文亀4年(1504)2月21日、蓮乗(本願寺蓮如の次男)が越中井波の瑞泉寺(富山県)で逝去。享年59歳。
永正1年(1504)2月30日、文亀から永正に改元。
永正1年3月、細川政元が、それまで軍事を任せていた赤沢朝経を討伐しようとする。//赤沢朝経は逃れる。
永正1年閏3月15日、室町将軍足利義澄が、山科の本願寺に赴き、一泊。
永正1年8月、越前の朝倉元景(朝倉氏の一族)が加賀国の本願寺勢力と結び、越前への侵攻を図る。//加賀国境で撃退される。
永正1年9月4日、摂津守護代薬師寺元一が、管領細川政元に背き、山城国淀城に籠り、細川政元の隠居と澄元の相続を求めた。//これに赤沢朝経も同調。この頃、京都内外で土一揆が放棄したため、足利幕府は一揆の要求を受け入れ、徳政令を出す。
永正1年9月19日、細川政元の命により、薬師寺元一の弟長忠が、謀反した摂津守護代薬師寺元一の山城国淀城を攻略。元一は殺され、長忠が摂津守護代に任じられる。赤沢朝経は許される。
永正1年(1504)10月3日、越後守護上杉房能と守護代長尾能景が、関東管領上杉顕定を助けて、上杉朝良の籠る河越城(埼玉県川越市)を攻める。//その後、房能・能景は上杉朝良方の属城武蔵国椚田城(東京都八王子市)、相模国真田城(神奈川県平塚市)を攻略する。
永正1年12月18日、畠山尚順と細川政元・畠山義英が和睦。//尚順はまたも河内に侵攻し、細川政元の後ろ盾で畠山氏を相続した義英を攻撃。政元は薬師寺元一の反乱などで義英を救援できず、やむなく和睦。//この和睦により、尚順が高屋(羽曳野市古市)、義英が誉田に本拠を置き、それぞれ河内半国の守護になる。//この処分に義英が不満を抱き、細川政元との間が険悪になる。
永正2年(1505)3月15日、山科本願寺において本願寺蓮如の七年忌が開催される。
永正2年8月10日、本願寺実如が、門徒衆に、蓮如の御文を与える。
永正2年、山城国守護代香西元長が、管領細川政元に背き、山科で放火。
永正2年11月27日、畠山義英が、管領細川政元に背き、河内誉田城に籠ったため、赤沢朝経に攻撃させる。//背後に周防から上洛を狙う前室町将軍足利義尹の存在があったと思われる。//誉田城が落ちないため、政元は山科本願寺の実如に門徒の参戦を依頼する。
永正2年12月、本願寺実如は加賀の門徒1000人に動員をかけ、河内に呼ぶ。//管領細川政元に再三にわたり門徒の参戦を要請され、石山御坊の下間頼玄や頼慶兄弟と協議したが参戦への同意が得られず、加賀門徒に出陣を要請したものか?//一向宗門徒が加賀を領するにあたり、細川政元の協力があったため、実如は政元の要請を断り切れなかった。
永正3年(1506)2月19日、日向国千野湊(宮崎県串間市本城)の明心に画像の本尊が授けられる。//千野湊を拠点として薩摩への布教を展開。
永正3年(1506)2月、本願寺実如が、越中土山の勝興寺や飛騨白川の照蓮寺などへ戦闘準備を指示。
永正3年(1506)4月、本願寺実如の指示を受けた加賀門徒が、畠山義英の籠る河内誉田城を攻め、落城させる。//畠山義英は大和に逃れる。
永正3年(1506)、摂津や河内の浄土真宗の坊主衆が、現宗主実如を廃して、石山御坊にいる実賢を擁立しようとしたが、失敗。//その後、蓮如の妻蓮能が、いち早く子の実賢や実従を連れて京に退いたため、実賢は叛意がなかったとして許され、実従は堺の信証院を与えられる。//石山の主だった坊主五人は破門。
永正3年(1506)3月11日、本願寺実如が、越中の宗徒に対して、加賀の蓮悟に従うよう指示。
永正3年(1506)、能登国の門徒が蜂起し、加賀門徒の援軍を受けて、能登国中を席巻。守護の畠山義統(ヨシムネ)は近江へ、家老の温井備中は越前へ逃れる。
永正3年(1506)、越中国でも門徒が蜂起し、守護代神保長誠(ナガノブ)らの守護側は越後に逃れる。
永正3年(1506)、近江国の近松、海津、高島の門徒衆が本願寺蓮淳配下の佐久良宗久らに率いられて、近江から越前に侵攻。//越前守護朝倉貞景が七里半越えの谷間で反撃し、一揆勢は敗れて海津まで敗走し、土民に囲まれて危うい所を、本願寺実如の依頼を受けた近江堅田の本福寺の明宗が数百の兵船を送って、全員を救出。
永正3年4月16日、本願寺実如が、加賀、越中、畿内の大社寺の領地を返納することを約束。//越前が兵乱のため、加賀・越中には効果なし?
