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4月, 2013の投稿を表示しています

ニアミス?ではないと思います。

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先日のANA東京→高松の一コマ。 飛行機の窓からみると、遠い空の向こうに飛行機雲が、、、。 旅客機の並走というのはなかなか体験できなかったので、記念に一枚。 今日は富士山が見えなかった。 残念。 あっ、写真が上下反対。 でも、大丈夫かなあ?って何が大丈夫なのかさっぱり意味不明の本日のブログでした。

950(1543)_==天文12年==(旧版)

>_<あくまでも司空流の「こうかも」年表ですので、誤りがあっても司空は一切の責任はとりません。>_< >_<ご利用に際しては、解説・注意をご確認の上、各人で十分に史実をご確認ください>_<  天文12年(1543)、種子島に鉄砲が伝来。  天文12年(1543)、越後揚北衆(鳥坂城主中条藤資、本庄城主本庄房長、平林城主色部勝長ら)が長尾晴景(後の上杉謙信の兄)に従わなくなり、長尾景虎(後の上杉謙信)は兄晴景を助けるため敵に囲まれた三条城(三条市)に入り、ついで栃尾城(栃尾市大野)に移る。  天文12年(1543)、後の本願寺顕如が生まれる。  天文12年(1543)1月21日、大内義隆、出雲宍道の畦地山に本陣を移す。//ここで富田城を眼下に望むことができる京羅木山への移陣について諸将に諮り、進軍に決する。  天文12年2月12日、大内義隆、本陣を出雲京羅木山へ移し、陶隆房は経塚、兵庫頭は三沢為清、三刀屋久扶とともに出雲富田八幡山に布陣//京羅木山は出雲富田城を眼下に望む最前線となる。⇒そのまま3月上旬まで合戦でらしい合戦はなし。  天文12年3月14日、尼子方の大老牛尾幸清、川副久盛ら1千余が、大内方の寄手内藤興盛、毛利元就の連合軍5百余を出雲富田城の菅谷口蓮池縄手で撃退。  天文12年3月下旬、尼子新宮党2千余を率いた尼子誠久、敬久兄弟が新宮谷近くの金屋の洞光寺を攻めた大内方の平賀隆宗、益田藤兼ら5百余を撃破。この際、大内方の吉川興経が横槍を入れ、平賀らは討死を逃れる。  天文12年3月頃、大内義隆、出雲富田城包囲の陣中に京都の神道家吉田兼右を招き神道伝授を受ける。⇒この間、厳島神社や筑前箱崎宮、伊勢神宮、出雲日御碕神社、出雲揖屋神社に戦勝祈願依頼。⇒出雲鰐淵寺にも旧領を寄進。  天文12年4月12日、大内方の毛利元就、隆元父子が出雲富田城の塩谷口に寄せるも尼子軍に撃破される。⇒出雲富田城の大内氏包囲に伴う城麓の局地戦は大内方の敗色が濃くなっていた。  天文12年4月晦日、大内方についていた三沢、三刀屋、本城、吉川、山内らの石見衆、出雲衆が大内氏を裏切り、富田城に入城//大内方に残ったのは毛利、平賀、三吉、福屋、天野、益田など。  天文12年5月7日、大内義隆は出

950(1542)_==天文11年==(旧版)

