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ランコースの紅葉、そして、高知龍馬マラソンに当選

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ものランコースである讃岐国岩清尾八幡宮の外周にある一本の紅葉が見事に紅葉していたので、写真を一枚! 古色を帯びた神社の建物とのコントラストが非常に美しく、紅葉の茜色がよく映えていました。 そういえば、一昨日、高知龍馬マラソンにの当選通知がありました。去年、走ったしなぁーということで、出場を悩んでいます。これを逃すと、今年度はマラソン出場なしになりそうです。悩みみどころだなぁー( ̄▽ ̄;)

ランシーズン到来!

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寒い季節になってきました。 ランニングのシーズン到来です。 しかしながら、未だに大会の抽選に当たらず、本年度のマラソン大会出場が危ぶまれる状況です(T_T) 最近は仕事が忙しく、平日は走れませんが、土日・休日は頑張って10km〜20kmを目標に走っています(/。\) また、脚力強化のため、山坂のあるコースを選んで走っています。 そんなランコースから見える晩秋から初冬の風景を撮影してみました。

950(1578)_==天正6年==(最新版)

>_<あくまでも司空流の年表ですので、誤りがある可能性がございます。>_< >_<ご利用に際しては、各人で十分に史実をご確認ください>_<  天正6年(1578)1月、織田信長が、安土城において盛大な茶の湯を開催  天正6年1月、織田信長が、一族の織田信清の息女を高田専修寺派(浄土真宗)の堯真に輿入れさせる//高田専修寺派は、石山本願寺と同じ浄土真宗だが、石山本願寺と敵対しており、信長に味方  天正6年、毛利輝元が、淡路岩屋の拠点に、木津川口の海戦の大将児玉就英を派遣し、播磨への牽制と石山本願寺への海路の確保を狙う  天正6年(1578)1月1日、織田信長、安土において諸国の大名の祝賀を受ける。  天正6年1月2日、播磨利神城の別所定道(治定の孫)の代に天正5年の上月の役を向かえたが、病弱な定道は勝算のない戦いを無益に感じて人質を差し出して和を乞うたという。しかし、その弟の日向守林治は好戦的で、上月城の守将となった山中鹿之助に挑戦し、これに憤った山中鹿之助は同城を攻めて横坂、甕岩の1戦で別所軍を大いに打ち破った。⇒山中鹿之助は京都に上っており、事実でない可能性大?  天正6年1月6日、織田信長、正二位に叙せられる。  天正6年1月7or8日、明智光秀、坂本にて津田宗及と茶会。  天正6年1月末、尼子勝久/山中鹿之助、上月城を宇喜多勢から奪回。  天正6年1月、吉川元春が月山富田城に入城。但馬/丹波の国人衆との連携強化を図る。しかし、別所長治の織田家への謀反により東播磨の情勢が変化したため、目標を播磨に変更。特に孤立化した上月城を攻撃目標とした模様。  天正6年2月、播磨三木城主別所長治が織田信長・羽柴秀吉を裏切り、毛利方に寝返る。  天正6年2月上旬、宇喜多直家、5千の兵力を上月城(城兵は5百程度)に投入し、攻撃。尼子勢(尼子勝久、山中鹿介ら)は羽柴秀吉の命により上月城を捨て、退却。宇喜多直家、上月村出身の上月一郎景貞を在番とし、城兵2千を預ける。  天正6年2月23日、羽柴秀吉が播磨に帰陣。加古川の糟屋内膳武則の城を借りて1部の軍勢を入れ上方との連絡の拠点とし、秀吉自身は書写山に本陣を据える。//直後、三木城別所長治が反旗を翻し、毛利方につく。別所長治の離反

950(1577)_==天正5年==(最新版)