永正3年4月、細川澄元(細川成之の孫で、文亀3年に管領細川政元の養子になった)が、三好之長らの兵を率いて上洛。//澄元と澄之(前関白九条政基の末子で澄元が政元の養子になる以前から、政元の養子となっていた)が相続を巡って対立。//丹後、河内、大和においても管領細川政元への反乱の動きがあり、政元はその討伐に忙殺される。
永正3年7月17日、加賀、越中、能登の一向一揆30万の大軍が、越前へ侵攻を開始。//朝倉貞景の本拠一乗谷を目指す。
永正3年、朝倉氏は、加賀・越中・能登の一向一揆に同調しようとする越前門徒を抑え、高田専修寺や三門徒派を味方につける。
永正3年、朝倉教景(朝倉氏嫡流貞景の叔父)が、加賀・越中・能登の一向一揆の越前侵攻に抗するため、朝倉軍の総指揮をとり、自ら五千の精鋭を率いて藤島(福井市藤島町)に着陣。//朝倉氏の総勢は二万足らず。
永正3年8月6日、朝倉教景が、九頭竜川を渡河して、一向一揆勢に奇襲し、大勝利を得る。//朝倉勢は潰走する一向一揆勢を追い、吉崎御坊や本覚寺、超勝寺以下の真宗諸寺を徹底的に破却し、門徒を国外に追放。//超勝寺の実顕や本覚寺の蓮恵は加賀へ落ちのびる。
永正3年8月18日、越後守護代長尾能景が、寒江荘蓮台寺で一向一揆勢を破る。
永正3年、越中守護代の神保長誠の子慶宗が一向一揆方に寝返り、越後守護代長尾能景を般若野に包囲し、一向一揆衆とともに激しく攻め立てる。
永正3年(1506)9月9日、越後守護代長尾能景が、一向一揆と般若野(富山県砺波市で合戦し、討死。法名天徳院殿高岳正統。//長尾能景は越中守護畠山尚順の要請で越中国に出陣していた。
永正3年(1506)9月19日、長尾為景(越後守護代長尾能景の子)が守護代長尾家を相続。//為景は後の上杉謙信の父。//長尾為景は越後で真宗を厳禁した。
永正3年11月、越後守護代長尾為景が、五十嵐・石田・大須賀らの反乱を鎮圧し、越後国を掌握。
永正4年(1507)、室町幕府管領細川政元が家臣の薬師寺/香西の反逆により殺され、澄之が跡目を相続//この頃細川家は跡目相続を巡り、澄元派と澄之派に分裂していた。//この後、阿波細川の家宰三好之長が澄元を擁して両派閥が抗争を繰り返し、最終的には将軍義澄を擁した細川澄元が勝利する。
永正4年(1507)2月、武田信虎が、甲斐国守護職を相続。当時14歳。
永正4年(1507)6月23日、管領細川政元が、京の屋敷の湯殿において竹田孫七なる男に襲われ、殺される。享年42歳。
永正4年6月24日、本願寺実如が、管領細川政元殺害の報を聞き、大津浜へ走り、この日の早朝堅田に到着して本福寺に入る。//その後、永正6年3月まで堅田に避難。
永正4年7月8日、細川澄之が、細川家の相続を認められる、
永正4年(1507)8月1日、越後守護代長尾為景は、越後守護上杉房能排斥のため挙兵して、養嗣子定実を擁立。
永正4年8月2日、越後守護上杉房能が、養嗣子定実を擁して挙兵した守護代長尾為景により越後府中を追われ、関東にいる兄の関東管領上杉顕定を頼って僅かな兵と重宝を携えて逃亡。//途中、直峰(ノウミネ)城(東頸城郡安塚町)に立ち寄ったが、為景軍を迎え撃つことができず、松之山(東頸城郡松之山町)まで落ち延びた。
永正4年8月7日未刻(午後2時頃)、越後守護上杉房能が、長尾為景に追われ、天水越(松之山町)で自害。//家臣山本寺(サンボンジ)定長(糸魚川市の不動山城)、平子(タイラク)朝政(小千谷市の薭生(ヒウ)城)など数百人が悉く討死。)