>_<あくまでも司空流の「こうかも」年表ですので、誤りがあっても司空は一切の責任はとりません。>_< >_<ご利用に際しては、解説・注意をご確認の上、各人で十分に史実をご確認ください>_<  天文11年(1542)1月、大内義隆、出雲国遠征のため、自ら山口を出陣。//養嗣子周防権介晴持、陶中務大輔隆房、杉伯耆守重矩、内藤下野守興盛の三重臣以下、精兵1万5千が従軍。⇒その後安芸国国府で毛利元就ら芸備の兵を合わせて石見路から出雲に向かう。  天文11年(1542)3月初旬、大内勢の出雲遠征の先鋒が石見国邑智郡出羽(イズハ)二ツ山に到着。ここで、益田、福屋、佐波、出羽、小笠原、本城らの石見国人衆が合流。⇒その後、江川の都賀の渡を越えて出雲に入国。  天文11年(1542)4月5日、越後守護上杉定実は隠居を決意し、誓書を守護代長尾晴景(上杉謙信の実兄)に送る。  天文11年6月、大内勢が出雲国飯石郡赤穴の瀬戸山城を攻囲。城主は赤穴光清で、富田城から援軍として田中三郎左衛門が入城//瀬戸山城は尼子1旗の4番目に位置する富田城防衛の重要拠点。  天文11年6月7日、出雲瀬戸山城攻囲中の大内方の先陣熊谷直続が抜け駆けして城に肉薄するも、反撃にあい部下の荒川与三とともに討死。  天文11年7月27日未明、出雲瀬戸山城攻囲中の大内勢4万が瀬戸山城の総攻撃を敢行するも、城主赤穴光清以下の頑強な抵抗のため未の刻(午前2時頃)に総退却。しかし、この日の合戦で赤穴光清が流れ矢に当たり討死。享年5〇歳。//大内勢は数百が討死。⇒赤穴光清討死のため、援軍の将田中三郎左衛門は光清の妻子を助けるという条件で開城。⇒その後、田中はじめ城兵達は同月29日に富田城に到着。  天文11年6月29日、出雲遠征中の大内義隆が本営を飯石郡頓原の由木に移し、兵に休息を与える。  天文11年10月中旬、出雲遠征中の大内義隆が出雲三刀屋ヶ峰に進攻。  天文11年11月上旬、出雲遠征中の大内義隆が出雲八束郡、大原郡の境界高津馬場に転陣するも、嵐のため馬潟(マカタ)の正久寺に陣を移す。//大内勢はここで冬を越し立春の雪解けを待ち、富田城攻略に着手となる。

引退(tie)式

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最近、次々とネクタイが痛み始めた。 先週はネクタイの先端が破れて、白い下地が出ているのを発見。 今週は金色のストライプの織り込みが刷り切れて、紺色の生地と斑になっているのを発見。 ということで、本日、2本のネクタイの引退(tie)式を実施。 敬礼の後、記念撮影! 会社員生活17年、会社に入った頃に買ったネクタイのような気がする。 よく頑張ってくれた。 ご苦労さんじゃった!

タニタ食堂

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出張で江戸へ。 昼食抜きで仕事をした後、近くに「タニタ食堂」があると聞き、13時をかなり過ぎていたので、行列もなかろうと思い立ち、丸の内国際ビルディング地下1階のタニタ食堂まで足を伸ばして見ました。 予想通り行列はなく、店の方がすぐに案内してくれました。 まず、食券を買いました。 色々なメニューがあるのかなぁと思っていたのですが、日替わり定食と週替わり定食の二種類しかないのですねぇ。 しかも、昼食時をかなり過ぎていたので、日替わり定食は売り切れでした。ですので、悩む必要もなく、週替わり定食です。 週替わり定食は「さわらのベジタルタル定食」です。副菜には「モロヘイヤサラダ」と「桜エビのすまし汁」、果物にグレープフルーツでした。 昼休みを過ぎているのに、結構、賑わっていました。会社員ふうの方がちらほら、あとは主婦の方が多いように見受けられました。 食券を購入した後、荷物をテーブルに置き、食事を取りに行きます。自分でご飯をよそい、カウンターで副菜・主菜を受け取って、食券と交換です。 拙者は、店員さんが注文を取りに来て、食事を持ってきてくれるものと思い込んでいましたので、少し驚きました。社員食堂の雰囲気を出したかったのかもしれません。ただ、店内が狭いので、昼ごはん時は大変だろうなぁと感じました。 お食事は美味しくいただきました。すまし汁も適度に味付けされていて、特段、健康食という印象はありません。 サワラはもともと淡白な魚なので、酢の効いたタルタルソースがよく会います。タルタルソースにはたくさんお野菜が入っていてグッド(^^)d モロヘイヤサラダはどちらかというとオクラサラダです。拙者はオクラが大好きなので、OK! 量の割りには900円と少しお高いような気もしますが、丸の内という立地でいえば、ランチとしては相場に近いお値段かもしれませんね♪