>_<あくまでも司空流の年表ですので、誤りがある可能性がございます。>_< >_<ご利用に際しては、各人で十分に史実をご確認ください>_<  天正5年(1577)、宇喜多直家、主君浦上宗景が織田氏と結んだことを理由に天神山城を攻め落とす。  天正5年(1577)、宇喜多直家が天神山城を攻めて、浦上宗景を追放。(天神山城の落城については天正3年説と5年説があるが、天正3年説が有力か?) 天正5年(1577)1月、下旬、北条氏政の妹が小田原から甲府の武田勝頼のもとに嫁ぐ//尾崎殿と呼ばれる  天正5年2月2日、紀伊根来寺の杉坊らが京に上り、畠山貞政(旧河内守護畠山高政の甥)が石山本願寺に応じて挙兵した事を訴える//さらに和泉国中の門徒衆も蜂起し貝塚や千石堀、畠中などに籠る  天正5年(1577)2月9日、織田信長が雑賀攻略のために安土城を出陣し、上洛。//織田軍は総勢12万とも。  天正5年2月13日、織田信長が、紀伊の雑賀衆などを討伐するため、京を出陣//十四カ国に動員をかけ、嫡男信忠を先鋒として数万の大軍を投入  天正5年2月16日、織田信長が、紀伊討伐のため、大軍を率いて和泉に進軍  天正5年、別所長治が、織田信長の紀州雑賀討伐に従軍。  天正5年2月、羽柴秀吉、紀州雑賀衆征伐に、4400余の軍勢を率いて従軍。  天正5年(1577)2月13日、織田信長,紀州征伐のため,京都を進発。  天正5年(1577)2月15日、織田信長,紀州征伐のため,和泉に入る。  天正5年2月16日、夜、和泉の貝塚(大阪府貝塚市)で願泉寺を拠点に海辺に船を浮かべて織田方を待ち構えていた門徒衆が、織田方の大軍を見て逃げ出す//織田方に根来衆が味方//織田信忠は、和泉貝塚の寺や民家を全て焼き払う  天正5年2月22日、織田信長が、紀伊討伐の途次、和泉信達(泉南市信達)に進む//信長は、信達で軍を山手と浜手に分け、それぞれ雑賀を目指す//山手は杉坊を案内に佐久間信盛、羽柴秀吉、荒木村重らが根来街道を紀ノ川に出る//浜手は滝川一益、丹羽長秀らが淡輪口から進んで中野城(和歌山市中野)を囲む  天正5年2月25日、本願寺顕如は、織田信長の紀伊侵攻を聞き、紀伊門徒へ「其方之儀千万心許無く候、事外煙みえ候間、気遣きはまり

950(1576)_==天正4年==(最新版)

>_<あくまでも司空流の年表ですので、誤りがある可能性がございます。>_< >_<ご利用に際しては、各人で十分に史実をご確認ください>_<  天正4年(1576)、播磨国人の三木城主別所長治が織田信長に従う。  天正4年(1576)1月、織田信長が右大将に昇任。毛利氏から祝いの太刀、馬などが届く。 天正4年1月、吉川元春が、織田信長と羽柴秀吉に賀状を送り、同時に、信長の側衆である聖護院道澄へ織田方が尼子勝久を援助していることをなじる。 天正4年1月、織田信長が、近江安土に築城することを決め、丹羽長秀に普請を命じる。 天正4年1月(?)、石山本願寺に、雑賀など紀州門徒が次々と参集。//織田と本願寺の和議が破れるとの噂が巷を覆っていた。  天正4年(1576)1月、丹波国波多野秀治、織田軍に反旗を翻す。明智光秀は敗戦により退却。山中鹿之助、殿軍を務める。  天正4年1月中旬、毛利氏が上洛作戦に関して吉田郡山城で評定し、作戦を決定。  天正4年1月中旬、織田信長、安土城の築城を開始。(同年4月とも)  天正4年1月、吉田兼見、丹波にて敗戦の明智光秀を京都北白川に見舞う。  天正4年1月21日、明智光秀は丹波攻略中のところ近江坂本城へ戻り、兵の休息を促す。  天正4年1月、吉田兼見、近江坂本を訪れ、明智光秀と面会。  天正4年1月23日、織田信長、美濃岐阜から安土に移る。  天正4年1月or2月、前将軍足利義昭が、強引に紀伊由良から備後鞆に移る。 天正4年2月6日、毛利元康/杉原盛重ら、尼子氏の属城因幡宮吉城を攻略する。  天正4年2月8日、足利義昭が紀州由良から備後鞆の津に到着。側室や上野重政、畠山昭賢、真木島昭光、武田信景、春阿弥ら側近・同朋衆20余名。⇒毛利氏に対して幕府再興のための挙兵を促す。上杉謙信に対しても新たに働きかけを始める。  天正4年2月8月、足利義昭が、備後鞆から毛利方の吉川元春と小早川隆景宛に、内書を送り、織田信長の非を唱え、毛利氏の決起を促す。  天正4年2月8月、実悟(浄土真宗、蓮如の実子の最後の生き残りで宗派の最長老)が院家に列する。  天正4年2月、能登七尾の畠山氏で内紛があり、当主畠山義統が殺される。畠山家中は二派に分裂し、それぞれ織田方と上杉方に通じ

950(1575)_==天正3年==(最新版)