永正4年8月9日、越後守護代長尾為景が、越後守護上杉房能の葬儀を施行。//為景が房能に反乱したものの、為景が葬儀を執行。//栖吉(長岡市)城主長尾房景が御香銭100疋を献上。//本庄房長、色部昌長、竹俣清綱ら揚北衆は守護上杉房能の弔い合戦を名目に守護代長尾為景討伐のため挙兵。
永正4年10月、越後守護代長尾為景方の中条藤資・築地忠基らが、本庄時長の本庄城(村上市)を攻略。//本庄ら揚北衆は越後守護上杉房能の弔い合戦として長尾為景討伐のため永正4年に挙兵。
永正4年11月、室町前将軍足利義尹が、大内義興の後ろ盾を受けて、西国大名に動員をかけ、山口を進発する。
永正4年12月、室町前将軍足利義尹が、上洛を目指して行軍中、鞆の津に到着。
永正4年12月4日、畠山尚順と畠山義英の間が再び決裂し、義英は河内国嶽山城(富田林市竜泉)に籠る。//尚順勢が大和や河内で義英勢を圧倒する。
永正4年12月15日、室町前将軍足利義尹と大内義興の軍勢が東上を開始したとの報が京に達する。//室町将軍足利義澄と管領細川澄元は、大内義興との和睦を模索し、義尹の入京阻止を図る。
永正5年(1508)、尼子経久が出雲大社の造営に着手⇒永正16年(1519)4月28日、遷宮。
永正5年(1508)1月、畠山尚順と細川高国が、畠山義英が籠る河内嶽山城(富田林市竜泉)を攻略する。//この際、細川勢が畠山義英を密かに逃し、畠山家の内紛を継続させるよう謀をめぐらせる。
永正5年3月、細川高国が、管領細川澄元と反目した上、近江に出奔し、室町前将軍足利義尹と通じる。
永正5年4月9日、細川高国が、室町前将軍足利義尹と通じ、管領細川澄元討伐のために、近江で挙兵し、京都に迫る。//摂津の伊丹元扶(モトスケ)らもこれに応じる。//これに伴い、管領細川澄元と執事三好之長は近江へと落ちる。
永正5年4月10日、細川高国が、入京。//これに伴い、室町将軍足利義澄も、管領細川澄元を追い近江へと落ちる。
永正5年4月27日、室町前将軍足利義尹とこれを助ける大内義興が堺へ上陸。//その後、6月8日に入京。
永正5年(1508)5月24日、越後守護代長尾為景方の中条藤資・築地忠基らが、色部昌長の色部要害(平林城、岩船郡神林村)を攻略。//色部ら揚北衆は越後守護上杉房能の弔い合戦として長尾為景討伐のため永正4年に挙兵。 永正5年(1508)6月8日、大内義興が周防に流浪していた足利義稙を擁して入京。//足利義稙は、足利義尹を擁した管領細川政元によって京都を追放されていた。//大内氏支配下の石見国人衆(吉見頼興/益田宗兼/三隅興信/周布興兼/福屋孫太郎/小笠原長隆/左波誠連/出羽孫次郎/高橋清光なども従軍。
永正5年(1508)6月29日、越後守護代長尾為景が、竹俣清綱の籠る岩谷城を攻略。//竹俣ら揚北衆は越後守護上杉房能の弔い合戦として長尾為景討伐のため永正4年に挙兵。
永正5年7月1日、足利義稙(義尹)が将軍職に復帰。細川高国を管領に、大内義興を管領代に補任。//前将軍足利義澄とそれを擁した細川澄元は京都を追われる。足利義澄は岡山城に退避、細川澄元は阿波に帰国。//義尹は明応2年に管領細川政元に追放されていた。この政元と組んでいた本願寺実如は堅田の避難先で義尹復権を聞き、大いに落胆。
永正5年8月、加賀の蓮悟(本願寺)が清沢(セイザワ:石川県石川郡鶴来町清沢)に新坊を建立し、願得寺と名付ける。
永正5年(1508)10月21日、京極政経、尼子経久と多賀伊豆守に宛て、「吉童子方へ譲状ならびに代々証文などのこと、これを預け置き候。確かに渡し遣わさるべく候なり。恐々謹言。」なる書状を送る。
永正5年(1508)10月25日、京極政経、嫡孫吉童子宛に譲状を書く。