高松周辺の桜の名所

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東北地方で桜が満開といった報道と、その桜の上に降り積もる雪の映像が流れています。 冬に逆戻りは、東北地方に限らず、西日本も本日は寒かったですね。 西日本の桜は概ね散ってしまいましたが、来年に向け、今年見つけた高松市内の桜の新名所をご紹介です。 場所は、生島総合運動公園から西へ数分行った「亀水運動公園」です。「亀水」と書いて、何故か「たるみ」と読みます。 昔の人が「垂水」を「亀水」と書き間違ったのでしょうか。 亀水運動公園はテニスコートでーす。半分くらいはテニスコートで、あとは公園と何かの公共施設になっています。 テニスコートと公園を隔てる道路の両脇は桜並木になっていますし、公園には桜がたくさん植えられています。 お花見の人も少なくて穴場感があるスポットでーす。

950(1541)_==天文10年==(旧版)

>_<あくまでも司空流の「こうかも」年表ですので、誤りがあっても司空は一切の責任はとりません。>_< >_<ご利用に際しては、解説・注意をご確認の上、各人で十分に史実をご確認ください>_<  天文10年(1541)1月3日、安芸吉田郡山城を包囲中の尼子勢が相合近辺で小早川興景勢や毛利勢に攻撃される。  天文10年1月11日、大内氏重臣陶が本陣を山田中山から吉田郡山城麓の天神山へ移動//いよいよ戦機が熟す。  天文10年1月12日、尼子方の安芸桜尾城主友田興藤が3島村上水軍と連携し、厳島を占拠。  天文10年1月13日、毛利勢3千が、早朝、宮崎長尾の尼子勢の陣地を強襲。尼子勢の第1陣高尾豊前ら2千、第2陣黒正甚兵衛ら1千5百を破り、第3陣吉川興経1千と干戈を交える。吉川興経がよく防ぎ、勝敗不明のまま日没を向かえる。  天文10年1月13日、陶隆房率いる大内勢が、宮崎長尾の尼子勢を攻める毛利元就と連携し、尼子詮久の本陣を急襲。尼子本陣は手薄になっていたため、総帥尼子詮久の命運も危ういと見えた所に尼子下野守久幸が大内勢に突入し、大内勢の先鋒大将深野重房を倒し、宮川善左衛門ら数十名を討ち取ったが、乱戦の中、力尽きて戦死。久幸が奮迅する間に分散していた尼子勢が本陣に馳せ参じ、大内勢追い散らして、尼子詮久は事なきをえる//この日の合戦で尼子勢4百余人、大内勢470人が討ち取られたという。  天文10年1月13日夜、尼子詮久が安芸吉田郡山城攻めの本営に重臣を集めて軍議を開き、明日の総退陣を決定。  天文10年1月14日、早朝(寅の刻頃)、尼子勢が安芸吉田郡山城攻略から撤収開始//大内勢・毛利勢は退却する尼子勢を猛追し、多大な被害を与える。  天文10年(1541)1月、尼子詮久、毛利元就の安芸郡山城攻めを断念。毛利元就、籠城5カ月。陶隆房率いる大内氏の来援など。//尼子経久や尼子下野守久幸は当初より郡山城攻めに反対。この尼子氏の敗戦により、芸備の国人を始め出雲国内でも三沢/三刀屋らの国人が大内氏に誼みを通じるようになる。  天文10年1月15日、大内水軍が尼子方の村上水軍と厳島神社の大鳥居前での戦いに勝利するとともに、大内勢が尼子方の安芸桜尾城主友田興藤に占拠された厳島を奪還。  天文10年1月16日、

950(1540)_==天文9年==(旧版)

