950(1575)_==天正3年==(最新版)

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>_<ご利用に際しては、各人で十分に史実をご確認ください>_<



 天正3年(1575)?月、石山本願寺が織田と一旦講和。
 天正3年1月、羽柴秀吉が近江長浜城に入城。//この際に、地名を今浜から長浜に改名。
 天正3年1月、毛利輝元、小早川隆景が備中松山城(三村元親)を開始。落城は5カ月後。
 天正3年(1575)1月4日、実悟(浄土真宗、蓮如の実子)が、摂津門真の願徳寺で「願成就院事并安芸蓮崇事」を書き上げる。
 天正3年1月11日、上杉喜平次が加冠し、名を景勝と改め、弾正少弼に任じられる。
 天正3年2月16日、上杉謙信が、諸将の軍役を定める。//上杉配下の有力諸将39名と、出陣の際に、軍役として出さなければならない槍(三間柄の槍)3609挺、手明(テアキ)(兵糧を積んだ馬を引く兵士)650人、鉄砲316挺(他に弓5挺)、大小旗368本、馬上(騎馬兵)566騎の計5509人が記される。//当然これ以外にも兵力はあったはずである。//上杉景勝がこの際「御中城様」と呼ばれ、一門の筆頭とされる。
 天正3年?月、織田信長が聖護院道澄を安芸毛利氏に遣わし、尼子残党の蜂起や三村元親の謀反は織田方によるものではないことを弁明。
 天正3年(1575)2月5日、山中鹿之助、因幡若桜鬼ヶ城を攻撃。草刈景継が防戦。尼子勢が優位にたつも毛利勢の来援のため、退却。→これはおかしいかも。天正2年8月に若桜鬼ヶ城は尼子方の城となり、その後、鳥取城を逃れた尼子勝久/山中鹿之助が入城している。また、草刈景継は美作高田城主ではないか。ただ、天正3年5月に尼子勝久/山中鹿之助が若桜鬼ヶ城に入城したとの説もあり、天正2年8月-天正3年2月の間に、1度、毛利勢に落とされたのかもしれない。←
 天正3年2月13日、明智光秀・村井貞勝、山城清涼寺に禁制を与える。
 天正3年3月、石山本願寺が、大和田(大阪市西淀川区大和田)に砦を構え、渡辺や神崎に進出。//織田方の荒木村重は大いに怒り、門徒衆を十三の渡しに誘い出してこれに一撃を加え、さらに大和田と天満の砦を奪取。
 天正3年3月3日、織田信長、岐阜から上洛し、相国寺の慈昭院に宿泊。
 天正3年3月23日、織田信長、塙直政を大和守護に補任する。
 天正3年4月4日、明智光秀、二千余を率いて、河内高屋城に出陣。
 天正3年4月4日、明智光秀・柴田勝家・佐久間信盛・滝川一益の連署で、片岡弥太郎(河内交野城主)という者に宛てて、「貴国衆はこの節馳走肝要である」旨を書状で伝える。
 天正3年4月6日、織田信長、三好康長の河内高屋城ならびに石山本願寺を攻めるため、1万余を率いて出陣。
 天正3年4月7日、織田信長が、摂津若江城に入城する。
 天正3年4月7日、本願寺顕如が、北国の門徒に檄を発し、兵糧を石山本願寺に送るよう命じる。
 天正3月4月8日、織田軍、摂津(河内?)高屋城と石山本願寺を攻撃。
 天正3年4月8日、織田方が、三好康長の籠る河内高屋城を攻めるが、攻略できず。
 天正3年4月9日、三好康長、織田勢に降伏。//4月19日に康長は河内高屋城落城に合わせて織田方に投降したと考える方が有力か?