永正5年(1508)12月4日、京極政経、逝去。享年不明。嫡孫吉童子を尼子経久と多賀経長に託す。吉童子のその後は不明。その後、尼子経久が出雲国守護となる。
永正6年(1509)2月19日、山城と大和で土一揆が起こる。
永正6年(1509)3月22日、本願寺実如が避難先の堅田から山科本願寺に戻る。//1年8か月ぶり。
永正6年6月17日、三好之長が、3千の兵を率いて近江から如意ヶ岳(大文字山の裏側で山科のすぐ東)に出撃するも、幕府側の管領細川高国と管領代大内義興が2万の兵で撃退。//之長は近江から伊勢に逃げる。
永正6年(1509)7月28日、関東管領上杉顕定が、越後守護上杉房能(顕定の弟)の敗死を知り、長尾為景討伐と越後国内の関東管領所領確保のため、養嗣子憲房とともに関東軍8000余騎を率いて越後に進撃。//上条定憲(越後守護上杉定実の実家)、上杉氏一族の八条修理亮、譜代の山吉孫次郎、桃井讃岐守、石川駿河守、長尾氏一族の長尾房長、魚沼の平子房長、発智六郎右衛門尉、揚北衆の本庄房長、色部昌長、竹俣清綱らが上杉顕定に味方。//一方、上杉一族の山本寺左京進、長尾氏一族の古志長尾、三城城代山吉久盛、揚北衆の中条藤資、築地忠基、黒川盛実、安田長秀、中・上郡の斎藤昌信、村山盛義らと信濃衆高梨政盛、市川甲斐守らが長尾為景に味方。
永正6年8月、越後守護代長尾為景が、関東管領上杉顕定に敗れて、越中国に退く。//その後、為景は一時佐渡に渡ることになる。
永正6年10月、室町将軍足利義尹が、「明恵上人絵詞」(ミョウエショウニンエコトバ)を筆写。//明恵上人は鎌倉初期に洛西栂尾に高山寺を開いた華厳の僧で、念仏諸宗を抑えるのに尽くした上人。
永正6年10月26日、室町将軍足利義尹の京屋敷に円珍と言う忍びが侵入して義尹に切りつける。義尹は8箇所の傷を受けたが、円珍を退ける。
永正6年10月27日、将軍足利義尹が、暗殺未遂に怒り、近江に出陣し、前将軍足利義澄を攻める。//義澄は蒲生郡岡山(近江八幡市牧町)の九里備前に匿われる。//細川澄元と三好之長は阿波に戻り、再起を図る。
永正7年(1510)1月、室町将軍足利義尹が、大軍を動員し、近江に出陣。//足利義澄は近江国人衆を動員して義尹を撃退。
永正7年(1510)4月、尼子氏の寺社奉行亀井秀綱が尼子経久の命を受けて、出雲大社と日御碕神社の領地紛争を採決し、境界の松の木に尼子氏の制札を掲げて、事態を収拾。
永正7年(1510)4月15日、越後守護代長尾為景が、越中国で軍を立て直し、越中国から佐渡に渡る。
永正7年4月20日、越後守護代長尾為景が、佐渡から蒲原津(新潟市)に上陸する。その後、寺泊(三島郡寺泊町)、椎谷(柏崎市)の戦いで関東管領上杉顕定軍を破り、越後府中に迫る。
永正7年6月10日、尼子経久が日御碕神社の遷宮式を挙行//長年の懸案事項であった。
永正7年6月20日、越後守護代長尾為景が、敗走する関東管領上杉顕定を長森原(南魚沼郡六日町)で討ち取る。//これを聞き、妻有(ツマリ)庄に陣を張っていた上杉憲房は上野白井城(群馬県北群馬郡子持村)まで敗走。
永正7年6月24日、尼子経久が出雲大社の正殿立柱を行う。//日御碕神社の遷宮式と相次いで行っているあたりに尼子経久の配慮が感じられる。 永正7年7月27日、浄土真宗の法敬が山科で逝去。享年90歳。//法敬は長年蓮如の身辺に仕えていた長老。
永正7年8月8日、摂津石山本願寺周辺で大地震。
永正8年(1511)、毛利興元、居城安芸郡山城に帰城。それまで大内義興に従い上洛していた。
永正8年(1511)3月5日、室町前将軍足利義澄の夫人が、流浪先の近江岡山で嫡子を産み、亀王丸と名付けられる。//義澄は、播磨白旗城(兵庫県赤穂郡上郡町赤松)にいる播磨守護赤松義村に亀王丸を預ける。