>_<あくまでも司空流の「こうかも」年表ですので、誤りがあっても司空は一切の責任はとりません。>_< >_<ご利用に際しては、解説・注意をご確認の上、各人で十分に史実をご確認ください>_<  天文9年(1540)、尼子氏対大内氏の対立が激化。尼子氏は播州から撤退したと思われる。  天文9年(1540)1月、大内勢が安芸国内の尼子勢討伐のため防府を出陣。⇒同年3月に岩国に向かい尼子勢に備える。  天文9年6月下旬、尼子勢のうち尼子国久率いる新宮党3千余騎が安芸吉田郡山城に向けて進発//尼子氏の昨年来の軍議では尼子下野守久幸が毛利氏討伐に反対し、また、尼子経久も久幸に賛同するも、当主尼子詮久はこれを容れず、大内氏が同年3月に岩国に向かったことを聞き、早々に新宮党を進発させた。⇒その後、三刀屋、掛合、頓原、赤穴を経て、尼子方の三吉隆信の守る安芸志和地八幡山城に進出。⇒此処から江の川上流の可愛川を渡って高田郡甲立に至り、吉田郡山城を背後から攻めようとした。八幡山城から南西4㌔の地点に祝山城があり、備後五竜城主宍戸元源の弟深瀬隆兼が守備し、守りを堅固にして尼子勢の来襲を待つ⇒尼子勢は祝山城を目指し、可愛川東岸から祝山城麓の石見堂の渡り口に押し寄せ可愛川を渡河しようとしたが、水深が深く渡河できず、そこに深瀬隆兼が全軍に攻撃を命じ、可愛川を挟んで散々に防戦。尼子勢の背後から伏兵もおこり、尼子勢は八幡山城間で退却し、さらに富田城に退いた。  天文9年8月、尼子方の川本温湯城主小笠原長隆が大森銀山を奪取。  天文9年8月19日付、尼子家家臣団の奉加帳(近江竹生島宝厳寺造営のため同寺から自尊上人が出雲に下向)。奉加帳には、詮久/刑部少輔国久(詮久の叔父)/式部少輔誠久(サネヒサ)/下野守久幸/新四郎久豊/彦四郎清久/次郎四郎詮幸/小四郎久尊(ヒサタカ)/又四郎の8名の尼子氏一族、次に「御一族衆」の宍道八郎(宍道氏は尼子氏の祖高久の弟秀益を祖)/鞍智右馬助(鞍智氏は高久の祖父京極高氏(導誉)の弟時満を祖)/宍道九郎が見える。次に「奉公の末」として朝山安芸守(神門郡朝山郷を名字/本拠とする有力国人)など。次に「出雲州衆次第不同」とあり、隠岐五郎右衛門尉以下68名で隠岐氏/湯氏/古志氏(以上義清流佐々木氏の流れ

950(1539)_==天文8年==(旧版)

>_<あくまでも司空流の「こうかも」年表ですので、誤りがあっても司空は一切の責任はとりません。>_< >_<ご利用に際しては、解説・注意をご確認の上、各人で十分に史実をご確認ください>_<  天文8年(1539)、周防大内氏重臣陶興房逝去。  天文8年5月、大内氏が尼子氏から石見大森銀山を奪回。//奪還後、大内義隆は大森銀山に年間5百枚の運上銀(6年前の5倍の運上額)を命じる。  天文8年10月、尼子勢が播磨英賀(アガ)城(姫路市)を落とす。  天文8年10月、尼子勢が、播磨守護赤松政村の救援のため備中に進出した阿波守護細川持隆の軍勢を撃退。  天文8年11月、尼子勢が、反撃を企図して播磨に入国した赤松晴政(旧名村政)を再び追放//赤松晴政は摂津滝山から和泉堺へ逃れる。

国交省幹部の処分検討ー北朝鮮ミサイル発射に関する情報誤送信ー

ここまで厳しい処罰が必要なのでしょうね。少し可哀想な気もしますが…。 ミサイルを発射したのに、情報を発信しなかった場合よりかは処分を軽くしてあげてつかーさい。 あまりやり過ぎると、本当に情報を発信すべきときに、発信を躊躇して、遅れてしまうのが不安です。 http://www.oita-press.co.jp/worldPolitics/2013/04/2013041301002288.html 大分合同新聞社HPより ============= 政府高官は13日、国土交通省の職員が北朝鮮のミサ イル発射情報を誤って全国の航空管制施設などにメール 送信するミスが続いた状況を受け、国交省幹部らを処分 する方向で検討に入ったと明らかにした。 15日にも同 省の佐藤直良事務次官から事情を聴いた上で、最終判断 する方針だ。   13日の誤送信のケースは、官邸への報告が遅れてお り、政府高官は「同じ国交省でミスが繰り返されてい る。一罰百戒だ」と強調。 北朝鮮によるミサイル発射の可能性が高まり、厳戒態 勢を続けている中、11日には福岡市にある国交省航空 交通管理センターの職員が全国の航空管制施設など計5 9カ所にメールを誤送信した。 ==============

950(1538)_==天文7年==(旧版)

