木の間をすり抜けるようにして疾駆した。地面は乾き、沼沢特有の細粒分の多い土の表面が、乾燥のために亀甲状のひび割れに覆われていた。薄暮の中で、七郎次郎の足が地面を蹴るごとに灰神楽の如く、白く薄い粉が舞った。七郎次郎の身体から流れる汗が、乾いた地面に点々と跡を描いた。七郎次郎は流れる汗を拭うことも忘れ、走り続けた。乾いた大地を蹴りながら、七郎次郎は、宗治を包む空気がさらに変化していることを感じていた。  その変化を心の中で言葉にできるだけの表現力を七郎次郎は持っていなかった。ただ、漠然と三原城を訪れて以来の宗治の微妙な変化を心の眼で感じていた。 それは、闘い、そして、勝利するという武将としての覇気が、美しい死という清澄なまでの信念に昇華していくときにその人間の纏う空気が色を失い、透明になっていく過程だった。その変化を感じ取るためには、その人間との深い紐帯に加えて、自分もその空気を纏わなければならない。でなければ、自らの空気が発する色彩が心の視界

磁場の井戸:第二章 舞台(一)/長編歴史小説

第二章 舞台  天正一〇年四月一五日、早暁、宗治は濃厚な木の香を放つ真新しい櫓の上に立っていた。表情は、まるで戦場に在るかの如く、いつにも増して険しい。  太陽は既に城の東を包む山の端を離れ、城の周囲を取り囲む緑色の平野を燦々と照らしていた。  城の東から北側にかけて、高松城を中心に半径にして四、五町ほどの距離をおいて緩やかな円弧を描くように野が隆起し始め、それほど高いとは言えない丘陵を形成している。丘陵は再び訪れた新緑の季節を謳歌する草木に覆われ、山々自体が一個の生物であるかのように、宗治の心に生命の躍動を感じさせた。春の朝の空気はこれ以上を求めることが不可能なほど澄み渡り、若葉の緑はその透明度の高い空気を貫いて、宗治の網膜を刺激した。 (我が備中の山野の美しさよ。) 宗治は感嘆した。胸一杯に清澄な空気を吸い込むと、鼻腔の奥に微かに爽やかな香りが残ったように感じた。若葉が放つ生命力に溢れた色彩が宗治の視覚を刺激し、それが嗅覚を錯覚させていた。  宗治は元の険しい表情に戻り、城の北、八幡山が平野に鋭く突き出ている尾根の麓、和井元の集落から山の斜面に沿って、一気にその頂まで視線を移した。八幡山は美しい青空の中に明瞭な輪郭を持って緑色に縁取られている。宗治は八幡山を望みながら、心中で八幡山の三〇町ほども向こう、八幡山の裏側で澄み切った青空の中に崢嶸な輪郭を浮かべているはずの竜王山に意識を跳躍させた。  昨日、織田勢の大将羽柴筑前守秀吉は備前岡山から備中に侵攻し、その日のうちにその竜王山に本陣を据え、高松城の北に連なる宮地山、冠山の両城を攻撃する構えを見せた。 (秀吉は備前岡山から山陽道を下り、庭瀬、加茂、日幡城を攻め落とした後か、三城に抑えの兵をおいて高松城を一気に攻め落としにかかる。) と、宗治はこの戦の幕開けを予想していた。秀吉がどちらの戦略を採るとしても、織田勢は敵地での用兵の常識どおり道幅も広く、平坦で見通しの利きやすい山陽道を西に進路をとり、高松城の南方から攻め上ってくるはずだった。  しかし、秀吉の戦略は見事に宗治の予想を裏切った。 (秀吉は常道を破ることで、今の地位を築き上げた男である。) ということを、宗治は改めて思い知しらされた。  宗治の心は微妙にさざ波立っていた。予想どおりに事が運ばなかったことに対する動揺と言われれば