永正8年4月16日、本願寺実如が、冬の親鸞250回忌への勧進のため、明俊、良祐、祐誓の坊主衆3人を坂東に向け出立させる。
永正8年7月7日、足利義澄を擁する和泉守護職細川政賢が泉州堺に到着。これを契機に、義澄派と義稙派の京都争奪戦が激化。
永正8年7月13日、足利義澄派の前管領細川澄元と執事三好之長が阿波を出陣して和泉に上陸し、和泉守護細川政賢(7~8千)と合流して和泉や摂津を席巻し、京に迫る。
永正8年8月10日、足利義澄派の細川政賢が摂津を攻略。この時点で細川政賢の軍勢は1万5,6千。
永正8年8月14日、室町前将軍足利義澄が近江岡山で病死。享年33歳。//遺子亀王丸は後の室町12代足利義晴。
永正8年8月15日、細川澄元、三好之長ら(前将軍義澄派)の軍勢が山崎で管領細川高国(現将軍義尹派)2万を破る。
永正8年8月15日、足利義稙が、細川高国の勧めに従い、京都から細川高国の領国丹波に退く。
永正8年8月16日、細川澄元が京を占領。//足利義澄の死を秘する。//その後、大内義興が1万5千の兵を率いて長坂口から京へ攻め込む。
永正8年8月23日、丹波に退いた足利義稙が2万5千の軍勢を率いて京都北山に進行し、船岡山に陣取る細川政賢らを攻撃する態勢をとる。//この時、尼子経久と大内義興が先陣を争い、細川高国の斡旋で先陣大内義興、第二陣尼子経久に決する。⇒船岡山の戦いは義稙派が首級3800を上げるなど大勝。義澄派の細川政賢は小川橋(羅漢橋)で討死。
永正8年8月24日、大内義興が、激戦の末、京を占領した前管領細川澄元(前将軍義澄派)を破る。//和泉守護細川政賢は討死、澄元と三好之長は摂津に逃れる。//この結果、足利義尹派の細川高国や大内義興が京を回復。
永正8年8月、九州から畿内にかけて暴風雨が吹き荒れる。
永正8年9月、山城で土一揆。
永正8年9月25日、摂津中島の天満天神で千句連歌が興行される。
永正8年11月、山科本願寺で親鸞250回忌が勤修される。
永正8年11月27日、山科や宇治の郷民が「半済」と称し、勝手に年貢を減らすことを決める。//山城守護大内義興はこれを認めず、やめさせる。//この郷民には本願寺門徒が多かった。
永正9年(1512)、大内義興が従三位に昇進し公卿に列する。//船岡山の戦いの功績などが認められたことによる。//尼子経久の名前は出てこない。
永正9年(1512)、尼子経久が備後松永湾頭付近に古志為信が大内軍の進撃を打ち破る。古志氏は出雲古志出身。
永正9年(1512)3月、越前守護朝倉貞景が逝去。//嫡子孝景が朝倉家を相続。
永正9年4月、妙祐(一向宗)が、大和下市の願行寺で逝去。享年26歳。//妙祐は蓮如の13女で、勝恵の後添いになっていた。
永正9年8月13日、北条早雲(武蔵小田原)が、三浦義同(ヨシアツ)の岡崎城(神奈川県伊勢原市岡崎)を攻略。
永正9年10月、高田専修寺派の真慧(シンエ)が逝去。享年79歳。//蓮如に圧倒されながらも高田専修寺派を守り続けた。
永正9年11月、高田専修寺派の住持に先月逝去した真慧の養子真智を任ずる旨の後柏原天皇の綸旨が下る。//真智は天皇の皇子常盤井の宮の子。//真慧には継子応真(加賀一向一揆に殺された富樫政親の未亡人の一子で、未亡人がその後、真慧の妻におさまったため継子となった)がおり、これがお家騒動につながる。
永正10年(1513)2月、高田専修寺の住持職を、前年に逝去した真慧の継子応真とする綸旨が下る。//前年11月には住持職を真慧の養子真智とする綸旨が出ていた中で、再度の綸旨が出た。