 天正3年4月12日、織田信長、住吉に着陣。
 天正3年4月13日、織田信長が、石山本願寺攻めのため、10万余の大軍を率いて摂津天王寺に本陣を進める。//織田方は、周辺の実った稲穂を薙ぎ払う。
 天正3年4月14日、織田信長、石山本願寺(大坂城)を攻める。(4/19まで摂津在陣後、4/21に京都に帰着)
 天正3年4月19日、織田信長、河内高屋城の三好康長を下す。三好康長は織田信長に投降。
 天正3年4月19日、夜、織田方が、堺に近い新堀城を攻め、火を放って城内に突入し、城将十河因幡以下170人が討死、城将香西元成が生け捕りとなり、斬首。//これを見た三好康長が織田信長に降伏を申し入れ、許される。//信長は、河内一円を平定し、石山本願寺を孤立させる。
 天正3年4月21日、織田信長、石山本願寺攻めを小休止して、京都に到着。//その後、岐阜に帰還。
 天正3年4月21日、武田勝頼が1万5千の兵を率いて三河に進撃し、長篠城(城主奥平貞昌、城兵5百)を囲む。
 天正3年4月21日、織田信長が、武田勝頼が三河に侵入し長篠城に迫るとに報せを受け、石山本願寺攻めを切り上げ、京に戻る。
 天正3年4月26日、武田勝頼が、越前の杉浦玄任(浄土真宗)に後詰を要請する書状を送る。
 天正3年4月27日、美作高田城主草刈景継、山中鹿之助を頼り、織田信長に通じる。小早川隆景、これを知り、草刈家を弟重継につがせる。
 天正3年4月27or28日、織田信長、三河に進撃した武田勝頼を撃退し徳川家康を救うため、京都を発して岐阜への帰途につく。(信長公記では4/27)//近江坂本から明智光秀の舟で近江佐和山に渡り、続いて岐阜に帰る。
 天正3年4月28日、織田信長が岐阜に到着。
 天正3年5月1日、武田勝頼が三河二連木城や牛久保城を攻撃していた軍を返し、長篠城に兵力を集中する。
 天正3年5月7日、尼子勝久/山中鹿之助ら、若桜鬼ヶ城に入城。私都城にも兵を入れる。山名豊国、吉川元春に援軍を乞うため牛尾元貞を派遣。
 天正3年5月7日、山名家臣牛尾元貞、鳥取城外で山中鹿之助を破る。
 天正3年5月上旬、尼子勝久/山中鹿之助、因幡/但馬両国の尼子方を率いて武田高信と戦い、武田高信が討死。(これは不確実で武田高信は天正6年8月に山名豊国に謀殺されたとの説もある。)
 天正3年5月、毛利・宇喜多両軍、備中松山城を落とし、三村元親を攻め滅ぼす。
 天正3年5月2日、織田信長、岐阜帰城の祝儀に答える。(関戸家所蔵文書より)
 天正3年5月13日、前将軍足利義昭が、流遇先の紀伊由良から吉川元春宛に、武田氏や上杉氏が味方した事を報じ、毛利の出兵を促す。
 天正3年5月13日、織田信長、武田勝頼に攻められている長篠城を救援するため、約3万の軍勢を率いて岐阜を進発。
 天正3年5月14日、織田信長、長篠城救援のため岡崎に着陣し、徳川家康と軍勢6千と合流。翌日も岡崎逗留。この時長篠城からの使者鳥居強右衛門が来訪。
 天正3年5月16日、織田信長、牛久保に到着。
 天正3年5月17日、織田信長、野田原に到着。
 天正3年5月18日、織田信長、長篠城の西約4㌔の設楽郡の極楽寺に着陣。
 天正3年5月19日、本願寺顕如が、紀伊門徒に対して淡路島の岩屋への渡海を命じる。//制海権を確保し、毛利氏が味方した場合に備える。
 天正3年5月20日、武田勝頼、長篠城の北の医王寺から東に移動し有海原を横切って、織田信長本陣の正面に布陣。長篠の戦いの序盤!
 天正3年5月21日、長篠の戦い。武田勝頼が25000の兵で長篠城を包囲。徳川家康が8000、織田信長が30000を率いて到着。織田方は二重三重の馬防柵を作り、3000挺の鉄砲で武田騎馬軍団を粉砕し、壊滅させ、勝頼が甲府に逃げ帰る。
 天正3年5月21日、織田信長と武田勝頼が三河設楽原で激突。長篠の戦いの本番!