>_<あくまでも司空流の年表ですので、誤りがある可能性がございます。>_< >_<ご利用に際しては、各人で十分に史実をご確認ください>_<  天正3年(1575)?月、石山本願寺が織田と一旦講和。  天正3年1月、羽柴秀吉が近江長浜城に入城。//この際に、地名を今浜から長浜に改名。  天正3年1月、毛利輝元、小早川隆景が備中松山城(三村元親)を開始。落城は5カ月後。  天正3年(1575)1月4日、実悟(浄土真宗、蓮如の実子)が、摂津門真の願徳寺で「願成就院事并安芸蓮崇事」を書き上げる。  天正3年1月11日、上杉喜平次が加冠し、名を景勝と改め、弾正少弼に任じられる。  天正3年2月16日、上杉謙信が、諸将の軍役を定める。//上杉配下の有力諸将39名と、出陣の際に、軍役として出さなければならない槍(三間柄の槍)3609挺、手明(テアキ)(兵糧を積んだ馬を引く兵士)650人、鉄砲316挺(他に弓5挺)、大小旗368本、馬上(騎馬兵)566騎の計5509人が記される。//当然これ以外にも兵力はあったはずである。//上杉景勝がこの際「御中城様」と呼ばれ、一門の筆頭とされる。  天正3年?月、織田信長が聖護院道澄を安芸毛利氏に遣わし、尼子残党の蜂起や三村元親の謀反は織田方によるものではないことを弁明。  天正3年(1575)2月5日、山中鹿之助、因幡若桜鬼ヶ城を攻撃。草刈景継が防戦。尼子勢が優位にたつも毛利勢の来援のため、退却。→これはおかしいかも。天正2年8月に若桜鬼ヶ城は尼子方の城となり、その後、鳥取城を逃れた尼子勝久/山中鹿之助が入城している。また、草刈景継は美作高田城主ではないか。ただ、天正3年5月に尼子勝久/山中鹿之助が若桜鬼ヶ城に入城したとの説もあり、天正2年8月-天正3年2月の間に、1度、毛利勢に落とされたのかもしれない。←  天正3年2月13日、明智光秀・村井貞勝、山城清涼寺に禁制を与える。  天正3年3月、石山本願寺が、大和田(大阪市西淀川区大和田)に砦を構え、渡辺や神崎に進出。//織田方の荒木村重は大いに怒り、門徒衆を十三の渡しに誘い出してこれに一撃を加え、さらに大和田と天満の砦を奪取。  天正3年3月3日、織田信長、岐阜から上洛し、相国寺の慈昭院に宿泊。  天正3年3月23

950(1574)_==天正2年==(最新版)

>_<あくまでも司空流の年表ですので、誤りがある可能性がございます。>_< >_<ご利用に際しては、各人で十分に史実をご確認ください>_<  天正2年(1574)1月1日、織田信長が、岐阜城で新年の祝いに、浅井久政・長政父子と朝倉義景の首を薄濃にして酒肴に供する。  天正2年(1574)1月3日、山中鹿之助、尼子勝久を奉じて再び因幡国へ侵攻。同行した部将は立原源太兵衛久綱/神西三郎左衛門/加藤彦5郎/亀井茲矩/吉田三郎左衛門/森脇市正/横道源介/横道権ジョウ/牛尾大炊助/足立次郎左衛門/足立治兵衛/進左吉兵衛ら。山名豊国の援助を受ける。尼子勢は伯耆への侵入後、13箇所の城を落とし、旧交のある浪人達が馳せ加わり、勢力を増大。  天正2年1月、尼子勢は毛利方の大坪甚兵衛一之が安芸に赴く事を知り、山中鹿之助が途中の鳥取辺りの雁金山の麓で待ち伏せし、大坪らを襲うも、山中鹿之助待ち伏せの知らせを受けていた大坪が小勢ながらも奮戦し、山中鹿之助が敗北。//山名豊国は何度も毛利と尼子を天秤にかけて寝返りを繰り返し、背腹常なく、最終的には家臣に追放されることになる。  天正2年1月5日、山中鹿之助/立原久綱ら、私都城(城主大坪甚兵衛は安芸へ赴き不在?)を攻めるも、毛利方の在番牛尾元貞の抵抗により退却。>この時、山中鹿之助が林という在所に逃げたことから、大坪は笑いながら、「人に会いて林に入るは、鹿と云う名には応じたり」と嘲ったという。  天正2年1月、織田信長,明智光秀に大和多聞山城を守らせる。  天正2年1月、武田勝頼,東美濃に侵攻。  天正2年1月中旬、三条西実澄,明智光秀を大和多聞山城に訪ねる。  天正2年1月19日、織田方の越前守護前波吉継が富田長繁に攻め殺される。  天正2年1月20日、織田方の越前府中城主富田長秀が、門徒衆を煽動し、織田方の一乗谷の越前守護代桂田長俊(前波吉継が改名)を15万の軍勢で襲い、殺す。//長秀も長俊も朝倉方から織田方に寝返った武将。//長俊に専横の振る舞いがあり、人心が離れており、同僚の長秀は長俊への嫉妬もあり、襲撃か?//長秀は、さらに北庄に押し寄せ、北庄を預かっていた津田元秀らを放逐。  天正2年1月、越前の諸将が一向一揆に加担し、越前