永正10年3月17日、室町将軍足利義尹が、管領細川高国、管領代大内義興の勝手な振る舞いに怒り、近江山家(滋賀県守山市山賀)に出奔。
永正10年5月1日、実悟(一向宗)が、加賀若松の本泉寺から、清沢の願得寺へ移る。//実兄で養父の蓮悟に実子ができたため、跡目から潔く退いた。
永正10年5月3日、室町将軍足利義尹が、周囲になだめられ、出奔先の近江山家から京に戻る。
永正10年(1513)7月24日、越後守護上杉定実方の宇佐美房忠が小野城(中頸城郡柿崎町)に立て籠もり、越後守護代長尾為景に反旗を挙げる。//長尾為景自ら討伐に向かうが、為景の留守を狙って、春日山城が奪取されたため、為景は急ぎ春日山城を包囲した。
永正10年(1513)9月、越後守護上杉定実方の宇佐美房忠が越後守護代長尾為景方の安田城(北蒲原郡安田町)城主安田長秀討伐の軍を起こし、永正の乱(越後国)が勃発。//越後守護上杉定実方の上条定憲・宇佐美房忠らが、以前より信濃国島津貞忠・井上、海野、栗田らを味方に誘っている。
永正10年10月23日、越後守護上杉定実が、守護代長尾為景により、為景の館に幽閉される。
永正10年10月28日、越後守護代長尾為景が、自身の館に幽閉した守護上杉定実を他の館に移して、定実の行動を阻止するとともに、再度、小野城(中頸城郡柿崎町:城主宇佐美房忠)を攻撃。
永正10年11月、本願寺実如が報恩講の際に、一門の坊主は袴を脱ぎ白衣を着ることを定めた。世継ぎの円如は、彼らの賀正の祝銭や得度の時の礼銭の額を定めた。
永正10年、室町将軍足利義尹が名を義稙に改める。
永正10年12月、高田専修寺の住持職について、二転し、住持職を真慧の養子真智とする綸旨が出る。//永正9年11月に真智、永正10年2月に応真とする綸旨を下したが、再び綸旨が下る。
永正11年(1514)3月、後柏原天皇の第三皇子尊鎮が青蓮院で得度。//本願寺実如は得度費用として2千疋(340万円位?)を献上したことから、香衣(黄色に黒味を帯びた香の色の袈裟)を着ることを許される。
永正11年、本願寺実如が、本願寺の名馬ちぢみ栗毛を、以前よりこれを所望していた播磨守護赤松義村に贈る。//真宗を禁制していた赤松義村はこのことにより播磨の真宗禁制を解く。
永正11年(1514)5月、越後守護代長尾為景が、再び、小野城(中頸城郡柿崎町:城主宇佐美房忠)を攻撃。//宇佐美房忠は城を捨て、岩手城(中頸城郡柿崎町)に交代。//5月26日に岩手城が落城し、宇佐美房忠以下一族が討死。//宇佐美房忠の死により永正の乱(越後)が終息し、守護代長尾為景の権限が確立。
永正11年9月、本願寺実如が河内枚方に順興寺(大阪府枚方市枚方元町)を建立。
永正12年(1515)1月、尼子経久が法華経を開板。
永正12年(1515)、毛利興元が安芸守護職武田元繁の属城で有田氏の籠もる山県郡有田城を攻略。武田元繁は攻囲中の己斐城の囲みを解く。//安芸守護職武田元繁は安佐郡佐東銀山城主で大内義興に従い上洛していた所を分国の緩みを懸念した大内義興に命により帰還したが、すぐさま叛旗を翻し、領土拡大戦略を進め、己斐氏の守る己斐城を攻めていた。
永正12年3月、本願寺実如の三男で、播磨英賀の本徳寺住持の実玄が逝去。享年19歳。//実如は同年9月に四男で三河土呂の本宗寺住持の実円に本徳寺も継がせる。
永正13年、尼子経久が京都から領国出雲に帰還(もう少し早い時期との説もある)。//足利義澄の遺子亀王丸を擁した六角高定、定頼父子と連携し、大内義興の領国を犯す。
永正13年(1516)2月26日、東山大谷本願寺を勅願寺とする綸旨が後柏原天皇から本願寺実如に下される。
永正13年7月、越中の赤尾道宗(一向宗)が逝去。
