950(1537)_==天文6年==(旧版)


>_<あくまでも司空流の「こうかも」年表ですので、誤りがあっても司空は一切の責任はとりません。>_<
>_<ご利用に際しては、解説・注意をご確認の上、各人で十分に史実をご確認ください>_<


 天文6年(1537)、尼子経久、81歳を迎え、嫡孫詮久(24歳)に尼子氏当主を譲り、形式上隠居。
 天文6年、清水宗治、備中で生まれる(幼名才太郎)。
 天文6年春、毛利勢が安芸高田郡生田城を落とす。
 天文6年8月16日、尼子勢、石見大森銀山を奪取。//天文2年に大内氏に奪還されていた。
 天文6年、尼子詮久、西播磨に進出。一旦は撤退するが翌年再度大軍を率いて出兵。
 天文6年12月、毛利元就が嫡子少輔太郎(後の隆元)を山口の大内義隆の元に送る。//この頃は安芸山県郡新庄の吉川興経も尼子氏に願えっており、毛利家としては北方の脅威が増していたこともあり、人質という意味で嫡子を山口へ送った。
 天文6年(1537)、室町将軍足利義晴が、周防大内義隆や豊後大友義鑑/尼子経久に和睦と上洛を促す。//この頃の幕府は細川晴元/六角定頼が中心。//大内義隆は来年を期して上洛する旨を返信。
 天文6年12月、尼子詮久、美作から播磨に乱入。播磨守護職赤松政村を撃破。⇒その後、出雲本国で越年のため播磨から退陣するが、深雪のため出雲まで辿り着けず、他所にて越年。//その後、天文6年~9年、尼子詮久(晴久)はこの時期西播磨一帯を制圧。

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