 天正3年5月25日、織田信長が、長篠の合戦に勝利し、岐阜城に到着。
 天正3年5月28日、山名祐豊/氏政父子が吉川元春に起請文を提出するとともに但馬への進出を要請。毛利氏の因幡攻略にあたって同父子も協力する旨。
 天正3年、但馬守護山名韶熙(アキヒロ)(出石城主)は毛利氏と和睦を結ぶ一方、上洛して織田信長に拝謁
 天正3年6月、初旬、実悟(浄土真宗、蓮如の実子)が、「山科御坊事并其時代事」を仕上げる。
 天正3年6月、織田信長、丹波方面の攻略に着手。
 天正3年6月1日、織田信長、丹波の国人小畠助大夫に朱印状を発給し、明智光秀の丹波平定に助力するよう命じる。
 天正3年6月6日、織田信長,川勝大膳亮(おそらく丹波の国人衆)に宛てて,「内藤・宇都は先年京都錯乱のときに此方に対して逆心を企て,以来未だ出仕しない。だからこの度明智光秀を遣わして誅伐することとなった。だからこの際忠勤に抽んでよ。」という書状を送る。
 天正3年(1575)6月7日、織田信長、丹波の国人川勝継氏に朱印状を発給し、明智光秀の丹波平定に助力するよう命じる。この時の織田信長の敵は丹波守護代内藤氏と宇津氏だった。
 天正3年6月10日、織田信長,小畠左馬助(おそらく丹波の国人衆)に宛てて「その国へ光秀を遣わしたところ,その方の世話で案内者を申しつけたとのことで喜ばしい。また丹後へも出兵するはずだが,そのとき先鋒として働いたら多喜郡一円を与える。」旨の書状を与える。
 天正3年6月17日、織田信長,小畠助大夫に宛てて「今度明智光秀を遣わすが,小畠左馬助は若年であるからどうかと思ったが,その方が指導するとのことで喜ばしい。丹波を占領したら本領の他に更に二万石を加増してやる」という書状を与える。
 天正3年6月17日、島津家久(島津義久の弟)の道中日記において、若桜の町を通っていた所、その城(若桜鬼ヶ城)の城主(おそらく矢部氏)を2、3日前に山中鹿之助が謀略をもって生捕にし、若桜鬼ヶ城を奪取した。尼子勢の人数と行き違ったと記載。→若桜鬼ヶ城はまた毛利勢に奪取されていたのかなぁ?←
 天正3年(1575)、尼子方の重要拠点だった因幡国8東郡私部の市場城(鳥取県8頭郡郡家町市場)に立籠り毛利軍と戦うも、力尽き開城。横道源介/権允兄弟も市場城に籠城していたが、力尽き、市場城落城と共に吉川家に仕えることとなる。
 天正3年6月、明智光秀,小畠左馬助に「当知行の地を安堵し,忠節次第新地を与える」旨の書状を与える。
 天正3年6月27日、織田信長が上洛。相国寺を宿所とする。
 天正3年7月3日、織田信長、禁中の蹴鞠に召し出され、宴を賜り、官位昇進の沙汰を受けるも、これを辞退。この際、武井夕庵を二位法印に、松井友閑を宮内法印に、明智光秀を惟任日向守に、丹羽長秀を惟住に、簗田政次を戸次右近に、塙直政を原田備中守に任ずることを請い、了承される。
 天正3年7月12日、織田信長、村井貞勝宛に、久我(こが)家の所領安堵の書状を与える。
 天正3年7月12日、織田信長が、近江の瀬田橋を付け替え、岐阜から京を結ぶ経路を確保。
 天正3年7月14日、村井貞勝、中元の内宴のために禁裏へ伺候。
 天正3年8月、織田信長が柴田勝家・明智光秀らを率いて越前一向一揆討伐のため越前へ出陣。(織田信長合戦全録より)
 天正3年8月8日、本願寺顕如が、吉川元春宛に、「大坂以下が織田の存分に任されては、貴国が懸念を引き受けられる段、眼前に候か」との書状を送る。
 天正3年8月14日、織田信長が、30000の兵を率いて越前敦賀に着陣。海上には数百の兵船を浮かべ、越前の門徒衆を威嚇。
 天正3年8月15日、織田勢が、越前木ノ芽峠や杉津口(福井県敦賀市杉津)の門徒の砦の攻撃を開始する。//以前より織田方に通じていた堀江景実が寝返り、門徒衆は総崩れとなる。
 天正3年8月15日、織田勢が越前一向一揆を攻撃し勝利。以降、一向一揆の殲滅戦を展開。
 天正3年8月15日、夜、織田方の羽柴秀吉や明智光秀が、越前府中に殺到し、下間和泉や若林長門など門徒衆2000人を打ち取る。//織田方は堺の千利休から弾丸千発を受領。//織田方は門徒と見れば、首を切りまくり、府中の町は屍に埋められた。
 天正3年8月15日夜半、羽柴秀吉が越前一向一揆征伐のため、越前府中に着陣。
