磁場の井戸:第二章 舞台(四)/長編歴史小説


 その夜、宗治は、今日一日の様子を知らせるために、宗治の寝室の前に現れた七郎次郎を呼び止めた。
「七郎、秀吉はどんな男であったか。」
宗治は微妙な言い回しで七郎次郎に問いかけた。
「しかとは見えませんでしたが、猿と言われるだけに痩せた小男でございました。」
七郎次郎は、足守川に向かって走る径畔の脇にある草叢の中に身を潜めながら見た秀吉の外見を素直に口にした。
「見た目は猿か。」
馬の背中に身を委ねる猿の姿を想像し、宗治は一瞬、微かな笑みを浮かべたが、すぐさま真顔に戻って、重ねて問いかけた。
「七郎、お主、秀吉に何を見た。」
七郎次郎は、宗治を見つめていた顔を俯き加減にして、息を五つするほどの間、宗治の問いの意味を咀嚼した。そして、草叢から忍び見た秀吉の姿に忘れられぬほどの強い印象を持って、七郎次郎の心の中に残った残像を思い返した。
「秀吉の周囲に七色の虹が見えたような気がいたします。」
七郎次郎は言った後で少し面映ゆそうにしながら、慈父を見つめる眼差しを宗治に返した。
「お主も見たか。儂には夕陽が秀吉の後光のように見えたぞ。目が潰れそうなほど眩しい光彩を放っておったわ。」
「殿も御覧になられましたか。」
二人は主従とはいえ、同じ目を持っていた。宗治が自分自身で磨き上げた心の鏡と、宗治が彫琢した七郎次郎の心の鏡は、秀吉の放つ神々しい光を鮮やかに映し出した。しかし、二人にはその光が何物かを解く術は無かった。それは、死を決意した者だけが目にすることのできる未来だったのかもしれない。

 高松城の北、和井元と呼ばれる部落から城に向かって、騎馬の離合をも妨げるような狭隘さで、一本の道が焦茶色の深田を貫くように走っている。その道が高松城にぶつかり、広がる場所が、高松城の搦め手、和井元口である。
 天正一〇年五月二日、その小径を宇喜多勢の人馬の群がゆっくりと進んでいた。人馬の最前列には厳重な楯が並び、兵達は炎を恐れる獣のように楯に身を隠しながら、前進を続けていた。これが、秀吉による二回目の高松城総攻めとなる。
 先鋒は一度目の四月二七日の総攻めと同じく、宇喜多勢、攻め口も同じ和井元口である。初回の総攻めでは宇喜多勢は策を弄さず、力と数で高松城を落とそうと、和井元口に殺到した。その二日前の四月二五日、宇喜多勢が先鋒となって、高松城のすぐ北、八幡山を挟んで隣に位置する冠山城を落城に至らしめ、宇喜多勢は、城主であり、宗治の郎党でもある林重真を含め城兵一三五名を討ち取るという華々しい戦功をあげたばかりで、皆、血と汗に酔い、戦勝に沸き返る勢いそのままに、雄叫びを上げながら高松城を目指した。今と同じ和井元口へと繋がる小径を後ろから押し出されるように進む宇喜多勢の足軽、騎馬武者達は、前列から順に矢玉の的となり、血飛沫を上げながら、あるものは傍らの深田に死体を埋め、あるものは路上に倒れた。先鋒の惨事を見ながら、後ろからの圧力に抗う術のない先鋒の将兵達は進むもならず、引くもならず、ただ木偶人形のように体中に矢玉を喰らい、死体の山を築いていった。この戦闘で、攻め手は四〇〇余名を失い、為すことなく、昼には退いた。
 最初の高松城攻城では、銘々の将兵が遮二無二、功名に逸り、城に向かって押し寄せ、その攻め方は見た目に派手ではあったが、その力は城壁に達するまでに四方に分散され、浅瀬で砕けた後に汀線に打ち寄せる細波のように、城壁に至る頃には城を穿つのに十分な力を有してはいなかった。
二度目のこの日、宇喜多勢には前回のような華やかさがないものの、分厚く硬質な壁がじりじりと迫ってくるような重圧を宗治に感じさせた。将兵は、個々の人間ではなく、精巧に組み上げられた精密なからくり機械のように組織としての機動性に富んで動いていた。
 宗治は本丸の櫓の上で身震いした。宇喜多勢の整然とした動きは、力学的に均整のとれた構造物のように組織の持つ秩序美を持って、宗治の眼前に展開していた。それは細いが、容易に裁つことのできない一本の玉鋼でできた延性に富む黒い糸のようであった。
(今度は容易ならざる敵じゃ。先日のようには行くまい。)
宗治は表情を引き締め、傍らで櫓の床に跪く高市允に伝令を命じた。
「市允、皆に気を引き締めて当たるよう命じよ。今日は、前のようにはいかぬぞ。敵をよく引き付け、矢玉を馳走せい。くれぐれも無駄玉を使わぬように、鉄砲頭どもに伝えよ。」
市允は、宗治の言葉を聞き終えるや、機敏な動作で櫓の中央に開いた方形の穴から真新しい梯子を伝って、下へと降りていった。
 櫓の上は宗治一人になった。宇喜多勢は、ちょうど城と山稜の縁を結ぶ直線の中点を過ぎた辺りで、緩慢にも見える進軍を続けていた。あと少しで鉄砲の届く処まで近づく。宇喜多勢の先鋒は臆病に見えるほど小さくなって楯の後ろに隠れ、歩調を合わせながらひたひたと歩みを進めていた。
 宗治が立つ櫓の脚下は沈黙だけが流れていた。鎧の擦れ合う音を単調に響かせながらひた寄せる宇喜多勢の重圧を、全ての城兵が感じていた。戦の前の静けさが高松城の周囲を包み、痺れるような緊張が備中高松の野を支配していた。
「放て。」
櫓の下から大音声が破断寸前にまで絞られた弦を弾くように極度の緊張を解放し、城壁に並べられた鉄砲が轟音を上げた。

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