永正13年7月11日、北条早雲が、相模新井城に籠る三浦義同を攻め滅ぼす。//三浦氏が滅亡。
永正13年8月、毛利興元逝去。享年24歳。毛利家の跡目は嫡男の幸松丸(二歳)が相続し、毛利元就が後見//これを見て安芸守護職武田元繁が山県郡に進出。有田城を伺う。
永正13年9月9日、越後の長尾為景が越中に出兵し、神保慶宗らと戦う。
永正13年11月20日、本願寺実如の嫡子円如に初めての男子が誕生。後の証如。//母の融誓は蓮淳の娘。
永正14年(1517)、本願寺実如をはじめ、一向宗の蓮綱、蓮淳、蓮悟に対し、勅命により上人号が許される。
永正14年(1517)8月11日、大内義興、室町幕府から石見守護に補任される。//石見前守護職山名某はこれを喜ばず、尼子経久の援助を得て大内氏に対抗。
永正14年8月28日、知恩院が炎上。
永正14年10月、毛利元就が安芸守護職武田元繁の拡大戦略の先手を打ち、敵将熊谷元直を討ち取り、さらに武田元繁を倒す。これが毛利元就の初陣(二一歳)であり、これにより、毛利元就は安芸北方を領有することとなる。
永正14年11月、尼子経久、尼子軍を統率して南下を開始し、備後山内に出陣。これに応じ、備中の新見国経が尼子氏に味方し、美作に出兵。
永正年間、尼子経久が弟尼子下野守久幸に伯耆国攻略を命じる。尼子久幸は西伯耆の尾高泉城主行松入道(正盛?)、東伯耆の羽衣石(ウエシ)城主南条宗勝を攻めた模様。
永正14年12月14日、本願寺が、三井寺が逢坂山を往来する門徒の通行を止めたことから、山科から近江粟田への新道を完工。//この工事に堅田の門徒が60艘を出して大いに働く。
永正15年(1518)、尼子経久、飯石郡の有力国人赤穴氏に対して所領を安堵。この頃から出雲国外にも進出を始めた模様。
永正15年(1518)、塩冶興久(尼子経久の三男)、日御碕神社に神田一町を寄進。
永正15年(1518)、備後の名族杉原氏の庶流木梨杉原氏が尼子氏に味方し、尾道一帯を根拠に東隣沼隈郡山南(サンナ)に進出し、海上から寄せてきた大内勢を撃破。
永正15年(1518)3月、尊鎮法親王が青蓮院で受戒。//本願寺実如が再び1万疋を献上し、これにより実如は紫の袈裟を許される。
永正15年(1518)3月11日、実順(一向宗:蓮如の第24子)が逝去。享年25歳。
永正15年4月4日、比叡山延暦寺の根本中堂が再建され、将軍足利義稙を迎えて供養が行われる。
永正15年4月19日、室町幕府が執事伊勢貞陸を越前守護朝倉孝景のもとに遣わし、加賀国境の封鎖を解くことを求め、同時に本願寺へ門徒一揆の制止を命じる。//越前朝倉氏は加賀一向一揆の侵入に対して、加賀国境を封鎖していたが、これにより北国からの年貢が入らぬと領主たちが不満を持っていた。//この後、双方がこれを承知して交渉が成立し、伊勢貞陸は6月に京へ帰る。
永正15年8月、尼子経久が嫡子尼子民部少輔政久を伴い伯耆磨石(トイシ)城(城主桜井入道宗的)を攻めるも、城方の粘りにより長期包囲となる。
永正15年8月2日、大内義興が堺から本国へ引き上げる。//義興は将軍義稙とうまくいかず、在京8千の兵の糧食の補給が厳しく、さらに、出雲の尼子経久が勢力を拡大していたため、帰国。
永正15年9月3日、蓮能(浄土真宗:蓮如の最後の妻)が山科の南殿で逝去。享年54歳。
永正15年9月6日、尼子政久(尼子経久の嫡子)、伯耆磨石城攻城戦において夜楼上で笛を吹いていたところを、城方の放った矢に当たり、落命。享年二六歳。//政久は武芸に通じるとともに、笛や詩歌管弦にも通じた文武両道の若武者だったと言われる。(政久の逝去は永正10年9月6日と言う説もある)