 天正3年8月16日、織田信長が、越前府中に入り、生け捕った門徒衆も含めて皆殺しにするよう命じる。//北陸の門徒衆は12250人が殺され、一乗谷も豊原寺も攻略され、越前門徒衆は壊滅する。
 天正3年8月16日、明智光秀が越前一向宗徒征伐のため,浜手から府中(武生市)に向かう。
 天正3年8月22日、越前一向一揆の総大将下間頼照が、加賀に逃れようとして、下野(シモノ:福井県三国町下野)で高田専修寺派の者に殺される。
 天正3年8月、織田信長,越前府中にて一向宗徒と戦い,敵の大将西光寺以下下間和泉らを討ち取って大勝。
 天正3年8月22日、本願寺顕如が、紀州門徒と坊主に対して、「今般越前へ敵乱入之由候、此上者当寺之一大事、籠城きわまり候、しかればいづかたもたのむべき様体なきについて」との書状を送る。
 天正3年8月23日、織田信長,明智光秀・羽柴秀吉を先鋒として,加賀に侵入し,越後の上杉謙信と対峙。
 天正3年8月23日、織田方の羽柴勢・明智勢が、加賀に乱入し、能見郡、江沼郡の南ニ郡を制圧。//門徒衆の加賀領有が危うくなる中、加賀門徒は越中にいた宿敵上杉謙信と手を結ぼうとし、上杉を敵視していた杉浦玄任に自害を命じ、これを機に上杉謙信と金沢御坊は和解して、上杉謙信が北加賀に入る。//信長方は、檜屋(ひのや:石川県加賀市日谷町)と大聖寺に砦を構築。
 天正3年8月29日、毛利方草刈重継、若桜鬼ヶ城を攻撃。
 天正3年8or9月、毛利勢(吉川元春/小早川隆景ら)、天正3年5月28日付の吉川元春の起請文のとおり、因幡の尼子勢討伐のため、安芸を進発し、因幡に進出。
 天正3年8月、山中鹿之助、立原久綱ら明智光秀に属して丹波国籾井城、荻野直正を攻める。→同年9月説が有力。だが、そもそも尼子勝久/山中鹿之助は因幡若桜鬼ヶ城に在城していたのではないか
 天正3年9月初旬、明智光秀、越前一向一揆の掃討戦が一段落したことから、居城近江坂本城に帰城。丹波攻略の準備のためか(織田信長合戦全録より)
 天正3年9月2日、織田信長加賀攻略を終え,北ノ庄に帰陣。
 天正3年9月2日、織田信長が、越前北庄に趣き、自ら城の縄張りを行う。//信長は、北庄に柴田勝家を置いて北陸方面の総大将として越前八郡を与え、府中に佐々成政や前田利家を置いて勝家を補佐させ、大野郡には金森長近を配置する。//豊原寺以下の門徒寺を尽く焼き払い、門徒には助命の代わりに浄土真宗高田派などへの改宗を強要する。
 天正3年、勧修寺晴豊、織田信長の越前平定を労うために下向。
 天正3年、織田信長、柴田勝家に越前を与え、明智光秀に丹波計略を任せると伴に、細川藤孝に丹波の桑名・船井の2郡を与える。
 天正3年9月3日、吉川元春/小早川隆景、尼子方の因幡国私都城(主将亀井茲矩)を攻略し、落城。尼子方の横道兄弟/森脇久○/牛尾大炊助ら毛利方に下る。その後、吉川元春/小早川隆景率いる毛利勢は若桜(わかさ)鬼ヶ城に向かう。→横道兄弟は因幡市場城落城の折に吉川家に仕官したかも?←
 天正3年9月14日、吉田兼見、越前・加賀外征中の織田信長の陣中見舞いのため、京都吉田を発つ。この途次、近江坂本に明智光秀を訪れ、面会し、物を贈る。//明智光秀はこのとき既に越前・加賀の陣から近江坂本に戻っていた。
 天正3年9月26日、織田信長が、越前一向一揆討伐を完了し、岐阜に帰還。
 天正3年9月28日、吉川元春、尼子氏の属城伯耆由良城を攻略。
 天正3年10月、明智光秀が丹波黒井城の赤井(荻野)直正と衝突→この頃には内藤氏や宇津氏の名前は見えず、丹波奥3郡の支配者である赤井氏が明確な敵方となる。明智光秀が丹波に入国した当時は赤井直正は但馬竹田城の山名韶熙を攻略中だったが、明智光秀の丹波進攻を聞き、居城黒井城に戻る③
 天正3年10月、吉川元春は、杉原盛重/草刈(重継)氏らに4千余の兵を与え、若桜鬼ヶ城を攻撃させる。これに対し、私都城を失い孤立無援状態の若桜鬼ヶ城の尼子勢もよく持ちこたえる。
 天正3年10月、播磨の国人衆(御着城主小寺政職/龍野城主赤松広秀(播磨守護赤松氏の支流)/三木城主別所長治(東播磨に広く勢力を張っていた)らが上洛し、織田信長に拝謁。