>_<あくまでも司空流の「こうかも」年表ですので、誤りがあっても司空は一切の責任はとりません。>_< >_<ご利用に際しては、解説・注意をご確認の上、各人で十分に史実をご確認ください>_<  天文7年(1538)、尼子氏再度西播磨に再度(前回は天文6年)進攻。赤松政村を失脚させ、城山城(龍野市と新宮町の境)に本拠を置く。この際、尼子勢は交通の要衝上月城に兵を入れたと伝えられる。=尼子晴久が出雲から播磨に進攻し、上月城を占領。ここを拠点に播磨を攻略。  天文7年(1538)6月、尼子勢が美作に出陣。  天文7年(1538)8月23日、尼子詮久が大軍を率いて富田城を進発し、美作/備前を攻略、さらに但馬から播磨に兵を進める//無人の野を行くが如し。//尼子詮久は美作/備前/播磨の国人衆を軍勢に加えながら播磨守護職赤松政村の根拠飾磨郡置塩に迫る⇒赤松政村は支え切れず高砂に逃れたが、ここで小寺重隆/明石修理亮らが尼子氏に味方したため再び淡路に出奔し、阿波細川持隆に身を寄せる。  天文7年、尼子詮久率いる尼子勢が赤松氏の重臣別所就治の居城美濃郡3木城を攻めるも、城兵の頑強な抵抗により陥落せず。  天文7年9月、尼子方の石見国人衆福屋上野介が長門に侵入し、大内方の益成友重を嘉年城に攻めるも、敗退。

950(1537)_==天文6年==(旧版)

>_<あくまでも司空流の「こうかも」年表ですので、誤りがあっても司空は一切の責任はとりません。>_< >_<ご利用に際しては、解説・注意をご確認の上、各人で十分に史実をご確認ください>_<  天文6年(1537)、尼子経久、81歳を迎え、嫡孫詮久(24歳)に尼子氏当主を譲り、形式上隠居。  天文6年、清水宗治、備中で生まれる(幼名才太郎)。  天文6年春、毛利勢が安芸高田郡生田城を落とす。  天文6年8月16日、尼子勢、石見大森銀山を奪取。//天文2年に大内氏に奪還されていた。  天文6年、尼子詮久、西播磨に進出。一旦は撤退するが翌年再度大軍を率いて出兵。  天文6年12月、毛利元就が嫡子少輔太郎(後の隆元)を山口の大内義隆の元に送る。//この頃は安芸山県郡新庄の吉川興経も尼子氏に願えっており、毛利家としては北方の脅威が増していたこともあり、人質という意味で嫡子を山口へ送った。  天文6年(1537)、室町将軍足利義晴が、周防大内義隆や豊後大友義鑑/尼子経久に和睦と上洛を促す。//この頃の幕府は細川晴元/六角定頼が中心。//大内義隆は来年を期して上洛する旨を返信。  天文6年12月、尼子詮久、美作から播磨に乱入。播磨守護職赤松政村を撃破。⇒その後、出雲本国で越年のため播磨から退陣するが、深雪のため出雲まで辿り着けず、他所にて越年。//その後、天文6年~9年、尼子詮久(晴久)はこの時期西播磨一帯を制圧。

レインボーブリッジラン!(2)

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レインボーブリッジを歩行者が渡れることを知らなかった田舎者でした。 芝浦から台場に渡ることができました(^-^)v しかも、レインボーブリッジには北側と南側の二つの歩道があるらしい。でも、強風のため南側の歩道は通行禁止。残念(-_-)/~~~ 同じルートを戻るのも芸がないと思い、晴海通りを回って帰ろうかとも考えましたが、有明JCT辺りで日が暮れ、急に気温が下がってきたので、ここで引き返して再度レインボーブリッジを渡ることにしました。 逆から帰ると少し景色が変わります。例えば、東京スカイツリー、そして、東京タワー(⌒‐⌒) 新旧のランドマークの共演になります。 ライトアップされた両雄は共に本当に美しい。 東京タワーの足を広げた姿は、やはり、安定感抜群です。昔人間の私には本当に安心できるプロポーションです。 宿に戻ると、もう、完全に夜! 9kmのランでした。

レインボーブリッジラン!(1)

