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12月, 2018の投稿を表示しています

京都 岩倉 実相院⑥

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実相院シリーズの最後です。 庭園を見渡す縁側のそばに形の佳い方形のつくばいがあり、水面にあまつぶの波紋が浮かんでいます。 そのつくばいの斜め下に表面が程よく風化した井頭ほどの大きさの石が二つ転がっています。 よく見てみると、小さな兎の石像でした。 よほど古いものなのか、一見では兎と思えないほど、石の肌にざらつきがあります。この庭園の歴史の変遷を知っている小さな住人として苔の中に埋もれながら、今も庭園の一点をみつめています。 最後に、実相院には江戸時代初期の御陽成天皇の「忍」の御宸筆が残っています。江戸初期、徳川幕府から様々な圧力をうけながら、激動の時代を駆け抜けた御陽成天皇らしい一字だと思います。 隆慶一郎先生の「花と火の帝」を思い出します。

京都 岩倉 実相院⑤

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日本庭園の続きです。 寺院の南に設けられた日本庭園はそれほど広いものではなく、逆に言えば、由緒ある門跡寺院のお庭としては小規模に思われます。 その程良い広さの中に、前述した通り小さな池を中心に、紅葉、そして、種々の樹木が比較的密集して植え込まれ、その地面を蘚苔類が被覆しています。 紅葉が中心に据えられていますが、常緑樹も多く、師走の小雨の中に映える濃緑が印象的でした。そして、やはりなんといっても紅葉です。実相院のパンフレットに秋の紅葉を移した佳景が用いられていますので、寺院そのものが紅葉をPRしているものと思います。しかしながら、厳冬の小雨に濡れる冬枯れの紅葉も次の春を待ってじっと力を蓄えている様子が、別趣を感じさせます。 さらに、庭園の背後にある小丘の斜面に自生する樹林を借景にして、庭園全体に奥行きを与えています。 やはり、長い時間を掛けて、たくさんの人々が心を込めて手入れしてきた汗と努力によって、隅々まで行き届いたこの庭園の今この瞬間があるのでしょう。

京都 岩倉 実相院④

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南側の枯山水に対して、北側は紅葉を主題にして様々な灌木、高木を巧みに組み合わせた純和風の日本庭園です。 庭園の中心に池が配置され、池の周囲にビロード絨毯のようにびっしりと密集して厚みをもって広がっている蘚苔類がこの庭園が経験してきた星霜の重みを感じさせます。しかも、この日は師走特有の鈍色をした曇り空から降る冷たい小雨が蘚苔類の上で小さな水玉となって蘚苔類を彩っています。 初夏の萌えるような新緑の苔もいいですが、厳冬の冷たい空気に震えながら、静かに堪え忍ぶ僅かに色あせた苔も風情があります。

京都 岩倉 実相院③

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実相院の内部には狩野派による襖絵が多数残っています。 竹に虎の図、鶴など種々の襖絵がありますが、個人的には謁見の間に描かれている帝鑑図は一筆一筆に勢いがあり、中心には門跡としての重み、周辺に女院の典雅を感じさせます。 謁見側に正座して、上座にある門跡院主の姿を想像しながら、帝鑑図を眺めていると、何かしら往時を思い起こすことができます。 ちなみに、寺院建物の内部は撮影禁止となっています。 実相院は建物とその内部の襖絵など非常に価値が高いものとなっていますが、それにもまして、庭が有名だと思います。 実相院本殿を中心に、北側には紅葉を主体にした日本庭園、南側には近年再整備された枯れ山水があります。 枯れ山水は地域住民の方々の様々な好意により改修された旨が枯れ山水を見渡す縁側への入口あたりに小さく記載されています。 庭はこの国を抽象的に表現しているとのこと。 所々に存在する砂利の盛り上がりは波を現しており、枯れ山水に強いインパクトを与えて、この国を囲む大海を想像させてくれます。 その砂利を留めている木の板がほどよい諷韻を放って、枯れ山水を引き締めています。 次は、日本庭園です。

京都 岩倉 実相院②

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参詣者用の駐車場は比較的大きく確保されています。ここからは想像ですが、紅葉の時期はおそらく満車になるでしょうから、たとえばバスを利用するという選択肢もあるのではないかと思います。 ちなみに、岩倉具視公の旧宅を訪れる時には使用不可と掲示されていますので、ご注意下さい。 まず、心地よい大きさの四脚門を潜ります。大寺院の荘厳な山門ではなく、もと女院の住居から移設したと伝えられるように、優美な姿で一歩控えたような落ち着いた印象です。