 天正3年10月5日、織田信長が、三好康長と松井友閑を介した本願寺顕如からの和議申し入れを受け容れ、本願寺宛に一筆を返答。
 天正3年10月6日、吉田兼見、越前府中にて羽柴秀吉に面会。
 天正3年10月21日、織田信長と石山本願寺が和睦。
 天正3年、吉田兼見、越前北ノ庄で細川藤孝に面会。
 天正3年10月、吉川元春/小早川隆景の主軍は播磨の情勢が織田家の進出により緊迫してきたため、安芸に帰国。尼子勝久/山中鹿之助らは因幡若桜鬼ヶ城にて天正4年の春を迎える。
 天正3年秋頃、黒田孝高(当時播州小寺家の家老)が美濃に赴いて織田信長に謁見し、後途を託す。
 天正3年、播磨国の国人衆赤松・別所・小寺らが上京して織田信長に礼を述べる。
 天正3年、但馬守護山名韶凞(あきひろ)、但馬出石・竹田を出して、織田信長に降る。//竹田に住していた丹波黒井城主赤井直正は竹田を退くものの、山名氏一族を攻撃。
 天正3年10月15日、織田方の和議の使者が、石山本願寺を訪問。
 天正3年10月18日、本願寺顕如が、紀州門徒に鉄砲衆100人を早々に上番させて欲しい旨を要請//15日に織田方の和議の使者を受け入れたが、双方とも信用していない。
 天正3年10月21日、織田信長と本願寺顕如の間で、和議が成立。//顕如は、ともに宋代の名画である瑩玉澗の「枯木図」と趙昌の「花の図」などを信長に贈る。
 天正3年10月24日、織田信長、越前・加賀の陣より帰陣。(どこに戻ったかは不明)
 天正3年10月26日、織田信長、長宗我部弥三郎に対して、信の字を与えることを書状にて知らせる。//信長、元親が阿波に攻め入ることを承知する。
 天正3年10月28日、織田信長が、上洛し、妙覚寺で京や堺の数寄者17人を招いて茶会を催す。//越前・大坂での戦勝祝いであり、さきに本願寺顕如が献上した白天目の茶碗を披露する。//茶頭は、越前の合戦で鉄砲玉を調達した千利休が勤める。
 天正3年?月、長宗我部元親、土佐から阿波へ侵入。
 天正3年?月、長宗我部元親、明智光秀を通じて、織田信長に元親の嫡男弥三郎に偏きを賜ることを願う//この際、織田信長は長宗我部元親に四国切り取り次第の許可を与える。
 天正3年、赤井直正に攻められた山名韶凞が織田信長に救援を求め、それに応じて織田信長は明智光秀を丹波に遣わすことに決定。
 天正3年?月、明智光秀、丹波攻めの大将に任じられる。
 天正3年11月、明智光秀、丹波に入国。
 天正3年11月3日、信長、秀吉、上洛。
 天正3年11月4日、織田信長が、朝廷で大納言兼右大臣の拝賀式を行った。//源頼朝や足利尊氏と肩を並べる。
 天正3年11月20日、本願寺顕如が、吉川元春宛に、上杉方と連絡がついたので、毛利方に出兵を促す。
 天正3年11月、本願寺顕如が、雑賀衆に淡路岩屋に在番するよう命じる。//織田方が、石山本願寺と毛利氏の連絡を断つため淡路岩屋の地侍衆を勧誘していた。
 天正3年11月24日、八木豊信というもの、吉川元春に宛てて、『丹波の国衆は過半光秀に一味した』旨の書状を送る。//丹波八上城波多野秀治もこの頃は光秀に味方し、黒井城の赤井氏を攻めている。
 天正3年11月28日、織田信長、家督を嫡男信忠に譲る。//織田信長本人は茶器類だけを持って城下の佐久間信盛の屋敷に移る。(この時点で安土城を築城中あるいは構想中?)
 天正3年12月、羽柴秀吉が筑前守(従五位下)に叙任。
 天正3年12月、三好康長と松井友閑が、本願寺と織田の和議に関する誓紙を、本願寺に納める。
 天正3年12月20日、村井貞勝、久我荘長岡寺領の安堵状。
 天正3年12月29日、明智光秀・村井貞勝連署にて、西九条の名主百姓に宛て、若宮八幡に従来通り年貢や地子を納めることを命じる。
 天正3年?月、織田信長、武田勝頼の属城美濃岩村城を攻める。//城中では食料が無くなり、道具などを持ち出して食料に代えた。それを刈屋・小川の者どもが買い取ったという評判がたった。この刈屋・小川は水野元信(徳川家康の叔父で信長の家臣)だったが、佐久間信盛は仲の悪かった水野元信を讒言して、水野元信は最終的に切腹に追いやられた。

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