永正15年9月7日、尼子経久が嫡子政久の弔い合戦のため、7千の軍勢の先頭に立ち、次男国久、三男興久を先陣として、亀井/宇山/牛尾以下で猛攻撃し、磨石城を攻略、陥落させる。//城主桜井宗的は討死。尼子勢は首級1300を上げる。
永正15年10月、大内義興、足利義稙を補佐するための十年間の在京を終え、本国周防に帰還。この後、山陰/山陽の各地で大内氏と尼子氏の勢力争いが勃発。
永正16年(1519)3月、越後の長尾為景が越中に侵入。
永正16年(1519)3月初め、加賀山田にいた蓮誓(浄土真宗)が病気療養のため山科に上る。//蓮誓は、実如が下した三カ条の掟への加賀門徒の請文を上洛に合わせて持参した。さらに、蓮誓は南加賀の江沼、能美両郡から2千疋(およそ340万円)を献上。
永正16年、本願寺が近江三井寺や近江守護六角定頼と若い。//これに伴い、蓮誓(浄土真宗)は近松の顕証寺へ還往する。
永正16年8月15日、北条早雲が伊豆韮山(静岡県田方郡韮山町韮山)で逝去。享年88歳。//嫡子氏綱が家督を相続、
永正16年9月3日、本願寺実如が弟の実賢を近江堅田御坊を称徳寺としてその住持に任命。//実賢は二つ下の弟実悟に、母蓮能が写した蓮如の御文を伝えた。//この頃、本願寺実如が石山御坊を隠居所と考え、教恩院と名付けた。石山御坊には弟実賢がいた。
永正16年10月、長尾為景が、越中二上城を攻めていたところ、呼応して能登口から出撃した畠山勢が敗走するとともに、寒気が厳しくなったことから、ひとまず越後に撤退する。
永正16年11月6日、細川澄元と三好之長が率いる阿波勢が、兵庫に上陸する。//その後、越水城(コシミズジョウ:西宮市桜谷町)を包囲。
永正16年11月21日、管領細川高国が、兵庫に上陸した細川澄元・三好之長討伐のため、京を発して、池田城(池田市城山町)に入る。//武庫川を挟んで両者対陣したまま年が暮れる。
永正17年(1520)1月10日、管領細川高国が、細川澄元・三好之長が攻める越水城救援に失敗し、退却する。//三好之長が高国を追撃する。
永正17年2月17日、三好之長が、管領細川高国に属する伊丹城(伊丹市伊丹)と池田城(池田市城山町)を攻め落とす。管領細川高国は京へ戻る。
永正17年2月18日、管領細川高国が京から近江に逃れる。
永正17年3月27日、三好之長が率いる阿波勢が京に入る。//2月に管領細川高国は近江に逃れる。
永正17年5月1日、細川澄元が、室町将軍足利義稙から細川家の家督を許される。
永正17年5月3日、細川高国が逃亡先の近江で勢いを盛り返し、その先鋒が北白川に達する。
永正17年5月5日、細川高国と三好之長が、姉小路東洞院にあった等持院で衝突し、三好之長が敗れて捕えられる。//之長は百万遍の知恩院で自害。//伊丹城でこれを聞いた細川澄元は播磨に、さらに、阿波に逃げ戻る。
永正17年6月10日、細川澄元が、阿波で逝去。//阿波守護は子で7歳の細川晴元が相続。
永正17年6月13日、越後守護代長尾為景が再び越中に攻め入る。
永正17年7月3日、越後守護代長尾為景が境川城を落とす。//昨年落とせなかった二上城の攻略を目指す。
永正17年7月11日、鎌倉の最宝寺に親鸞の影像が下付される。
永正17年9月、専修寺の相続について、幕府が応真の住持職を認める。//永正9年から10年にかけて専修寺の相続について応真と真智とする綸旨が複数回あった。
永正17年(1520)12月21日、越後守護代長尾為景が越中国新庄城(富山市)を攻略して神保慶宗を斬り、越中守護畠山尚順(ヒサヨリ)が為景の戦功を賞する。
コメント
コメントを投稿