京都 岩倉 実相院

最近、京都を訪れる機会に恵まれています。 新名神が開通して京都への道中が本当に便利になりました。阪神高速に比べて、道幅が広く、ゆったりとした気分で運転できます。名神高速の渋滞の名所「天王山トンネル」を上下線ともトンネルが2本の4車線化により通常の連休程度であれば、観光も含めた多量の交通量を円滑に捌くことができるようになっています。 さて、今回の京都行きは直前からあまり時間的、そして、精神的な余裕がなかったため、名所旧跡の訪問は困難と考えていたのですが、車中で仕事を進める中で数時間程度の空き時間を作ることができたので、岩倉で待機していたこともあり、岩倉周辺の古社古刹を探していたところ、「実相院」を発見しました。 以前から岩倉具視の寓居と合わせて、興味のある寺院でした。特に、紅葉で著名です。 実相院の由緒については、わたしの浅い知識では説明しきれないので、実相院で受けとったパンフレットの記載を参照します。  実相院はもと天台宗寺門派の門跡寺院である。  現在は単立寺院、不動明王を本尊とする。  寛喜元年(1229)、近衛基通の孫・静基(じょうき)権僧正を開基とし、紫野に創建された。一度、五条通小川(京都御所の北西)に移転したが、応仁の乱が激しくなると、当時管理していた岩倉に移った。その後、しばらく厳しい時代が続いたが、江戸時代初期に足利義昭の孫・義尊の時代、母(三位の局)が後陽成天皇に仕えて道晃法親王(聖護院門跡)をもうけたことから、天皇家とのゆかりが深まり、後水尾天皇や東福門院たちが岩倉にしばしば御幸に訪れるなど、華やかな時代を迎えた。  その後、皇孫の入室が続き、享保五年(1720)には東山天皇中宮・承秋門院の大宮御所の建物を賜った。  今日まで伝わる四脚門、車寄せ、客殿は、女院のお住まいとして王朝建築美のなかにも風格のある佇まいを見せる。上段の間など各室には江戸時代中期に活躍した狩野永敬をはじめ狩野派の襖絵がめぐらされ、現存する数少ない女院御所である。

峡の劔:第七章 黒衣の旅僧(2)

 黄褐色の微粉末を全身に浴びた弥蔵が崩れるように地面に蹲り、薄れていく意識の中で左腕に刺さった細い針を懸命に抜き取って、小さな傷口に何度も唇を押し当て、血を吸い出し、地面に吐き捨てる。弥蔵が咄嗟に受け止めた細針の不気味な蒼い光跡は毒の塗布を意味していた。清太は毒薬が全身に回らぬよう、自分の髪を止めている紐を外して弥蔵の左腕の付け根を緊縛する。次第に動作が鈍っていく弥蔵に代わり清太が傷口から毒を吸い出す。不純物のない弥蔵の鮮血を舌の上で確認した清太は毒薬と妖薬の双方で意識を喪失していく弥蔵を背負って、小屋へと戻る。 「弥蔵が手傷を負った。傷は浅いが、毒にやられている。」  清太が短く告げながら、苦しげに呼吸する弥蔵を床に横たえる。亥介と総馬が弥蔵を診る。弥蔵の左腕が鈍い土色に変色し、左手の指先が痙攣している。 「まずは解毒です。」  総馬が土間にある甕から水を汲み、左腕の傷口を何度も洗う。亥介が鎧櫃の中から薬籠を取り出し、真新しい木綿布に峡に伝わる解毒の膏薬をたっぷりと塗布して、弥蔵の傷口全体に当てる。さらに、亥介は白湯に溶かしたこちらも峡伝来の解毒剤を、ゆっくりと弥蔵の口に流し込む。  弥蔵は荒い呼吸を繰り返しながら、時折、苦しげな呻きを発する。 「毒に身体を、妖薬に精神を犯され、激しい苦痛と幻覚に襲われているのでしょう。しかし、若様の素早い処置のお陰で、毒は致命的には回っておらぬようです。それにしても、床下に潜む弥蔵殿を察知し、さらに、ここまで追い詰めるとは相当な手練ですな。」  清太は弥蔵が手傷を負った際の状況を語った。 「弥蔵は百足と呼ばれた旅僧の従者と干戈を交えながら、「兎吉」と小さく叫んでいた。相手からの応(いら)えはなかったが、夕闇とはいえ弥蔵が「兎吉」を見誤るとは考えられぬ。」 「峡を捨てた上に、得体の知れぬ妖僧の従者になるとは阿呆な奴じゃ。」  総馬は若いだけに感情を先行させて、自分と同じ丙部出身の兎吉を罵る。清太は、総馬の発言に直接触れずに、 「黒衣の旅僧の正体はわからぬが、凄腕であることは間違いない。兎吉一人であれば、捕えることは容易だが、旅僧の邪魔が入るようならば、事は簡単には運ばぬかもしれぬ。なぜ、旅僧が退いたのかは解せぬが、旅僧がその気になれば、わたしも無傷では済まなかったかも知れぬ。」 と、呟く。 「何れにしても

網掛松かな

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土佐一宮神社まで10キロラン! 途中、…。 紀貫之に縁のある松があった場所だそうです。 さすがに紀貫之が見た松ではないようですが、土佐の歴史は深いです。 場所は土佐一宮神社の近くです。 看板によれば、当時はここまで海が入り込んでいたそーです。驚きです。現在の海岸線は相当南にあります。