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先日、JR浜松町駅近くのホテルに宿泊し、ランを決行! 出発時間は夕刻。 コースも何も考えずに外に出て、海岸沿いをたぶん南方向にラン。 暫くすると、視界にレインボーブリッジの勇姿が入って参りました。 とりあえず、10km程度、1時間くらいのランを目指して、レインボーブリッジに向け、走ります。 休日だったこともあり、芝浦あたりは通行する車、人ともに少なく、少し寂しい感じでした。たぶん平日は海岸沿いの物流倉庫への出入りが頻繁で活気があるのでしょうね。 そういえば、川崎重工さんの本社らしきものがありました。すごく大きいビルで、さすがと感服。 レインボーに向かって、さらに走ると、小さな港があります。 うーん、どこに行く船が出るのだろう? 日曜の夕方、まだ日の高い時間でしたが、ターミナルは閉鎖されており、人影も全くありませんでした。 次第にレインボーブリッジが近づいてきます。 下から見上げると本当に大きいですね。瀬戸大橋を見慣れていますが、レインボーブリッジも遜色ない大きさです。 レインボーブリッジの真下辺りに遊歩道という表示があり、そちらに向かってみました。 右にカーブしながら、坂を上ると、右手にレインボーブリッジの管理事務所らしき建物があり、その先は強風のためか通行禁止になっていました。 折角、ここまで来たので、レインボーブリッジの紹介でもみて帰ろうかと思い立ち、管理事務所の中に入りました。 そうすると、何やらレインボーブリッジに上がれそうなエレベーターがあるので、早速、乗車(^^)/ すると、ありました→遊歩道→ やったー(^^)/ 行けるところまで、行ってみよーう。 レインボーブリッジは二段に別れているということを初めて知りました。しかも、下の段は自動車と電車の両方が走っているんですね。歩道のすぐ横を自動車がかなりの速度を出して走行しているので、結構怖かった(>.<)y-~頑丈そうなガードフェンスはついていましたが、恐怖感があります。 さて、行けるところまでということで、途中に小さな展望所のような場所があり、その度に、「そろそろ終わりかなぁ」と思うのですが、まだ先に行けるということで走り続けていると、結局、お台場側に到着しました(^-^)v

950(1536)_==天文5年==(旧版)

>_<あくまでも司空流の「こうかも」年表ですので、誤りがあっても司空は一切の責任はとりません。>_< >_<ご利用に際しては、解説・注意をご確認の上、各人で十分に史実をご確認ください>_<  天文5年(1536)、長尾虎千代(のちの上杉謙信)が、越後春日山城下の林泉寺に入り、天室光育禅師の教えを受け始める。  天文5年(1536)春、尼子経久が備後に兵を進め、甲山城を落とし、山内直通を隠居させ、直通の婿多賀山道広の嫡男婿法師(のち隆通)を直通の子豊通の娘と結婚させて家督を継がせる。  天文5年(1536)3月1日、のちの室町13代将軍・足利義輝が、室町第12代将軍・足利義晴の嫡男として東山南禅寺で生まれる。  天文5年8月、安芸賀茂郡の平賀父子の和議が再び破れ、尼子方の興貞を攻撃していた大内方の弘保/貞景父子に毛利元就が援軍を送る。  天文5年8月3日、長尾為景が守護代長尾家の家督を長子晴景(後の上杉謙信の兄)に譲る。  天文5年9月、大内勢の陶興房が少弐氏の籠もる北九州の多久城を落とし、少弐資元が自害//これにより大内氏の九州方面の鎮圧が1区切りし、大内氏の目が東に向けられる。  天文5年11月、平賀父子の対立を契機にした大内氏の援軍が尼子方の安芸計略の拠点である頭崎城を強襲。尼子経久は大軍で頭崎城を救援。//この合戦で毛利元就は備後双3郡志和地城から安芸山県郡壬生城などの諸城とともに石見邑智郡上下庄、安芸山県郡、備後内の所領を失う。  天文5年12月、尼子詮久が備中/美作の攻略を終え、出雲月山富田城に帰陣。//天文5年始めごろから尼子方は備後/安芸のみでなく、備中/美作の攻略を進めていた。  天文5年12月24日、長尾為景(後の上杉謙信の父)が病死。  天文5年、本願寺証如が備後山南の光照寺を通じて尼子経久に太刀/馬代/織物などを贈る。