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950(1504-1520)_永正年間

 文亀 4 年 (1504)2 月 21 日、蓮乗 ( 本願寺蓮如の次男 ) が越中井波の瑞泉寺 ( 富山県 ) で逝去。享年 59 歳。  永正 1 年 (1504)2 月 30 日、文亀から永正に改元。  永正 1 年 3 月、細川政元が、それまで軍事を任せていた赤沢朝経を討伐しようとする。 // 赤沢朝経は逃れる。  永正 1 年閏 3 月 15 日、室町将軍足利義澄が、山科の本願寺に赴き、一泊。  永正 1 年 8 月、越前の朝倉元景 ( 朝倉氏の一族 ) が加賀国の本願寺勢力と結び、越前への侵攻を図る。 // 加賀国境で撃退される。  永正 1 年 9 月 4 日、摂津守護代薬師寺元一が、管領細川政元に背き、山城国淀城に籠り、細川政元の隠居と澄元の相続を求めた。 // これに赤沢朝経も同調。この頃、京都内外で土一揆が放棄したため、足利幕府は一揆の要求を受け入れ、徳政令を出す。  永正 1 年 9 月 19 日、細川政元の命により、薬師寺元一の弟長忠が、謀反した摂津守護代薬師寺元一の山城国淀城を攻略。元一は殺され、長忠が摂津守護代に任じられる。赤沢朝経は許される。  永正 1 年 (1504)10 月 3 日、越後守護上杉房能と守護代長尾能景が、関東管領上杉顕定を助けて、上杉朝良の籠る河越城 ( 埼玉県川越市 ) を攻める。 // その後、房能・能景は上杉朝良方の属城武蔵国椚田城 ( 東京都八王子市 ) 、相模国真田城 ( 神奈川県平塚市 ) を攻略する。  永正 1 年 12 月 18 日、畠山尚順と細川政元・畠山義英が和睦。 // 尚順はまたも河内に侵攻し、細川政元の後ろ盾で畠山氏を相続した義英を攻撃。政元は薬師寺元一の反乱などで義英を救援できず、やむなく和睦。 // この和睦により、尚順が高屋 ( 羽曳野市古市 ) 、義英が誉田に本拠を置き、それぞれ河内半国の守護になる。 // この処分に義英が不満を抱き、細川政元との間が険悪になる。  永正 2 年 (1505)3 月 15 日、山科本願寺において本願寺蓮如の七年忌が開催される。  永正 2 年 8 月 10 日、本願寺実如が、門徒衆に、蓮如の御文を与える。  永正 2 年、山城国守護代香西元長が、管領細川政元に背き、山科で放